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ブソッティ 杉山エッセイ (つづき)


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2007年12月29日  

ブソッティ 杉山エッセイ (つづき)_c0050810_20262663.jpgここ数日、朝晩の冷えこみは本当に酷く、零度どころではありません。今朝ブソッティ宅での打合せが終わり帰宅すると、この寒さにやられたのでしょう、いつも来ていたオレンジ色の口ばしの愛らしい黒い鳥が、庭先で硬くなって息絶えていました。ずっとこの庭に遊びにきてくれていたし、猫やネズミに穿られては忍びないと、出来るだけ深く庭の端に穴を掘って埋めました。いつもつがいで来ていたので、片割れがどうしているか気になって空を見上げてみましたが、雲ひとつない澄んだ青空が続くばかりでした。

帰りしな、思いがけなくブソッティが、「これはうちに残っている数少ないトーノ・ザンカナーロのリトグラフだ。君にプレゼントしよう」と言って、鉛筆で、「ヨーイチに。2007年12月29日友なるシルヴァーノより」と書き付けてくれました。1967年のパドヴァの街角を描いたリトグラフで、左手に小さなアーケードのある建物が描かれています。「ここには、その昔子供のころ通った恐いピアノ教師の家があってね。あの頃は厭で仕方がなかったんだ」と笑いました。

来月、東京からミラノに戻る道中を共にする2歳半になる息子が、「ドンキホーテ」のバレーと「アルジェのイタリア女」が好きでね、と話すと、ブソッティも「ああパッパターチ、ムスタファね!」とおどけてみせて、「子供のころ大好きだったな。あれは楽しいものね」、と大喜びしました。「その昔、まだ子供だったころ、子供向けの移動オペラ劇場みたいなものがあってね。今から思えば、簡略なものだったろうけれど、本当によく見に行ったな。すごくわくわくしてね」。傍らで話を聞いていたロッコも、「ドンキホーテ」はいいじゃない、もっと色々見せたらいい、と声を弾ませました。

実は内心、この様子に少しほっとしていました。その少し前まで、ブソッティの演奏スタイルについて話していて、「旋律が好きなんだよ。旋律のない音楽が嫌いでね。現代音楽はたいてい旋律がないから嫌いなんだ。自分の音楽も現代音楽じゃないと思っている。旋律があるからね。どんなにプッチーニが好きか、よく知っているだろう」という話から脱線して、「ブーレーズの音楽をみんな勘違いしている。彼の音楽の原点もやっぱり劇場なんだよ。有名になるずっと前、ピエールは素晴らしい役者たちの出る演劇の伴奏でオンドマルトノを弾いていたんだ。そして、その劇団と一緒に各地を周っていたんだからね。その体験から彼の音楽がどんどん広がっていった、ということを忘れてはいけないと思う。彼の音楽の原点を履き違えているものばかりだ」と言ったあと、「シュトックハウゼンだって同じだ。彼と劇場だってどうやっても切り離すことはできないだろう」、と言った途端、みるみるうちに目がうるんで、言葉に詰まってしまいました。

ブソッティ 杉山エッセイ (つづき)_c0050810_20273450.jpg今から10日ほど前、友人の建築家宅で、クリスマスのホームコンサートがありました。毎年クリスマスに小説家や詩人などを招いて、「クリスマスのお話」をしてもらう慣わしですが、今年はブソッティを招いて、彼の曲とお話を一緒にたのしみました。
「今日はクリスマスにちなんだお話をするつもりでしたが、どうしても話さずにはいられない出来事がありました。親しい友人で、恩人でもあるシュトックハウゼンの死です」。
客席には、ルチアーナ・ペスタロッツァやミンマ・グアストーニなど、その昔リコルディを切り盛りしていた錚々たる女性陣が顔を揃えていましたが、ブソッティがこう切り出すと、客席から長いため息が洩れました。

「フルートとピアノためのクープル(一対)という曲を聴いていただきましたが、これ作品など特にシュトックハウゼンと切っても切れない縁があるんです。最初ダルムシュタットの夏期講習会で演奏されたのですが、当時講習会を仕切っていたのがシュトックハウゼンでした。その頃、自分はフィレンツェで、五線紙の切れ端に模様のような落書きを書いたりしていたのですが、それを見た友人が、ダルムシュタットに送ってみたらどうかと話してくれたのです。夢のような話でしたが、でも郵便局から楽譜を送ってみて暫くすると、思いがけなくシュトックハウゼンから、ずいぶん厳しい返事が届きました。<貴君はこの楽譜が何を意味するのか、何をしたいのか説明もせずに、ただ唐突に送りつけてきたわけだが、もし音楽というものを本当に知りたいなら、学費を出すから来るがよい>。当時、ダルムシュタットに行き勉強するお金なんてどこにもありませんでしたから、奨学生として勉強するのが唯一の可能性でした・・・。そこから思いがけなく自分の音楽人生が始まったのです。ですからシュトックハウゼンに負うところが沢山あるのです。シュトックハウゼンの死を最初に伝えきいたとき、自分の耳を疑いました。初めてニュースを聞いてから、詳しい状況を知るまで3日かかりましたが、死が真実だったと知った時は、丸一日何も考えられませんでした。ケージが死んだときは、余りの悲しみに3日3晩涙が止まりませんでした。あれから自分も歳を取り、今回もう涙は涸れてしまっていましたが、悲しみの深さは変わりません」。

人を喜ばせるのが好きなブソッティは、少し場を盛り上げようと、こんな話もしてくれました。
「ところで、クープルを何度も演奏してくれた素晴らしいフルーティスト、今は亡きセヴィリーノ・ガッゼッローニの愉快な逸話をご紹介しましょう。セヴェリーノがクープルを録音してくれたのですが、今お聴き頂いたように、この曲は最初に独奏フルートの長音で始まりますね。セヴェリーノは本当に素晴らしいフルーティストで、それはもう寸分の揺れもなく最初の音を吹いてくれました。ところが大変残念なことに、出来あがったレコードを聴きましたら最初の1音がありません。詳しく話を聞いてみましたら、実は余りに完璧な長音だったため、録音テスト用の信号音と勘違いして編集の際に消されてしまったということです」。

「次に聴いていただいた<友人のための音楽>というピアノ曲のお話もしましょう。わたしは裕福な家庭に育ったわけではありません。その反対だったと言ってよいと思います。父はフィレンツェの市役所で登記係をしていて、五線紙一枚手に入れるのにも苦労しました。そんな中、フィレンツェの音楽院で音楽を学び始めたわけですが、そこで当時、どうしようもない、とんでもない、と言われていた教師二人と親しく交流するようになりました。その一人が和声のRoberto Lupiで、もう一人が作曲のルイジ・ダルラピッコラでした。ダルラピッコラは当時家庭の事情で、父の処に足繁く通っては登記の書換えなどしていたため、そのうち二人はクリスマス・カードなど交換するほど親しくなりました。父が手書きの美しいカードを贈ると、ダルラピッコラは手書きの五線に音列など書いたカードを返してくれました。そうして、いつしかわたしも音列に親しんでいったのです。当時は誰もが貧しくて録音など誰も持っていませんでした。ですから、夜な夜なダルラピッコラのところに集まり、彼の持っている録音に黙って耳をじっと傾けたのです。<友人のための音楽>の友人とは、一緒に音楽に耳を傾けた仲間たちのことなのです」。
とても温かい拍手が客席から沸きあがりました。素敵なクリスマスのお話をどうも有難う、そんな気持ちがこもった拍手です。

「ところで、今朝は行きつけのパン屋さんで、パパですかって」。
ブソッティがロッコのお父さんと勘違いされたと言って、大笑いしました。どことなく顔つきも似ている上に、二人は何度も声色と話し方の癖がよく似ていて、電話でも勘違いしたくらいですから、無理もない話です。
「長年一緒に暮らしていると、しゃべり方も似てくるんだ」。
「それで何て答えたんだい、シルヴァーノ」。
「もうパパって呼ばれるのは馴れっこだからね」。

「じゃあ今度会うのは、もう東京か。不思議なもので、何だかあっという間だ。もうすぐだけど、良いお年を迎えるんだよ。奥さんとあの可愛い坊ちゃんによろしくね」。


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2008年1月25日 

ブソッティ 杉山エッセイ (つづき)_c0050810_2030876.jpgリハーサルが終わり、ボローニャ市立劇場脇の安宿に戻ってきました。一週間前の今頃、まだ東京でブソッティと一緒に演奏会をしていたのが信じられません。大学街らしく、ボローニャは夜の帳が降りても若者たちの活気に溢れて、街を行き交う人の表情も活き活きしています。もう何年も通っているのに、未だ方向感覚がつかめない、不思議な街ですが、その昔、まだイタリアに住み始める前に来たことがあって、夜、街に巡らされたアーケードを歩きながら、ショーウィンドウの美しさにびっくりしたのを覚えています。

大学の3年生だった頃、シエナで作曲の夏期講習を受講したとき、ドナトーニの助手を務めていたマニャネンシがボローニャ出身で、当時知合った作曲家たちがボローニャに住んでいて、この街との付合いが始まりました。こうして現在仕事に呼んでくれているのも、結局は当時知合った作曲家たちで、思えば随分長く世話になっているものです。

今月、折につけ繰り返し思い出していたのは、ブーメランのように、目に見えないほど遠くに投げたものが、長い時間を経て手元へ戻ってくる感覚です。

大学に入学後すぐに桐朋の当時の別館ホールで演奏した作品がブソッティの「3人で」で、演劇科の女優3人が30分ほどあえぎ続けて頂点を迎える構成でした。あれから何年か、作曲や演奏科の友人たちと、学内、学外で色々な作品を演奏しましたが、まさかブソッティ本人と一緒に同じ場所で、同じ仲間と演奏をすることになるとは夢にも思いませんでした。今回10年ぶりに再会し、当時の仲間と久しぶりに練習を始めると、不思議に時間の隔たりなど、たちまち消えてしまうのです。自分はあれから変っていないのかと考え込んでしまうほど、自然に練習ができました。違うのは、一回り以上も若い学生さんたちが、とても誠実に一緒に演奏してくれたことで、当時自分たちより若い演奏者はいませんでしたから。

そうして練習が終わると、昔通った小料理屋で昔と同じ定食とモツ煮込みを熱燗で流し込み、恐らく同じような会話をし、同じように電車に乗って帰りました。それこそブソッティの楽譜を借りるため足繁く通った桐朋の図書館で司書だったTさんや、作曲のM先生やY先生が何度も顔を出して下さったのも嬉しく、こんな風に、よく分からぬまま手探りで過ごしていた時間の本質を知りたくて、思わず皆が同じ場所に戻ってきた、今回の企画はそんなところがありました。ブソッティと触れ合う中で、溜まっていたわだかまりのようなものが、ほんの少し解けた気もします。

同時にブソッティを通して、たくさんの新しい出会いもありました。マドリガルを歌ってくださった皆さんとの練習は、最初から最後まで、とても気持ちのよいもので、本番もブソッティの魅力を、余すところなく伝えてくださいましたし、演奏会に際してお世話になった、桐朋や明治学院でお世話になった先生方や裏方の皆さん、イタリア文化会館の職員の皆さん、ブソッティの訪日の意味を理解して下さり、無理に時間を作りお手伝いくださった録音技師の皆さん、広報をお手伝いくださった皆さんにも何とお礼を申し上げてよいか。

ブソッティ 杉山エッセイ (つづき)_c0050810_20311368.jpgさて、桐朋の歓迎会で、ブソッティは学生が寄せ書きした色紙のお返しに、自身も色紙を贈りました。適宜金銀の和紙が散らされて薄い染みに見える色紙で、一緒に色鉛筆とサインペンを渡されたブソッティは、まず染みを色鉛筆で一つずつ丸く塗りつぶしてゆき、色とりどりの丸が散らされると、上方の丸二つを選び瞼を縁取り、少し下の丸の周りに唇を書いて、それぞれの丸を線で繋いで、キュビズムのアルルカンの衣装のような輪郭を与えてゆきました。アルルカンが手をからげて踊る姿になったところで、踊りと学校名を漢字で書きたいと言うことで、「踊」と「桐朋」という文字を書き入れて、絵を完成させました。

このちょっとした出来事は彼のアプローチを理解する上で、とても勉強になりました。偶然の閃きを切掛けに、その閃きを後天的に意味づけし具現化するため、周りに事象を加筆してゆくうち、自然と形が生まれてくる。まるでヨーロッパ人たちが、前置詞や冠詞まで感覚的に話し、少し間を開けて文法的に見合う言葉で埋めて、前述した前置詞や冠詞を正当化してゆくのに似ていますが、普通「私はかく思いき、ついては何某」、と指針を明快にしてから、話を展開させるのに対し、ブソッティは結論も、指針も与えず、「何某で、何某で、何某」と即興的、直感的に並列してゆきます。

最後に「だから何某」と結論を述べるかと思いきや肩透かしにあったりして、訳してゆくと、終りがいきなり尻切れトンボになることがありました。何が言いたくてこう言っているのか教えてくれと言っても、「今言っている通り訳せばいいから」と笑うばかりで、ちゃんと話の辻褄が合うように祈りながら訳すこともしばしばで、文字通りの五里霧中でした。そんな風に、ブソッティ自身からは、どんなに話題が展開、逸脱しても、どこかで本題に帰結させることが出来る、纏め上げられる自信を感じました。

作曲でもレクチャーでも全く同じです。16日イタリア文化会館でのレクチャーで、ケージが図形楽譜の読み方を厳密に規定するのに対し、ブソッティは大変自由だが、必ずしも作曲者の意図が演奏に反映されなくてもいいのか、という質問がありました。今回、幾つかブソッティの図形楽譜を勉強して個人的に感じたのは、どこまでも逸脱しても、本題、つまり自らの個性、音楽性に帰結させられる自信や信念があってこそ可能だった、実にユニークな作品群だということです。

ケージの透徹な感受性は、自動書記と呼ばれていた頃の、ある種のドナトーニの作曲法によほど近い気がします。結果的に鳴る音は全く違いますが、どんな音の風景を紡ぐか脳裏の奥底で一瞬考え、後はひたすら写経をするように音を写してゆく。神秘的ですらある作曲の作業です。揃って「自己」の介在を否定し、音楽をあるがままの姿で再現しようとするアプローチが共通しています。

ブソッティは正反対で、甚だ大きな主観(エゴ)の塊のようなブソッティの芸術というものがまずあって、どんなことを企んでも、結局は彼の塊に収斂されてしまう、そんな印象を持ちました。例えば、「自動トーノ」の絵のような楽譜(絵文字譜と呼んでいましたが)にしても、実際演奏してみて分かったのは、単なる絵ではなく演奏に適した「楽譜」だということ。不思議に演奏に入りやすい楽譜で、いつもそれなりの音が鳴って、しっかり楽譜の用を成すべく書かれていることに、感心させられました。悠治さんと美恵さんが、「自動トーノ」の楽譜を見て、「やっぱり五線紙に書くわけね」と言ってらしたけれど、案外これは演奏しやすい「絵」を企む上で、重要なファクターだったのかも知れません。その辺りのテクニックはちょっと分かりかねますが。

先日、「自動トーノ」の演奏に参加してくれた、桐朋の学生さんから、嬉しい電子メールを頂きました。何でも、「自動トーノ」の演奏会の後、ダンスカンパニーの演奏のオーディションがあり、自動トーノで学んだ即興が思いがけず役に立った、というお礼がしたためられていました。こうして、ブソッティとの出会いが、今回関わってくださった皆さんの心のどこかに、何かを残してゆけたのなら良いのですが。


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2008年2月25日 

ブソッティ 杉山エッセイ (つづき)_c0050810_20322611.jpgスイスから帰ってきて数日して、ブソッティの未初演のオペラの楽譜を読みに出かけました。近所だからと気を許して読んでいると、時間が経つのも忘れて、朝10時過ぎから午後の5時くらいまで、さまざまな大きさの黄ばんだ紙にインクでていねいに書かれた、手書きの原譜を読み続けました。

そのうちの一つ、実に壮大なメロドラマ「悲しみの父 Patre doloroso」は、ルネッサンスの画家、ルカ・シニョレッリについて美術史家のヴァザーリが書いた伝記に想を得ていると言います。シニョレッリは、構図の性別に関わらず常に自分の息子にモデルをしてもらっており、女性の場合は、後から体型を加筆したのだそうですが、言うまでもなくシニョレッリにとって息子はとても大切な存在だったわけです。その息子が他界してしまったとき、シニョレッリは三日三晩その息子を惜しんで絵を書きなぐった、という逸話に基づいています。

「パリのスタジオ。写真家・ルカ・シニョーリが、息子を使ってその昔ルカ・シニョレッリが書いた壁画を写真で再現しているところに、今度トウキョウで執り行われる皇太子の納采の儀(婚約の儀)の写真を撮ることを許された唯一の西洋人写真家だと告げられ、神秘のベールに包まれた街、トウキョウへ向かう。ところが、その仕事の最中、パリから息子セデリック急逝の知らせが入る。仰天した父親は、すぐさまパリに戻り、その昔ルカ・シニョレッリがしたように、美しい息子の姿三日三晩一心不乱に写真に撮り続ける。そして、まばゆい光に輝く霊安室に亡骸を運び、最後は、ブソッティのパートナー・ロッコの故郷にある、海辺の墓地へ埋葬される」。

居間のソファーで楽譜に夢中になっている傍らで、ブソッティは大きなロッキング・チェアーに身を沈めていて、奥の台所では、ロッコがかいがいしくご飯の用意をしていました。小説を読むようにひき込まれながら読んでいると、「どうだ、とても宗教的だろう」、と誇らしげにつぶやきました。

左の筆頭のような同性愛者のインテリが、宗教的という言葉を使うのに時の流れを感じ、思わず感慨をおぼえました。読み進みながら、確かに彼の父性の強さが心を打ち、センチメンタリズムとも違う、息子に対するまなざしは、文字通り父親そのものだと独りごちました。これは何だろう、因襲的な家族という形態とブソッティは遠い存在だと思い込んでいたのは、自分の誤りだったと悟りました。

ロッコが作ってくれた野菜のパスタに舌鼓をうちながら、最近彼らが関わったオペラの演奏について話していました。大凡気に入らないことが多かったようで、演奏よりもむしろ演出の話に花が咲きます。
「指揮者は頑張っていたんだよ。演奏はだからさほど悪くはなかった。でも、やっぱり演出が気に食わない。何しろ劇場支配人が、ぼくとロッコを使わずに、お抱えの演出家を使ってしまったからね。その演出家も若いながら、頑張ってはいたんだよ。でも自分が思い描いていたものとは違うんだ、なあロッコ、そう思わないか」。
ふと、耳を傾けながら、神経が研ぎ澄まされる気がして、思わず息をのみました。

「ぼくとロッコにとって、これが子供だから。どの家族も子供に自らの軌跡を託してゆく。ぼくらにとって、作品は子供と同じなんだ」。
by ooi_piano | 2015-09-24 17:55 | All'Italiana2015 | Comments(0)

6月15日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第1回公演


by ooi_piano