
◇POC 第1回~第21回公演 曲目一覧と感想集・動画リンク
大井浩明 POC (Portraits of Composers) 第26回公演
一柳慧 主要ピアノ作品集
2016年2月21日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/

一柳慧(1933- ) :《トッカータ》(1953、世界初演)
●同:《ピアノ音楽第1》(1959)
●同:《ピアノ・メディア》(1972)
●同:《タイム・シークエンス》(1976)
●同:《星の輪》~独奏笙のための(1983)
●同:《ピアノ音楽第9》(2015、世界初演)
(休憩15分)
●同:《雲の表情》(1984-99)(全10曲)
-- 雲の表情 I
-- 雲の表情 II
-- 雲の表情 III
-- IV. 『雲の澪』
-- V. 『雲霓(うんげい)』
-- VI. 『雲の瀑』
-- VII. 『雲の錦』
-- VIII. 『久毛波那礼(くもばなれ)』
-- IX. 『雲の潮』
-- X. 『雲・空間』
一柳慧のピアノ音楽から────西田博至

敗戦後の混乱のなかで、まだ十代の少年だった一柳が生活のために、進駐軍のキャンプでヨハン・シュトラウスなどを弾いて稼ぎを得たのもピアノだったし、多くの先鋭的な作家たちがそうであったように、作曲家としての自身の内面と、実験な企みを託すとき、まず選んだ楽器もまたピアノであった。さらに、鋭敏なピアニストとしての活躍も広く、たとえばスティーヴ・ライヒの《ピアノ・フェイズ》の日本での初演者のひとりでもある。1933(昭和8)年生れの一柳は、今も毎晩、ピアノの練習を欠かさないという。
さて、一柳の父である信二は、戦前のいわゆる阪神間モダニズムの渦中に育ち、パリで学んだチェリストであるが、詩人の竹中郁と深い親交を結んで、詩集などもものしている。母光子もまた、第一次大戦後の戦間期にアメリカへ渡り、駐日大使エドウィン・O・ライシャワーなどを輩出しているオーバリン大学でピアノを学んだ。その母から、幼いころ手ほどきを受けてのち、大東亜戦争とその敗戦のころのブランクを経て、一柳はピアニストとなるべく、宅孝二や原智恵子などからレッスンを受けた。
空襲や疎開など逼塞した戦時下を過ごしてきた少年にとって、ピアノに触れることは、のびのびと解放された心地をもたらしたというが、特に一柳に強烈な印象を与えたのは原智恵子だった。やがて、ピアニストへの道を進むより、作曲をすることに強い興味を抱くようになった一柳少年の背中を強く押してくれたのも、原だったという。
原のもとでピアノのレッスンを受けながら、一柳は平尾貴四男から作曲を学び始める。平尾とは気が合ったようだが、その後1953(昭和28)年には若くして亡くなることになる平尾が身体を壊してレッスンの時間が取れなくなったのと、東京藝大への進学を考えて、やがて池内友次郎のもとに移る。そのころ池内から学んでいたのは、一柳たちの少し上の世代である松村禎三、別宮貞雄、一柳とおなじ生年である三善晃などであったが、池内の教え方に、一柳はなじむことができなかったようである。
その修業のころを振り返って一柳は、かたや原智恵子のように「ピアノだけじゃなくて音楽全体を教えてくれるような非常によい人がいて、もう一方の池内先生は、決して悪いとかいうんじゃないけれども、現実味がないんですよ。(…)音楽における社会性のようなことは皆無の方だったから。もう完全にアカデミックな(…)ハーモニーだとか対位法だとかそういうことだけですからね。こちらとしてはまったく面白くない。別宮さんとか三善さんは、そういうのも百点満点取れるくらい素晴らしかったんだと思うけど、僕は、嫌で、嫌でね」と述べている(1)。

園部三郎はこれを評して、ドビュッシーなどの「フランス音楽の温床の中にいて、彼の若さにもかかわらず、上手にまとめあげさせたというだけ」で、「和声法の薄弱さ」を指摘したが、「しかし、この人が身につけている作曲するための「手」は、なかなか非凡なものだとおもう」と書いている(2)。一柳少年は翌年もおなじ作曲部門で二位、さらに1951(昭和26)年には《ピアノ三重奏曲》で、再び一位を獲る。石桁眞禮生はこの曲を、「前二回のおしゃべりな技巧派」に比べて、「安易」ではあるが「奇をてらわない、素直な音楽の流れが佳い」と評した(3)。
コンクールで一躍名を知られるようになった一柳少年だったが、これをきっかけに、彼の人生における大切な友誼のひとつが始まる。作曲家をめざすか、美術批評家になるか、まだ決めあぐねていた青年である武満徹が、一柳宅をいきなり訪ねてきたのだった。一柳は武満からクレーやモンドリアンの画集などをみせられて新しい美術への扉を開かれ、武満のほうは一柳に頼んで、彼が聴きたいバッハやリスト、ラヴェルなどをピアノで弾いてもらったり、楽譜などを借りてゆくようになった。進駐軍のメンバーとして日本にやってきていた母の友人を通じて、やっと手に入れたというメシアンの楽譜は、けっきょく一柳のもとには、二度と帰ってこなかったらしい。
「音楽コンクール」のころの自作を振り返って一柳は、「最初の《ピアノ・ソナタ》は、今からみてもフランスっぽいものであったと思うけれど、あとの二曲はそうでもないですよ。まったく好きなように書きましたから」と語る(4)。
実際、池内友次郎は、いちおう門下生ではあるが彼の指導からすっかりはみだして「好きなように」書いて持ってくる一柳の曲を、いつも「弾きにくい」とこぼしていたという。

このなかに、一柳の名前はない。
のちに武満徹の語るところによると、「実験工房の連中は、その当時は、一柳のコンクールに入った音楽なんかを批判していたの。どうもアカデミックだとか、言っていたわけだ」(5)。
つまり、池内友次郎とその門弟たちに代表されるアカデミックな音楽からも、「実験工房」の同人たちが追求するアンチ・アカデミックな音楽のほうからも、一柳慧の音楽の居場所が与えられることはなかった。「日本ではどうやってやってゆけばいいのかということが、まったく掴めなかった」と、のちに一柳は述べている(6)。
このころ既に一柳は、これからピアニストではなく作曲家としてやってゆくと、腹を決めていた。じぶんの音楽の居場所は、じぶんで何とかするしかない。彼は、海外へ出ることを真剣に考えるようになる。まず、師の原智恵子や父も学んだフランスへの留学が模索されたようだが、けっきょくそれはうまくゆかなかった。
このとき父信二から、むしろニューヨークのほうが留学先としてはよいのではないかとアドヴァイスを受ける。フランスは戦禍からの復興なかばで混乱も続いており、また、大戦の影響でヨーロッパからアメリカへ多くの作曲家が逃れていて、彼らから学ぶこともできるだろうから、と。そして1952(昭和27)年、前年9月にサンフランシスコ講和条約が結ばれて独立を果たしたばかりの日本から、19歳の一柳慧は貨物船に乗り込み、アメリカに向けて旅立った。

1954年から1957年までのジュリアード音楽院での時間で、一柳は作曲とピアノの両方を学んだが、ここで一柳に最も大きな影響を与えたのは、ヴィンセント・パーシケッティの作曲のクラスよりもむしろ、ビヴェレッジ・ウェブスターというピアニストからの教えだった。そのころまだ一柳が全然知らなかったバルトークの音楽などを彼から教えられ、非常に刺激を受けたという。
作曲のほうで奨学金を得たが貧乏暮らしには変わりなく、渡米後もピアノ弾きのアルバイトはずっと続けていた。今度はジュリアードの学内で、ヴァイオリンやチェロの教授たちのところへ出向き、やってくる学生のレッスンの伴奏を弾いていたのである。「この仕事で私は伴奏と同時に、ヴァイオリンやチェロのレパートリーをずいぶん勉強させてもらったものである」と一柳は書いているが、それだけでなく学外にも積極的に出て、さまざまな音楽家たちのもとを訪ねて、一柳は貪欲に音楽を学んでいた。
渡米の翌夏にはアーロン・コープランドからタンクルウッドで学び、その後もルイジ・ダラピッコラ、《ポエム・エレクトロニーク》を手がけた直後のエドガー・ヴァレーズ、ゴッフレード・ペトラッシ、「とにかく君はベートーヴェンを学ばねばならない」と厳しく指導したボリス・ブラッヒャー、そして特に単なる音楽の師弟というだけでなくライフスタイルまで含めて大きな手本となったのは、モートン・フェルドマンやデイヴィッド・テュードアの師でもあるシュテファン・ヴォールペだった。
当時のジュリアードの作曲のクラスでは、十二音技法などのヨーロッパの新しい音楽を教えてくれることはなかったらしい。「しかし、どうしてもその辺に入らないとぼくの考え方がおさまらなくなったんで、十二音で作曲していたんですよ」とのことである(7)。

1956年10月号の『音楽藝術』に、23歳の一柳と、やはり当時渡米中だった音楽史家の皆川達夫との対談が載っている。そこで一柳は現代のアメリカ音楽の情況を問われて、まず、コープランドやサミュエル・バーバーなどは、ヨーロッパの音楽と対決してアメリカの音楽を確立するのだと意気込みすぎて音楽というものの本質から遠ざかってしまい、「結局後に残らないことになってしまった」と手厳しく断ずる。しかし、彼らに続く、ヨーロッパの前衛音楽の単なる模倣だけでもなく、新古典主義への追従でもない「独自の道を歩んで最も注目されている」エリオット・カーターなどの「若い人たち」は「音楽が先に立ち、彼等の中から自然に出てくるアメリカというものを、いろいろの面から一貫して、共通に表現しています」と評した。彼が自身をどちらの側においていたかは云うまでもないだろう。実際、先に挙げた当時の彼の曲には、後者の試みと共通するような傾向が強く現われている。

秋山邦晴のインタヴュに答えて、次のように述べている。
《そのころ、世界中の作曲家が創作ができにくい状況だったわけです。(…)みんな作品の数が減って、四苦八苦しているわけですよ。ぼく自身もたしかにそうだった。十二音にかわってから、相当ペースが落っこっちゃって、せいぜい一年に二曲とかね。非常につくりにくい、行き詰まった感じがあったんですよ。》(9)
「厳しいルールで律せられていた(…)セリーの音楽の後に、さらに新しく音に意味づけをしたり、秩序構成を考えることはほとんど不可能」(10)であると痛切に感じ、創作の困難の真っただなかに一柳はいた。そんな折、一柳は師事していたヴォールペの、三台のピアノのための新作の第二ピアノを弾くことになり、そのときの第一ピアノだったデイヴィッド・テュードアと親しくなる。1926年生れのテュードアは、《4分33秒》の初演者であるが、このとき既に現代の音楽のずば抜けて優れたピアニストとしてよく知られており、作曲家たちは、「テュードアは与えられたものをすべて、簡単に解決してしまったから、常に「退屈させないために、どんなものが作れるだろう」と自問自答しなければならなかった」(11)ほどだった。
それ以降、一柳はテュードアと頻繁に行き来するようになっていった。そして1958(昭和33)年、テュードアのリサイタルで、一柳は初めてジョン・ケージに出会い、それからしばらくして、ケージのレクチュアを受けることになる。ケネス・シルヴァーマンの『ジョン・ケージ伝』から、このときの模様を引こう。小野洋子は一柳と一緒にレクチュアを受けていたのだが、そのあとで彼女は、「夫にこう言った――「あなたが求めていたのはこれでしょ?」」 (つづく)