(承前)
二度目の渡米から帰国後の一柳に顕著だった、あらゆるジャンルの人びととの熱っぽいコラボレーションによる爆発的な活動は、空間への興味であったと纏めることができようが、この収束は一見すると意外な作品を生むことになる。それが1972(昭和47)年に高橋アキによって初演された《ピアノ・メディア》である。
《ピアノ・メディア》で一柳は、図形楽譜による不確定性の音楽を突きつめた先に、再び五線譜で「はじめと終り」という「フォームがある」音楽を書くことに戻った。そこから、これを云わば一柳の「転向」のはじまりであるとすることもしばしばであるが、ここではむしろ、これまでの一柳の音楽への取り組みの新たな局面であると捉えたい。つまり、空間というものの捉え方の深化と、ヴィルトゥオジティの再発見こそが、一柳にとって《ピアノ・メディア》で達成された最大のことなのである。
そもそも、一柳は《ピアノ・メディア》をどう発想したのだったか。
まず、1967(昭和42)年の二度目の渡米の際、一柳はスティーヴ・ライヒの二台のピアノのための《ピアノ・フェイズ》の初演をニューヨークで聴き、それまでテリー・ライリーなどの作品から受けていたミニマル・ミュージックなるものの印象をすっかり刷新されるような感銘を受ける。すぐに日本の武満徹に手紙を書き、帰国後の「オーケストラル・スペース」でこれを自身が本邦初演することを提案し、武満は一柳の「提案を快く受け入れ」た。
しかし、ピアニストとしてケージ、フェルドマンからブーレーズ、シュトックハウゼンまで、いわゆる前衛音楽をたくさん弾いてきた一柳は「一見、簡潔で単純に見えるライヒの「ピアノ・フェイズ」の演奏には、ほとほと手こずったのを覚えている」と述べる。「海岸の波打ち際についた足跡を、波が次第に洗い流してゆくような(…)繰り返しのなかで、ゆっくりとした漸次的な変化を基調とするライヒの音楽」の演奏には、「ヨーロッパ音楽とはまったく異なる未知の完成と技術が要求されたからである」(32)。
1969(昭和44)年、一柳は東京大学でモーツァルトのピアノ・ソナタをコンピュータが演奏したテープをそれと知らず聴かされたとき、「音を聴くことにおいてはかなり自信をもっていた」にもかかわらず、これをまったく「人間の演奏と聴き分けられなかった」。この経験を「逆手にとって」、「生身の人間が実際のピアノを弾くわけだが」、「あたかもコンピューターが演奏しているようにきこえる構造をもっている」曲を書くことを思いつき、これがやがて《ピアノ・メディア》となる(33)。
つまり一柳は《ピアノ・メディア》を書く前にまず、ひとりのピアニストとして、「変化や展開を基調とし、ダイナミックに音楽をうたいあげるヨーロッパ音楽の演奏法」(34)に呪縛されていることを、《ピアノ・フェイズ》の演奏に取り組むなかで深く知らされ、コンピュータのモーツァルトを聴くことで、じぶんはよく音を聴くことをなしえているという思い込みも痛打されるということを味わっているのである。
このふたつの大きな衝撃を一柳はどのように受け止めていったのか。これ以降の彼の音楽の展開の根本には、この問題が常に横たわっている。
さて、先ほど書いたように《ピアノ・メディア》は五線譜で記された音楽で、右手は九つの音から成るひとつの猛烈に速いフレーズをひたすら機械的に反復し続け、左手は曲が進むにつれてぐんぐん加速し変化してゆくフレーズを弾いてゆく。やがて、「遠くへだたっていた二つの異質な音の世界が、左手のリズムの収縮によって、徐々に接近して」ゆき、加速する左手のスピードは右手のそれとおなじになる。「二つの分離した音空間」のそれぞれは「激しいせめぎ合いのなかで燃焼し、拮抗」し、右手は「左手の音型のなかに埋没し、次第に消滅して」、「残された左手は右手の音型の変質されたかたちとなり、一つの空間的な存在となったところで曲は終る」(35)。
《ピアノ・メディア》における「速さはピアニストの技術的限界すれすれのところに位置して」おり、「右手にも左手にも和音は一切出現せず、それぞれに独立した拍子やリズムの異なる音型が交差しながら進行する」ため、「いわゆるピアニスティックな抑揚や感性を入れこむ余地の少ない作品」となっている(36)。
つまり、《ピアノ・メディア》には、演奏者に対してまず、一切の自己表現を封じ込めるような厳しい楽譜の拘束があるわけだが、しかしこれを以て、演奏者の音楽へのアプローチの自由を束縛しており、1960年代を通して一柳が追究してきた、ケージから学んだ解放の音楽からの後退であると捉えるのは、短見に過ぎるだろう。
これまでの一柳の歩みを踏まえるならむしろ、この記譜された厳しさは、たとえば不確定性の音楽に対峙した際のデイヴィッド・テュードアに顕著だった、「厳格な精神修練によって自分自身の本質を試された後に、音楽家としての自分本来の姿を発見する」(ポール・グリフィス)ことを、めざしているとみるべきだ。
つまり、「ピアニストの技術的限界すれすれのところ」で書かれている《ピアノ・メディア》を弾くためにはヴィルトゥオジティが要求されるが、それそのものが目的なのではない。その修練と習熟ののちに発見されるだろう身体性こそが一柳の狙いなのである。
云い換えるなら、「機械化の洗礼を受けたあとの手や肉体の復権が、人間とアクスティックな楽器の間に、新たな凝縮した関係をつくり出すことができないだろうか」(37)という問いが、一柳に《ピアノ・メディア》を書かせたのである。
さて、佐野光司は「ミニマル・ミュージックの出発点は、同一の音形のずれ、つまり同一の音楽的時間が、一方が遅延されることによって生ずる位相のずれ」であるとする。これに対して一聴するとミニマル・ミュージックそのものであるように思われる《ピアノ・メディア》だが、右手の「不変な音形」と左手の「一定の単位で変化してゆく音形」のそれぞれは、「異なった音楽的時間を進行するため、複数の時間が同時進行している」と述べる。
この「複数の時間の同時進行」が、一柳の二度目の渡米から帰国してのちの、あらゆる活動を貫いていること、富岡多恵子の言葉をもういちど借りるなら、「この音楽家は、どんな音でもはいるイレモノをつくって、そこへやってくるニンゲンどもを待っている」際の原理であることは、云うまでもないだろう。そして佐野は、《ピアノ・メディア》で、さらに強く音楽の言葉によって打ち出された、「2つの異なった音楽的時間の「層の距離」は一柳によって「空間」として認識されるもととなったのである」と論ずる(38)。
実際、先に引いたように、一柳による《ピアノ・メディア》の自作解題には、右手と左手によって産み出される音楽の関係こそが、彼のいう「空間」を現出させることが詳しく述べられていた。この「空間」の探究のために、《ピアノ・メディア》以降、一柳は拡散的なコラボレーションから次第に、「演奏という、より謙虚な行為に徹することによって、更に無創造性へと近づいて」ゆくことのできるヴィルトゥオジティの持ち主たちとの凝縮した協働のほうに向かう。
そしてこの「空間」の探究は同時に、ヨーロッパ音楽の真髄である室内楽というジャンルへの積極的な挑戦でもあった。
1975(昭和50)年にはフルート、打楽器、ピアノとヴァイオリンのための《トライクローム》、1976(昭和51)年には、やはりピアニストに強靭なヴィルトゥオジティが求められる《タイム・シークエンス》、その翌年にはフルート、クラリネット、打楽器、ハープ、ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための《リカレンス》などの緊張感あふれる作品がつぎつぎと産み出される。
1978(昭和53)年からはピアニストとしても、最初のアメリカ留学のときからの盟友である小林健次と、定期的にデュオの演奏会を開催するようになり、ピアノとヴァイオリンによって奏されるふたつの時間の「かかわりあい」によって、「次第に浮き彫りにされてくる空間性」の「さまざまなシーンを現出させていく」《シーンズ》のシリーズ――《シーンズIII》のみヴァイオリン独奏曲であるが原理は共通である――などが書かれてゆく(39)。
1982(昭和57)年には、指揮を専らとする前はパーカッショニストの道を歩んでいた岩城宏之からの委嘱で、マリンバとピアノのための《パガニーニ・パーソナル》が書かれている――なおこの作品には二台ピアノ、ヴァイオリンとピアノ、マリンバとオーケストラ、マリンバとピアノと混声合唱などのヴァリエーションもある――が、これは、ブラームスからルトスワフスキまでが取り組んだパガニーニの《カプリース》の24番のテーマを用いて、さらに何ができるかというところから発想された音楽である。1990(平成2)年に一柳は、この曲のことを訊ねられて、「現代音楽というと、アンチ・クラシックというか、昔のものを否定したうえに何か新しいものを作ってゆくという見方をされがち」だが、このごろのじぶんは、「クラシック音楽や日本の伝統音楽を含めて、古典と現代の音楽を何かブリッジさせることができればとも思っている」と答えている(40)。
また、ウォシャウスキー姉弟によって2012年に映画化されているデイヴィッド・ミッチェルの『クラウド・アトラス』――この小説も、時代も場所も異なる物語が同時に進行してゆく――が、そのタイトルを引用していることで知られているピアノのための《雲の表情》のシリーズが、1985(昭和60)年から1999(平成11)年にかけて、息ながく書き継がれてゆく。
この《雲の表情》の最初の三作を、一柳は、「静止した時間や解体された時間における、空間性の導入と、重層化された時間の構造とかかわりをもつ密度や音色や質感の変化などがこの曲にも主要な要素として包含されており、それらがまた、華やかでピアニスティックなテクスチュアの形成と結びついている」と述べており(41)、ここでも、「空間」とヴィルトゥオジティの探究の結びつきの強さを窺うことができる。 (つづく)

《ピアノ・メディア》で一柳は、図形楽譜による不確定性の音楽を突きつめた先に、再び五線譜で「はじめと終り」という「フォームがある」音楽を書くことに戻った。そこから、これを云わば一柳の「転向」のはじまりであるとすることもしばしばであるが、ここではむしろ、これまでの一柳の音楽への取り組みの新たな局面であると捉えたい。つまり、空間というものの捉え方の深化と、ヴィルトゥオジティの再発見こそが、一柳にとって《ピアノ・メディア》で達成された最大のことなのである。
そもそも、一柳は《ピアノ・メディア》をどう発想したのだったか。
まず、1967(昭和42)年の二度目の渡米の際、一柳はスティーヴ・ライヒの二台のピアノのための《ピアノ・フェイズ》の初演をニューヨークで聴き、それまでテリー・ライリーなどの作品から受けていたミニマル・ミュージックなるものの印象をすっかり刷新されるような感銘を受ける。すぐに日本の武満徹に手紙を書き、帰国後の「オーケストラル・スペース」でこれを自身が本邦初演することを提案し、武満は一柳の「提案を快く受け入れ」た。
しかし、ピアニストとしてケージ、フェルドマンからブーレーズ、シュトックハウゼンまで、いわゆる前衛音楽をたくさん弾いてきた一柳は「一見、簡潔で単純に見えるライヒの「ピアノ・フェイズ」の演奏には、ほとほと手こずったのを覚えている」と述べる。「海岸の波打ち際についた足跡を、波が次第に洗い流してゆくような(…)繰り返しのなかで、ゆっくりとした漸次的な変化を基調とするライヒの音楽」の演奏には、「ヨーロッパ音楽とはまったく異なる未知の完成と技術が要求されたからである」(32)。
1969(昭和44)年、一柳は東京大学でモーツァルトのピアノ・ソナタをコンピュータが演奏したテープをそれと知らず聴かされたとき、「音を聴くことにおいてはかなり自信をもっていた」にもかかわらず、これをまったく「人間の演奏と聴き分けられなかった」。この経験を「逆手にとって」、「生身の人間が実際のピアノを弾くわけだが」、「あたかもコンピューターが演奏しているようにきこえる構造をもっている」曲を書くことを思いつき、これがやがて《ピアノ・メディア》となる(33)。

このふたつの大きな衝撃を一柳はどのように受け止めていったのか。これ以降の彼の音楽の展開の根本には、この問題が常に横たわっている。
さて、先ほど書いたように《ピアノ・メディア》は五線譜で記された音楽で、右手は九つの音から成るひとつの猛烈に速いフレーズをひたすら機械的に反復し続け、左手は曲が進むにつれてぐんぐん加速し変化してゆくフレーズを弾いてゆく。やがて、「遠くへだたっていた二つの異質な音の世界が、左手のリズムの収縮によって、徐々に接近して」ゆき、加速する左手のスピードは右手のそれとおなじになる。「二つの分離した音空間」のそれぞれは「激しいせめぎ合いのなかで燃焼し、拮抗」し、右手は「左手の音型のなかに埋没し、次第に消滅して」、「残された左手は右手の音型の変質されたかたちとなり、一つの空間的な存在となったところで曲は終る」(35)。
《ピアノ・メディア》における「速さはピアニストの技術的限界すれすれのところに位置して」おり、「右手にも左手にも和音は一切出現せず、それぞれに独立した拍子やリズムの異なる音型が交差しながら進行する」ため、「いわゆるピアニスティックな抑揚や感性を入れこむ余地の少ない作品」となっている(36)。

これまでの一柳の歩みを踏まえるならむしろ、この記譜された厳しさは、たとえば不確定性の音楽に対峙した際のデイヴィッド・テュードアに顕著だった、「厳格な精神修練によって自分自身の本質を試された後に、音楽家としての自分本来の姿を発見する」(ポール・グリフィス)ことを、めざしているとみるべきだ。
つまり、「ピアニストの技術的限界すれすれのところ」で書かれている《ピアノ・メディア》を弾くためにはヴィルトゥオジティが要求されるが、それそのものが目的なのではない。その修練と習熟ののちに発見されるだろう身体性こそが一柳の狙いなのである。
云い換えるなら、「機械化の洗礼を受けたあとの手や肉体の復権が、人間とアクスティックな楽器の間に、新たな凝縮した関係をつくり出すことができないだろうか」(37)という問いが、一柳に《ピアノ・メディア》を書かせたのである。

この「複数の時間の同時進行」が、一柳の二度目の渡米から帰国してのちの、あらゆる活動を貫いていること、富岡多恵子の言葉をもういちど借りるなら、「この音楽家は、どんな音でもはいるイレモノをつくって、そこへやってくるニンゲンどもを待っている」際の原理であることは、云うまでもないだろう。そして佐野は、《ピアノ・メディア》で、さらに強く音楽の言葉によって打ち出された、「2つの異なった音楽的時間の「層の距離」は一柳によって「空間」として認識されるもととなったのである」と論ずる(38)。
実際、先に引いたように、一柳による《ピアノ・メディア》の自作解題には、右手と左手によって産み出される音楽の関係こそが、彼のいう「空間」を現出させることが詳しく述べられていた。この「空間」の探究のために、《ピアノ・メディア》以降、一柳は拡散的なコラボレーションから次第に、「演奏という、より謙虚な行為に徹することによって、更に無創造性へと近づいて」ゆくことのできるヴィルトゥオジティの持ち主たちとの凝縮した協働のほうに向かう。

1975(昭和50)年にはフルート、打楽器、ピアノとヴァイオリンのための《トライクローム》、1976(昭和51)年には、やはりピアニストに強靭なヴィルトゥオジティが求められる《タイム・シークエンス》、その翌年にはフルート、クラリネット、打楽器、ハープ、ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための《リカレンス》などの緊張感あふれる作品がつぎつぎと産み出される。
1978(昭和53)年からはピアニストとしても、最初のアメリカ留学のときからの盟友である小林健次と、定期的にデュオの演奏会を開催するようになり、ピアノとヴァイオリンによって奏されるふたつの時間の「かかわりあい」によって、「次第に浮き彫りにされてくる空間性」の「さまざまなシーンを現出させていく」《シーンズ》のシリーズ――《シーンズIII》のみヴァイオリン独奏曲であるが原理は共通である――などが書かれてゆく(39)。
1982(昭和57)年には、指揮を専らとする前はパーカッショニストの道を歩んでいた岩城宏之からの委嘱で、マリンバとピアノのための《パガニーニ・パーソナル》が書かれている――なおこの作品には二台ピアノ、ヴァイオリンとピアノ、マリンバとオーケストラ、マリンバとピアノと混声合唱などのヴァリエーションもある――が、これは、ブラームスからルトスワフスキまでが取り組んだパガニーニの《カプリース》の24番のテーマを用いて、さらに何ができるかというところから発想された音楽である。1990(平成2)年に一柳は、この曲のことを訊ねられて、「現代音楽というと、アンチ・クラシックというか、昔のものを否定したうえに何か新しいものを作ってゆくという見方をされがち」だが、このごろのじぶんは、「クラシック音楽や日本の伝統音楽を含めて、古典と現代の音楽を何かブリッジさせることができればとも思っている」と答えている(40)。

この《雲の表情》の最初の三作を、一柳は、「静止した時間や解体された時間における、空間性の導入と、重層化された時間の構造とかかわりをもつ密度や音色や質感の変化などがこの曲にも主要な要素として包含されており、それらがまた、華やかでピアニスティックなテクスチュアの形成と結びついている」と述べており(41)、ここでも、「空間」とヴィルトゥオジティの探究の結びつきの強さを窺うことができる。 (つづく)