(承前)
1980年代から、一柳が最初に尾高賞を獲った1981(昭和56)年のピアノとオーケストラのための《空間の記憶》を皮切りに、オーケストラ曲の委嘱が増える。しかし、ヴィルトゥオジティによって織り成される複数の時間の「かかわりあい」によってもたらされる「空間」性の探究は、一見それにうってつけであるかのようなオーケストラ曲で発揮されるよりもむしろ、これまで述べてきたような室内楽の諸作と、雅楽の作品によって、より盛んに突き詰められてゆく。
実際、この年代からの一柳の作品リストをみるなら、室内楽の作品の充実と競るように、いわゆる邦楽器のための曲がずらりと並んでおり、1989(平成元年)年には雅楽と聲明の演奏団体「東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル――新しい伝統」の立ち上げさえ行っている。
そうであるなら、日本の古典音楽へののめり込みと室内楽への取り組みは、ひとつの探究の、別方向からの進みゆきであると捉えるほうがより精確だろう。
なお、一柳が邦楽器と取り組んだのは1980年代に入ってからではない。既に、最初の帰国直後の1961(昭和36)年11月に草月ホールで行われた個展で、笙とオルガンのための《回帰》を発表しており、これが一柳が初めて邦楽器に取り組んだ作品である。
渡米中に一柳は、日本の伝統音楽のレクチュアを依頼され、「できないと断るのもちょっと癪だ」ったので、慌ててコロンビア大学の図書館に駆け込んでみると、日本の音楽や伝統藝能に関する資料がたくさん揃っており、これを「一夜漬けでもって勉強して」講演したことがあったという。そのとき、「日本の古典音楽というものは、西洋的なものを基調にしていませんから、ものすごくモダンに聴こえるわけですよ。音律もそうだし、リズムもそうだし、何か本当に、現代音楽に近いなという気がした。それで、もっと勉強してみようという気持ちになった」そうである(42)。
そして、《回帰》のリハーサルのとき、一柳はその後もしばしば協働することになる、笙の多忠麿と初めて出会う。このときに多が持ってきた別々の調律を施されたふたつの笙をみて、一柳は、この楽器が属している雅楽という、ヨーロッパのそれとはまったく異なる音楽の持つ歴史の分厚さを教えられ、のちに、ライヒの《ピアノ・フェイズ》やコンピュータのモーツァルトと遭遇したときとおなじように、自身の音楽観を揺るがされる経験を得る。その後も継続的に、邦楽器との取り組みは続き、1963(昭和38)年には琵琶の音を変調させて電子音楽《船隠》を、1965(昭和40)年には尺八、筝、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、銅鑼とオペレータのための《コラージュ》などを発表している。
さて、1970(昭和45)年には、雅楽に新しい息吹をもたらすため、現代の作曲家たちに新作を委嘱する国立劇場の試みが、黛敏郎《昭和天平楽》の発表から始まる。その後も武満徹《秋庭歌一具》、そして何より1977(昭和52)年のシュトックハウゼン《歴年》などが、このとき国立劇場に属していた木戸敏郎のプロデュースによって生まれてゆくことになるが、一柳もまた委嘱を受けて1980(昭和55)年に《往還楽》、1982(昭和57)年に《廻天楽・往還楽》、そして1984(昭和59)年には、正倉院の宝物などから復元された古代楽器のための《雲の岸、風の根》と、つぎつぎに発表してゆく。
さらに国立劇場の外でも、1983(昭和58)年には、多忠麿に師事していた宮田まゆみによって初演された、独奏笙のための《星の輪》、1990(平成2)年には自身の組織した「東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル――新しい伝統」のために書かれた、龍笛、篳篥、笙、尺八、筝、琵琶、打物のための《道》など、これ以降も、一柳による日本の古典音楽への取り組みの傾注ぶりは目を瞠るものがある。
1981(昭和56)年に発表された「音楽――時間と空間の芸術」と題された文で、一柳は、木戸敏郎による御神楽に関する論考から、「一度発せられた音は、物理的には間もなく消滅するが、精神的にはその場に止まって、つぎつぎと堆積してゆく」のであり、「同じ旋律を何度も演奏するのは反復ではなく重複である。重複させることは堆積させることであり、音の堆積は密度を高めてゆくことを意図している」という箇所を引き、古代楽器をふくめた邦楽器のための自作の根底にある狙いを、「時間の経過が音楽の構造化につながるのではなく、空間の堆積が音楽をかたちづくっていく」こと、「音の高さや、持続や、音の強さなどを、西欧の音楽のように、それぞれの要素に分離してしまうのではなく、音の密度としての観点から、一つの有機体のように扱うことで、音楽の流れを、自然界の時間や空間の変化に対応させるかたちをとる」ことと説明する。
無論これは邦楽器のための曲だけでなく、先に述べた室内楽の諸作品にも通底していることは、もうくだくだ述べるまでもないだろう。
そして、《ピアノ・メディア》以降、図形楽譜で書くことを一柳はやめてしまったわけではなく、邦楽器のための作品では、五線譜とともに、これを大いに用いている。
このあたりのことを一柳は、「音楽とはパフォーミング・アーツだから、どうしてもパフォーマー(演奏家)が必要になる。そうするとパフォーマーとのいろんなやり取りを成立させなければならない」のだが、図形楽譜を用いた音楽では、演奏者の経験、その取り組みの如何によって、演奏の結果にどうしてもバラつきが出てしまうのは否めない。これは映像やら空間デザインやら音楽家具の製作にまでチャレンジした1970年代までの一柳自身にも、さまざまな局面で痛感されることが少なくなかっただろう。
すると、作曲者として、出てくる音の結果がどんなものであれ、こちらで引き受けることを肯んじることのできるような、演奏を託せる演奏家もおのずと限られてくることになる。こうなると、より広い可能性に向けて開かれることをめざしているはずの音楽が、秘教的な、閉じたものになっていってしまう。
しかし、彼が出会った日本の伝統音楽の奏者たちは、「西欧の音楽であれ何であれ、非常に謙虚に受けとめようという姿勢が強かった。(…)グラフィック(図形楽譜)的なものを書いても、ずいぶん一生懸命努力してやってくれる」ことがしばしばだったのである(43)。
そもそも日本の伝統音楽の楽譜は、ヨーロッパ式の「一見すべての音が合理的に書きとれるように見える五線記譜法」によるそれではなく、「それぞれの楽器や声に対し固有のものとして考案され」ている。これを指して、「各楽器がばらばらに記され、記譜も具体性に欠けている」ことから、五線譜より「楽譜としての機能」に関して劣るように云われることがあるが、これを一柳は否定する。むしろ、そうであるからこそ、しばしば五線譜のオタマジャクシを目で追ってそのとおりの音を奏でるだけになってしまう視覚優位の音楽から、「演奏者を楽譜に従属させてしまわない」で、「演奏者が自分なりの立場から音楽にかかわりあえる」ようになり、「音楽は聴覚主導となり、演奏に際して、つねに時間と空間を意識することで、身体性を育むことにもつながってゆく」と述べる。
むろん日本の伝統音楽は「様式性を重んじ、そのことがたとえば、型の形成に結びついて楽曲に構成感を与えている」のであり、「様式の解体」と「各奏者の独立性」こそを狙いとする不確定性の音楽とぴったり重なり合うものではない(44)。
しかし、このことから一柳が、いわゆるジョン・ケージ・ショック期の「やり方」を1980年代以降は撤回してしまったのではなく、ただ、オーケストラに代表されるヨーロッパの音楽をベースとする奏者たちと音楽をつくってゆくための手法としては最適のものではない――1964年にニューヨーク・フィルが《アトラス・エクリプティカリス》を演奏した際、彼らがケージの指示を無視して曲を台なしにしてしまったことを一柳はもちろんよく知っていたし、自身も1966(昭和41)年の「オーケストラル・スペース」における《ライフ・ミュージック》の演奏では、オーケストラから各楽器にコンタクト・マイクをつけることを拒否されるというようなこともあった――と判断したこと、しかしそれを用いることで、より音楽を自由にしてゆけると託すことのできる奏者たちに対しては、この「やり方」も活かし続けていることが見て取れる。一柳にとって図形楽譜とは、決して絵画的連想の具ではなく、その記譜法によってしかよりよく表現することができない音の関係を精確に刻むためのものであることが、よりくっきりとしたということもできよう。
日本の伝統音楽への一柳の取り組みについて、もうひとつだけ指摘しておくべきだろうことは、これが単純な、蕩児の日本回帰とは異なるということである。
木戸敏郎を中心として、国立劇場が、正倉院などに伝われる古代楽器の断片やもろもろの文献などに基づき、雅楽として今に伝承されているより以前の楽器や奏法を復元して、それを用いた新しい音楽の創造を多くの作曲者に委嘱し、そうしてできた音楽を「伶楽」と呼んでいる。この運動には、たとえば音楽学者の小島美子による激しい批判などもあるが、これまでに述べてきたように、一柳は雅楽のための新作だけでなく、木戸の「伶楽」の考えに共鳴し、このための音楽もたくさん書いている。
複数の音楽的時間が織り成す空間性を追い続けている作曲家である一柳が、雅楽の世界との遭遇を経て、さらに「伶楽」へと進んだのは、日本へ「アジア諸国からさまざまな音楽が到来したときのいわば未分化な状態へと考えを戻す」ためであり、この道程を逆に向かえば、「いろいろな音楽がせめぎ合うなかから、次第に淘汰され、定着してきた歴史の流れを遡ること」にもなる(45)。つまり、一柳が雅楽や「伶楽」の新作を通じてみつめている日本とは、今ここにある日本そのものへの回帰ではなく、それと重なりつつ、しかしズレを含みながら発ち現われてくる、可能性としての「日本」なのである。
一柳は、日本の戦後とともに生きてきた。フランスの音楽に親しみ、セリー音楽を経て、ジョン・ケージやデイヴィッド・テュードアと遭遇するなかで自身の音楽を確立し、作曲家だけでなくさまざまな藝術家たちとのコラボレーションによってその音楽を拡張し、同時に日本の伝統音楽にも熱心に取り組んできた。
それらの音楽は、沈黙や間を含めた幾つもの異なる音の時間が、異なっているからこそ生れ得るかかわりあいによって、ひとつの「空間」を織り成すことに向けて、響いている。
「絶対的基準の神話は解体され、音楽は全体性の回復する(総体的)なものとして見直されるようになってくる」と一柳が書くとき、これは自身の音楽への言及であると同時に、われわれが生活/音楽している、「個々のものがさまざまな時間を宿しながら循環しているはるかに豊かな世界」(46)に向かう、ひとつの祈りでもあるのだろう。
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1. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
2. 『音楽の友』1950年1月号
3. 『音楽藝術』1951年12月号
4. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
5. 岩城宏之対談集『行動する作曲家たち』より「武満徹」
6. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
7. 秋山邦晴『日本の作曲家たち』より「一柳慧」
8. 『文藝春秋』1969年8月号より加瀬英明「わが偉大なる従姉小野洋子」
9. 秋山邦晴『日本の作曲家たち』より「一柳慧」
10. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
11. 白石美雪『ジョン・ケージ』
12. 以上、一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
13. 『Music Today』vol.18一柳慧・秋山邦晴「ジョン・ケージと日本」
14. ポール・グリフィス(訳・堀内宏公)『ジョン・ケージの音楽』
15. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
16. 『現代との対話』より一柳慧「音楽の新しい状況」
17. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
18. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
19. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
20. CD『ジョン・ケージ・ショック』ライナーノートより一柳慧「デヴィッド・チュードアという演奏家」
21. CD『ジョン・ケージ・ショック』ライナーノートより一柳慧「デヴィッド・チュードアという演奏家」
22. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
23. 『音楽藝術』1963年8月号より座談会「世界の前衛と音楽」から諸井誠の発言
24. CD『ミュージック・フォー・ティンゲリー』の一柳慧によるライナーノート
25. 岩城宏之対談集『行動する作曲家たち』より「武満徹」
26. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
27. 以上、『音楽藝術』1970年12月号より一柳「ライヴ・エレクトロニック・ミュージックの可能性」
28. 富岡多恵子『行為と芸術』より「一柳慧」
29. CD『オペラ横尾忠則を歌う。』ブックレットより横尾忠則「一柳慧作曲「オペラ横尾忠則を歌う」」
30. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
31. 『展望』1968年3月号より秋山邦晴による一柳慧インタヴュー「音楽の境界をのりこえろ」
32. 一柳慧『音楽という営み』より「スティーヴ・ライヒ」
33. 『世界』1977年7月号より一柳慧「古代と超現代の距離」
34. 一柳慧『音楽という営み』より「スティーヴ・ライヒ」
35. 一柳慧『音を聴く』より「「ピアノ・メディア」と「タイム・シークエンス」」
36. 一柳慧『音を聴く』より「私の作品から」
37. 一柳慧『音を聴く』より「「ピアノ・メディア」と「タイム・シークエンス」」
38. 以上、『サントリー音楽財団コンサート作曲家の個展'88:一柳慧』パンフレットより佐野光司「一柳慧の音楽」
39. CD『一柳慧の宇宙:パガニーニ・パーソナル』より一柳慧「曲目解説」
40. 『音楽藝術』1990年7月号一柳慧インタヴュー「パガニーニを現代に読み変えて」
41. CD『一柳慧の宇宙:パガニーニ・パーソナル』より一柳慧「曲目解説」
42. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
43. 以上『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
44. 一柳慧『音楽という営み』より「音楽における聴覚の復権」
45. 一柳慧『音楽という営み』より「伝統音楽の今日的再生」
46. 一柳慧『音楽という営み』より「弦楽四重奏曲第3番―インナーランドスケープ」


実際、この年代からの一柳の作品リストをみるなら、室内楽の作品の充実と競るように、いわゆる邦楽器のための曲がずらりと並んでおり、1989(平成元年)年には雅楽と聲明の演奏団体「東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル――新しい伝統」の立ち上げさえ行っている。
そうであるなら、日本の古典音楽へののめり込みと室内楽への取り組みは、ひとつの探究の、別方向からの進みゆきであると捉えるほうがより精確だろう。

渡米中に一柳は、日本の伝統音楽のレクチュアを依頼され、「できないと断るのもちょっと癪だ」ったので、慌ててコロンビア大学の図書館に駆け込んでみると、日本の音楽や伝統藝能に関する資料がたくさん揃っており、これを「一夜漬けでもって勉強して」講演したことがあったという。そのとき、「日本の古典音楽というものは、西洋的なものを基調にしていませんから、ものすごくモダンに聴こえるわけですよ。音律もそうだし、リズムもそうだし、何か本当に、現代音楽に近いなという気がした。それで、もっと勉強してみようという気持ちになった」そうである(42)。
そして、《回帰》のリハーサルのとき、一柳はその後もしばしば協働することになる、笙の多忠麿と初めて出会う。このときに多が持ってきた別々の調律を施されたふたつの笙をみて、一柳は、この楽器が属している雅楽という、ヨーロッパのそれとはまったく異なる音楽の持つ歴史の分厚さを教えられ、のちに、ライヒの《ピアノ・フェイズ》やコンピュータのモーツァルトと遭遇したときとおなじように、自身の音楽観を揺るがされる経験を得る。その後も継続的に、邦楽器との取り組みは続き、1963(昭和38)年には琵琶の音を変調させて電子音楽《船隠》を、1965(昭和40)年には尺八、筝、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、銅鑼とオペレータのための《コラージュ》などを発表している。

さらに国立劇場の外でも、1983(昭和58)年には、多忠麿に師事していた宮田まゆみによって初演された、独奏笙のための《星の輪》、1990(平成2)年には自身の組織した「東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル――新しい伝統」のために書かれた、龍笛、篳篥、笙、尺八、筝、琵琶、打物のための《道》など、これ以降も、一柳による日本の古典音楽への取り組みの傾注ぶりは目を瞠るものがある。
1981(昭和56)年に発表された「音楽――時間と空間の芸術」と題された文で、一柳は、木戸敏郎による御神楽に関する論考から、「一度発せられた音は、物理的には間もなく消滅するが、精神的にはその場に止まって、つぎつぎと堆積してゆく」のであり、「同じ旋律を何度も演奏するのは反復ではなく重複である。重複させることは堆積させることであり、音の堆積は密度を高めてゆくことを意図している」という箇所を引き、古代楽器をふくめた邦楽器のための自作の根底にある狙いを、「時間の経過が音楽の構造化につながるのではなく、空間の堆積が音楽をかたちづくっていく」こと、「音の高さや、持続や、音の強さなどを、西欧の音楽のように、それぞれの要素に分離してしまうのではなく、音の密度としての観点から、一つの有機体のように扱うことで、音楽の流れを、自然界の時間や空間の変化に対応させるかたちをとる」ことと説明する。
無論これは邦楽器のための曲だけでなく、先に述べた室内楽の諸作品にも通底していることは、もうくだくだ述べるまでもないだろう。

このあたりのことを一柳は、「音楽とはパフォーミング・アーツだから、どうしてもパフォーマー(演奏家)が必要になる。そうするとパフォーマーとのいろんなやり取りを成立させなければならない」のだが、図形楽譜を用いた音楽では、演奏者の経験、その取り組みの如何によって、演奏の結果にどうしてもバラつきが出てしまうのは否めない。これは映像やら空間デザインやら音楽家具の製作にまでチャレンジした1970年代までの一柳自身にも、さまざまな局面で痛感されることが少なくなかっただろう。
すると、作曲者として、出てくる音の結果がどんなものであれ、こちらで引き受けることを肯んじることのできるような、演奏を託せる演奏家もおのずと限られてくることになる。こうなると、より広い可能性に向けて開かれることをめざしているはずの音楽が、秘教的な、閉じたものになっていってしまう。
しかし、彼が出会った日本の伝統音楽の奏者たちは、「西欧の音楽であれ何であれ、非常に謙虚に受けとめようという姿勢が強かった。(…)グラフィック(図形楽譜)的なものを書いても、ずいぶん一生懸命努力してやってくれる」ことがしばしばだったのである(43)。

むろん日本の伝統音楽は「様式性を重んじ、そのことがたとえば、型の形成に結びついて楽曲に構成感を与えている」のであり、「様式の解体」と「各奏者の独立性」こそを狙いとする不確定性の音楽とぴったり重なり合うものではない(44)。


木戸敏郎を中心として、国立劇場が、正倉院などに伝われる古代楽器の断片やもろもろの文献などに基づき、雅楽として今に伝承されているより以前の楽器や奏法を復元して、それを用いた新しい音楽の創造を多くの作曲者に委嘱し、そうしてできた音楽を「伶楽」と呼んでいる。この運動には、たとえば音楽学者の小島美子による激しい批判などもあるが、これまでに述べてきたように、一柳は雅楽のための新作だけでなく、木戸の「伶楽」の考えに共鳴し、このための音楽もたくさん書いている。
複数の音楽的時間が織り成す空間性を追い続けている作曲家である一柳が、雅楽の世界との遭遇を経て、さらに「伶楽」へと進んだのは、日本へ「アジア諸国からさまざまな音楽が到来したときのいわば未分化な状態へと考えを戻す」ためであり、この道程を逆に向かえば、「いろいろな音楽がせめぎ合うなかから、次第に淘汰され、定着してきた歴史の流れを遡ること」にもなる(45)。つまり、一柳が雅楽や「伶楽」の新作を通じてみつめている日本とは、今ここにある日本そのものへの回帰ではなく、それと重なりつつ、しかしズレを含みながら発ち現われてくる、可能性としての「日本」なのである。

それらの音楽は、沈黙や間を含めた幾つもの異なる音の時間が、異なっているからこそ生れ得るかかわりあいによって、ひとつの「空間」を織り成すことに向けて、響いている。
「絶対的基準の神話は解体され、音楽は全体性の回復する(総体的)なものとして見直されるようになってくる」と一柳が書くとき、これは自身の音楽への言及であると同時に、われわれが生活/音楽している、「個々のものがさまざまな時間を宿しながら循環しているはるかに豊かな世界」(46)に向かう、ひとつの祈りでもあるのだろう。
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2. 『音楽の友』1950年1月号
3. 『音楽藝術』1951年12月号
4. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
5. 岩城宏之対談集『行動する作曲家たち』より「武満徹」
6. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
7. 秋山邦晴『日本の作曲家たち』より「一柳慧」
8. 『文藝春秋』1969年8月号より加瀬英明「わが偉大なる従姉小野洋子」
9. 秋山邦晴『日本の作曲家たち』より「一柳慧」
10. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
11. 白石美雪『ジョン・ケージ』
12. 以上、一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
13. 『Music Today』vol.18一柳慧・秋山邦晴「ジョン・ケージと日本」
14. ポール・グリフィス(訳・堀内宏公)『ジョン・ケージの音楽』
15. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
16. 『現代との対話』より一柳慧「音楽の新しい状況」
17. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
18. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
19. 一柳慧『音楽という営み』より「ジョン・ケージ」
20. CD『ジョン・ケージ・ショック』ライナーノートより一柳慧「デヴィッド・チュードアという演奏家」
21. CD『ジョン・ケージ・ショック』ライナーノートより一柳慧「デヴィッド・チュードアという演奏家」
22. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」

24. CD『ミュージック・フォー・ティンゲリー』の一柳慧によるライナーノート
25. 岩城宏之対談集『行動する作曲家たち』より「武満徹」
26. 「讀賣新聞」1962年9月26日夕刊より一柳慧「前衛音楽と日本」
27. 以上、『音楽藝術』1970年12月号より一柳「ライヴ・エレクトロニック・ミュージックの可能性」
28. 富岡多恵子『行為と芸術』より「一柳慧」
29. CD『オペラ横尾忠則を歌う。』ブックレットより横尾忠則「一柳慧作曲「オペラ横尾忠則を歌う」」
30. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
31. 『展望』1968年3月号より秋山邦晴による一柳慧インタヴュー「音楽の境界をのりこえろ」
32. 一柳慧『音楽という営み』より「スティーヴ・ライヒ」
33. 『世界』1977年7月号より一柳慧「古代と超現代の距離」
34. 一柳慧『音楽という営み』より「スティーヴ・ライヒ」
35. 一柳慧『音を聴く』より「「ピアノ・メディア」と「タイム・シークエンス」」
36. 一柳慧『音を聴く』より「私の作品から」
37. 一柳慧『音を聴く』より「「ピアノ・メディア」と「タイム・シークエンス」」
38. 以上、『サントリー音楽財団コンサート作曲家の個展'88:一柳慧』パンフレットより佐野光司「一柳慧の音楽」
39. CD『一柳慧の宇宙:パガニーニ・パーソナル』より一柳慧「曲目解説」
40. 『音楽藝術』1990年7月号一柳慧インタヴュー「パガニーニを現代に読み変えて」
41. CD『一柳慧の宇宙:パガニーニ・パーソナル』より一柳慧「曲目解説」
42. 『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
43. 以上『アラザル』vol.3「一柳慧インタヴュー」
44. 一柳慧『音楽という営み』より「音楽における聴覚の復権」
45. 一柳慧『音楽という営み』より「伝統音楽の今日的再生」
46. 一柳慧『音楽という営み』より「弦楽四重奏曲第3番―インナーランドスケープ」
