

大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
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【ポック[POC]#27】 2016年10月10日(月・祝) 18時開演(17時半開場)アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)
:浄められた夜 Op.4 (1899)[M.ゲシュテールによるピアノ独奏版(2001)](日本初演) 約28分
:室内交響曲第1番ホ長調 Op.9(1906)[E.シュトイアーマンによるピアノ独奏版(1922)] 約21分
(休憩10分)
:三つのピアノ曲 Op.11(1909) 約13分
I.Mäßig - II.Mäßige Achtel - III. Bewegt
:六つのピアノ小品 Op.19(1911) 約5分
I.Leicht, zart - II.Langsam - III.Sehr langsam - IV.Rasch, aber leicht - V.Etwas rasch - VI.Sehr langsam
:五つのピアノ曲 Op.23(1920/23) 約12分
I.Sehr langsam - II.Sehr rasch - III.Langsam - IV. Schwungvoll - V.Walzer
:ピアノ組曲 Op.25(1921/23) 約14分
I.Präludium - II.Gavotte - III.Musette - IV.Intermezzo - V.Menuett - VI.Gigue
(休憩10分)
見澤ゆかり(1987- ):《Vivo estas ĉiam absurda》 (2016)(委嘱新作・世界初演) 約10分
1.黎明 - 2.熟成 - 3.蒸発
アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)
:二つのピアノ曲 Op.33a/b(1928/31) 約7分
I.Mäßig - II.Mäßig langsam
:室内交響曲第2番変ホ短調 Op.38(1906/39)[米沢典剛によるピアノ独奏版(2016)](世界初演) 約23分
I.Adagio - II.Con fuoco

曲題《ヴィーヴォ・エスタス・チアム・アブスルダ》は、「人生は常に不条理」という意味のエスペラント語(人工言語)である。エスペラント語とは母語の異なる人々の間での意思伝達のための国際補助語として創られた言語であり、また母語話者を持たないラテン語のように習得が難しいものでもない。表向きは、習得に対して有利、不利の差異がないとされているが、文法は印欧語族に分類され、語彙のほとんどがロマンス語を基礎としていることから、他言語の母語話者の習得の難しさは自然言語よりまし程度であるという指摘がある。つまり、エスペラント語というもの自体が不条理の是正を目指し、それに挫折することによって不条理を浮き彫りにした存在である。
人間が不条理であると感じる時、その人物は不当な扱いを受けたという感情を抱いている。社会的問題であれ、個人的な問題であれ、その感情は怒りを誘発するものである。この曲の着想は、「怒り」についてである。怒りが起きた状況や、その感情をそのまま曲にするのではなく、「怒り」がいかにして起こり、いかにして増幅され、いかにして消滅するのか、ということから、曲の構造を構築した。また、音要素は主にディエスイレの引用と攻撃的なノイズを使っている。(見澤ゆかり)

1987年群馬県富岡市生まれ。国立音楽大学音楽文化デザイン学科創作専修(作曲)、大正大学仏教学部仏教学科浄土学科を経て、現在カール・マリア・フォン・ヴェーバー音楽大学大学院作曲課程に在籍。作曲を菊池幸夫、川島素晴、マルク・アンドレ、フランツ・マルティン・オルブリッシュの各氏に師事。作品に《恵天楽》(篳篥・楽琵琶、2011)、《隠響》(管弦楽、2012)、《観察と体験》(pf/perc/fl、2013)、《combi-land》(ギター二重奏、2014)、《Spiel einer Nymphe》(3人のパフォーマー、2015)、《←→ ↓ ←→》(ホルン四重奏、2016)等。浄土宗僧侶、篳篥奏者としても活動している。ドレスデン在住。
シェーンベルクの音楽が「戦後前衛の源流」になるまで───野々村禎彦

本日のプログラムは、後期ロマン派時代のシェーンベルクの代表曲のピアノ独奏編曲から始まる。《浄められた夜》(1899) は、クリムトやピアズリーの絵画が醸し出す世紀末のイメージにふさわしい。室内交響曲第1番(1906) では半音階化がさらに進み、無調前夜のフラストレーションが極限まで高まった。だが、20世紀初頭のこのような傾向はシェーンベルクに限ったものではなかった。

ただし彼らは、安定した無調まで行き着くことはなかった。R.シュトラウスの場合は、一時の流行が冷めたらホームグラウンドに戻っただけかもしれないが、シベリウスの場合は、一人ではそれ以上先まで行くことはできなかったのだろう。その後の切り詰めた独自様式も興味深いが、一般性のない個人様式であることも彼は理解しており、やがて消え入るように筆を折った。90年代に入って保守化したスペクトル楽派第二世代以降は、調性の明確さゆえに彼の後期作品を崇拝しているが…

ヴェーベルンは、音楽学者としてはフランドル楽派の作曲家イザークを研究しており、ルネサンス時代の多声音楽にも精通していた。ベルクは後期ロマン派の音楽に親しみながら、それを素材として突き放して扱う、新古典主義に通じる感覚を持っていた(ストラヴィンスキーの新古典主義の中核はバロック音楽の素材であり、ロマン派の素材は鬼門だった)。シェーンベルクの作品11 (1909) の浮遊感は、古典的形式を宙吊りにして伝統の重力から解放するベルクの個性の反映であり、作品19 (1911) の凝縮されたミニアチュールは、ヴェーベルンの唯一無二の個性の賜物に他ならない。
ヴェーベルンとベルクは、同時代の作曲家の中では寡作な部類だが、ひとつひとつの作品で明確なテーマを設定して着実にクリアしてゆくヴェーベルンも、個人史においても音楽史においても大きな意味を持つ大作に絞って入念に仕上げてゆくベルクも、作曲家としては極めて堅実なタイプである。他方シェーンベルクは、霊感に導かれるままに創作に没頭する数年間と、これといった作品を生み出せない期間が交互に訪れる、気紛れなタイプの作曲家だった。

作品23と《セレナード》(1920-23) には、新たな道を歩み始めた際に特有の不定形の魅力(無調初期では、《架空庭園の書》(1908-09) やモノオペラ《期待》(1909) がこれに相当する)に溢れているが、いったん方向性が固まると、今度は作品25のような型にはまった新古典主義に収まってしまうのも彼の個性である。作品25、《木管五重奏曲》(1923-24)、《組曲》(1925-26) などの作品は、前衛の時代に厳しく批判された「新古典主義への退行」のサンプルと看做さざるを得ない。

これらの作品を生んだ数年間は無調初期と並ぶ彼の創作の第二のピークであり、12音技法による創作の集大成となったオペラ《モーゼとアロン》(1930-32, 未完) まで続いた。この好調の中で書かれたピアノ独奏曲が、作品33の2曲(1928-29, 1931) に他ならない。第一のピークの無調音楽は、テキストの流れに構造を委ねた非組織的なもので、霊感が途切れた途端に深刻なスランプが訪れた。だが二度目のピークは、一度不調に陥った後に書法の成熟に伴って自らを高みに引き上げる、意志で霊感を制御した結果だった。これが、12音技法という組織化された書法の威力である。
しかし、《モーゼとアロン》完成間近の1933年、ナチスの政権掌握を機に彼の運命は暗転する。ユダヤ人としてナチスの台頭に危機感を抱いていた彼は、フランスで休暇を取って全権委任法成立後の趨勢を見守り、ナチス以外の政党が非合法化されるに及んで亡命を決意した。《浄められた夜》に先立ち、ドイツ圏での活動を見据えてプロテスタントに改宗していた彼は、今後は亡命先のユダヤ人コミュニティで糊口を凌ぐことを見据えてユダヤ教に再改宗し、直接米国に亡命した。

当時の彼が受けた委嘱は専ら調性的な作品であり、そこで彼が選んだのは、ヴェーベルンとベルクに導かれて無調に歩み始める直前の書法だった。《コル・二ドライ》(1938) や《レチタティーヴォによる変奏曲》(1940) はまさにそのような作品だが、ピアノ編曲版が本日最後の曲目となる室内交響曲第2番(1906/39) も、室内交響曲第1番と同時期の素材をまとめ直した曲で、この時期の創作の文脈を伝える。だが第1番と聴き比べると、この時期の彼の焦燥や諦念も聴き取れてしまう。第二次世界大戦初期にはナチスドイツは連戦連勝、米国は孤立主義を守っていたことを思い出そう。

だが、このまま音楽史から消え去るかに見えた彼は、持病の喘息による臨死体験を経て弦楽三重奏曲(1946) で奇跡的に復活した。《ワルシャワの生き残り》(1947) から《現代詩篇》(1950, 未完) まで、一見地味だが濃密に書き込まれた12音作品が続き、その音楽的密度は過去二回のピークに勝るとも劣らない。ただし、この生涯三度目のピークにピアノ独奏曲が書かれることはなかった。
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シェーンベルクの音楽が「戦後前衛の源流」として見直されるようになったのはむしろ、前衛の時代が終わって総音列技法の特権性が失われてからだった。前衛の時代にシェーンベルクの音楽が敬遠されたのは、ブラームスやマーラーとの連続性を否応無く意識させるためだが、芸術至上主義やヨーロッパ中心主義のような、戦後前衛が前時代から無自覚・無批判に受け継いだものを、視覚的要素を多用して暴き出したカーゲル(やその縮小再生産版のシュネーベル)ですら、前衛の時代が終わる頃にはドイツ音楽の伝統の再利用に創作の中心を移しており、「戦後前衛」の前提は変化した。

もうひとつ忘れてはならないのは、ケージ及びニューヨーク楽派の音楽の源流のひとつは、シェーンベルクの音楽に他ならない。彼らがヴェーベルンの「音と沈黙の対位法」に強い影響を受けたこと(この側面は総音列技法では見事に抜け落ちている)は広く知られているが、そもそも彼らの「アメリカ音楽」に拘らない姿勢は、若き日のケージがシェーンベルクに師事し、終生リスペクトしていたことに由来する。ケージが決裂したのは、渡米後の苦境の中で自分を見失っていたシェーンベルクであり、即興の可能性を疑って理念を厳格に形にする姿勢は、ニューヨーク楽派の音楽に深いレベルで継承された。彼らの音楽は、即興の可能性に疑いを持たない米国実験音楽の大らかな多数派とは異質であり、ヴァンデルヴァイザー楽派を経てドイツ音楽の伝統に回収されたのは歴史的必然だった。
