【ポック[POC]#29】
2016年12月23日(金・祝)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)
[三公演パスポート8000円] 12/23(バルトーク)+1/22(ストラヴィンスキー)+2/19(ソラブジ)
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
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ベラ・バルトーク(1881-1945):
ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904) 21分
Mesto/Adagio - Piùvivo - Presto
14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908) 24分
I.Molto sostenuto - II.Allegro giocoso - III.Andante - IV.Grave 〈俺が駆け出しの牛飼いだった頃...〉 - V.Vivo 〈ああ、家の前で...〉 - VI.Lento - VII.Allegretto molto capriccioso - VIII.Andante sostenuto - IX.Allegretto grazioso - X.Allegro - XI.Allegretto molto rubato - XII.Rubato - XIII.Lento funebre 〈彼女は死んだ...〉 - XIV.Valse, Presto 〈恋人が踊っている...〉
(休憩10分)
東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
ベラ・バルトーク:アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911) 3分
3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918) 8分
I.Allegro molto - II.Andante sostenuto - III.Rubato/Tempo giusto
舞踏組曲 Sz.77 (1925) 17分
I.Moderato - II.Allegro molto - III.Allegro vivace - IV.Molto tranquillo - V.Comodo - VI.Finale; Allegro
(休憩10分)
ピアノ・ソナタ Sz.80 (1926) 13分
I.Allegro moderato - II.Sostenuto e pesante - III.Allegro molto
戸外にて Sz.81 (1926) 15分
I.太鼓たたいて笛ふいて - II.舟歌 - III.ミュゼット - IV.夜の音楽 - V.狩
弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章〕(1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演) 23分
I.Allegro - II.Prestissimo, con sordino - III.Non troppo lento - IV.Allegretto pizzicato - V.Allegro molto
[Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]
東野珠実:《星筐IV Hoshigatami IV –Tokyo 2016.12.21.19:44 for Piano》 (2016、委嘱新作初演)
音楽の楽しみは、響きの宇宙に星座を見いだす歓びではないか、と私は考えます。『星筐』(ほしがたみ)は、このコンセプトをもとに創作した雅楽合奏のための作品にはじまり(平成十三年度国立劇場作曲コンクール第一位・文化庁舞台芸術創作奨励特別賞受賞)、以後、連作として様々な形態の表現を模索しています。
今回、大井浩明氏のピアノソロコンサートプロジェクト”POC”の第29回公演タイトルにちなんで、「先駆的」という創作のリクエストをいただき、古今東西の楽譜というメディアについて思考を巡らし、私なりに当代のアプローチを行うこととしました。
さて、先に“響の星座”という言葉を用いましたが、奈良で発掘されたキトラ古墳に記される星宿のように、古来、人々は無数の星々に意図的な縁を読み取り、天と人とのつながりに特別な思いを抱いています。かく言う私は古代より宇宙を表す音楽である雅楽の世界におりますが、本作のアイデアは、雅楽に出会うずっと以前、幼少期の記憶にさかのぼります。それは、まだ文字も書けない頃に初めて覚えた五線譜という記号の世界、そして、父の運転する自動車の窓から仰ぎ見る星空にいつも掛かっていた電線です。(身長100cmの視線は車窓を仰いで常に天空に向かっているのです (^_^)。すなわち、星空に向かって初めて覚えた“見立て”の技と、思考のフィルターを重ねて物事を観る楽しさ、喜びの感覚です。こんなことは皆が経験する些細な遊びですが、本作では、その遊びを当代のメディアに載せ替えて楽しんでみようという趣向です。
そこで、本年の冬至にあたる日時の星図に五線譜を重ね、大小の星々が音符として浮かぶよう作譜をし、《星座譜》と名付けました。複数の五線譜を重ね、透過して重なる音符の影をもって音の空間的な奥行きを表記する試みは笙と竽フためのMobius Link 1.1(1992年)という作品ですでに行っており、雅楽の文字譜に従って五線譜を縦に進行するルールなども指示しておりますが、当時、トレーシングペーパーなどを用いた透過表記の手法も、今や、コンピュータの画像処理によって簡単に実現することができます。もちろん、スタンダードな白黒の紙媒体の楽譜に落とし込むことを念頭にしつつも、現実の星々が夜空に色彩をもって大小に輝く姿も重要な演奏情報として取り入れることを意図し、CG画像表示メディア(iPad等)の併用を試み、表現方法の異なるレイヤーを行き来しながら演奏解釈のテーマ性、自由度を拡張させることを考えました。また、今回の星座譜においては、あえて譜表やテンポの指示もせず、多様な“見立て”が可能なよう、最低限のルールを配することとしました。
演奏とは、一種、奏者による音響情報処理の結果です。しかし、それは客観的に数値化された事象を処理する機械的な作業とはまるで異なり、奏者の技量や経験、思考によって常に新たに生み出される時間の造形です。一般に楽譜という時系列に基づいたスクロール系の表記法に対して、一面の地図を広げて冒険に乗り出すような、さらには宇宙のように、図上にまだ表されていないような発見のチャンスを期待させるような楽譜があったらとの思いを巡らせます。
さて、星図で設定した冬至は、天文学上は太陽黄経が270度になる瞬間を表し、いうまでもなく古代より様々な民族が重要視する暦の起点です。奏者が見出す音の星座を聴覚で観察し、時を満たす音の宇宙のなかで、おのおの“こころの筐(かたみ)に星をあつめて”いただければ幸いです。(東野珠実)
東野珠実 Tamami TONO, composer
国立音楽大学作曲学科首席卒業。慶應義塾大学大学院政策メディア研究科修了・義塾長賞受賞。ISCM、ICMC、国立劇場作曲コンクール第一位/文化庁舞台芸術創作奨励特別賞等受賞。雅楽を芝 祐靖、豊 英秋、宮田まゆみらに師事し、90年より笙奏者として国立劇場公演はじめ、タングルウッド音楽祭、ウィーンモデルン等、国内外の公演に参加。 Yo-Yo MA、坂本龍一らに招聘されるなど、創作・演奏を通じ国内外で多彩な活動を展開。雅楽演奏団体伶楽舎、現代邦楽作曲家連盟所属。
代表作:雅楽のための『星筺(ほしがたみ)』、国立劇場委嘱『月香楽』、JAXA宇宙文化プロジェクト『飛天』、東京国際フォーラム開館記念創作ミュージカル『モモ』、石川県白山市立白嶺小中学校校歌『水と光と大地』、浄土真宗本願寺派伝灯奉告法要音楽等。
CD『祝賀の雅楽』、『Breathing Media ~調子~』、雅楽古典曲笙調子全曲録音(平成23年度文化庁芸術祭参加作品)、John Cage『Two3,Two4』世界初全曲録音ほか。
音楽史の中のバルトーク ~後世への影響を中心に ───野々村 禎彦
バルトーク・ベーラ(1881-1945) は農業学校校長で音楽愛好家の父とピアノ教師の母の間に生まれ、幼時から音楽に親しんだ。父は32歳で早逝したが、母はピアノの才能に恵まれた息子を「天才少年」として売り出して生計を立てようなどとはせず、通常の教育を受けさせた。バランスの取れた教養を身に着けたことで、彼は多面的な人生を歩むことになった。
今日の視点からは、彼はまず作曲家である。ドイツ圏では「3大B」はJ.S.バッハ、ベートーヴェンとブラームスないしブルックナーだが、普遍的視点に立てば3人目はむしろバルトークが相応しい、と通俗的にも言われる。鍵盤楽器のための練習曲に注力した点ではバッハ、弦楽四重奏曲に注力した点ではベートーヴェンの後継者であり、姓がBで始まる(ハンガリー語の姓名の順は日本語と同じ)有名な作曲家というだけの19世紀後半のふたりとは格が違う、ということだ。ただし、「3大B」という発想自体がドイツ音楽影響圏に特有のものであり、このような見方は、米国や日本のようなこの文化圏の周縁諸国が、彼に「周縁代表」を仮託した結果なのだろう。
だが、同時代におけるバルトークは、まずハンガリーを代表するピアニスト=ピアノ教師であり、次いで民謡研究で名高い音楽学者であり、知る人ぞ知る作曲家だった。本日最初の曲《ラプソディ》(1904) は、彼の伝統的な作曲修行の集大成=作品1であり、そのピアノ協奏曲版(1905) を携えて同年のアントン・ルビンシテイン国際コンクールに参加した。作曲部門は奨励賞に留まったが(この曲ですら斬新すぎるとされる、19世紀後半を代表するヴィルトゥオーゾが始めたコンクールらしい基準)、ピアノ部門ではバックハウスと優勝を争った。当代随一の国際コンクール2位という輝かしい経歴を携えて、彼は1907年に母校ブダペスト音楽院ピアノ科教授に着任し、リリー・クラウス、シャーンドル・ジェルジ、アンダ・ゲーザ、フリッツ・ライナー、アンタル・ドラティらを輩出した。自作演奏とシゲティの伴奏を中心とするCD数枚分の録音を聴いても、「作曲家としては」という但し書きを全く必要としない、ラフマニノフに匹敵する20世紀前半を代表するピアニストだったことがわかる。
ただし、彼の意識の中では作曲と民謡研究は不可分の芸術行為であり、それと比べたらピアノ演奏や教育は生計を立てる手段にすぎなかった。1934年に科学アカデミー研究員として民謡研究に専念する職が提示されると、彼は喜んでピアノ科教授を辞している。その真意は、ナチスドイツの「頽廃音楽を排し国民音楽を称揚する」という方針に従って、民俗音楽研究を強化する一方で、不穏分子を音楽教育から遠ざけることだったのだが… 彼は祖国とナチスドイツとの関係が強まるにつれて亡命を考え始め、1939年に母を看取ってから亡命先に米国を選ぶ決め手になったのは、コロンビア大学の客員研究員としてハーヴァード大学の民俗音楽資料を分析する職が見つかったことだった。
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彼が独自性の高い作曲を始める契機になったのは、1906年からコダーイ・ゾルタン(1882-1967) と民謡収集を本格的に始めたことだった。翌年にコダーイ経由でドビュッシーの音楽を知り、民謡に見られる機能和声とは相容れない音組織が、ドビュッシー作品にも現れていることは啓示になった。民謡収集は近代化とともに失われてゆく過去を記録する学問的行為に留まらず、未来の音楽へ向かう道標にもなるということだ。オリジナル民謡に極力手を加えずに合唱曲や器楽曲に編曲することと、民謡から受けた霊感と同時代の音楽を融合した創作が、彼の音楽活動の両輪になった。前者の最初の代表作がピアノのための《子供のために》(1908-09)、後者の出発点が《14のバガテル》(1908) である。後者の作曲時点で彼が参照できたのは《版画》《映像》までのはずだが、この曲集には《子供の領分》《前奏曲集》を思わせる曲も含まれており、「その後のドビュッシー」をシミュレーションできるほど彼の理解は深かった。この曲集と《10のやさしい小品》(1908) でピアノ書法を掴むと、素材は民謡だが「ベートーヴェン第17番」のように響く弦楽四重奏曲第1番(1908-09) を挟んで、今度はドビュッシーの管弦楽書法を研究した。その成果が結実したオペラ《青髯公の城》(1911) の直後に書いた《アレグロ・バルバロ》(1911) は、音楽上の親殺しに他ならない。彼はドビュッシーを終生リスペクトし、《前奏曲集》全曲はピアニストとしてのレパートリーだった。米国議会図書館でのシゲティとのリサイタルでも、自作とともにドビュッシーのソナタを取り上げている。
今日では20世紀を代表するオペラのひとつに数えられる《青髯公の城》は、作曲の動機となったオペラのコンクールには入賞すらできず、コダーイと始めた新ハンガリー音楽協会のコンサートも、演奏水準も聴衆の反応も惨憺たるもので、早々に活動を休止した。失意の連続に作曲への意欲は失われ、ピアノ演奏と教授以外の時間は民謡収集と分析に専念する日々が続く。民謡研究を進めるうち、ハンガリー周縁部に残るルーマニア民謡やスロヴァキア民謡の方が、学問的にも音楽的にも興味深いことに気付き、あくまでハンガリー民謡に研究対象を絞ろうとするコダーイとの違いが鮮明になってきた。多地域の民謡の比較を進める中で,、1913年にはアルジェリアまで足を伸ばしている。だが、このような調査は第一次世界大戦が始まると困難になり(さらに大戦が終わると、ハンガリーは周縁部の領土の大半を失ったためより困難になり)、彼は作曲に復帰する。
《青髯公の城》は彼の創作史では突出して尖鋭的な作品のひとつで、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916)、弦楽四重奏曲第2番(1915-17) 等よりも後の作品にすら聴こえる。だが、《青髯公の城》初演と同年の《3つの練習曲》(1918) は一転して極めて無調的であり、無調以降のシェーンベルク作品研究を窺わせる。彼は民謡研究と同じスタンスで同時代の音楽も収集・分析し、創作に生かした。《中国の不思議な役人》(1918-19/24) は《練習曲》の延長線上にストラヴィンスキー《春の祭典》の色彩とリズムの実験、さらにディーリアス《人生のミサ》の声楽書法も加え、この時期のモダニズムの最良の成果が凝縮されている。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) も《練習曲》に連なる作品だが、今度は同一編成のシマノフスキ《神話》を参照している。このソナタ第1番のパリ初演にはラヴェル、シマノフスキ、ストラヴィンスキー、ミヨー、オネゲル、プーランクらが顔を揃え、バルトークも彼らと並ぶヨーロッパを代表する作曲家のひとりだと認知された。
《舞踏組曲》(1923/25) はブダペスト市制50周年記念式典の祝典曲であり、この時期には異質な民謡素材を素で用いた平明な組曲だが、彼が研究してきたハンガリー、ルーマニア、スロヴァキア、アラブの民謡を対等に並べ、右派ナショナリズムを掲げる当時の政権に異を唱えている。難航していた《中国の不思議な役人》の管弦楽化も済ませると(この際にストラヴィンスキーの新古典主義を研究した)ピアノ曲に集中的に取り組み、ピアノソナタ(1926)、《戸外にて》(1926)、ピアノ協奏曲第1番(1926) を一気に書き上げた。《ミクロコスモス》(1926/32-39) に着手したのもこの年だ。久々に作曲に集中すると創作意欲も高まり、弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) と、代表作が矢継ぎ早に生み出されてゆく。それまでの作品は、民謡素材と同時代の音楽語法を融合する手腕が聴き所だったが、この時期からは「バルトークがどのような語法を生み出したか」が聴き所になっている。また、弦楽四重奏曲第4番は抽象性では彼の頂点と看做される作品でもあり、ピアノ編曲は特に興味深い。
続けてヴァイオリンとピアノのための《ラプソディ》2曲(1928)、《カンタータ・プロファーナ》(1930)、ピアノ協奏曲第2番(1930-31) を書いたが、長年構想を暖めていた《カンタータ》以外はいずれもピアニストとしてのレパートリーを増やすことを意図していた(2曲のヴァイオリンソナタは技術的にも内容的にも高度で演奏者もプログラムも選ぶため、アンコールでも取り上げられる程度の曲が必要だった)。これは彼のピアニスト=作曲家としての名声が高まり、演奏機会が増えたことを反映している(ピアノ協奏曲の初演はいずれもフランクフルトで、第1番はフルトヴェングラー指揮、第2番はロスバウト指揮)。また民謡編曲によるヴァイオリン二重奏練習曲集《44の二重奏曲》(1931) もこの時期に書かれ、《ミクロコスモス》の作曲も1932年から再開した、
彼はストラヴィンスキーのように日課として作曲するタイプではなく、意欲の涌いた時に集中的に行うタイプだが、だからこそコツコツ積み上げる民謡分析の作業とは相補的で相性が良かった。彼の創作意欲に次に火が点くのは1934年、晴れてピアノ科教授を辞して民謡分析が本業になった時だ。弦楽四重奏曲第5番(1934)、《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936)、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) と、再び代表作が並ぶ。特に後2作を(後に《ディヴェルティメント》(1939) も)委嘱したパウル・ザッハーは、この時期の彼の創作を支えた人物である。ただしこの背景には、ナチスドイツが「頽廃音楽」の排斥を進めたため、中立国スイスでバーゼル室内管弦楽団を率いるザッハーからの委嘱の比重が相対的に高まったことがある。
《コントラスツ》(1938)、ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38)、《ディヴェルティメント》、弦楽四重奏曲第6番(1939) というヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。彼の母はハンガリーを離れることを拒み(弦楽四重奏曲第6番の作曲中に死去)、また収集した民謡資料のうちハンガリー民謡分は出版計画のため亡命前に分析を終える必要があり、亡命は1940年10月までずれ込んだ。彼には米国での生活は水が合わず、渡米直後に《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の協奏曲化を行った他は、作曲は全く進まなかった。ヨーロッパ時代のような著作権料収入と演奏活動を想定して、学問的関心を優先して低収入の非常勤職を選んだものの、米国が第二次世界大戦に参戦すると敵国になった祖国からの送金は途絶え、ピアノ演奏の機会も異国からの客人であった時ほどには得られず、生活は困窮してゆく。1943年に入ると白血病を発症して療養生活を余儀なくされ、絶望的な状況に向かうかに見えた。
だが、この期に及んで米国の音楽家たちが援助の手を差し伸べた。自尊心の高い彼は施しを嫌ったが、ブダペスト音楽院の後輩で米国社会に適応したライナーとシゲティは、ボストン交響楽団常任指揮者クーセヴィツキーを介し、新作委嘱の前渡金として当座の資金を渡すことに成功した。こうして生まれた《管弦楽のための協奏曲》(1943) は、顧みられることが減った新古典主義後期の華やかな作品群中では例外的に、今日でも20世紀音楽トップクラスのポピュラリティを保っている。久々に大管弦楽作品を書き上げて自信を取り戻し、メニューインの委嘱で書いた無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) は最後の代表作になった。シャリーノ《6つのカプリース》(1976) をはじめ、20世紀においても無伴奏ヴァイオリン曲の大半はパガニーニやイザイの流れを汲むヴィルトゥオーソ小品だが、この作品はJ.S.バッハ直系の潜在ポリフォニー上に緻密に構築された大曲であり、中期を特徴付ける特殊奏法と後期を特徴付ける微分音が現代的な色彩を添えている。
弦楽四重奏曲第7番、2台ピアノのための協奏曲(いずれも計画のみ)、ヴィオラ協奏曲(辛うじて補筆完成可能な草稿まで)など彼は多くの委嘱を受けたが、それよりも妻ディッタのためのピアノ協奏曲第3番(1945) を優先し、死の床で17小節のオーケストレーションのみを残すまで仕上げた。彼には珍しいシンプルで透明な音楽は、妻がソリストを務めることを前提にしたためでもあろうが、このような宗教的な簡素さは、《ミクロコスモス》の最良の数曲にも既に現れていた方向性であり、彼にあと数年の時間が残されていれば、この方向での探求をさらに深めていたかもしれない。 (つづく)