(承前)
最も本質的な「先駆者」は、その音楽に触れた途端に後継者たちの音楽が一変し、一流の作曲家が誕生するような存在だろう。20世紀においてドビュッシーはまさにそのような位置にあり、今回のPOCシリーズは、アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを通じてそれを確認する場でもある。そのような奇跡が、存命中にほぼリアルタイムで相次いで起こったのは凄まじい。これは機能和声の限界が露わになった時代に、音組織の革新がただちに啓示を与えたということだが、死後半世紀近くを経て総音列技法の限界が露わになった時代に、今度は音色の漸進的変化を推進力にした形式の自由という側面が注目され、トーン・クラスターに基づく直観的構成という新たな潮流を生んだ。
バルトークの影響はそこまで即時的ではなく、広範な影響は専ら彼の死後に現れたが、これは彼が作曲家として活躍した時期は戦間期の享楽主義がファシズムの台頭で一変した(両者はコインの裏表であり、世界大恐慌を契機に反転したに過ぎない)時期だったという時代背景も大きい。第二次世界大戦終結までは、新たな音楽的探求が行われる余裕はなかった。また、揺籃期には新しい動きは即座に注目されるが、安定期にはわかりやすい看板がないと認知には時間がかかる。ドビュッシーの場合も、彼のより本質的な特徴が周知されるまでには半世紀近い時間を必要とした。
バルトークの音楽は普遍性志向で特徴付けられるが、普遍的なものはパーツを取り替えれば幅広く応用できる。バルトークが作曲の素材にした民謡はハンガリー周辺のものに限られるが、その方法論は普遍的なので影響は世界各地に広がった。日本民謡を素材にした間宮芳生《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は国際的にもその代表であり、狭義の民謡に留まらない間宮の関心は、同時期にベリオらが始めた前衛的な声の技法探求の中でも色褪せない強度を持っていた。また、他の方法論との組み合わせも応用の一種であり、柴田南雄は同じく日本民謡を素材にしながら、シアターピースの手法と組み合わせることで、《追分節考》(1973) に始まる代表作群に至った。
このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。ハンガリー時代の《ムジカ・リチェルカータ》(1951-53) と《ミクロコスモス》、弦楽四重奏曲第1番(1953-54) とバルトークの第2番の関連は既に明らかだが、西側亡命後は置き換えと組み合わせの妙を駆使して、バルトークの音楽を前衛の最前線に生まれ変わらせた。《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の第1楽章を半音階堆積に圧縮したのが、リゲティ流トーン・クラスターの「ミクロポリフォニー」書法であり、バルトークの弦楽四重奏曲第4番をミニマル音楽などの同時代の語法を導入して換骨奪胎したのが、リゲティの第2番(1968) である(全5楽章の性格まで対応している)。後期バルトークは民謡分析を精密化する過程で、自作でも微分音程を使うようになったが、《マジャール・エチュード》(1983) 以降のリゲティも、米国実験音楽の純正律探求も横目に見ながら音律探求を深めていった。
総音列技法が特権的な地位を占めていた戦後前衛前半には、弦楽四重奏のような「因襲的な編成」は忌避されたが、トーン・クラスター様式の台頭とともにこの傾向も見直され、この様式を主導したポーランド楽派の作曲家たち=ペンデレツキ(1960, 1968) やルトスワフスキ(1964) が弦楽四重奏曲でモデルにしたのもバルトークだった。またポール・グリフィスがバルトーク伝で指摘する通り、一見バルトークと縁遠そうな総音列技法を代表する作曲家たちも例外ではない。シュトックハウゼンの前期代表作《コンタクテ》(1959-60) のピアノと打楽器を伴う版の楽器法は、学位論文で分析した《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の記憶の賜物であり、ブーレーズが活動の中心を作曲から指揮に移した後の《エクラ/ミュルティプル》(1965/70) や《レポン》(1981-84) の楽器法は、指揮者ブーレーズの重要レパートリー《中国の不思議な役人》や《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の子孫である。
ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3・4・5・6番のヴァリアントとみなせる。あるいは、80年代を代表する弦楽四重奏曲でバルトークへの紐付けが難しいのは、フェルドマン第2番(1983) とW.リーム第6番(1984) 程度である。
この種の議論はアナロジーの罠にすぎないかもしれないが、前衛の時代を代表するピアノ曲であるブーレーズの第2ソナタをベートーヴェンのソナタ第29番に、バラケのソナタを第32番に結びつける議論が可能ならば、バルトークの弦楽四重奏曲でも同様の議論は可能だろう。人間が想像し得る類型には限りがあり、それをほぼ尽くした創造者には、ジャンルによらずこのようなことは起こり得る。この側面からも、バルトークを「3大B」のひとりに数えることには本質的な意味がある。
クルターグ+リゲティ/バルトーク:三人の作曲家の生地を巡る(注1)───伊東信宏
最初に、タイトルに挙げた三人の作曲家の生没年を確認してみよう。クルターグ・ジェルジ Kurtág Györgyは一九二六年生まれで現在フランス在住、リゲティ・ジェルジLigeti Györgyは一九二三年生まれで二〇〇六年にウィーンで亡くなり、そして一世代上のバルトーク・ベーラBartók Bélaは一八八一年生まれで一九四五年にアメリカで亡くなっている。三人とも各々の世代において世界的に見ても十本の指に入るくらい重要な作曲家であった、と言ってよい。クルターグとリゲティは第二次世界大戦後、バルトークに師事したくてブダペストのリスト音楽院の作曲科を目指したのだが、ちょうど彼らの入学試験の日にバルトークがアメリカで亡くなったという報せがハンガリーに届き、音楽院には弔旗が掲げられていた、というから、この三人が一堂に会したことはない。ただしバルトークが、この二人の作曲家に与えた影響は計り知れない。それはたとえばリゲティが学生時代に書いた「行進曲」という連弾曲を一瞥するだけでも明らかだろう。この曲は、バルトークの『ミクロコスモス』第六巻第一四七番「行進曲」に不気味なほど(注2)似ている。クルターグも事情は似たようなもので、彼の初期の大作、ヴィオラ協奏曲などは、バルトークの管弦楽曲そっくりの響きがする。パーソナリティの点では、あるいはクルターグの方こそバルトークにより親和性があり、より決定的な影響を受けたと言えるかもしれない。しかもクルターグとリゲティは、学生時代以来、無二の親友だった。彼ら相互の影響も大きい(注3)。この三人の音楽的影響関係というのは、一冊の本のテーマにもなるような問題であり、今ここで深く立ち入ることはできない。ただ三人ともハンガリー語を母語とし、同じブダペストの音楽院出身であり、二〇世紀ハンガリーを代表する作曲家ということになっているのに、その生地はハンガリーではなく、現在の地図で言えばルーマニアにある。ここで述べようとしているのは、その三つの生地を巡った旅(二〇一〇年の夏)に関する雑記である。
三カ所ともルーマニアの北西部にあり、それほど離れていない。まずは筆者にとってもなじみのあるハンガリーのブダペストに入り、東駅発のECで国境を超えてトランシルヴァニアの中心都市、クルージ・ナポカへ。そこで案内をお願いしたT君(彼は当時ブカレスト大学の学生だった)の車で、東からトゥルナヴェニ(リゲティの生地)、ルゴジ(クルターグの生地)、そしてサンニコラウマレ(バルトークの生地)と回って、オラデアでまたブダペスト行きの列車を捕まえる、という旅である。
1 リゲティの生地:トゥルナヴェニ(ディチョーセントマールトン)
リゲティの生地トゥルナヴェニは、クルージから見ると南東の方向に約百キロほど。リゲティが生まれる数年前まではハンガリー王国(正確に言うと、オーストリー=ハンガリー二重帝国の中のハンガリー王国側)の領土であり、ハンガリー語ではディチョーセントマールトンと呼ばれていた。街と言っても人口2万6千人。メインストリート1本とそれに交差する何本かの道で終わってしまう、小さな町だ。
実は、リゲティの生まれた家が正確にどこにあるかについては、あまり情報がなかった。ほとんど唯一の手がかりは、以前に見た「ジェルジ・リゲティ・ポートレート」(M・フォラン監督、一九九三年)という映画である。この映画の中で、リゲティが自分の生まれた場所を撮ってきた映像を見入る、というシーンがある。そこに、たしかシナゴーグらしき建物が写っていたのだが、とりあえずそれだけをたよりに町を探ってみよう、というのが出発前のいい加減な方針だった。クルージからは、車で行けば1時間ほどで着いてしまう。
さて、町に着いたが、どうしよう?実は、リゲティほどの世界的人物なのだから、いくらユダヤ系でハンガリー語が母語であった(つまりルーマニア側ではなくハンガリー側の人間だった)とはいえ、この町が生んだ人物として、記念館とは言わないまでも多少は顕彰したりしているか、と思っていたら、これはほとんど見込みがなさそうだ。町行く人に尋ねてみるが、反応が悪い。現代音楽の作曲家のことなんて知るわけないじゃないか、という顔をされる。やはり手がかりはシナゴーグしかない。と思って、今度はかつてこの町にシナゴーグがあった場所を知らないか、と聞いてみる。何人目かのおばさんが、ああ古い教会ならその建物の陰にあるわよ、と車を停めたすぐ向かい側のビルを指す。通りに面して建っているのは殺風景なアパートみたいな建物だが、その開口部から向こう側を見ると、確かになにやらそれらしき建物がある。だが、偶然車を停めた場所のすぐ前だなんて、トランシルヴァニアでそんなに調子の良く話が進むはずがない、と思って半信半疑でそのいわくありげな建物の方に近寄って行くと、今まさにその門を閉めて、そこから帰ろうとしているおじさんがいる。そのおじさんに、この建物は昔のシナゴーグか、と聞くと「イエス」。それではこの近くにリゲティという作曲家が生まれた家があるのではないか、というと、ちょっと目の色が変わってきて「そのとおり」。実は日本から、そのリゲティの生家を見たいと思って来たのだ、というと、おおそれならこの建物の中に少し資料があるから一度入って見て行きなさい、と言っておじさんは改めて鍵を開けてくれた。おじさんは、この建物の管理者で、草刈りをすませて、今まさに帰ろうとしていたところだった。幸運だった。
さて、そのおじさんにしたがって、薄暗い建物に入れてもらい、二階のバルコニーのようなところに登ると、壁一面に古びた新聞記事や写真が貼ってあり、そして民族衣装や古い道具などが置いてある。それから祭壇らしきものが一揃いあって、これはこの建物がかつて教会として使われていたときには一階にしつらえてあった、とのこと。今は文化会館のようなものとして使われているので、祭壇は今のところここに置いてあるらしい。いつかちゃんと復元したいと思って置いてあるのだそうだが、このうらぶれた建物を見ていると、そういう日が来るのかどうか、ちょっと心もとない。
しばらくおじさんの演説を聞く。すぐそばに居て聞いているのに、おじさんは建物中に響き渡る大声で説明してくれる。が、ルーマニア語なので、T君が小さな声で英語に訳してくれる。T君が訳し終わるのを待ちきれずに、おじさんはますます大きな声で大汗をかきながら説明してくれる。そのやりとりの方が面白くて話はあんまり頭に入ってこない。
町には、世紀転換期には八〇〇ものユダヤ人の家族が住んでいたらしい。一九一〇年当時のこの町の人口は4千4百人程度、というから、そこから考えるとかなりの比率である。先にも述べたように、その頃、トランシルヴァニアは、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー側に属していたから、人口はハンガリー系、ルーマニア系、ゲルマン系、ユダヤ系などの人々から成っていたはずだが、町の中心部の商店はほとんどすべてユダヤ人たちが経営していた。リゲティのお父さんは、銀行の支店長だったのだから、こういう商人たちを相手にしていた、ということになる。
その後、第一次大戦を境に町はルーマニア領となり、その後のユダヤ人迫害で町のユダヤ人社会もほぼ壊滅し、一九八五年、ついに最後の四人のユダヤ人達が町を去って、この町のユダヤ人人口はゼロとなった。おじさんは、そのことを伝える新聞記事を見せてくれる。だからおじさん本人はユダヤ教徒ではない。この建物の前に建っている殺風景なビルは、社会主義時代のもので、シナゴーグを大通りから見えなくするために建てられた、とのことだ。ちなみにリゲティ自身は、六歳までこの街に暮らし、その後クルージに引っ越している。
リゲティの生家は、このシナゴーグの隣の隣。今は別の人が住んでいるらしい。それが分かったからといって、どうというわけではないのだが、ただ彼自身の主張を鵜呑みにして、彼の幼年時代がユダヤ教やユダヤ文化と全く無縁だった、と言って良いのかどうか、ちょっと疑わしくなった。
帰り道、この町のかつての住人だったユダヤ人たちのお墓がある、というので町の墓地を探してみる。人口数万の町の墓地にしてはやけに広大である。いろんな人にたずねて、T君と汗だくになって、墓地を駆け回るが見つからない。あまり手入れする人もないらしく、道もついていないし、やけに高低差がある。墓石を踏み台にして(バチ当たりなことだけれど)、ほとんど道なき道をよじ登ったが、ついにユダヤ教徒の墓地は見つからなかった。
2 クルターグの生地:ルゴジ
続いてクルターグの生地ルゴジ。ここもかつてのハンガリー領で、その頃の名はルゴシュ。クルージから、今度は西の方向に約二七〇キロ。車で4時間以上かかる。ちなみにドラキュラを演じて有名になったベラ・ルゴシは、この街に生まれたハンガリー系の俳優で、苗字ルゴシは街の名から取られた芸名である。
今回は、降矢美彌子さんの紹介で、案内してくれるコンスタンティン・スタンさんが居るので、生家を探したりする必要はない。街の中心部で、スタンさんと落ち合う。会った途端、まずは街の歴史的建物を案内しよう、とスタンさんは先に立って歩き出す。エネスクが客演したという劇場、由緒正しいホテル・ダキアなど。街の中央にティミシュ川が流れていて、かつてその右岸はルーマニア側ルゴジ、左岸はドイツ側ルゴジと呼ばれた。二〇世紀はじめには街の人口はルーマニア系、ハンガリー系、ゲルマン系がほぼ三分していたが、第一次大戦後はルーマニア領となって、ルーマニア系が優勢になり(クルターグが生まれたのはこの頃である)、現在では3万8千人の人口の9割近くをルーマニア系が占めている。川にかかる橋の両側には綺麗に花が植えられており、なかなか瀟酒な街だ。街並は、前述のトゥルナヴェニに比べるとずっとしっかりしており、十八、十九世紀頃の建物に混ざって、世紀末のアールヌーヴォー風の建物も見える。
次に向かったのが、クルターグの生家。今は人手に渡っていて中は見られなかったが、門の上には扇型の模様が彫られており、メノーラー(七枝燭台)を表しているようだ。つまり、この家がかつて、ユダヤ教徒の手によって建てられたものであることははっきりしている。後でクルターク家の墓も見せてもらったが、この墓地は門にダビデの星が描いてあるかなり本格的なユダヤ人墓地であり、墓にもヘブライ文字が彫られていた。ちなみにクルターグ本人は、子供の頃に将来を慮った両親によってキリスト教に改宗しており、ユダヤ教徒ではない。
その後、クルターグ家が移り住んだ家も見せてもらった。こちらも人手に渡っているのだが、スタンさんがあらかじめ連絡してくれていたので、中にも入れてもらえた。中庭のある立派な家で、なかなかの資産家だったようにも思われる。
この街でとりわけ美しい邸宅(日本で言えば、最近流行のゲストハウス式の結婚式場のような華美な建物)は、最近ロマの所有になった、とのこと。ロマの中には経済的に成功して、こういう邸宅を購入する人たちがいるらしい。またこの街に来る途中の街道沿いに、突然大阪城のような不思議な大建造物が現れて驚いたのだが、これもロマの持ち家なのだ、とか。これは一部では有名で、ネットで調べてみると中に入れてもらった日本人のレポートなども見ることができる。ただ、こういう建物について説明するルーマニア人たちは極めて冷淡で、奴らは何で稼いだかわからないような金であんな綺麗な建物を買って、裏にテントを張って暮らしてるんだ、というようなことを平気で言う。ルーマニアのロマ問題は、今も深刻である。
3 バルトークの生家:スンニコラウマーレ
そしてバルトークの生地、スンニコラウマーレ。バルトークが生まれた一八八一年当時には、ハンガリー領で、ナジセントミクローシュという名だった。このハンガリー名も、そして当時人口の4割を占めていたゲルマン系によるグロス・ザンクト・ニコラウスという名も、現在のルーマニア名も聖ニコラウス、つまりサンタクロースを指している(この街で見つかった聖ニコラウスの秘宝に由来するらしい)。ゲルマン系というのは、いわゆるドナウシュヴァーベンと呼ばれた人々で、十八世紀末にハプスブルク宮廷が奨励して、この地域に移動させた農民たちの末裔である。第一次大戦までの人口構成はゲルマン系4割、ルーマニア系3割、ハンガリー系1割といった比率だったが、上記二つの都市と同じく、ルーマニア領になってからはルーマニア系が漸増し、現在では1万2千人ほどの人口のうち、ルーマニア系が8割近くを占めるようになり、ゲルマン系はほとんど居なくなった(ハンガリー系は変わらず1割程度)。今回巡った三つの街の中では一番人口が少ないのだが、インフラはずいぶん大掛かりで、少なくとも最初のトゥルナヴェニよりは大きな街、という印象がある。人口推移からすると、先ほども述べたように、トゥルナヴェニの一九一二年における人口が4千4百人だったのに対し、ルゴジは一九二〇年で2万1千人、スンニコラウマーレは同年で1万2千人と古くから今とあまり変わらない人口を持っていた。トゥルナヴェニはこれらの中では新興都市だということがよくわかる。
さすがにバルトークともなると、ハンガリー系であるとはいっても、いくつか記念碑めいたものがある。まず町外れにある塑像。抽象的な造形の上に、バルトークの頭部が載っており、足下にはルーマニア語、ハンガリー語、ドイツ語でバルトークの生没年などが記されている。
また生家の建っていた場所には、プレートがあって、これはルーマニア語とハンガリー語でバルトークの生家がこの場所に建っていたことが記されている。そして街の博物館には、バルトーク記念室という常設展示があって、一応彼の事蹟を辿ることができる。彼の両親の写真からはじまり、生家の写真、学校の成績表などが掲げられている。少し面白かったのは、この地域でバルトークが行った民謡調査に関する資料で、どの村で調査を行なった、とか、どんなノートをとったか、といったことが紹介されている。しかし、概してあまり徹底性はない。ブダペストのバルトーク資料館(科学アカデミー音楽学研究所に付設されている)や記念館(彼が最後に住んでいた家)における、最先端の研究を反映したやる気満々の展示には比べるべくもない。この温度差は、もちろんこれ自体研究に値する問題だろう。
ちなみにバルトークの父親は、この地の農業学校の校長だったのだが、バルトークが八歳の頃に若くしてなくなり、以後はやはり教師だった母親が一家の収入を支えた。彼女は条件の良い職場を求めて、当時のハンガリー王国の周辺部を点々としており、幼いバルトークも(そして彼の母親代わりとなった祖母や叔母たちも)これに伴って様々な地方都市に移り住んだ。バルトークがここに住んだのは、だから九歳の頃までのことである。
* * *
これら三人の作曲家が、こういう土地で生まれ、こういう家に育った、という背景は直接何かを明らかにしてくれるわけではないけれど、彼らの創作の跡を辿っているときに彼らが「やりそうなこと」と「やりそうもないこと」との区別を判断する材料にはなってくれそうな気がする。筆者が旅しているときにアテにしていたのは、それくらいのたよりないメリットだ。彼らの作品同士の相互作用については、いつかまた稿を改めて。〔初出/『アリーナ』第16号、2013年、中部大学/風媒社、pp.302-308〕 (脚注)

バルトークの影響はそこまで即時的ではなく、広範な影響は専ら彼の死後に現れたが、これは彼が作曲家として活躍した時期は戦間期の享楽主義がファシズムの台頭で一変した(両者はコインの裏表であり、世界大恐慌を契機に反転したに過ぎない)時期だったという時代背景も大きい。第二次世界大戦終結までは、新たな音楽的探求が行われる余裕はなかった。また、揺籃期には新しい動きは即座に注目されるが、安定期にはわかりやすい看板がないと認知には時間がかかる。ドビュッシーの場合も、彼のより本質的な特徴が周知されるまでには半世紀近い時間を必要とした。

このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。ハンガリー時代の《ムジカ・リチェルカータ》(1951-53) と《ミクロコスモス》、弦楽四重奏曲第1番(1953-54) とバルトークの第2番の関連は既に明らかだが、西側亡命後は置き換えと組み合わせの妙を駆使して、バルトークの音楽を前衛の最前線に生まれ変わらせた。《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の第1楽章を半音階堆積に圧縮したのが、リゲティ流トーン・クラスターの「ミクロポリフォニー」書法であり、バルトークの弦楽四重奏曲第4番をミニマル音楽などの同時代の語法を導入して換骨奪胎したのが、リゲティの第2番(1968) である(全5楽章の性格まで対応している)。後期バルトークは民謡分析を精密化する過程で、自作でも微分音程を使うようになったが、《マジャール・エチュード》(1983) 以降のリゲティも、米国実験音楽の純正律探求も横目に見ながら音律探求を深めていった。

ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3・4・5・6番のヴァリアントとみなせる。あるいは、80年代を代表する弦楽四重奏曲でバルトークへの紐付けが難しいのは、フェルドマン第2番(1983) とW.リーム第6番(1984) 程度である。

クルターグ+リゲティ/バルトーク:三人の作曲家の生地を巡る(注1)───伊東信宏

三カ所ともルーマニアの北西部にあり、それほど離れていない。まずは筆者にとってもなじみのあるハンガリーのブダペストに入り、東駅発のECで国境を超えてトランシルヴァニアの中心都市、クルージ・ナポカへ。そこで案内をお願いしたT君(彼は当時ブカレスト大学の学生だった)の車で、東からトゥルナヴェニ(リゲティの生地)、ルゴジ(クルターグの生地)、そしてサンニコラウマレ(バルトークの生地)と回って、オラデアでまたブダペスト行きの列車を捕まえる、という旅である。
1 リゲティの生地:トゥルナヴェニ(ディチョーセントマールトン)
リゲティの生地トゥルナヴェニは、クルージから見ると南東の方向に約百キロほど。リゲティが生まれる数年前まではハンガリー王国(正確に言うと、オーストリー=ハンガリー二重帝国の中のハンガリー王国側)の領土であり、ハンガリー語ではディチョーセントマールトンと呼ばれていた。街と言っても人口2万6千人。メインストリート1本とそれに交差する何本かの道で終わってしまう、小さな町だ。
実は、リゲティの生まれた家が正確にどこにあるかについては、あまり情報がなかった。ほとんど唯一の手がかりは、以前に見た「ジェルジ・リゲティ・ポートレート」(M・フォラン監督、一九九三年)という映画である。この映画の中で、リゲティが自分の生まれた場所を撮ってきた映像を見入る、というシーンがある。そこに、たしかシナゴーグらしき建物が写っていたのだが、とりあえずそれだけをたよりに町を探ってみよう、というのが出発前のいい加減な方針だった。クルージからは、車で行けば1時間ほどで着いてしまう。


しばらくおじさんの演説を聞く。すぐそばに居て聞いているのに、おじさんは建物中に響き渡る大声で説明してくれる。が、ルーマニア語なので、T君が小さな声で英語に訳してくれる。T君が訳し終わるのを待ちきれずに、おじさんはますます大きな声で大汗をかきながら説明してくれる。そのやりとりの方が面白くて話はあんまり頭に入ってこない。
町には、世紀転換期には八〇〇ものユダヤ人の家族が住んでいたらしい。一九一〇年当時のこの町の人口は4千4百人程度、というから、そこから考えるとかなりの比率である。先にも述べたように、その頃、トランシルヴァニアは、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー側に属していたから、人口はハンガリー系、ルーマニア系、ゲルマン系、ユダヤ系などの人々から成っていたはずだが、町の中心部の商店はほとんどすべてユダヤ人たちが経営していた。リゲティのお父さんは、銀行の支店長だったのだから、こういう商人たちを相手にしていた、ということになる。
その後、第一次大戦を境に町はルーマニア領となり、その後のユダヤ人迫害で町のユダヤ人社会もほぼ壊滅し、一九八五年、ついに最後の四人のユダヤ人達が町を去って、この町のユダヤ人人口はゼロとなった。おじさんは、そのことを伝える新聞記事を見せてくれる。だからおじさん本人はユダヤ教徒ではない。この建物の前に建っている殺風景なビルは、社会主義時代のもので、シナゴーグを大通りから見えなくするために建てられた、とのことだ。ちなみにリゲティ自身は、六歳までこの街に暮らし、その後クルージに引っ越している。

帰り道、この町のかつての住人だったユダヤ人たちのお墓がある、というので町の墓地を探してみる。人口数万の町の墓地にしてはやけに広大である。いろんな人にたずねて、T君と汗だくになって、墓地を駆け回るが見つからない。あまり手入れする人もないらしく、道もついていないし、やけに高低差がある。墓石を踏み台にして(バチ当たりなことだけれど)、ほとんど道なき道をよじ登ったが、ついにユダヤ教徒の墓地は見つからなかった。
2 クルターグの生地:ルゴジ
続いてクルターグの生地ルゴジ。ここもかつてのハンガリー領で、その頃の名はルゴシュ。クルージから、今度は西の方向に約二七〇キロ。車で4時間以上かかる。ちなみにドラキュラを演じて有名になったベラ・ルゴシは、この街に生まれたハンガリー系の俳優で、苗字ルゴシは街の名から取られた芸名である。


その後、クルターグ家が移り住んだ家も見せてもらった。こちらも人手に渡っているのだが、スタンさんがあらかじめ連絡してくれていたので、中にも入れてもらえた。中庭のある立派な家で、なかなかの資産家だったようにも思われる。

3 バルトークの生家:スンニコラウマーレ
そしてバルトークの生地、スンニコラウマーレ。バルトークが生まれた一八八一年当時には、ハンガリー領で、ナジセントミクローシュという名だった。このハンガリー名も、そして当時人口の4割を占めていたゲルマン系によるグロス・ザンクト・ニコラウスという名も、現在のルーマニア名も聖ニコラウス、つまりサンタクロースを指している(この街で見つかった聖ニコラウスの秘宝に由来するらしい)。ゲルマン系というのは、いわゆるドナウシュヴァーベンと呼ばれた人々で、十八世紀末にハプスブルク宮廷が奨励して、この地域に移動させた農民たちの末裔である。第一次大戦までの人口構成はゲルマン系4割、ルーマニア系3割、ハンガリー系1割といった比率だったが、上記二つの都市と同じく、ルーマニア領になってからはルーマニア系が漸増し、現在では1万2千人ほどの人口のうち、ルーマニア系が8割近くを占めるようになり、ゲルマン系はほとんど居なくなった(ハンガリー系は変わらず1割程度)。今回巡った三つの街の中では一番人口が少ないのだが、インフラはずいぶん大掛かりで、少なくとも最初のトゥルナヴェニよりは大きな街、という印象がある。人口推移からすると、先ほども述べたように、トゥルナヴェニの一九一二年における人口が4千4百人だったのに対し、ルゴジは一九二〇年で2万1千人、スンニコラウマーレは同年で1万2千人と古くから今とあまり変わらない人口を持っていた。トゥルナヴェニはこれらの中では新興都市だということがよくわかる。

また生家の建っていた場所には、プレートがあって、これはルーマニア語とハンガリー語でバルトークの生家がこの場所に建っていたことが記されている。そして街の博物館には、バルトーク記念室という常設展示があって、一応彼の事蹟を辿ることができる。彼の両親の写真からはじまり、生家の写真、学校の成績表などが掲げられている。少し面白かったのは、この地域でバルトークが行った民謡調査に関する資料で、どの村で調査を行なった、とか、どんなノートをとったか、といったことが紹介されている。しかし、概してあまり徹底性はない。ブダペストのバルトーク資料館(科学アカデミー音楽学研究所に付設されている)や記念館(彼が最後に住んでいた家)における、最先端の研究を反映したやる気満々の展示には比べるべくもない。この温度差は、もちろんこれ自体研究に値する問題だろう。

* * *
これら三人の作曲家が、こういう土地で生まれ、こういう家に育った、という背景は直接何かを明らかにしてくれるわけではないけれど、彼らの創作の跡を辿っているときに彼らが「やりそうなこと」と「やりそうもないこと」との区別を判断する材料にはなってくれそうな気がする。筆者が旅しているときにアテにしていたのは、それくらいのたよりないメリットだ。彼らの作品同士の相互作用については、いつかまた稿を改めて。〔初出/『アリーナ』第16号、2013年、中部大学/風媒社、pp.302-308〕 (脚注)