大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
〔ポック[POC]#31〕2017年2月19日(日)17時開演(16時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
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《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ――たった二単語、九音節であるが、最も果敢なピアニストが恐れをなすに充分である。ラテン語でいかめしく見える曲題は、単に「鍵盤作品」という拍子抜けする意味でありながら、まさに前例の無い規模と熱意を備えた、現代のピアノのための巨大な投企である。
一方、意外にもこれらの活動はソラブジを作曲行為へとは駆り出さなかった。天才少年ではなかったので、現在知られる最初の作品の日付は1915年であり、そのとき彼は既に22歳であった。(もっとも、ベートーヴェンでさえ、幼少時より相当量の作曲を行なっていたにも関わらず、20代前半になるまで出版作品は限られたものだった。)
ピアノという楽器には、明らかに初期から変わらぬ愛着を持っていた。ほぼ70年に及ぶ作曲活動において、ほとんど全ての作品がピアノのために書かれた。おおよそ100時間以上に及ぶピアノ音楽は、メシアンと並んで20世紀における最も意義ある貢献の一つとなっている。
このスコットランドの三人組は、ソラブジの音楽と文章を絶賛したため、ソラブジは新たな創造の高みへと大いに鼓舞された。チザムは三人の中ではぐっと年少が、間違いなくスコットランドが輩出したもっとも野心的な音楽家の一人であった。ソラブジの公開演奏を尻込みさせることなく、1930年代の活動を成功裡に乗り切らせたのは、顕揚に価する。終始忍耐強くまた決然と、現代音楽普及協会を立ち上げ、1929年から1937年まで意義深い連続公演を組織し、ヨーロッパの主要作曲家をグラスゴーに招いて、彼らの作品を演奏し意見を交わした。その中にはバルトーク、シマノフスキ、ヒンデミット、メットネルら名士も含まれた。不思議なことに、ソラブジは他のどの作曲家よりも多く演奏を行い、3作品の初演を含む4公演が特集された。1930年の最初の登場で、ソラブジは2時間以上かかる彼の第4ソナタを弾き、聴衆の耳目を集めた(再演は2002年のジョナサン・パウエルまで無かった)。当時、彼は最も野心的な作品である《オルガン交響曲第二番》に取りかかっていた。ソラブジの演奏家としての活躍を今一度担保し、スコットランドの聴衆にその音楽の真価を知らしめるために、チザムはさらに充実した作品を書くようソラブジを励ました。1929年9月、ソラブジは《オルガン交響曲第二番》をいったん中断し、多楽章のピアノ独奏曲を書き始めた。当初はOpus Sequentialeと呼ばれたその作品は、筆を進めるつれOpus Clavicembalisticum (以下OC)と改題された。わずか9ヶ月で脱稿したにも関わらず、その時点で彼の最長のピアノ曲であり、作曲人生の里程標となった。
OCの初演計画はただちに実行され、1930年12月、グラスゴーでソラブジは全曲を演奏した。聴衆の反応が賛否両論であったことは避けがたかった。その演奏時間の長さ、付き合いがたさ、語法の難解さは、聴衆の注意をはね付けるものの、確かに一つの偉業であると論評された。ソラブジは自筆譜を見ながら演奏した。浄書出版はその翌年で、爾後OCの全曲あるいは抜粋演奏は、すべてこの1931年の浄書譜によるものである。目下、新しい校訂譜が準備中である。
作曲家ピーター・マクスウェル・デイヴィス(1934-2016)は、1955年頃にOCの最初の2つの楽章を管弦楽用に編曲したが、不幸にもその所在は不明である。ピアニスト、ジョン・オグドン(1937-1989)は、1950年代半ばにデイヴィスからOCの存在を知らされ、生涯を通じて魅了され続けた。50年代末にバーゼルでオグドンはエオン・ペトリに師事した。オグドンとペトリがOCについて議論したかどうかはっきりしないのは無念だが、ソラブジが述懐するところでは、ペトリはオグドンがかつて教えた中で最も才能のある弟子であると保証し、できるだけ早く演奏を聴くように促したと云う。1959年、スコットランドの作曲家・ピアニスト、ロナルド・スティーヴンソン(1928-2015)の私邸で、オグドンはOCを試演し、その際の数少ない聴衆にはスティーヴンソンの他、被献呈者ヒュー・マクダーミッドも含まれていた。その翌年、ロンドンでオグドンは初めて、そしてただ一度、ソラブジに会うことになる。
1980年、オーストラリア人ピアニストのジェフリー・ダグラス・マッジが、移住先のオランダで4公演にわたって最初の2つの楽章を演奏した後、1982年にオランダ・フェスティヴァルの一環としてユトレヒトで全曲を通奏した。初演から半世紀を経た最初の公開上演は、3部の間の休憩を含めてすべてラジオで生放送され(!)、深夜の天気予報を1時間遅延させた。最終番組の代わりに、OCの第二カデンツァ、第四フーガ、終結部 - ストレッタと盛大な拍手を聞かされたリスナーの反応は不詳である。この演奏は、今は無きオランダRCSレーベルから、4枚組LPとして発行された。
この作品の全曲演奏に挑んだ4番目のピアニストはジョナサン・パウエル(1969- )である。現在まで4回を数えるその演奏の第1回は、パークレーン・グループに協賛され、サウス・バンクセンターのパーセルルームで行なわれた。パウエルはそれまでに、Altarusレーベルにソラブジの様々なピアノ作品の録音を手がけていた。他の同僚を大きく引き離して、パウエルは多くのソラブジ作品を演奏・録音しており、また彼はその浄書作業にも従事している。
《オルガン交響曲第一番》(1923-24)をもって、ソラブジはこの種の多楽章の大規模作品の嚆矢と成し、そのジャンルに半世紀後の《ピアノ交響曲第6番》まで拘り続けた。同曲を完成するまでに、彼は《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》(1923-26)となる作品も併行していた(1940年代後半に書かれ、エゴン・ペトリに献呈された同じく「怒りの日」による、より大規模な《Sequentia Cyclica》とは別作品である)。この変奏曲は、彼のヒーローであるブゾーニに捧げるつもりだったが、作曲中にブゾーニが他界したため、彼を追悼する曲となった。これら二つの作品で、長大な変奏と大胆なフーガ書法へのソラブジの偏愛が初めて表明された。この傾向はほぼ終生変わることなく、彼の代表的な鍵盤作品の多くを特徴付けている。
ソラブジとブゾーニは1919年ロンドンで出会った。このイタリアの作曲家はソラブジを招いて近作を弾くよう促した。ブゾーニに《ピアノソナタ第一番》(1919)を披露したのは、ソラブジにとって明らかに決定的な体験だった。直後にブゾーニ自身のピアノ演奏を耳にし、そのピアニズムと作品にすっかり釘付けになった(特に印象付けられたのはブゾーニ《トッカータ》だった)。疑いなく、これらの出来事を経てブゾーニの存在が彼の心を占めるようになった。
OC冒頭の《入祭唱》と《コラール前奏曲》では見まがうことなくブゾーニ的な雰囲気が漂い、その鍵盤書法のみならず、彼の舞台作品に見られる独特で両義的な和声法をソラブジが吸収していたことが伺える。これらの楽章では、あらかじめ作品全体に関わる幾つかの予告を行なっている。OCの多くの箇所で輝かしく音符がばらまかれるのに対し、冒頭部における硬直した単音の恐るべき下降は、黙示録第11章第5節の第七のラッパを思わせ、「終のラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間に化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦へり、我らは化するなり」(コリント第15章52節)という感覚を示唆するよりむしろ、14世紀初期のダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』の地獄の門口の銘文、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」を想起させる。ソラブジのアルカンへのほとんど狂信的な献身を考えると、OCの一世紀前に書かれたアルカン:ヴァイオリンとピアノのための《協奏的大二重奏曲 Op.21》の中間楽章「地獄」を念頭に置いていたのかもしれない。この楽章は「闇深い深淵の、極めて荒涼とし強靭な音楽的幻視をもたらす」と評されているが、興味深いことに、19世紀末に書かれたブゾーニ:ヴァイオリンソナタ第2番の冒頭部との符合が見られる。
《入祭唱》はOC最短の楽章である。続く《コラール前奏曲》は、ブゾーニによってピアノ用に編曲されたバッハ風コラール前奏曲に範を取っている。
かくして第一部は終わり、代わって、第二部はゆったりとした塊状和音による主題により開始され、嬰ハ長調で終止する。ここから極めて対照的な性格を持つ49の変奏が生成される。最後から二番目の変奏(第46変奏)が両手の和音の猛攻で畳み掛けられ、最後の和音が霧散するまで放置された後、優美にさりげなく、豊饒たる繊細さの極みにむせかえる夜想曲(ソラブジが雄弁たるもう一つの側面)へ移行する。温室でまどろむような雰囲気は一転、とぐろを巻いていた蛇が突如鎌首をもたげ毒牙を剥き出すかのように、荒れ狂う結末を迎える。
巨大な楽章である《第二間奏曲》は、トッカータ、アダージョ、パッサカリアの3つの部分から成っている。トッカータは、お察しの通り、偏執的な走句による金銀線細工の発展形である。意外にもニ短調で終わる。アダージョは、この種のソラブジ作品の中でも際立って静謐な夜想曲であり、全曲の中でも情緒的な核心部と言えよう。もっとも、先行作品の《主題と変奏》のように、その永続的な静穏さは、嬰ハ長調の持続低音上の最弱音に始まり圧倒的な最強音へ至る塊状和音の下降によって打ち切られる。この楽章の最終部分の主動機は、伝統的な3拍子のパッサカリア形式を下敷きにしながらも、それは貫徹されない。(《オルガン交響曲第一番》第1楽章の主部であるパッサカリアと同様で、こちらも81の変奏を含む。)再び、雰囲気・質感・性格のさらなる対比が全編を通して労作され、最終変奏では鍵盤全域に及ぶ激烈で多層的な最強音が噴出し、決然と嬰ハ長調で結論付けられるが、《主題と変奏》や「アダージョ」と異なり、その嵐のような最終和音が徐々に死に絶えてゆくかのような、非常に緩やかな締め口上(Epilogo)が、ppで始まりmpまで至るが最後はほとんど聴こえないppppへ沈むように後書きされる。
この最終節の目指すところは、前例の無いレベルまで対位法を錯綜させることで表現と質感を引き上げ、全曲を焼け付くような終末へ牽引し、レーガーのオルガン・フーガの最も気宇雄大な終結部のごとく、まさに津波のように破壊的な和音の物量をもって、その嬰ハ長調の決定的な勝利の爆発へ到達する事である。
ソラブジ協会のヒントン氏による詳細な作品/作曲家解説に、「戦後前衛との関連」に関する補足を依頼されたが、ソラブジ作品から戦後前衛への、通常の意味での影響関係は皆無としか言いようがない。氏の解説にもある通り、1936年に《オプス…》の悲惨な演奏を聴いて自作の公開演奏を禁止して以来、この禁止は1976年まで解かれることはなかったのだから、影響などあろうはずがない。
現代音楽界で「新ロマン主義」が脚光を浴びたのは1974年だった。1976年はこの傾向が一過性の流行ではなく、戦後前衛第一世代の作曲家たちの多くも巻き込んだ潮流になることが見え始めた年であり、結局ソラブジの音楽は戦後前衛とは相容れないものだった…という単純な話でもなかった。彼は自作演奏を再び許可したものの、当時取り組んでいたピアニストに満足していたわけではなく、措置は暫定的なものだった。この措置が永続的なものになるにあたっては、ジョフリー・ダグラス・マッジが《オプス…》に取り組み始めたことが大きな役割を果たした。
ソラブジの音楽は前衛の時代に評価されるような音楽ではないが、その反動としての後期ロマン派回帰で済まされる音楽でもなかった。その立ち位置は、マイケル・フィニスィー(1946-) の音楽にも通じるものがある。フィニスィーはファーニホウと並ぶ、英国での「新しい複雑性」の創始者だが、英国には存在しなかった戦後前衛第一世代の失地回復を目指したファーニホウとは異なり、J.シュトラウス二世やヴェルディ作品の「編曲」を前衛の時代末期から試み始めた、ヴィルトゥオーゾ志向の持ち主だった。彼もソラブジ同様、作曲家=ピアニストである。ただし原曲の面影を残しているのは輪郭のみで、個々の音符はセリー操作で変換され、「新ロマン主義」とも明白に異質である。
ただしジェフスキーのこのような方向性は、英国実験音楽を代表する作曲家=ピアニストのコーネリアス・カーデュー(1936-81) の活動をモデルにしている。シュトックハウゼンの助手としてセリー音楽を書き始めたが、ニューヨーク楽派の音楽に接して自由度の高い図形楽譜に移行し、AMMでの集団即興を経てアマチュア音楽家集団スクラッチ・オーケストラを結成し、やがて毛沢東主義に傾倒してそれまでの活動をブルジョア的だと自己批判し、自動車事故による早逝までは民衆歌や抵抗歌を民衆に馴染み深い様式=後期ロマン派風の変奏曲として処理する書法に落ち着いた。ジェフスキーの歩みは、短い生涯を生き急いだカーデューの人生を緩やかに辿り直したものだった。
3000円(全自由席)
【予約/お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) /Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
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●古川聖(1959- ):《ノベレッテ第1番 「上と下 Oben und Unten」》(2017)(委嘱新作・世界初演) 2分
■カイホスルー・ソラブジ(1892-1988):《オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて) Opus Clavicembalisticum》(1930/全曲による日本初演)〔全12楽章〕 ~ 第一部
I. 入祭唱 3分
II. コラール前奏曲 13分
III. 第一フーガ(四声による) 12分
IV. ファンタジア 4分
V.第二フーガ(二重フーガ) 16分
(休憩10分)
●古川聖:《ノベレッテ第2番 「音階 Tonleiter」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第二部
VI.第一間奏曲(主題と49の変奏) 45分
VII.第一カデンツァ 5分
VIII. 第三フーガ(三重フーガ) 35分
[第一主題 10分 - 第二主題 11分 - 第三主題 12分]
(休憩10分)
●古川聖:《ノベレッテ第3番 「エッシャーへのオマージュ Hommage für Escher」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第三部
IX. 第二間奏曲 56分
〔トッカータ (5分) - アダージョ (16分) - 81の変奏によるパッサカリア (35分)〕
X. 第二カデンツァ 3分
XI. 第四フーガ(四重フーガ) 32分
[第一主題 8分 - 第二主題 7分 - 第三主題 8分 - 第四主題 10分]
XII. 終結部(ストレッタ) 8分
古川聖 Kiyoshi FURUKAWA, composer

1959年東京生まれ。中学・高校時代に入野義郎氏に師事。高校卒業後渡独、ベルリン、ハンブルクの音楽アカデミーでイサン・ユン、ジェルジ・リゲティのもとで作曲を学ぶ。1991年に米国のスタンフォード大学で客員作曲家。独・カールスルーエのZKM(アート・アンド・メディア・センター)でアーティスト・イン・レジデンス。作品は、新しいメディアと音楽の接点において成立するものが多く、1997年のZKMの新館のオープニングでは委嘱を受け、マルチメディアオペラ『まだ生まれぬ神々へ』を制作・作曲。近年は理化学研究所内で脳波を使った視聴覚表現に関するプロジェクトを行った。社会の中で表現行為が起こる場、新しいアートの形を探して2002年より、新しいメディアを使ったワークショップを世界各国で行っている。東京芸術大学先端芸術表現科教授。
古川聖:《Novelletten 1、2、3》(2017、委嘱新作初演)

私が大井氏から作品の依頼を受けた時、なにか新しい、変わった試みをいくつも並べるような作品構成とノヴェレッテンという言葉がすぐに脳裏にうかんだ。シューマンの8つのノヴェレッテンに限りない憧憬を持ちつつも、私がノヴェレッテという言葉から着想したのは幻想的な物語集ではなく、NOVELという言葉の本来の意味である、新しい種類の、新手の、奇抜な、いままでに無いといったよう作品の特徴である。(そして、もちろん大井氏になら書いても許されるようなピアノ音楽を書ける、何か特別なの機会をいただいたような気がした。)
Novellettenは全部で7つ書く予定で、7作品分の基本的な着想はあったのだが、諸々の事情で、今回は最初の3曲の初演ということでお許しいただきたい。
これらの作品は広い意味ではアルゴリズムコンポジション、つまり、音符の形で楽譜が直接書かれるのではなく、楽譜のなかに書かれる音がどのように生成されるのかをまずプログラムで記述し、そのプロセスの後に音符が生成され楽譜として定着されるような種類の音楽である。しかし今回は、私が以前行った複雑系の構造の自己組織化プロセスや現在も行っている脳波からの生理データの音構造へのマッピングなどの手法は使っていない。ノヴェレッテンでは一曲ごとに、7~10個音からなるモティーフを音楽の出発点として準備し、それらを複製し、拡大縮小し、分割し、重ね、移調し、縦に横にひっくり返し組み合わせるという比較的伝統的な音楽の変形手法を、伝統的作曲では行われなかったほど、多重にかさね作品として構築した。その意味で常にモティーフと曲全体は一本の糸で繋がっているといえる。そしてこれらの変形、マニュピュレーション、手法、方法の根底にあるのが、私の興味の中心にある音楽認知プロセスからの音楽生成である。音の認知、グルーピング、階層化と抽象化、記憶と予測、評価とそれらのプロセスから脳内に記憶の糸をたぐり、連想として染み出していく、音楽の内実である情動への共鳴などである。
Novellette1には “Oben und Unten”「上と下」というドイツ語の副題をつけたが、ここではモティーフが連ねられ形成された、大きく上下する音型が潰され、のばされ、こねくり回される。
Novellette2は “Tonleiter”「音階」という副題をもつ。音階の順次進行からなるモティーフが組み合わされ、様々な展開をとげる。
Novellette3の副題は “Hommage für Escher”「エッシャーへのオマージュ」。今までに何度も音楽におけるエッシャー的なものを試みてきたが、今回は二つのモティーフからなるテーマのようなものを協和音程的な制約の中でどのようにうまく組み合わせるかという技法的なソリューションを探した。主要部分ではテーマは調を移され多重に重ねられるが、それらは完全な相似形になっている。
そしてこれらのマニュピュレーションを可能とする作曲ツールがGESTALT-EDITORというグラフィックプログラミング環境である。現在のVersionは古川聖、藤井晴行、濵野峻行、小林祐貴により開発されている。(古川聖)
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ソラブジの受けた早期音楽教育はいささか異例である。10代後半と20代初期に数回、ロンドンでチャールズ・トルー(1854-1929)に和声・対位法・形式論のレッスンを受講した以外は、アルノルト・シェーンベルクと同様にほぼ独学であった。20世紀の最初の10年間、彼は最先端のヨーロッパとロシアの音楽への熱意を育んだ。このことが、彼の混ざり合った血筋と同様に、多くの同時代者から隔絶させたようである。彼を最も興奮させたのは当時の現代音楽であった。彼の生まれ育ったエドワード朝の英国のいささか退嬰的な風土では、その大半がほぼ知られず演奏されなかった、さまざまな新潮流に共感を寄せた。周囲でほぼ振り返られなかった、バルトーク、スクリャービン、ドビュッシー、ラフマニノフ、レーガー、シェーンベルク、ラヴェル、マーラー等に彼は傾倒した。その興奮を、戸惑う知人たちにも懸命に伝道しようとしたらしい。

20代半ばに至っても、ソラブジは作曲家よりもむしろ音楽評論家として身を立てることを考えていたようである。いったん創造の水門が開放されると、彼の音楽はつづく半世紀のあいだ、雪崩のように溢れ出した。1960年代末に作曲をやめようと一旦決意するも、80歳代には壮大な二つの《ピアノ交響曲》を含む十数の作品を生み出すに至った。
作曲家として歩みを進めるかたわら、作家・批評家としての活動も併行させ、少なくとも第二次大戦末期までは精力的かつ恒常的に取り組んだ。

ソラブジはピアニストとしても身を立てる事も目論んだが、自らの不本意な演奏に悩み、その活動は驚くほど限定的なものに終わった。1920年代にロンドン・パリ・ウィーンで行なった数公演は常に自作のみであり、演奏家として最も前向きだった1930年にロンドンBBCでピアノのための詩曲《匂える園》(1923)を放送、4回連続公演の第1回をグラスゴーで行い、1936年のその最終公演の後、演奏活動からは身を引いた。
《オープス・クラウィケンバリスティクム》、そしてピアニストとしてのソラブジについては、注目すべき作曲家・ピアニスト・オルガニスト・教師・講師・指揮者・作家・あらゆる芸術の博学者であるスコットランド人、エリック・チザム(1904-1965)を措いては語れない。チザムの作品は近年やっと知られるようになった。ソラブジとスコットランドとのかかわりは1920年頃に遡り、まずは作曲家フランシス・ジョージ・スコット(1880-1958)の知遇を得、その後、ほぼ同時期を生きた詩人ヒュー・マクダーミッド(1892-1978、本名クリストファー・マレー・グリーヴ)とも交友した。ソラブジとチザムがどうやって知り合ったかは不明だが、文通は1926年に始まっており、その友情はチザムの61歳の早すぎる他界まで続いた。


2度目の再演は部分的なもので、1936年ロンドンにてジョン・トビン(1891-1980)が第一部のみを取り上げた。衆目の一致するところ、この善意のピアニストは曲に立ち向かうには甚だ力不足だった。演奏はソラブジの許可なく行なわれ、作曲家をいたく失望させた。この出来事は、公開演奏に対するソラブジの態度に影響したと思われる。それは、しばしば言われる全面的な拒絶ではなく、自作を誤解から守りたいという至極真っ当な希望であり、安心して許諾を与えられる奏者にのみ未来の公開演奏を明確に限定するものに他ならなかった。
この異例で果敢な措置の最も早い一例は、ソラブジが非常に尊敬していたピアニスト、エゴン・ペトリ(1881-1962)との文通で確認出来る。ブゾーニの愛弟子であり、その壮大な協奏曲を師の指揮下で演奏したペトリとの関わりは、1920年代にロンドンでの演奏に対するソラブジの熱のこもった批評記事に発した。彼らの友情は終生続いた。ソラブジはペトリに、いつでもどこでも望む通りにOCを演奏する許諾を与えた。ただ残念ながら、ペトリはそれに立ち向かうことは無かった。準備に専心し、他の仕事を数年犠牲にするのは困難と感じたからに違いない。

オグドンは1962年、モスクワのチャイコフスキー・コンクールでウラディーミル・アシュケナージと並んで優勝し、一挙にスターダムに駆け上った。1960年代半ば、見紛うことなくEMIの花形アーチストとなったオグドンは、EMI側に二度、OCの録音を打診したが、丁重に断られた。しかしこのことによって、OCを録音・演奏しようとする彼の熱意は、いささかも減じることは無かった。
同じ頃、ピアニスト、ロナルド・スミス(1922-2004)はOCの演奏に興味を示し、準備作業を始めていたらしい。ただ彼は視力が悪く、長らく暗譜での演奏を余儀なくされていたため、OCには不向きであった。実のところ、暗譜での全曲演奏は今まで無かったし、これからも無いだろう。オグドンのCDに寄せた、ロナルド・スティーヴンソンのOC概説は、分析の傑作であり傑作の分析であるが、恐らくペトリと同じ理由で、一方ならぬ時間OCを練習しながらも、スティーヴンソンは部分的でさえ公開演奏を行わなかった。

幾つかの抜粋演奏に加え、マッジはボン・シカゴ(1983)、モントリオール(1984)、パリ(1988)、ベルリン(2002)で全曲演奏を行った。シカゴ公演は1999年、スウェーデンBISレーベルから5枚組CDとしてリリースされた。
1984年、当時英国を拠点としていたAltarusレーベルが、所属アーチストであるロナルド・スティーヴンソンに、OCの録音を打診した。OCは演奏しないことに決めていたスティーヴンソンはこれを残念ながら辞退したが、是非ジョン・オグドンを説得するよう、賢明にもAltarusに勧めた。オグドンは喜んで申し出を受け入れ、ただちに企画を進め、1985年と86年に全曲を録音したのだった。
1988年、ロンドンのサウス・バンク・センターのクイーン・エリザベス・ホールにて、パークレーン・グループの協賛のもと、オグドンはOC全曲の歴史的なイギリス初演を行なった。96歳で存命だったソラブジは、意識は明晰だったが車椅子から離れることが出来ず、この素晴らしい公演に臨席はかなわなかった。悲しむべきことに、その3ヵ月後、ソラブジはこの世を去った。その直後、オグドンは作曲者を追悼して、ロンドンで再度の全曲演奏を行った。オグドンの録音は、60頁を超えるA5サイズの冊子を合わせた4枚組CDボックスとして1989年にリリースされ、批評家から絶賛を博した(後に、通常の5枚組CDとして再発された)。このとき、パークレーン・グループはオグドンのOC演奏旅行を起案しており、オグドン自身も《100の超絶技巧練習曲集》の録音と演奏を準備し始めていた。これらの計画は、その年の夏、オグドンが享年52で他界することにより頓挫した。

2009年、ベルギー人ピアニスト、ダーン・ファンデヴァレはOCのスペイン初演を行い、「クラヴィチェンバリスト」の放列に5番目に加わった。彼はベルリンでも再演した。
ペトリとスティーヴンソンの先例に見られるように、OCを含むソラブジの真に大規模な鍵盤独奏曲は、奏者に過大な負担がかかり、通常の練習日程では準備をこなせないため、畢竟計画を長期化するしか解決法は無い。これはまさに、この作品を演奏した全てのピアニストに降りかかった事である(作曲者自身を除いて!)。ジョン・オグドンは公開演奏する前に30年余りを作品と過ごした。ジェフリー・ダグラス・マッジは初演へ向けて相応の時間を間歇的に費やした。ジョナサン・パウエルは最初の演奏時までの人生の半分以上を、じっくりと準備に向き合っていた。

ソラブジの巨大な作品は大抵それだけでリサイタル一晩を占めるように意図されているが、多楽章形式を探求する2番目の作品は1928年に完成されたピアノ独創のための《トッカータ第一番》である。75分を所要するものの、彼の最長の作品の一つでは決してなく、2011年ロンドンでジョナサン・パウエルが初演した際はコンサート後半に置かれ、前半はブゾーニ《対位法的幻想曲》が取り上げられた。ある意味、《トッカータ第一番》は、その終結部の嬰ト短調の調性の点を含めて、OCの先駆的作品と言えよう。《トッカータ第一番》と《対位法的幻想曲》と組み合わせるパウエルの発案は、偶然にも《トッカータ》を完成した年のうちに、《対位法的幻想曲》と最も接近し関連付けられるOCの作曲を開始していた事実と、予期せぬ偶合をもたらした。

特に《オルガン交響曲第一番》《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》《トッカータ第一番》《OC》といった作品群は、バッハ自身やレーガー(1873-1916)の作品に加えて、作曲家でありバッハ研究家/編曲家であったブゾーニの影響下にあり、ソラブジの音楽に独特の過剰性をもたらした。
先述のように、生涯を通じてソラブジはフーガ形式を偏愛したにも関わらず、OCは彼の全作品の中でも特異な位置を占める。この作品は実に、規模・語法・主題数を徐々に増加させる合計4つのフーガによって句読点を付けられている。OCの高度に労作され錯綜した対位法書法と自由なファンタジア楽章の結合は、《対位法的幻想曲》とのもう一つの重要な共通項となっている。


《コラール前奏曲》は、続く第一フーガを暗示して締め括られる。4つのフーガのうち最初のものは、単一主題で最も簡潔に書かれ、むしろ《トッカータ第一番》の書法と同種である。
嬰ト短調で決然と終結した《第一フーガ》は、そのままアルカンとリストを回想するような急速で動的な技巧走句で満たされる《ファンタジア》へ続く。憤怒の抗議の身振りにも似た、破壊的な複調による終止を経て、対照的な二つの主題による《第二フーガ》では、《第一フーガ》を特徴付ける硬直した厳格さの中に、叙情的要素も加味される。この楽章も嬰ト短調で閉じられるが、この調性と嬰ハ長調がこの独自な楽章を土台として支えている。

続く《第一カデンツァ》は、第一部の《ファンタジア》とは異なった、早口の走句の速射で特色付けられる。この短い楽章の次に来る《第三フーガ》は、《第一フーガ》と《第二フーガ》の性格を合体させ、拡張し、極限の強度へ到達する。この楽章も嬰ハ長調で終止し、かくして第二部は閉じられる。

引き続く《第二カデンツァ》は、全曲が持続低音Aの上に展開される。(持続低音はソラブジの大好物である。)《入祭唱》と同じく、非常に短い楽章であり、4分音符の和音の連射ののち、複調へ雪崩れ込む。
《第四フーガ》の四つのフーガ主題は、先行する二つのフーガに比べてもより互いの対比が図られている。OCの4つのフーガのうちで最長であり、進行するにつれOCのほかの動機を組み合わせつつ、最終楽章《終結部 (ストレッタ)》へ導いてゆく。

しかし全てはまだ終わっていない・・・最後の2ページは嬰ハ長調を含む幾つかの調性を通過しつつ、燃え盛る凱歌をあげるどころか、全曲劈頭《入祭唱》の地獄門へと回帰するのである。稲妻の炸裂が嬰ト短調で完了し、低音部の抗うような雷鳴は右手の房状和音とそれを支える左手の嬰ト短調の和音を包含する。エリック・チザムへの手紙で、ゲーテ《ファウスト》を引用しつつ、「私は常に否定するところの霊である(メフィストフェレス)」と、作曲者はこの箇所を説明している。
OCはガリアのように3つの領分に分けられ、通常休憩が差し挟まれる。ジョナサン・パウエルの4回の全曲演奏のうち2回目・3回目・4回目では、最初の休憩を省略し、第一部と第二部を連結させた。(私の予想に反して、この方法は非常に効果的であった。もしピアニストがパウエルのように体力があるのならば!) 1930年のソラブジ自身による初演fでは2回の休憩を差し挟んだが、それらは非常に短いもので、集中力の強度が失われるのを恐れるかのように迅速にピアノへ戻り演奏を再開し、それでもなお魅了されていた聴衆の有り得べき身体的不快感を度外視したと云う。
今夜の上演はOCの16回目の全曲通奏であり、日本初演、そして今夜のピアニストである大井浩明による最初の演奏である。 (アリステア・ヒントン/英ソラブジ・アーカイヴ)
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補足:ソラブジの戦後前衛への影響? ──野々村 禎彦

技術水準のみを問題にするならば、ジョン・オグドンはチャイコフスキー・コンクールで優勝する以前からソラブジ作品に取り組んでおり、彼でも不満はなかったはずだ。彼はヴィルトゥオーゾ志向の作曲家でもあり、ソラブジ作品に強く共感していた。それにもかかわらず、ソラブジが自作の公開演奏を禁止し続けたのは、前衛の時代には自作が正当に評価されないことを見越していたのだろう。実際オグドンはこの時代に、ピアニストとしての評価に比べて作曲家としての評価が低いことに悩むうちに精神の平衡を崩し、1973年には演奏活動を休止して療養生活に入った。

大井はクセナキス《シナファイ》の録音で国際的に注目されたが、この難曲を最初に録音したのが他ならぬマッジである。主にオランダでクセナキス作品など現代弾きとして鳴らした彼は、戦後前衛が曲がり角を迎えるとクシェネック、スカルコッタスら、1900年前後に生まれた忘れられた作曲家たちにレパートリーを広げる中で《オプス…》に出会った。彼の解釈をソラブジは高く評価し、彼は《オプス…》を最初に録音した。すなわち、ソラブジは自作が後期ロマン派の超絶技巧探求の延長線上で解釈されることに満足できず、現代音楽の演奏経験を踏まえたモダンな解釈を望んでいた。
《オプス…》演奏史で次に大きな位置を占めるのは、マッジにはまだ残っていた後期ロマン派的な身振りを削ぎ落としたジョナサン・パウエルだが、彼もフィニスィー《英国田舎唄》(1977/82-85) 改訂版の全曲演奏でデビューした生粋の現代弾きである。マッジは《オプス…》を繰り返し全曲演奏している以外はソラブジ作品にはあまり深く関わってはいないが、パウエルは中期・後期のより錯綜した作品群までレパートリーにしており、ソラブジの難読手稿譜を浄書して演奏のハードルを下げるプロジェクトの中心人物のひとりでもある(ただし、《オプス…》の作業は担当していない)。

英国ならではの中庸を行く姿勢はソラブジからフィニスィーに受け継がれ、演奏実践から見ても、パウエル以降のソラブジ演奏はフィニスィー体験が基盤になっている…という傾向はなくもないが、フィニスィーのスタンスはそこまで独特でもない。米国実験音楽第二世代のフレデリック・ジェフスキー(1938-) の立ち位置も、極めて近い。前衛の時代にはシュトックハウゼン作品などの演奏で鳴らした彼は、MEVでの集団即興を経て前衛の時代末期にはミニマル手法を用いた政治参加の音楽に取り組んだ。前衛の時代が終わると民衆歌や抵抗歌を素材に、即興経験を生かして複雑に変奏する作品群で自己を確立した(《「不屈の民」変奏曲》(1975)、《北米バラード》(1978-79) など)。

もはやソラブジとは何の関係もない話に見えるかもしれないが、彼らのその後に及んでようやく、ソラブジとの糸が繋がってくる。ソラブジ作品の最も特異な点は、常識外れの長大な演奏時間を持ちながら、小品集という伝統的な形態には収まっていないことだが、死後も衰えないソラブジの名声をなぞるかのように、彼らも20世紀末から21世紀初頭にかけて、《オプス…》すら凌ぐ長大なピアノ独奏曲を書いた。フィニスィー《音で辿る写真の歴史》(1995-2001) は6時間、ジェフスキー《道》(1995-2003) は10時間を全曲演奏に要し、彼らの創作史の総括にもなっている。