
~バルトーク:弦楽四重奏曲集全6曲(米沢典剛によるピアノ独奏版)~
Bartók Béla hat vonósnégyese Zongorára átírta Yonezawa Noritake
大井浩明(ピアノ)
2017年6月4日(日)18時開演(17時半開場)
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円 http://koendoriclassics.com/
※ご予約はこちらのフォームから https://goo.gl/z4vjZh
[チラシpdf(白黒)https://app.box.com/s/9v488v1j0hdzc6wc6gnosq6i5j87m7r7 (カラー)https://app.box.com/s/gc7m97q9ac3z8ouk67bi5pn12257qa2z]

I. Lento - II. Allegretto - III. Introduzione / Allegro vivace
■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第2番 Op.17 Sz.67》(1917/2017)(世界初演) 26分
I. Moderato - II. Allegro molto capriccioso - III. Lento
(休憩10分)
■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第3番 Sz.85》(1927/2017)(世界初演) 15分
I. Moderato - II. Allegro - III. Moderato(第1部の再現) - IV. Coda : Allegro molto
■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第4番 Sz.91》(1928/2016) 25分
I. Allegro - II. Prestissimo, con sordino - III. Non troppo lento - IV. Allegretto pizzicato - V. Allegro molto
(休憩10分)
■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第5番 Sz.102》(1934/2016)(世界初演) 30分
I. Allegro - II. Adagio molto - III. Scherzo: alla bulgarese - IV. Andante - V. Finale: Allegro vivace
■バルトーク=米沢典剛:《弦楽四重奏曲第6番 Sz.114》(1939/2016)(世界初演) 30分
I. Mesto / Più Mosso, pesante / Vivace - II. Mesto / Marcia - III. Mesto / Burletta - IV. Moderato, Mesto

バルトークの先に広がる未来(弦楽四重奏曲を中心に)──野々村 禎彦

同時代におけるバルトークの評価は、「民俗音楽研究者としても名高い、作曲もするピアニスト」だったが、今日では彼はまず作曲家である。ドイツ圏では「3大B」はJ.S.バッハ、ベートーヴェンとブラームスないしブルックナーだが、普遍的視点に立てば3人目はむしろバルトークが相応しい、と通俗的にも言われる。鍵盤楽器のための練習曲に注力した点ではバッハ、弦楽四重奏曲に注力した点ではベートーヴェンの後継者であり、姓がBで始まる有名作曲家というだけの19世紀後半のふたりとは格が違う。ただし、「3大B」という発想自体が既にドイツ音楽影響圏に特有であり、米国や日本のようなこの文化圏の周縁諸国が彼に「周縁代表」を仮託した結果がこの位置付けなのだろう。
《子供のために》(1908-09) と《ミクロコスモス》(1926/32-39) という20世紀を代表するピアノ練習曲集(演奏会用ジャンルではなく、実用的な意味での)を除いても、質量ともに一晩を埋めるピアノ独奏曲を彼は書いた。ピアニストとして活躍するには常に新しいレパートリーが必要であり、ひとつの創作サイクルをピアノ独奏曲で始め弦楽四重奏曲で閉じる、ベートーヴェンのような傾向を彼も持っていた。ただし、彼はなまじピアノが上手かったために、自分の弾ける範囲で発想が閉じてしまった面はあるかもしれない。自身のソロを前提に書いた協奏曲(1926, 1930-31) では、技巧に走らず管弦楽と一体になって突き進む、丁度良いバランスが実現されているのだが。ベートーヴェンの鍵盤作品の充実は、フォルテピアノの発展期に手探りで書いた賜物だったのだろう。

その点、弦楽器との距離感は彼の創作にとっては理想的だったように思われる。バルトーク・ピッツィカートをはじめとする苛烈な特殊奏法の数々は、自分の分身ではない楽器だからこそ指定できたのだろう。二度の結婚はティーンエイジャーのピアノの生徒と関係を持った結果だが、恋愛の相手はそれよりは年長のヴァイオリン奏者だったのも象徴的だ。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) と無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) はいずれも代表作、ヴァイオリン二重奏曲集《44の二重奏曲》(1931) も民謡編曲作品としては重要だが、彼が最も力を注いだ編成は弦楽四重奏だった。
ピアノのための《14のバガテル》(1908) からオペラ《青髯公の城》(1911) まで、オリジナルな作曲を始めてから民謡収集に専念するため作曲を中断するまでの数年間は、ほぼドビュッシーの語法を自分のものにすることに費やされたが、この時期でも弦楽四重奏曲第1番(1908-09) は例外的で、モデルはドビュッシーではなく後期ベートーヴェンである。以下で眺めるのは、20世紀の弦楽四重奏曲の類型はほぼバルトークの6曲で尽くされている(新ウィーン楽派とその他数人を例外として)ことだが、同時代には敬して遠ざけられていたベートーヴェン後期作品が再評価されたのも20世紀を象徴する出来事であり、彼の6曲が「ベートーヴェン第17番」で始まるのは示唆的だ。

彼の中では最も素直に「民俗音楽的」な作品のひとつである弦楽四重奏曲第2番(1915-17) は、《青髯公の城》の直後に音楽上の親殺しを意図したピアノ曲《アレグロ・バルバロ》(1911) に始まる時期を締め括る曲だが、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916) などが書かれたこの時期は、ピアノのための《3つの練習曲》(1918) に始まるその次の時期の尖り具合と同列には論じられない。弦楽四重奏曲としても同時期のシマノフスキ第1番(1917) や幾分後のヤナーチェクの2曲(1923, 1928) を凌ぐわけではない。とはいえ、遠くリゲティ第1番(1953-54) にまで影響を及ぼした、民俗音楽の活用という20世紀の豊かな鉱脈を切り拓いた作品なのは疑いない。
《3つの練習曲》に始まる時期に彼の音楽が急速に無調化したのは、無調以降の新ウィーン楽派の音楽の影響と考えるのが自然だろう。《中国の不思議な役人》(1918-19/24) では《春の祭典》、2曲のヴァイオリンソナタではシマノフスキ《神話》、《戸外にて》(1926) では後期ドビュッシー、ピアノ協奏曲第1番(1926) では新古典主義期ストラヴィンスキーと、そこに同時代の別系統の潮流を交配しているのが彼の独自性である。特に新ウィーン楽派とストラヴィンスキーやドビュッシーのハイブリッドは、党派的にも政治的にもヨーロッパの中心では考えられず、「周縁」だからこそ可能な方向性だった。イタリアが音楽の中心だった時代の「周縁」の音楽家J.S.バッハのように。

この時期を締め括る弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) は、彼のモダニズム路線の頂点に留まらず、戦後前衛時代後期の弦楽四重奏曲のモデルにもなった。戦後前衛時代前期には、この編成は因襲的だとして忌避されたのは、総音列技法の範囲では新ウィーン楽派の達成以上の可能性は見出せなかったことが大きい。だが、戦後前衛時代後期にトーン・クラスター様式が台頭すると、この様式を主導したポーランド楽派の作曲家たちはこの編成にも新たな鉱脈を見出した。ペンデレツキ第1番(1960) は特殊奏法を多用したざっくりした構成、ルトスワフスキ(1964) は縦の線の合い具合を偶然性に委ねた書法がポイントだが、単一楽章で即興的に表情を変えるバルトーク第3番の音世界を部分的に切り出して参照している。他方、この様式のもう一方の雄リゲティの第2番(1968) では、バルトーク第4番のアーチ型の5楽章を対比する構成をそのまま借用し、民謡由来のオスティナートをミニマル音楽に置き換えるなど、同時代の語法で換骨奪胎している。
長年構想を暖めていた《カンタータ・プロファーナ》(1930) と、ピアノ協奏曲第1番に続く第2番(1930-31) を書き終えると、以後のピアノ独奏曲は《ミクロコスモス》の一部として書かれることになり、創作サイクルも変化する。民謡分析が本業になって再び創作意欲に火が点いた際、真っ先に取り組んだのは弦楽四重奏曲第5番(1934) だった。音楽要素の断片化や空間配置など、無調や特殊奏法とは違う方向のモダニズムが探求されており、ポスト戦後前衛時代の潮流を先取りしていたようにすら見える。ペンデレツキは第2番(1968) でこの方向性を取り入れようとしたが、バルトークのような豊かな稔りには結びつかず、結局彼は終生の代表作《ルカ受難曲》で試みた前衛書法と三和音の混淆を進め、戦後前衛第一世代で「新ロマン主義」に転向した最初の作曲家の一人になった。

モダニズムと民俗音楽の融合をさらに推し進めた《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936) と《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) は、戦後前衛第一世代の作曲家に霊感を与え続けた。リゲティ流トーン・クラスターである「ミクロポリフォニー」書法とは、《弦楽器…》第1楽章を半音階堆積に圧縮したものに他ならない。ブーレーズが活動の中心を指揮に移してからの《エクラ/ミュルティプル》(1965/70) や《レポン》(1981-84) の楽器法も、《弦楽器…》に多くを負っている。前期シュトックハウゼンを代表する電子音楽《コンタクテ》(1959-60) のピアノと打楽器を伴う版の楽器法は、学位論文で分析した《2台のピアノ…》の記憶の賜物である。
ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38) 以降のヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。亡命先候補は米国・英国・トルコに絞られたが、音楽状況はどこもヨーロッパ大陸よりも保守的だった。この時期を締めくくる弦楽四重奏曲第6番(1939) は、民謡分析の精密化に伴って作曲作品にも導入されるようになった微分音が微妙な陰影を与えているが、モダニズムよりも切実さにおいて記憶される音楽である。だが、この曲も戦後前衛と無縁ではない。前衛の時代はショスタコーヴィチ、ブリテンらが伝統書法を深化させた時代でもあり、彼らの充実が前衛側に緊張感を与えたことは無視できない。彼らの死と新ロマン主義の台頭や戦後前衛第一世代の頽廃が時期を同じくしたことは、偶然ではないだろう。彼らの音楽は60年代に著しく半音階的になり、特にショスタコーヴィチはこの時期に12音技法を導入した。だが彼らが最晩年に再び全音階的音組織に戻った時、参照したのは同じ歩みを辿ったバルトークだった。ショスタコーヴィチ第15番(1974)、ブリテン第3番(1975) ではこの対応は特に顕著である。

バルトークの音楽は普遍性志向で特徴付けられるが、普遍的なものはパーツを取り替えれば幅広く応用できる。バルトークが作曲の素材にした民謡はハンガリー周辺のものに限られるが、その方法論は普遍的なので影響は世界各地に広がった。日本民謡を素材にした間宮芳生《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は国際的にもその代表例であり、狭義の民謡に留まらない間宮の関心は、同時期にベリオらが始めた前衛的な声の技法探求の中でも色褪せない強度を持っていた。また、他の方法論との組み合わせも応用の一種であり、柴田南雄は同じく日本民謡を素材にしながら、シアターピースの手法と組み合わせることで、《追分節考》(1973) に始まる代表作群に至った。このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。「夜の音楽」に象徴される音楽性まで深く共有していたのは、むしろ同国人クルタークだったのかもしれないが、名声を築くためのツールとして使い倒し、大きな成果を収めたのはリゲティだった。
ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3番(単一楽章で疾走する不定形の音響)・第4番(特殊奏法の古典的秩序化)・第5番(モダニズムの外側の素材の統合)・第6番(微分音に彩られた全音階的な哀歌)のヴァリアントとみなせる。人間が想像し得る類型には限りがあり、それをほぼ尽くした創造者にはこのようなことが起こり得る。

むしろ、20世紀後半で特筆すべき弦楽四重奏曲の書き手は、バルトークへの紐付けが難しい作曲家に限られる。具体的には、シェルシ(1905-88)、ケージ(1912-92)、フェルドマン(1926-87)、W.リーム(1952-)、ユルク・フライ(1953-) である。シェルシは微分音程のうなり、フライは息音のような摩擦音という、バルトークが用いなかった素材に絞って新たな世界を拓いた。フェルドマンは弦楽四重奏を完全に滑らかな音表面の器として扱い、演奏時間の長さで知られる後期作品の中でも特に長大な2曲を残した。ケージはこの編成の歴史性を全く意識しなかった特異な存在であり、異なる作風を示す3つの時期に1曲ずつ書いた。W.リームはベートーヴェンを強く意識し、数の上でもこの先達に匹敵する弦楽四重奏曲を作曲しているが、バルトークに繋がる書法を注意深く避けているのが最大の特徴である。「似ないように仕上げる」こと自体がコンセプトになり、作品の質に直結する。現代の弦楽四重奏曲におけるバルトークの重要性を、逆説的だがこの上ない形で伝える事例である。
【ピアノ独奏による弦楽四重奏曲公演】
■W.A.モーツァルト:弦楽三重奏/四重奏/五重奏曲集
○弦楽五重奏曲第2番ハ短調K.406(516b)(1787)、同第3番ハ長調K.515(1787)、同第4番ト短調K.516(1787)[Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.5.8] [closed]
○弦楽三重奏のためのディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 (1788)[Paul Graf Walderseeによるピアノ独奏版]、弦楽五重奏曲第5番ニ長調K.593(1790)、同第6番変ホ長調K.614(1791)[Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.6.4] [closed]
○弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387 (1782)、同第15番ニ短調K.421(417b) (1783)、同第16番変ホ長調K.428 (1783) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.7.2] [closed]
○弦楽四重奏曲第17番変ロ長調K.458『狩』(1784)、同第18番イ長調K.464 (1785)、弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465『不協和音』 (1785) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.9.26] [closed]
○弦楽四重奏曲第21番ニ長調K.575 (プロシャ王第1番)(1789)、同第22番変ロ長調K.589 (プロシャ王第2番)(1790)、同第23番ヘ長調K.590 (プロシャ王第3番)(1790) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.10.31] [closed]
○弦楽四重奏曲第20番ニ長調K.499 《ホフマイスター》(1786) [Paul Wagnerによるピアノ独奏版] [2012.11.26] [closed]
■L.v.ベートーヴェン:弦楽四重奏曲集(ルイ・ヴィンクラー編独奏版)
○弦楽四重奏曲第1番ヘ長調作品18-1 (1798/1800)、第2番ト長調作品18-2 《挨拶 Komplimentierungsquartett》(1800)、第3番ニ長調作品18-3 (1798) [2013.06.19]
■シベリウス:弦楽四重奏のための《祝祭アンダンテ》(エクマン編独奏版) [2017.6.7]
■バルトーク:弦楽四重奏曲全6曲(1909-1939)(米沢典剛編独奏版) [2017.6.4]
■バーバー:弦楽四重奏曲第1番第2楽章「アダージョ」(1936) (米沢典剛編独奏版) [2017.6.7]
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■【動画】ベートーヴェン:《大フーガ 変ロ長調 Op.133》 (1826/1865、L.ウィンクラーによるピアノ独奏版) 使用楽器:1816年製 J.ブロードウッド(6オクターヴ)
■チャイコフスキー:弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」(クリントヴォルト編独奏版)
■シベリウス:弦楽四重奏のための《祝祭アンダンテ》(エクマン編独奏版)
■バーバー:弦楽四重奏曲第1番第2楽章「アダージョ」(1936) (米沢典剛編独奏版)