#10月13日のオルガン演奏会の世話人をして下さっている、ゴチェフスキ先生による曲目解説です。
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『クラヴィーア・ユーブング』とその第3巻について
Hermann Gottschewski(東京大学助教授・超域文化科学)
『クラヴィーア・ユーブング』第3巻に「これぞ聖なる十戒」(Dies sind die heil’gen zehn Gebot’)という曲があります(今回のコンサートでは休憩の後で弾かれます)。前奏が終わったあと、コラール(賛美歌)のメロディーがカノンで入って来る曲です。
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教会になじんでいるドイツの人がこの曲を聞くならば、きっと毎時間ごとに鳴る教会の鐘の音を思い起こすことでしょう。同じ長さの同じ音が何度も繰り返されるからです。そして、「今は何時だろう」と、思わず鐘の音の回数を数え始めるにちがいありません。これを的外れな暇つぶしということはできません。というのも、それはドイツ人の身についているごく自然な習慣だからです。バッハはこれを計算に入れていました。その音を数えていくと、そうです、10回鳴っています。10回は「十戒」なのか・・・!これは日本語でしか通じない言葉遊びですが、絶対音感をもっているドイツ人ならばすぐに気づくはずです。実は、ここにはGの音が10回鳴り響いているのです。ところで、ドイツ人にとってもこの10回繰り返されるGの音は十戒を意味しています。というのも、十戒の「戒」はドイツ語でGebotといい、GはそのGebotの最初の文字と理解できるからです。原コラールではGは6回しかありません。それを、バッハはこのカノンにおいて敢えて10回に変更しているのです。
このような例は単なる「数の遊び」に過ぎないと考えられるかもしれません。しかし、よく知られていることですが、バッハはこういう数遊びや文字遊び、あるいはまたさまざまな象徴を創作のインスピレーションとし、曲の細かい要素から大形式のプロポーションに至るまで作品のなかにこれらを織り込んでいました。バッハの音楽は「数学的で、冷たい」と言われることがありますが、これは大変な誤解です。バッハの音楽は、その時代の音楽を聴き慣れている耳から判断するならば、たといその数遊びや象徴をまったく知らなくとも、表現力豊かな情感溢れる音楽であって、冷たいところなどまったくありません。数の遊びは、このような音楽のなかで初めて意味を持つのです。ところで、十戒を10回のGで表すのは誰にでもできることです。バッハは、その着想から出発してこのコラールのカノンを生みだしました。しかも、このカノンをメロディーの初めだけではなく、全コラールを通して作ったのです。しかし、カノンとして作曲されていないコラールのメロディーを敢えてカノンに作り直すならば、不協和音が続々と出てくる結果に陥るのが普通です。その不協和音をさまざまな作曲技法を用いて回避するのは、大変難しいことです。作曲技法の知識を持っている音楽の専門家がこの曲を聴いたならば、一つのフレーズごとにこのような難問を予想でき、そしてバッハの想像を絶したすばらしい解決法に感嘆することになるはずです。これぞバッハの本格的な聴き方、と私は考えています。
『クラヴィーア・ユーブング』というタイトルとその和訳
バッハの„Clavier-Übung“は、生前に出版されたもののなかでもっとも大きな作品であり、またもっとも重要な位置を占めている作品です。そのタイトルは「クラヴィーア練習曲集」などと和訳されてきました。しかし、「クラヴィーア」は単にドイツ語の発音を日本語で表記したものにすぎません。また、「練習曲集」という訳は、バッハがイメージしたÜbungとどうしても合致しがたいものです。ですから、「クラヴィーア練習曲集」という訳は適切とはいいがたい、と私はつねづね考えていました。Clavierは現代ドイツ語のKlavier(ピアノ)と同じ単語ですが、第3巻はオルガン曲を含むわけですから、絶対に「ピアノ」とは翻訳できません。そのような理由から、日本語でそのまま「クラヴィーア」としたのではないかと思われます。ドイツ語でも誤解を避けるためにこの場合に旧正書法のままCを使って書くことが多いのですが、当時のClavierという言葉は、clavis(「かぎ」という意味で、そこから鍵盤楽器の「鍵」をも指す)というラテン語の語源に近い意味を保っていて、鍵盤や一般的に鍵盤楽器を指していました。例えば「クラヴィーア・ユーブング」第3巻にある大コラールの楽譜の上によく指示されている „à 2 Clav. et Ped.“ は「二つのクラヴィーアとペダルのため」、つまり「二つの(手)鍵盤と足鍵盤のため」という意味です。ですから日本語に翻訳するならばClavierを「鍵盤」と訳せば分かりやすいし、また誤解も生じないことでしょう。
一方「練習曲集」という訳語ですが、この言葉を耳にすると「練習曲」、つまり「エチュード」の曲集だと思うことでしょう。エチュードはもともと、「本格的な作品」を弾く前に行う予備練習のための曲のことです。もちろん、ショパンのエチュードのような傑作もあります。しかし、バッハはこの曲集のなかに自分のもっともすばらしい曲を集めているのです。とするならば、これを「練習曲」とすることはできません。
「クラヴィーア・ユーブング」というのはバッハによって初めて付けられたタイトルではなく、それ以前にもしばしばドイツの曲集に見られるものです。ピーター・ウィリアムズは、この言葉の原点を探り、それがもともとイタリア語のmusica pratticaの訳語であることを突き止めました。もしこれが正しいとすれば、ユーブングは「音楽理論を実用する」という意味になるものと思われます (Peter Williams: Bach. The Goldberg Variations, Cambridge, Cambridge University Press, 2001, pp. 14-15.)。なるほどそれはバッハの「クラヴィーア・ユーブング」においてもあてはまる説明ですが、思うにここにはドイツ語のもっと一般的な意味が含まれています。Übungは動詞übenからつくられた名詞ですが、übenは他動詞として「なにかを練習する」、自動詞として「訓練する」、再帰動詞として「自分を磨く」という意味合いを持っています。バッハの「クラヴィーア・ユーブング」はその最後にあげた意味を採っているのではないかと思われます。この曲を弾きながらみずからを磨く、指使いを練習するにとどまらず自分の音楽経験や音楽知識そしてなによりも人間性を広め深める、バッハの高い理念を仰ぎ見ながら自分の道を見いだしていく——これこそがバッハの意図した「ユーブング」の意味ではないでしょうか。バッハのいう「ユーブング」とは、初心者のための練習ではなく、すでにある程度修練を積み重ねてきた人に、さらに自分を高める道を示してくれる曲集のことなのです。この意味を日本語でうまく表現するのはほとんど不可能ですが、その深さを少しでも感じさせるものとしてこの度は「鍵盤修行」と訳してみました。
ところで、これは弾く側の修行ばかりではなく、聴く側の修行にもなります。とはいえ、「この音楽は楽しむことにあらず、分析する苦しみを味わうべし」という意味ではありません。その本意は、この音楽を充分楽しもうと思うならば、ある程度のしかるべき努力はしなければならない、という点にあります。1曲を繰り返し何度も聴きその作曲技法を把握する、他の曲も同じく研究し、さらには曲ごとの関係について考える、そしてついにはすべての曲を総合的に考えて、全体の構造を突き止めていく——こういうことをすれば、音楽の楽しみは消えてなくなるどころか、かえって本当の楽しみが初めて分かってくるのです。だからこそ、バッハは一番すばらしい曲集を「ユーブング」と名づけたのです。

初版タイトルページ。
《クラヴィーア・ユーブング第三巻。
カテキズム歌およびその他の賛美歌に基づくオルガンのための種々の前奏曲から構成される。愛好家、および、特にこの種の作品に精通する人たちの心の慰めのために、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家、およびライプツィヒ音楽隊監督、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。
作曲家自身の出版による。》
バッハの代表的な作品としての『クラヴィーア・ユーブング』
さて、今回の演奏会では『クラヴィーア・ユーブング』第3巻の一部が演奏されます。それがどのような位置を占めているかを理解するためには、まず『クラヴィーア・ユーブング』全体を概観しておく必要があります。
『クラヴィーア・ユーブング』の第1巻(1731年出版)は6つのパルティータ(組曲)から構成され、第2巻(1735年出版)は「イタリア風協奏曲」と「フランス風序曲」の二つ、第3巻(1739年出版)はオルガンのためのコラール編曲を中心とし、それに加えて四つの「デュエット」と、全体の枠を成す前奏曲とフーガ(第3巻は「オルガン・ミサ」とも呼ばれていますが、これはバッハ自身が付けたタイトルではありません)、第4巻(1741年出版)は「ゴールドベルク変奏曲」です。はたして初めから全4巻の構成として企画されていたのかは不明ですが、多分そうではありません。第1巻は『クラヴィーア・ユーブング』として出版されましたが、その時点ではこの曲集だけが完結した作品として考えられていたと思われます。これが「第1巻」とされたのは、第2巻ができてからのことです。バッハがもっと長生きをしていれば、第5巻もできたのかもしれません。未完成に終わった「フーガの技法」がそれであろう、と推測するバッハ研究者もいます。
いずれにしても、一番考えやすい成立事情としては、バッハがクラヴィーア・ユーブングの第1巻を書いた時にはこの作品のことのみに集中していた、第2巻に筆を進めた時にはそれを第1巻の補足として考えた、第3巻を構想した時には第1巻から第3巻までが一つのすばらしい全体を形づくるように心を砕いた。同様に、第4巻について第1巻から第3巻までの作品とどういう関係をもたせて成立したかをもちろん考えなければなりません。しかし、第4巻は第3巻作曲当時にはまだ存在していないのですから、第3巻を解釈する上では直接このことを考慮する必要はないと思います。ですから、ここでは第1巻から第3巻までのなかでその第3番目である第3巻がどういう位置を占め、またその位置が第3巻自体の構成にどのように反映しているのかを考えてみたいと思います。
第1巻第4番のパルティータのプレリュードは、新しい始まりを示す「序曲」(フランス風)の形式を取っています。すなわち、第1巻の6つのパルティータは、前半3と後半3という二部構成になっています。それぞれの調はB-Dur、c-Moll、a-Moll、D-Dur、G-Dur、e-Moll のようになっており、それぞれが別々の調をもつばかりでなく、すべてが別々の主音となっています。
第2巻は2つの組曲からなっていますが、その調はF-Durとh-Mollです。これらは第1巻では用いられていない主音ですから、第1巻になかった主音を補なう意図をもってそうなったものと考えられます。ちなみに、h-Mollの曲は、もともと『クラヴィーア・ユーブング』のために作曲されたのではなく、既存の曲を編入したものなのですが、そのもとの形はc-Mollであって、編入の際にh-Mollへ移調したという事実があります。ここから、「主音の補足」という趣旨がもっとも明白に見てとれることでしょう。ところで、1オクターヴには12音あるのに、なぜこの第2巻は第1巻と同じように6曲にとどめ、残りの6つの主音をもつ曲をつくっていないのでしょうか。このもっともといえる疑問には、次のように答えることができます。当時、平均律はまだ普及していませんでした。したがって、あまりにもシャープとフラットの多い調を使うと、鍵盤楽器の場合いい音が出ませんし、また人々が弾き慣れていないので楽譜が売れないという事情があったのです。そのために、一番弾きやすい調だけ選ばれたと考えられます。また別の見方をすれば、第1巻と第2巻においてドイツ音名で一文字で表すことができる主音を全て使い尽くしているということも言えるでしょう。
第2巻の特徴は、「イタリア風」と「フランス風」の様式を対照的に二つの組曲として構成したことにあります。当時の中央ヨーロッパの一般的に認められた音楽様式としてはイタリア風とフランス風しかありませんでした。ドイツの音楽家の使命に関して、バッハみずから次のように言ったと伝えられています。「イタリアの音楽家はイタリア風のスタイルしか作れない。フランスの音楽家はフランス風のスタイルしか作れない。しかし、われわれドイツ人はイタリア風のスタイルはイタリア人に負けないし、フランス風のスタイルはフランス人に負けていない。これぞドイツの音楽家の長所なのだ」。『クラヴィーア・ユーブング』の第2巻は、このような精神的姿勢を一つの典型として示しているといえます。
第2巻に関しては、さらにもう一つ面白い現象が見られます。第2巻の後半をなす「フランス風序曲」は、こういうタイトルが付いているにもかかわらず実は全体として「序曲」ではなく、序曲で始まるフランス風の組曲となっています。ですから、第1巻と同じように、第2巻の後半はフランス風序曲で始まるということになります。後でも述べますが、このような形式があるということを踏まえなければ、第3巻と第4巻、そしてまた「クラヴィーア・ユーブング」全体の解釈を充分に行うことはできません。
『クラヴィーア・ユーブング』第3巻の意義とその構造
さて、この第1巻と第2巻を一つの全体として見るならば、これらに補足しなければならないものはもはやとくになかったと見受けられます。ですから、バッハは第3巻では、「チェンバロのための組曲」というアプローチを離れ、まったく違うことを企画しました。すなわち、第3巻をオルガンのための宗教音楽としたのです。
バッハはもともと数が好きだったらしいのですが、「3」は三位一体に通じる数なので、この第3巻を宗教音楽にするのは都合が良かったのかもしれません。事実、この第3巻には特に3に関しての数遊びが非常に多く見られます。
まず、第3巻の初めをなすプレリュードと終わりをなすフーガ(今回の演奏会でもそのように演奏されます)はEs-Dur になっています。Esという主音は第1巻と第2巻では現れていないので、この調を選んだのはその趣旨があったと思われます。 しかしこの調は「3」つの変位記号を持ち、それまでのすべての調から見て第「9」番(9=3×3)となっているのは偶然とは思えません。もしそうだとするならば、バッハは少なくとも『クラヴィーア・ユーブング』第2巻を編集した時から第3巻を考えていたということになるでしょう。
それはともかく、このプレリュードとフーガでは3という数がほかにも重要な役割を果たしています。大規模な編成をもつこの両曲は、それぞれ3つの音楽的なパートから構成されています。
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前にも述べたように、第1巻の後半と第2巻の後半はフランス風序曲で始まり、また第4巻「ゴールドベルク変奏曲」の後半の最初のヴァリエーションも「序曲」というタイトルが付けられていて、このスタイルに従っています。フランス風序曲のスタイルは4拍子で、付点のリズムを多く使い、モルデントのような装飾(M)を使うなどの特徴があります。第3巻には「序曲」というタイトルの曲はありませんが、明らかにそのスタイルを取っている曲は二つあります。一つはこのプレリュードの最初のパート、一つは第3巻の丁度真ん中にある小コラール「われらみな一なる神を信ず」です。(なお、今回の演奏会では大コラールが中心となりますので、この曲は演奏されません。)
ところで、第1、第2、第4巻の後半部分は序曲で始まりますが、それに対して第3巻では後半だけではなく、前半にも序曲が置かれています。それは何故でしょうか。『クラヴィーア・ユーブング』全4巻を一つの作品として見る場合には、その後半は第3巻から始まります。ですから、第3巻のプレリュードのスタイルがこの4巻全体の後半の始まりを表すと考えるならば、このような解釈には全く無理がなくなります。この推測が正しいとすれば、バッハは第3巻を作曲する時に第4巻をすでに計画し、これで完結させようとしていたことになるでしょう。ただし、この点についてはバッハ研究者のあいだでもさまざまな意見があります。
「3」の話に戻りますが、「クラヴィーア・ユーブング」第3巻全曲の組み合わせにも3という数がしばしば現れます。
第3巻の曲数は「27」です (27=33)。プレリュードとフーガ以外には主にコラールの前奏曲があります。同じコラールには原則として2つの異なった前奏曲が作曲されているのが第3巻の特徴の一つです。一つは「大コラール」と呼ばれる、大きいオルガン(少なくとも2段の手鍵盤と足鍵盤を必要とする)のための長い前奏曲で、一つは「小コラール」と呼ばれる、足は用いず手だけで一つの鍵盤を奏でる、より短い前奏曲です。(「大コラール」と「小コラール」は愛称ですが、大小のコラール自体そのベースとなっている讃美歌のメロディーと歌詞は共通しており、その編曲に大曲と小曲があるということです。)
では、バッハはこの作品でどのようなコラールを扱ったのでしょうか。第3巻のタイトルページには、「カテキズム歌およびその他の賛美歌」(die Katechismus- und andere Gesänge) と書かれています。ここに「カテキズム歌」と言われているのは、ルター教会で伝統的に定められている6曲組の賛美歌で、ルターの「小カテキズム(教理問答)」などで論じられる、キリスト教のもっとも基本的な教えを内容とする歌です。つまり、信仰の基礎を覚えるための賛美歌です。この6つの歌にはそれぞれ大コラールと小コラールがありますので、カテキズム歌の部分は全12曲になります。ところで、バッハはこの12曲の前に「その他の賛美歌」による9つの前奏曲を置きました。9曲であることには二重の意味があります。カテキズム歌は最初に述べた「十戒」の歌から始まるのですが、9曲がその前におかれているのでこの曲が10番の前奏曲となり、鐘が10回鳴るのはこの意味を強める作用をしています。また、9=3×3なので、9は三位一体をも象徴しています。ですから、その9曲で扱われている賛美歌は特に三位一体を内容とする歌といえるのです。
その最初の歌は「キリエ、永遠の父なる神よ」(Kyrie, Gott Vater in Ewigkeit) です。この賛美歌は3部に分かれ、それぞれ三位一体の「父」、「子(キリスト)」、「聖霊」を内容としています。バッハは各部の前奏曲を、それぞれ大コラールと小コラールに作曲しています。全6曲となります。
その次に「いと高きところには神にのみ栄光あれ」(Allein Gott in der Höh’ sei Ehr’) となりますが、バッハはここだけは「1つの賛美歌に2つの前奏曲」という原則を破って、大コラール1つと小コラール2つ、つまり3つの前奏曲を作っています。またその曲を3つとも3声 で作っています。3声の曲は「オルガン・ミサ」では他にほとんどないので(4声と5声の曲が一番多い)、これが意図的に行われ、この「神にのみ」が「三位一体の神」であることを強調するために工夫された構造になっているのが明らかです。
「キリエ、永遠の父なる神よ」と「いと高きところには神にのみ栄光あれ」は普通の礼拝で最初によく歌われる賛美歌なので、『クラヴィーア・ユーブング』第3巻が全体として一種の「音楽による礼拝」、つまり「オルガン・ミサ」であるという見方が生まれました。しかし、カテキズム歌が中心であることを考えれば、これは誤解としか思えません。「オルガン・ミサ」という愛称は、音楽を宗教の代替物として崇拝する現代では受け入れやすいかもしれませんが、バッハの意図を反映しているとはいえません。
この「三位一体」9曲と「カテキズム」12曲、そして最初のプレリュードと最後のフーガを合わせると計23曲になります。ところで、それとは別にフーガの前には4曲の「デュエット」が置かれています。「デュエット」は2声の「インヴェンション」のような鍵盤曲ですが、この4曲は宗教曲ではなく、音楽的にもこの曲集の他の曲とほとんど結びつきがないので、これをめぐってバッハ研究者のあいだでさまざまな意見が交わされています。「誤ってこの曲集に入った」というアルベルト・シュヴァイツァーの説さえあります。私は、これも最高の数遊びのなせる技だと推測しています。中世の音楽論では2の数が「不完全」、3は「完全」と言われていました。つまり、人間の世界は2で象徴され、神の世界は3で象徴されるのです。この曲集では4つ(22)の世俗曲を加えて、全曲の数が27(33)になります。この「2」の役割を強調するために、バッハはオルガン曲で極めて珍しい2声の構成を選んでいるのです。
以上述べたことをまとめますと、『クラヴィーア・ユーブング』第3巻全体の構成は次のようになっています。
プレリュード 変ホ長調
三位一体曲9曲:
「キリエ、永遠の父なる神よ」大コラール3曲
「キリエ、永遠の父なる神よ」小コラール3曲
「いと高きところには神にのみ栄光あれ」小/大/小コラール3曲
カテキズム曲12曲:
「これぞ聖なる十戒」大/小コラール2曲
「われらみな一なる神を信ず」大/小コラール2曲
「天にましますわれらの父よ」大/小コラール2曲
「われらの主キリスト、ヨルダンの川に来たり」大/小コラール2曲
「深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる」大/小コラール2曲
「われらの救い主なるイエス・キリストは」大/小コラール2曲
デュエット4曲
フーガ 変ホ長調
昨年6月、当オルガンコンサートの大きな節目となる「第百回記念オルガン演奏会」を開催させていただきました。そのとき鈴木雅明氏によって演奏されたのが、『クラヴィーア・ユーブング』第3巻のうちプレリュードとフーガ、および「小コラール」の全曲とデュエット四曲でした。本演奏会では、プレリュードとフーガのほかに、「大コラール」が演奏されます。とはいえ、大コラール全10曲はかなり長い演奏時間を要しますので、「三位一体曲」と「カテキズム曲」の間に休憩をはさむことにしました。しかし、そうしますと後半部がいささか長くなりますが、新しい試みとして当大学院生による新作初演を前半部の最後に置き、プログラムのバランスをとってみました。
大小のコラールを含む巨大な作品である第3巻全曲が、一回のコンサートで通して演奏されることはほとんどありません。しかし、第百回記念オルガン演奏会をお聴きになった方々は、1年4ヶ月あまりの時間を超えて第3巻の曲すべてに接することになります。
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『クラヴィーア・ユーブング』とその第3巻について
Hermann Gottschewski(東京大学助教授・超域文化科学)
『クラヴィーア・ユーブング』第3巻に「これぞ聖なる十戒」(Dies sind die heil’gen zehn Gebot’)という曲があります(今回のコンサートでは休憩の後で弾かれます)。前奏が終わったあと、コラール(賛美歌)のメロディーがカノンで入って来る曲です。
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教会になじんでいるドイツの人がこの曲を聞くならば、きっと毎時間ごとに鳴る教会の鐘の音を思い起こすことでしょう。同じ長さの同じ音が何度も繰り返されるからです。そして、「今は何時だろう」と、思わず鐘の音の回数を数え始めるにちがいありません。これを的外れな暇つぶしということはできません。というのも、それはドイツ人の身についているごく自然な習慣だからです。バッハはこれを計算に入れていました。その音を数えていくと、そうです、10回鳴っています。10回は「十戒」なのか・・・!これは日本語でしか通じない言葉遊びですが、絶対音感をもっているドイツ人ならばすぐに気づくはずです。実は、ここにはGの音が10回鳴り響いているのです。ところで、ドイツ人にとってもこの10回繰り返されるGの音は十戒を意味しています。というのも、十戒の「戒」はドイツ語でGebotといい、GはそのGebotの最初の文字と理解できるからです。原コラールではGは6回しかありません。それを、バッハはこのカノンにおいて敢えて10回に変更しているのです。
このような例は単なる「数の遊び」に過ぎないと考えられるかもしれません。しかし、よく知られていることですが、バッハはこういう数遊びや文字遊び、あるいはまたさまざまな象徴を創作のインスピレーションとし、曲の細かい要素から大形式のプロポーションに至るまで作品のなかにこれらを織り込んでいました。バッハの音楽は「数学的で、冷たい」と言われることがありますが、これは大変な誤解です。バッハの音楽は、その時代の音楽を聴き慣れている耳から判断するならば、たといその数遊びや象徴をまったく知らなくとも、表現力豊かな情感溢れる音楽であって、冷たいところなどまったくありません。数の遊びは、このような音楽のなかで初めて意味を持つのです。ところで、十戒を10回のGで表すのは誰にでもできることです。バッハは、その着想から出発してこのコラールのカノンを生みだしました。しかも、このカノンをメロディーの初めだけではなく、全コラールを通して作ったのです。しかし、カノンとして作曲されていないコラールのメロディーを敢えてカノンに作り直すならば、不協和音が続々と出てくる結果に陥るのが普通です。その不協和音をさまざまな作曲技法を用いて回避するのは、大変難しいことです。作曲技法の知識を持っている音楽の専門家がこの曲を聴いたならば、一つのフレーズごとにこのような難問を予想でき、そしてバッハの想像を絶したすばらしい解決法に感嘆することになるはずです。これぞバッハの本格的な聴き方、と私は考えています。
『クラヴィーア・ユーブング』というタイトルとその和訳

一方「練習曲集」という訳語ですが、この言葉を耳にすると「練習曲」、つまり「エチュード」の曲集だと思うことでしょう。エチュードはもともと、「本格的な作品」を弾く前に行う予備練習のための曲のことです。もちろん、ショパンのエチュードのような傑作もあります。しかし、バッハはこの曲集のなかに自分のもっともすばらしい曲を集めているのです。とするならば、これを「練習曲」とすることはできません。

ところで、これは弾く側の修行ばかりではなく、聴く側の修行にもなります。とはいえ、「この音楽は楽しむことにあらず、分析する苦しみを味わうべし」という意味ではありません。その本意は、この音楽を充分楽しもうと思うならば、ある程度のしかるべき努力はしなければならない、という点にあります。1曲を繰り返し何度も聴きその作曲技法を把握する、他の曲も同じく研究し、さらには曲ごとの関係について考える、そしてついにはすべての曲を総合的に考えて、全体の構造を突き止めていく——こういうことをすれば、音楽の楽しみは消えてなくなるどころか、かえって本当の楽しみが初めて分かってくるのです。だからこそ、バッハは一番すばらしい曲集を「ユーブング」と名づけたのです。

《クラヴィーア・ユーブング第三巻。
カテキズム歌およびその他の賛美歌に基づくオルガンのための種々の前奏曲から構成される。愛好家、および、特にこの種の作品に精通する人たちの心の慰めのために、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家、およびライプツィヒ音楽隊監督、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。
作曲家自身の出版による。》
バッハの代表的な作品としての『クラヴィーア・ユーブング』

『クラヴィーア・ユーブング』の第1巻(1731年出版)は6つのパルティータ(組曲)から構成され、第2巻(1735年出版)は「イタリア風協奏曲」と「フランス風序曲」の二つ、第3巻(1739年出版)はオルガンのためのコラール編曲を中心とし、それに加えて四つの「デュエット」と、全体の枠を成す前奏曲とフーガ(第3巻は「オルガン・ミサ」とも呼ばれていますが、これはバッハ自身が付けたタイトルではありません)、第4巻(1741年出版)は「ゴールドベルク変奏曲」です。はたして初めから全4巻の構成として企画されていたのかは不明ですが、多分そうではありません。第1巻は『クラヴィーア・ユーブング』として出版されましたが、その時点ではこの曲集だけが完結した作品として考えられていたと思われます。これが「第1巻」とされたのは、第2巻ができてからのことです。バッハがもっと長生きをしていれば、第5巻もできたのかもしれません。未完成に終わった「フーガの技法」がそれであろう、と推測するバッハ研究者もいます。
いずれにしても、一番考えやすい成立事情としては、バッハがクラヴィーア・ユーブングの第1巻を書いた時にはこの作品のことのみに集中していた、第2巻に筆を進めた時にはそれを第1巻の補足として考えた、第3巻を構想した時には第1巻から第3巻までが一つのすばらしい全体を形づくるように心を砕いた。同様に、第4巻について第1巻から第3巻までの作品とどういう関係をもたせて成立したかをもちろん考えなければなりません。しかし、第4巻は第3巻作曲当時にはまだ存在していないのですから、第3巻を解釈する上では直接このことを考慮する必要はないと思います。ですから、ここでは第1巻から第3巻までのなかでその第3番目である第3巻がどういう位置を占め、またその位置が第3巻自体の構成にどのように反映しているのかを考えてみたいと思います。
第1巻第4番のパルティータのプレリュードは、新しい始まりを示す「序曲」(フランス風)の形式を取っています。すなわち、第1巻の6つのパルティータは、前半3と後半3という二部構成になっています。それぞれの調はB-Dur、c-Moll、a-Moll、D-Dur、G-Dur、e-Moll のようになっており、それぞれが別々の調をもつばかりでなく、すべてが別々の主音となっています。
第2巻は2つの組曲からなっていますが、その調はF-Durとh-Mollです。これらは第1巻では用いられていない主音ですから、第1巻になかった主音を補なう意図をもってそうなったものと考えられます。ちなみに、h-Mollの曲は、もともと『クラヴィーア・ユーブング』のために作曲されたのではなく、既存の曲を編入したものなのですが、そのもとの形はc-Mollであって、編入の際にh-Mollへ移調したという事実があります。ここから、「主音の補足」という趣旨がもっとも明白に見てとれることでしょう。ところで、1オクターヴには12音あるのに、なぜこの第2巻は第1巻と同じように6曲にとどめ、残りの6つの主音をもつ曲をつくっていないのでしょうか。このもっともといえる疑問には、次のように答えることができます。当時、平均律はまだ普及していませんでした。したがって、あまりにもシャープとフラットの多い調を使うと、鍵盤楽器の場合いい音が出ませんし、また人々が弾き慣れていないので楽譜が売れないという事情があったのです。そのために、一番弾きやすい調だけ選ばれたと考えられます。また別の見方をすれば、第1巻と第2巻においてドイツ音名で一文字で表すことができる主音を全て使い尽くしているということも言えるでしょう。
第2巻の特徴は、「イタリア風」と「フランス風」の様式を対照的に二つの組曲として構成したことにあります。当時の中央ヨーロッパの一般的に認められた音楽様式としてはイタリア風とフランス風しかありませんでした。ドイツの音楽家の使命に関して、バッハみずから次のように言ったと伝えられています。「イタリアの音楽家はイタリア風のスタイルしか作れない。フランスの音楽家はフランス風のスタイルしか作れない。しかし、われわれドイツ人はイタリア風のスタイルはイタリア人に負けないし、フランス風のスタイルはフランス人に負けていない。これぞドイツの音楽家の長所なのだ」。『クラヴィーア・ユーブング』の第2巻は、このような精神的姿勢を一つの典型として示しているといえます。
第2巻に関しては、さらにもう一つ面白い現象が見られます。第2巻の後半をなす「フランス風序曲」は、こういうタイトルが付いているにもかかわらず実は全体として「序曲」ではなく、序曲で始まるフランス風の組曲となっています。ですから、第1巻と同じように、第2巻の後半はフランス風序曲で始まるということになります。後でも述べますが、このような形式があるということを踏まえなければ、第3巻と第4巻、そしてまた「クラヴィーア・ユーブング」全体の解釈を充分に行うことはできません。
『クラヴィーア・ユーブング』第3巻の意義とその構造

バッハはもともと数が好きだったらしいのですが、「3」は三位一体に通じる数なので、この第3巻を宗教音楽にするのは都合が良かったのかもしれません。事実、この第3巻には特に3に関しての数遊びが非常に多く見られます。
まず、第3巻の初めをなすプレリュードと終わりをなすフーガ(今回の演奏会でもそのように演奏されます)はEs-Dur になっています。Esという主音は第1巻と第2巻では現れていないので、この調を選んだのはその趣旨があったと思われます。 しかしこの調は「3」つの変位記号を持ち、それまでのすべての調から見て第「9」番(9=3×3)となっているのは偶然とは思えません。もしそうだとするならば、バッハは少なくとも『クラヴィーア・ユーブング』第2巻を編集した時から第3巻を考えていたということになるでしょう。
それはともかく、このプレリュードとフーガでは3という数がほかにも重要な役割を果たしています。大規模な編成をもつこの両曲は、それぞれ3つの音楽的なパートから構成されています。
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前にも述べたように、第1巻の後半と第2巻の後半はフランス風序曲で始まり、また第4巻「ゴールドベルク変奏曲」の後半の最初のヴァリエーションも「序曲」というタイトルが付けられていて、このスタイルに従っています。フランス風序曲のスタイルは4拍子で、付点のリズムを多く使い、モルデントのような装飾(M)を使うなどの特徴があります。第3巻には「序曲」というタイトルの曲はありませんが、明らかにそのスタイルを取っている曲は二つあります。一つはこのプレリュードの最初のパート、一つは第3巻の丁度真ん中にある小コラール「われらみな一なる神を信ず」です。(なお、今回の演奏会では大コラールが中心となりますので、この曲は演奏されません。)
ところで、第1、第2、第4巻の後半部分は序曲で始まりますが、それに対して第3巻では後半だけではなく、前半にも序曲が置かれています。それは何故でしょうか。『クラヴィーア・ユーブング』全4巻を一つの作品として見る場合には、その後半は第3巻から始まります。ですから、第3巻のプレリュードのスタイルがこの4巻全体の後半の始まりを表すと考えるならば、このような解釈には全く無理がなくなります。この推測が正しいとすれば、バッハは第3巻を作曲する時に第4巻をすでに計画し、これで完結させようとしていたことになるでしょう。ただし、この点についてはバッハ研究者のあいだでもさまざまな意見があります。
「3」の話に戻りますが、「クラヴィーア・ユーブング」第3巻全曲の組み合わせにも3という数がしばしば現れます。
第3巻の曲数は「27」です (27=33)。プレリュードとフーガ以外には主にコラールの前奏曲があります。同じコラールには原則として2つの異なった前奏曲が作曲されているのが第3巻の特徴の一つです。一つは「大コラール」と呼ばれる、大きいオルガン(少なくとも2段の手鍵盤と足鍵盤を必要とする)のための長い前奏曲で、一つは「小コラール」と呼ばれる、足は用いず手だけで一つの鍵盤を奏でる、より短い前奏曲です。(「大コラール」と「小コラール」は愛称ですが、大小のコラール自体そのベースとなっている讃美歌のメロディーと歌詞は共通しており、その編曲に大曲と小曲があるということです。)
では、バッハはこの作品でどのようなコラールを扱ったのでしょうか。第3巻のタイトルページには、「カテキズム歌およびその他の賛美歌」(die Katechismus- und andere Gesänge) と書かれています。ここに「カテキズム歌」と言われているのは、ルター教会で伝統的に定められている6曲組の賛美歌で、ルターの「小カテキズム(教理問答)」などで論じられる、キリスト教のもっとも基本的な教えを内容とする歌です。つまり、信仰の基礎を覚えるための賛美歌です。この6つの歌にはそれぞれ大コラールと小コラールがありますので、カテキズム歌の部分は全12曲になります。ところで、バッハはこの12曲の前に「その他の賛美歌」による9つの前奏曲を置きました。9曲であることには二重の意味があります。カテキズム歌は最初に述べた「十戒」の歌から始まるのですが、9曲がその前におかれているのでこの曲が10番の前奏曲となり、鐘が10回鳴るのはこの意味を強める作用をしています。また、9=3×3なので、9は三位一体をも象徴しています。ですから、その9曲で扱われている賛美歌は特に三位一体を内容とする歌といえるのです。
その最初の歌は「キリエ、永遠の父なる神よ」(Kyrie, Gott Vater in Ewigkeit) です。この賛美歌は3部に分かれ、それぞれ三位一体の「父」、「子(キリスト)」、「聖霊」を内容としています。バッハは各部の前奏曲を、それぞれ大コラールと小コラールに作曲しています。全6曲となります。
その次に「いと高きところには神にのみ栄光あれ」(Allein Gott in der Höh’ sei Ehr’) となりますが、バッハはここだけは「1つの賛美歌に2つの前奏曲」という原則を破って、大コラール1つと小コラール2つ、つまり3つの前奏曲を作っています。またその曲を3つとも3声 で作っています。3声の曲は「オルガン・ミサ」では他にほとんどないので(4声と5声の曲が一番多い)、これが意図的に行われ、この「神にのみ」が「三位一体の神」であることを強調するために工夫された構造になっているのが明らかです。
「キリエ、永遠の父なる神よ」と「いと高きところには神にのみ栄光あれ」は普通の礼拝で最初によく歌われる賛美歌なので、『クラヴィーア・ユーブング』第3巻が全体として一種の「音楽による礼拝」、つまり「オルガン・ミサ」であるという見方が生まれました。しかし、カテキズム歌が中心であることを考えれば、これは誤解としか思えません。「オルガン・ミサ」という愛称は、音楽を宗教の代替物として崇拝する現代では受け入れやすいかもしれませんが、バッハの意図を反映しているとはいえません。
この「三位一体」9曲と「カテキズム」12曲、そして最初のプレリュードと最後のフーガを合わせると計23曲になります。ところで、それとは別にフーガの前には4曲の「デュエット」が置かれています。「デュエット」は2声の「インヴェンション」のような鍵盤曲ですが、この4曲は宗教曲ではなく、音楽的にもこの曲集の他の曲とほとんど結びつきがないので、これをめぐってバッハ研究者のあいだでさまざまな意見が交わされています。「誤ってこの曲集に入った」というアルベルト・シュヴァイツァーの説さえあります。私は、これも最高の数遊びのなせる技だと推測しています。中世の音楽論では2の数が「不完全」、3は「完全」と言われていました。つまり、人間の世界は2で象徴され、神の世界は3で象徴されるのです。この曲集では4つ(22)の世俗曲を加えて、全曲の数が27(33)になります。この「2」の役割を強調するために、バッハはオルガン曲で極めて珍しい2声の構成を選んでいるのです。
以上述べたことをまとめますと、『クラヴィーア・ユーブング』第3巻全体の構成は次のようになっています。
プレリュード 変ホ長調
三位一体曲9曲:
「キリエ、永遠の父なる神よ」大コラール3曲
「キリエ、永遠の父なる神よ」小コラール3曲
「いと高きところには神にのみ栄光あれ」小/大/小コラール3曲
カテキズム曲12曲:
「これぞ聖なる十戒」大/小コラール2曲
「われらみな一なる神を信ず」大/小コラール2曲
「天にましますわれらの父よ」大/小コラール2曲
「われらの主キリスト、ヨルダンの川に来たり」大/小コラール2曲
「深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる」大/小コラール2曲
「われらの救い主なるイエス・キリストは」大/小コラール2曲
デュエット4曲
フーガ 変ホ長調
昨年6月、当オルガンコンサートの大きな節目となる「第百回記念オルガン演奏会」を開催させていただきました。そのとき鈴木雅明氏によって演奏されたのが、『クラヴィーア・ユーブング』第3巻のうちプレリュードとフーガ、および「小コラール」の全曲とデュエット四曲でした。本演奏会では、プレリュードとフーガのほかに、「大コラール」が演奏されます。とはいえ、大コラール全10曲はかなり長い演奏時間を要しますので、「三位一体曲」と「カテキズム曲」の間に休憩をはさむことにしました。しかし、そうしますと後半部がいささか長くなりますが、新しい試みとして当大学院生による新作初演を前半部の最後に置き、プログラムのバランスをとってみました。
大小のコラールを含む巨大な作品である第3巻全曲が、一回のコンサートで通して演奏されることはほとんどありません。しかし、第百回記念オルガン演奏会をお聴きになった方々は、1年4ヶ月あまりの時間を超えて第3巻の曲すべてに接することになります。