11/4(土)ウストヴォリスカヤ・ピアノソナタ全曲+水野みか子新作


【ポック[POC]#33】 2017年11月4日(土)18時開演(17時半開場) ウストヴォリスカヤ全ピアノソナタ集

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大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html


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●ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975):ピアノ・ソナタ第1番 (1926) 13分
  Allegro -Meno mosso - Allegro - Adagio - Lento - Allegro - Meno mosso - Moderato - Allegro
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919-2006):ピアノ・ソナタ第1番 (1947) 9分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第2番 (1949) 11分
  I. - II.
同:ピアノ・ソナタ第3番 (1952) 17分
  Tempo I. - Tempo II. Meno Mosso - Tempo III.
 (休憩 10分)
●水野みか子:《植物が決める時》(2017、委嘱新作初演) 10分
  I. Arnica - II. トゥーランドットの庭 - III. 土の音
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ:ピアノ・ソナタ第4番 (1957) 11分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第5番 (1986) 16分
  1. Espressivissimo - 2. - 3. Espressivo - 4. Espressivo - 5. Espressivo - 6. Espressivo - 7. - 8. A punto, aspro - 9. - 10. Espressivissimo
同:ピアノ・ソナタ第6番 (1988) 7分



水野みか子:《植物が決める時》
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  大井さんから委嘱のお話をいただいたとき、植物に関係する作品の第三弾を考えた。十年以上前に管弦楽のための《緑の波》を作曲したときには、豊かに実る穀物の畑をイメージしていた。第二弾、昨年作曲した《ピアノとエレクトロニクスのための リポクローム》は人参のカロチノイドにあるような黄色い色素に関係させた。
  本日初演していただく作品のタイトル《植物が決める時 tempus planta》は、 1557年に書かれたとされる「自然哲学」の書にヒントを得て作成したフレーズである。
  植物は行動しない。光、水、土などに反応することはあっても意志をもって次の動きを決めるということはなく、行動せずに根を張っていく。植物の魂によって決定される、底力ある「時間」は、人間意志に左右されずにどっしりした生命力で包んでくれるように思う。本作は、<Arnica>、<トゥーランドットの庭>、<土の音>の三曲で構成される。(水野みか子)

水野みか子 Mikako Mizuno, composer
  東京大学、愛知県立芸術大学卒業。同大学院音楽研究科修了。工学博士。作曲と音楽学の分野で活動を展開。名古屋市立大学芸術工学部芸術工学研究科・情報環境デザイン学科教授。2016年パリ・ソルボンヌ大学招聘研究員。近作に、《尺八、箏とオーケストラのための「レオダマイア」》(2012)、視聴覚同期プログラムIanniXのための《Trace the City 》(2014)、三人の演奏者のための《かげきじゃないかげき》(2015)などがある。2016年5月、伊交流コンサート(ベネチア、トレヴィーソ)にてソプラノとピアノのための《Per acqua chiare》(2016)他を発表。同年9月アジア・コンピュータ音楽会議においてヴァイオリニスト木村まりによって初演された《ヴァイオリンとエレクトロニクスのための「行き交う光束」》はICMC2017において再演された。2016年6月より国際音楽学研究組織IReMusメンバーとして電子音響音楽研究を推進している。先端芸術創作学会JSSA運営委員、日本電子音楽協会 JSEM会長。EMS2017実行委員長。
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ウストヴォリスカヤと旧ソ連の戦後前衛―――野々村 禎彦
(※音源リンク付)

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 ガリーナ・ウストヴォリスカヤは1919年にペトログラード(1924年からソ連崩壊まではレニングラード、現在はサンクトペテルブルク)に生まれ、1939年にレニングラード音楽院に入学してショスタコーヴィチに師事した。レニングラードは独ソ戦における包囲戦の舞台であり、疎開を挟んで卒業は1947年までずれ込んだ。同年に大学院に進んで教鞭を執り始めたが(1977年まで続けた生業)ショスタコーヴィチには師事しなかったのは、文学の世界では1946年に進歩的な作家への批判が始まっており、翌1948年のジダーノフ批判を予期して、優秀な弟子は遠ざけておいたのだろう。彼女も活動初期には体制に順応し、ピアノソナタ第1・2番(1947, 1949) や社会主義リアリズム路線のカンタータ《ステファン・ラージンの夢》(1949) を書いた。この間もショスタコーヴィチは彼女に新作の草稿を見せ、彼女のヴァイオリン・クラリネット・ピアノのための三重奏曲(1949) 終楽章の主題を弦楽四重奏曲第5番(1952) や《ミケランジェロの詩による組曲》(1974) に引用している

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 だが1950年に大学院を修了すると、以後は独自の道を歩み始める。2オーボエ、4ヴァイオリン、ティンパニ、ピアノのための《八重奏曲》(1949-50) を書いた時点で既に一般的ではない編成への指向は明白で、この作品も「思想的に狭量」と批判されて1970年にようやく初演された。ただし、敬虔な正教徒でもある彼女は世俗的な成功や評価は望んでいなかった。ショスタコーヴィチのように激烈な批判を受けることはない代わりに、ひたすら無視された。それでも50年代は比較的多作で、ピアノソナタ第3・4番(1952, 1957)、ピアノ独奏曲《12の前奏曲》(1953)、交響曲第1番(1955) など10曲を書いた。しかし、チェロとピアノのための《大二重奏曲》(1959) から彼女は変わった。もはや師の面影は微塵もなく、彼女だけの強靭な持続が生まれた。この変化は彼女も自覚していたのか、次作はヴァイオリンとピアノのための《二重奏曲》(1964) まで空き、これが彼女の60年代唯一の作品になった。彼女は「生活のために書いた不本意な曲」(例えば《詩曲》第1番(1958)・第2番(1959))は作品表から抹消しているが、それも50年代に限られる。

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 彼女の沈黙の背景には、ソ連の音楽状況の変化もあった。ショスタコーヴィチは《アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲》(1967) から半音階的書法への傾斜を強め、弦楽四重奏曲第12番(1968)・交響曲第14番(1969)・弦楽四重奏曲第13番(1970)・交響曲第15番(1971) では部分的に12音技法も用いているが、その背景にはこの時期に戦後前衛世代の作曲家たちがセリー書法を導入して成果を挙げたことがある(また、自己を確立したウストヴォリスカヤは彼の作風を嫌悪するようになったのとは対照的に、この時期の彼は彼女の旧作を参照して音楽的持続を作っており、その旨を彼女に私信で伝えている)。その急先鋒はエディソン・デニソフ(1929-96) であり、彼がモデルにしたのはブーレーズだった。ソプラノと9楽器のための《インカの太陽》(1964) はブーレーズに献呈され、西側でもたびたび演奏されて彼の国際的名声の出発点になったが、音楽的にはあからさまにブーレーズ《主なき槌》(1952-55/57) を換骨奪胎したものである。

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 この「国際的成功」でデニソフは当局に危険視されたが、ショスタコーヴィチのように教職を追われることもなく、ドミトリ・スミルノフ(1948-) やエレーナ・フィルソワ(1950-) をはじめ、旧ソ連のポスト戦後前衛世代を代表する作曲家たちを門下から輩出した背景には、ノーノの存在が大きい。前衛の時代のイタリア共産党はソ連と友好関係を結び、党員のノーノは文化使節としてソ連をしばしば訪れていた。ナチスドイツに抵抗した共産主義者や、北ベトナムなどのソ連に支援された民族解放闘争を讃える音楽をセリー書法で生み出し続ける彼の手前、ソ連でこの方向性を代表するデニソフを冷遇するわけにもいかない。彼もホリガーと同じく、この書法をブーレーズの枠を超えて柔軟に発展させ、ピアノ三重奏曲(1971) とソプラノと6楽器のための《赤い生活》(1973) で頂点に達した。

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 同世代の作曲家たちも同様の書法から出発したが、その路線ではデニソフに伍することは難しく、独自の道を歩み始めた中で最初に頭角を現したのはアルフレート・シュニトケ(1934-98) だった。彼はアンドレイ・フルジャノフスキー監督(1939-) の実験アニメ『グラスハーモニカ』の音楽を担当したが、監督一人で寓話的な切り絵アニメを制作するのと並行して、先の見えない状況でシークエンスごとに音楽を付けて行くと、おのずと泰西名曲や大衆音楽の断片を表層的に切り貼りした、神経症的なカットアップ音楽になる。この音楽をほぼ転用したヴァイオリンソナタ第2番(1967-68) で独自の書法を確立すると、この路線を過激化させてゆく。チャイコフスキーと自身の映画音楽を混淆してジョン・ゾーンの音楽を予言したような交響曲第1番(1969-72) は画期的な成果だが、強烈な音楽は強烈な批判も招き、結局彼は教職を追われて長らく映画音楽で生計を立てることになる。

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 シュニトケの覚醒は短期的には彼に困難をもたらしたが、西欧の戦後前衛の後追いとは異なる道を示し、同世代への刺激になった。イタリア共産党が1973年にユーロコミュニズムに転換し、ノーノの庇護を失ったデニソフがピアノ協奏曲(1974) でジャズとの混淆に転じたのは象徴的である。ただしデニソフはこの様式に長居はせず、セリー書法と後期ショスタコーヴィチを折衷した(すなわち、間接的にウストヴォリスカヤに影響された)繊細で穏健な様式に落ち着いた。シュニトケは、ピアノ五重奏曲(1972-76) や合奏協奏曲第1番(1977) のような端正な多様式書法で西側に知られるようになったが、彼の本領は様式混淆を極めた合奏協奏曲第2番(1981-82) や宗教的緊張感を極めた交響曲第4番(1984) のような、テンションを振り切った音楽にあることは強調しておきたい。

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 この時期に新たに覚醒したのはアルヴォ・ペルト(1935-) だった。彼は60年代末までは多作で、セリー書法や多様式書法を試みていたが限界を感じ、交響曲第3番(1972) で中世・ルネサンス音楽に鉱脈を見出していったん作曲を中断した。1976年にルネサンス・ポリフォニーと三度和声を融合する新たな発想を得て作曲を再開し、繰り返される三和音と全音階の順次進行をシステマティックに重ねる「鈴鳴らし」様式を提唱した。調性的動機をミニマルに反復する見かけの類似から、70年代以降のヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933-2010) やジョン・タヴナー(1944-2013) らと「聖なるミニマリズム」と総称されることもあるが、新ロマン主義や神秘主義の文脈で調性に向かった彼らと、戦後前衛のシステム思考は保っていたこの時点のペルトの音楽の密度の差は明白である。

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 戦後前衛の後追いから解放されてウストヴォリスカヤも創作力を取り戻し、まず3曲の《コンポジション》(1971/73/75:編成はピッコロ、チューバ、ピアノ / 8コントラバス、ピアノ、巨大な木製ブロックとハンマー / 4フルート、4ファゴット、ピアノ) を書いた。いずれも高音楽器と低音楽器をピアノが結ぶ極端な編成であり、ピアノの役割も両者を和声的に繋ぐのではなく、強烈なクラスターで一拍子を刻むことである。彼女がセリー音楽を受け入れなかったのは「前衛的すぎる」からではなく、近代西洋音楽の残滓を引きずって穏健すぎるからだった。この3曲はミサ通常文に由来する副題「我らに平和を与え給え」「怒りの日」「来たる者を讃えよ」を持つが、このキリスト教的な側面も保守主義と結びつくものではなく、クセナキスのビザンチン音楽理解と共通する、東方正教の汎理性主義と超越指向の音楽(ただしペルトとは対照的に極めて暴力的な)を結びつけている。この路線を継承して声を含むより大きな編成(特定楽器群のみ増強した、ピアノと打楽器を含む室内管弦楽)に拡大したのが交響曲第2番(1979)・第3番(1983) であり、この5曲が彼女の創作の頂点をなす。

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 ただし、彼女の充実は同時代の評価には直結しなかった。1985年にゴルバチョフがソ連書記長に就任して文化開放路線に転じるのと前後して、音楽の世界ではCDが普及し、この機に乗じて一挙に認知されたレーベルが幾つかある。そのひとつスウェーデンBISはシュニトケの全曲録音を現代音楽部門の看板にし(この録音シリーズは穏健な曲目から始まったが、これを受けてソ連国営Melodiyaレーベルがテンションを振り切った作品群の未発表録音をCD化して西側に販売し)、ヨーロッパの静謐なジャズを紹介してきたECMレーベルはクラシック部門開設にあたり、その方向性を象徴する作曲家としてペルトに白羽の矢を立てた。この方向性はペレストロイカ/グラスノスチ以降のロシア文化ブームを受けたものだが、彼らが選ばれたのは1980年にソ連から西側に亡命した世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル(1947-) が彼らを積極的に取り上げていたことが大きい。むしろ、彼らとは比べるべくもないがクレーメルとは親交があった数人の作曲家も、前世紀末には頻繁に取り上げられていたことに、クレーメルの影響力の大きさを見るべきだろう。

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 シュニトケは1985年に脳梗塞で倒れた後も作曲を続けたが、全盛期の振り切ったテンションは戻らなかった。ペルトはクレーメルと同じく1980年に西側に亡命したが代表作は専らそれ以前、名声の高まりと共に新ロマン主義に飲み込まれ、後期ブリテンの音楽に共鳴し「鈴鳴らし様式」に至った時期の純粋さは失われれた。だが、彼らが峠を越えると今度はソフィア・グバイドゥーリナ(1931-) が注目された。敬虔なキリスト教徒の女性作曲家という表面的な部分では彼女とウストヴォリスカヤは被っており、ウストヴォリスカヤへの注目はまたもや遅れた。彼女の特徴は非主題的かつ無時間的な即興演奏に強い関心を持ち、旧ソ連の前衛的な作曲家の中では電子音響に関心が強かったことで、1975年にはヴァチェスラフ・アルチョーモフ(1940-)、ヴィクトル・ススリン(1942-2012) と即興演奏グループ「アストレイヤ」を結成した。この不定形の魅力は70年代の作曲作品にも共通する。

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 ただし彼女は70年代末から、宗教的な作品では内的プログラム(J.S.バッハの数の象徴のような、譜面には明示されない構成原理)を用いるようになり、80年代初頭からはフィボナッチ数列に基づいたセクション分割も行うようになり、局所的には無時間的でも大域的な流れは明確な、幾らか理解されやすい方向に変化した。この時期に、《音楽の捧げ物》の主題を用いた彼女の作品の中でも特にわかりやすいヴァイオリン協奏曲《オッフェルトリウム》(1980/82-86) をクレーメルが初演以降もたびたび取り上げたことで国際的認知も進んだ。《7つの言葉》(1982)、《声…沈黙…》(1986)、弦楽四重奏曲第2番第3番(1987) と代表作も次々と生まれ、民族解放闘争の時代以降の共産主義国に失望して政治性は薄く即興性の強い作風に変化した晩年のノーノに強く支持され(W.リームと並び称され)、クレーメルのためのヴァイオリン曲の録音パート制作を任されたこともあった。

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 彼らもシステム思考に支えられた戦後前衛の末裔ではあり、方法論をアップデートし続けなければ10年程度で古びて行く。デニソフは一度アップデートして《パウル・クレーの3つの絵》(1985) やヴィオラ協奏曲(1986) あたりまで、シュニトケも一度アップデートして弦楽四重奏曲第4番(1989) あたりまでは保たせたが、ペルトは高々80年代末まで、グバイドゥーリナも同じ頃に行き詰まった感がある(ノーノが1990年に亡くなり、ソ連崩壊後の混乱を避けて1992年にドイツに移住したのが分岐点になってしまった)。年下の「先輩」(西側での認知という点において)たちが峠を越え、Sikorski社と全作品の出版契約を結び、いよいよウストヴォリスカヤの時代が訪れたのだが…



c0050810_00313887.jpg 交響曲第3番以降の作品でまず注目すべきは、ピアノソナタ第5番(1986)・第6番(1988) である。クラスター絨毯爆撃の苛烈さは全盛期の諸作品すら凌ぐが、そこにアンバランスな楽器群を重ねて得た多様性はもはや見られない。彼女は編成に応じて書法を柔軟に変える器用な作曲家ではなかった。交響曲第4番(1985-87)・第5番(1989-90) も書いたが、実態は声と3-5楽器のための室内楽小品であり、極限的なテンションを広いキャンバスで持続させる、全盛期の筆力は既に残っていなかった。むしろ彼女の非凡さは、ここで筆を置いた(宣言したわけではなく、結果的にではあるが)ことだ。3大Bのように死の直前まで創作を続け、それが傑作に数えられる人生は幸福だが、政治力は得ても霊感は失い、晩節を汚す大作を量産してしまう大家は多い(戦後前衛世代では、Bで始まる作曲家に多いのは皮肉だ)。旧ソ連の戦後前衛世代は全盛期に当局に抑圧された反動なのか、霊感を失っても創作にしがみつく作曲家が多いだけに、彼女の潔い引き際はひときわ鮮やかだった。

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 しかし彼女は隠遁生活を続けたわけではなく、国際的な評価の高まりに応じて彼女の作品を特集する音楽祭やワークショップが増えると積極的に立ち会い、自作をあるべき姿で後世に残そうとした。特に、旧ソ連時代から彼女の作品に献身的に取り組んだ地元サンクトペテルブルクのピアニスト=指揮者オレグ・マーロフと、彼女の国際的認知に大きな役割を果たした指揮者=ピアニストのラインベルト・デ=レーウとは関係が深い(ただしマーロフへの評価は微妙だが、終生デ=レーウを高く評価し、実験主義ベースの解釈も支持)。彼女の作品でまず知られたのは編成的にも扱いやすいピアノ独奏曲であり、90年代にはマーロフ盤をはじめソナタの全曲録音が5種類リリースされたが、その演奏者の中にはシェルシ作品やフェルドマン作品も数多く録音しているマリアンヌ・シュレーダーとマルクス・ヒンターホイザーが含まれるのは、今年度のPOCの作曲家選択の裏付けにもなっている。

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by ooi_piano | 2017-11-03 14:28 | POC2017 | Comments(0)
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