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12/22(金)18時 フェルドマン(没後30周年)ピアノ曲総攬+由雄正恒新作

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ポック[POC]#34】 2017年12月22日(金)18時開演(17時半開場) フェルドマン(没後30周年)ピアノ曲総攬
大井浩明(ピアノ独奏)

JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html
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●シュテファン・ヴォルペ(1902-1972):《闘争曲(バトル・ピース) I~VII》 (1942/47、日本初演) 23分  [シュテファン・ヴォルペ協会版(デヴィッド・テュードア校閲)]
  I. Quasi presto - II. Molto sostenuto - III. Con moto ma non troppo, Risoluto - IV. Vivo - V. Moderato - VI. Con Brio - VII. Allegro non troppo
●モートン・フェルドマン (1926-1987):《天然曲(ネイチャー・ピース) I~V》(1951)  15分
 《変奏曲》(1951)  6分
 《交点 2》(1951)  8分
 《ピアノ曲》(1952)  3分
 《外延 3》(1952)  6分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《合間 1~6》(1950/53)  15分
 《交点 3》(1953)  2分
 《三つの小曲》(1954)  5分
 《ピアノ曲》(1955)  1分
 《ピアノ曲A(シンシアに)/B》(1956)  4分
 《当近曲(ラスト・ピース) I~IV》(1959)  10分
 《ピアノ曲(フィリップ・ガストンに)》(1963)  4分
 《垂直の思考 4》(1963)  2分
 《ピアノ曲》(1964)  7分
●由雄正恒(1972- ):《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作初演) 12分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《ピアノ》(1977)  27分
 《マリの宮殿》(1986)  20分


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【公演予告】 POCフェルドマン完結編 大井浩明(pf)
2018年4月15日(日)午後2時半開演(午後2時開場) 全自由席3000円 
えびらホール (品川区/東急旗の台駅より徒歩6分)
[要・事前予約] feldman2018@yahoo.co.jp (tel. 090-2474-9951)
(※プライベートホールの為、詳しい場所はチケット予約されたお客様のみにお知らせします)
モートン・フェルドマン (1926-1987):《三和音の記憶(トライアディック・メモリーズ)》(1981) 80分
同:《バニタ・マーカスのために》(1985) 70分
上野耕路(1960- ):《Volga Nights(たらこたらこたらこパラフレーズ)》(2018、委嘱新作初演)10分

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由雄正恒:ピアノ独奏のための《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作) 

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東北での大きな地震の影響で、昨年とは違い浮きだった様子もないゴールデンウィークも明けて間もない水曜日。
珍しく仕事が早く終えたこともあり、無意識のまま帰路とは逆の都心に向かうホームに立つ。
とりわけ急ぐ理由もないのだが次に来る特急の空席が目に入り、券売機で特急券を購入してロマンスカーに乗り込んだ。
車内は閑散としていて隣の席に座る者もいない。
悠然と体を広げ、足を伸ばす。
終点まではたった数十分ほどの乗車ではあるが、疲れもあったのかついウトウトと眠りについてしまった。

感覚としてはほんの一瞬の眠りで夢か現実か朦朧としていたかと思う。
耳元で艶かしい声が聞こえる。
駅員は男性であると思い込んでいたためか、意外なサウンドによる短い睡眠からの目覚めは多少気分が良いものだ。
ここからどこに向かうかも決めてはいないが、自然と歓楽街のある東口へと足を進める。
兎角何時に来ても人の多さに翻弄されてしまうが、今日は週の中日で足元も悪くまだ時間も早いのか幾分往来する人は少ないように感じた。
それにしても、まだ夕方の早い時間にもかかわらず、普段より増して調子の良い兄さんからの客引きが目立つものだ。
目的がないまま歩いていると、以前通った時は目に入らなかった店の看板に引き寄せられていく。

“Bar セルゲー -今宵あなた様を生と死の審判に誘います- Dies irae”
この時代に到底つけることはないであろう、胡散臭げなキャッチコピーに釣られる客の顔が見てみたいと自ずと扉を開ける。
カウンターにはナチュラル・マスタッシュが印象的なバーテンと見る限り三十路に入ったばかりかと思われる女の客がいるのみ。
離れて座るにも客は他におらず、せっかくなので声をかけ女の隣に座る。
女の名は“エリコ”、数年前に上京してからというもの毎週通っている常連客だ。
関西訛りがあるので聞いたところ関西でも但馬地方の出身で、同じ兵庫県同郷とあってすぐに意気投合することができた。
彼女からの包容的な空気感が漂うがためか、六甲山から見る夜景、ハチ北高原でのスキー(彼女にはハチ北はダメらしい)など同郷話、日々の喧騒の愚痴からどうでも良いアホな話まで、何故か色々と話が進む。

そんな中、彼女の村にだけにある、習わしやしきたりの不思議な話を聞いた。
一つに、とある年に生まれた者は、男女問わず親族間や村で行われる催事は決められた年の月日で行うこととされ、他の年生まれの者とは別格な扱いをされるそうだ。
例えば誕生日は毎年来るものではなく、限られた年に年齢が一つ進む。
聞くところ、彼女の現年齢は5歳でありそれ以上の歳は取らないという。
また、結婚できる相手の生まれ年も限られていて、僕が後1年遅く生まれていたらエリコの相手候補者になれたらしい。
ただ、生まれ年が合っていても、特別な“愛の言葉 - Los requiebros - ”を共に歌いあって互いに感情を共感して同調させる儀式のようなものを成功させることが必要になるという。


その特別な歌は、数あそびのような歌で、100までの中の特別な数字を選び、選ばれた数字の中からさらに特定された2つの組み、3つの組み、4つの組み、5つの組みとグループを作り、その数字に可能な音域内で音程と緩急の調子をつけ、それらを連結することで一つの歌になるという。
また、求愛の儀式以外においては、この歌の旋律とリズムを混合させて編曲し、いろんな楽器で演奏しても良いとなっているそうだ。
説明を聞いただけでは難解で、どんなものなのか歌って聞かせて欲しいとお願いはしたが、特別な歌のため容易に人前で歌うことは出来ないという。
あっという間に時間は過ぎ、終電の時間も近づき、つい明日の仕事の現実が脳裏によぎり、また会う約束をしてその日は別れた。

それ以来、時間に余裕もない日々が続き、この日のことはすっかり記憶から失われていた。
ここ数年ゴールデンウィークもなく連日出勤が続いていたが、明けた今日は久しぶりに早く仕事を切り上げることができた。
今日は偶然にも同じ日で、ふと、6年前の出来事を想い出し、早々に店があった通りに足を向ける。
都会というものは入れ替わりが激しい。
すでに、あの日訪れたBarは別のものに変わっていた。
そういえば、今度会う時には例の歌のピアノ編曲版を一緒に聴こうと、約束していたのだが。
(由雄正恒)

由雄正恒 Masatsune YOSHIO, composer
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  神戸出身。作曲家、メディアマスターNo.75。コンピュータによる芸術作品の創作を専門とし、アルゴリズミック・コンポジション、音響合成、ライブエレクトロニクス、メディア表現を題材にした創作研究を行っている。電子音響作品は、国内外(ICMC-国際コンピュータ音楽会議、Contemporary Computer Music Concert, FUJI acousmatic music festival, MUSICACOUSTICA-BEIJIN, Festival FUTURA等)において演奏される。
  昭和音楽大学作曲学科、IAMASアートアンドメディア・ラボ科を卒業。三輪眞弘に師事。MOTUS夏期アトリエ・パリ2006にてドゥニ・デュフール氏などからアクースマティック音楽作曲法とアクースモニウム演奏法の指導を受ける。日本作曲家協議会、日本音楽即興学会、情報処理学会音楽情報科学研究会会員、先端芸術音楽創作学会運営委員、日本電子音楽協会理事、昭和音楽大学准教授。 http://masatsu.net




ニューヨーク楽派の中のフェルドマン―――野々村 禎彦

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 モートン・フェルドマン(1926-87) の創作歴は、二つの大きな出来事を境に大きく3つに分かれる。1950年、ケージと出会い抽象表現主義の画家たちと親交を結ぶ中で、音楽史上最初に図形楽譜を提唱し、ケージを中心とする「ニューヨーク楽派」の一員として、広く不確定性を導入した作曲を行う。1970年、抽象表現主義の画家たちとの別れと生活環境の変化を契機に、以後は不確定性を排除した作曲を行った。ただし、譜面の各ページのグリッド(ないし小節線)の数はその中の記号(ないし音符)の数によらず常に一定、という譜面の根本的な構造は、不確定性の採否によらず変わっていない。

 1950-69年の「前期」は専ら図形楽譜の使用で知られるが、このタイプの譜面を用いた曲は実はあまり多くなく、それ以外の曲の作曲様式でさらに二つに分かれる。1956年までの図形楽譜によらない曲は伝統的な確定譜面で書かれ、ピアノ独奏曲で図形楽譜を用いているのは《Intersection 2》(1951)、《Intersection 3》(1953) の2曲のみ、いずれもチューダーの演奏を前提に書かれた。1957年以降は「グリッド内の音符の音高のみ指定する」記譜法が作曲の中心になり、ピアノ独奏曲はすべてこの書法で書かれている。

 1970年以降、確定譜面に戻ってからの時期は、「楽器編成=タイトル」でストイックに統一し、自ら「ベケットの時代」と称する「中期」と、少数の素材を不規則に反復し、規格外の長時間曲が多い「後期」に分かれる。中期は大編成の曲が多く、無調的な音色の精妙な変化に焦点を絞るが、後期は小編成の曲が多く、記憶に引っ掛かりやすい調性的な素材が中心、と特徴を箇条書きにすると対照的に見えるが、変化は連続的で行きつ戻りつしていた。あえて境界を決めるならば、代表作のひとつ《Violin and Orchestra》(1979) は管弦楽は中期、独奏ヴァイオリンは後期の特徴を強く持ち、分水嶺にふさわしい。

 中期のクライマックスはベケットに台本を依頼したオペラ《Neither》(1977) であり、この直後に唯一のピアノ独奏曲《PIano》(1977) を書いた。後期で特に重要な楽器は弦楽四重奏とピアノであり、大半の曲はどちらかを含む編成を持つ。弦楽四重奏はアタックのない平滑な表面を得るために多用され、ピアノを含む曲は高橋アキの解釈を基準に書かれている。ピアノ独奏曲としては長大な《三和音の記憶》(1981) と《バニータ・マーカスのために》(1985) の2曲と、最晩年の境地を伝える《マリの宮殿》(1986) がある。

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 ニューヨークのユダヤ系服職人の家庭に生まれたフェルドマンは、9歳で作曲、12歳でピアノを始めたが、最も関心があるのは読書で、近視の進行も厭わず終生の趣味にした。作曲は学校ではなく個人教授で学び、最初の教師はWallingford Riegger(1885-1961)、シェーンベルクに学んだ米国セリー主義の草分けの一人だが、彼が教わったのは西洋古典音楽の伝統的な書法までだった。大学受験生の雰囲気に嫌気がさして入試は棄権し、父が独立して始めた子供服会社でフルタイム事務員として働いた。1970年に音楽大学で教え始めるまではこれが生業だった。余暇に作曲のレッスンも再開し、シュテファン・ヴォルぺ(1902-72) に師事した。門下生にはフェルドマンやチューダーの他に、米国セリー主義を代表するウォーリネン(1938-)、ジャズ界の理論派ギル・エヴァンズやジョージ・ラッセルもおり、音楽教師としてはフランスにおけるメシアンに相当する重要人物である。

 ベルリン時代のヴォルペは12音技法を身に付ける一方、社会主義者として実用音楽の理念にも共鳴し、大衆音楽を積極的に取り入れてアイスラー(1898-1962) と並び称された。ユダヤ人=左翼=「頽廃音楽家」だけにナチスが権力を掌握すると真っ先に亡命し、まずオーストリアに潜んでヴェーベルンに学び、翌年にはパレスチナのキブツに脱出して実用音楽を実践した。芸術的欲求との齟齬が大きくなると1938年にはニューヨークに渡り、音楽教師として生計を立てながら12音技法による創作を続け、後にダルムシュタット国際現代音楽夏季講習でも教えている。フェルドマンはヴォルペを「どんな書法も受け入れ、どんな書法も押し付けない良い教師」と回想しているが、ヴォルペから見たフェルドマンは「さまざまな書法を試みては否定するばかりで、5年間何の進歩もなかった」。結局この時期で後世に残ったのは、《Only》(1947) のような素朴な旋律を持つ曲だけだった。やがてレッスンは芸術談義の時間になり、ある日フェルドマンが「もうレッスン料はいらないのでは?」と切り出すと、ヴォルペはヴァレーズを紹介した。ただし芸術談義を交わす友人としての関係は、フェルドマンがニューヨークを離れるまで20年以上続いた。

 ヴァレーズは彼を作曲の生徒とは認めなかったが、1949年中は彼をたびたび自宅に招いて作曲家としての心得を伝えた。この経験がなければ私は作曲家にはなっていなかった、と彼は語っている。なかでも強い影響を与えたのは、「音楽は音響現象であり、音が舞台から客席に達し再び舞台に戻るまでに要する時間を織り込んで作曲を行うべき」という教えだった。極端に少ない音数と遅いテンポで特徴付けられる特異な作風は、この教えの彼なりの解釈に他ならない。また、米国の作曲界に絶望していたヴァレーズは、「この国で本物の作曲家になるためには、音楽で生計を立てようとしてはいけない」が持論だった。以後の彼は、家業で暮らすアマチュア作曲家と謗られても意に介さなくなった。

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 翌1950年1月、ミトロプーロス/NYPによるヴェーベルン《交響曲》の米国初演を聴きに行った際に、彼はケージと出会った。当時のケージはブーレーズと文通を始めており、第2ソナタの米国初演を企画していたが適当なピアニストが見当たらなかった。彼は同門のチューダーを紹介し、同じアパートに夫婦で移って親密な関係が始まった。やがてケージは、ピアニストの友人グレート・サルタン(30年近く後に、《南のエチュード》を初演することになる)から、当時16歳のクリスチャン・ウォルフ(1934-) に作曲を教えるよう頼まれ、「ニューヨーク楽派」の創立メンバーが揃った。ユダヤ系出版社の家庭に生まれたウォルフは最初のレッスンで、新刊の『易経』の英訳をケージにプレゼントした。

 この4人は行動を共にすることが多かった。1950年暮れ、チューダーによるブーレーズ第2ソナタの米国初演後にケージのアパートに集まり、ケージの料理を待っていた時に、フェルドマンに図形楽譜のアイディアが降ってきた。紙切れに引いた4本の横線の隙間を高音域・中音域・低音域とみなし、縦線でグリッドに区切ってところどころを塗り潰すと、五線譜を使わず音高も指定しなくても音楽的持続が生まれるではないか! ケージの料理ができるまで3人が代わる代わるピアノで弾いたこのスケッチが、音楽史上最初の図形楽譜作品、チェロ独奏のための《Projection 1》(1950) の原型になった。

 ただし、何から何まで彼の独創というわけではない。後に五線譜化することを前提に、グラフでスケッチを行う手法はシリンガー・システム(後にバークリー音楽大学になる、シリンガー・ハウスで教えられた作曲手法)の一部であり、ケージが楽派に伝えていた。グリッドを切ってリズム構造を決め、そこに音符をはめ込む作曲法はケージが1930年代末に打楽器作品のために開発し、この時期にも魔法陣に基づく作曲で使っていた。だが、旋律楽器でも音高を確定せずに「作曲」が可能だと示したことは彼の独創である。

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 彼がこの発想に至った背景として、ケージに導かれて美術へも関心を広げていたことは見逃せない。翌1951年1月に、ケージは彼を抽象表現主義の画家たちの交流会に誘った。チューダーとウォルフは美術には全く興味を示さず、ケージ自身も社交目的で時々顔を出すだけだったが、フェルドマンはこの会合に欠かさず参加し、特にフィリップ・ガストンと親しくなった。またケージは、彼の図形楽譜では不確定な音高や音価を易経で決めればこの発想を五線譜に引き戻せると気付いて《易の音楽》(1950-51) のスケッチを始めた。ウォルフもこの流れに沿って作曲を行い、チューダーは不確定性を含む譜面を読み解いて演奏譜を作る作業を、作曲を学んだキャリアを演奏に生かす行為として歓迎した。

 1951年秋からウォルフはハーヴァード大学文学部に進み、代わって翌1952年からボストン出身のアール・ブラウン(1926-2002) が加わった。元々は電子回路技師だった彼は第二次世界大戦末期に空軍に召集され、基地のジャズバンドに加わって音楽に目覚めた。除隊後はシリンガー・ハウスでジャズを学び、デンバーでポピュラー音楽理論を教えた。彼は、妻キャロラインがマース・カニンガム舞踏団に入団したのを契機に楽派に加わったが、ケージの興味は彼の音楽歴よりも電子回路技師としての技術にあり、ケージ《ウィリアムズ・ミックス》(1951-53) など、楽派初期の電子音楽は彼に多くを負っている。

 《易の音楽》以降、ケージは専ら「偶然性の音楽」の理念に基づいた作曲を行ったが、フェルドマンにとって図形楽譜はアイデンティティではなくイディオムであり、複数の記譜法を並行して使う姿勢を、絵画と彫刻を並行して制作する美術作家に喩えている。彼の前期前半の図形楽譜作品は、《Projection》シリーズ5曲(1950-51) と《Intersection》シリーズ4+1曲(1951/53) で出版曲は尽くされる。最初のスケッチからの進展は、グリッド内に数字を書き込むようになったこと。《Projection》シリーズではグリッドは発音の最初と最後、数字は同時に鳴らす音の数を示すが、《Intersection》シリーズでは「あるグリッドの時間枠内でこの数の音を出す」というより自由度の高い指定になった。

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 また、グリッドと数字で構成される彼のストイックな図形楽譜は、この記譜法の一般的なイメージ――特徴的な図形を何らかの手続きで読み解き、伝統的な譜面に変換する――とは様相を異にするが、このイメージはブラウンの《Folio》(1952-53) に由来する。シリンガー・システムを学んだ彼はグラフ記譜法も知っており、自ら図形楽譜に到達した。60年代までヨーロッパを訪ねたことがなかったフェルドマンとは対照的に、ブラウンは50年代半ばから度々ヨーロッパに赴き、ダルムシュタットでの講義等を通じて自身の図形楽譜を伝えた。ケージとチューダーのヨーロッパ演奏旅行では「偶然性の音楽」の一種としてブラウンの図形楽譜も注目され、模倣された。ブソッティやロゴスティスらの「即興演奏にインスピレーションを与える絵画」としての図形楽譜も、ここから派生した。

 先に述べた通り、図形楽譜2曲以外の1956年までのピアノ独奏曲は確定譜面で書かれ、自演が前提のこれらの曲の方が彼の素の姿だ。チューダーを想定した《Intersection》2曲は彼には例外的に音数が多い。チューダーの解釈では読譜に基づいて伝統的記譜法による演奏譜を作るが、図形楽譜をリアルタイムで読んで「音高に囚われず自由に動き回る」演奏を望んでいたフェルドマンの理念とは必ずしも相容れない(ただしチューダーの録音ほど「自由に動き回る」演奏はその後も現れていない)。彼の理念と演奏実態の齟齬は、当初から大きかった。なお1956年は、最初の結婚が破綻し、二番目の妻シンシアと再婚した年であり、抽象表現主義最大のスターだったポロックが交通事故死した年でもある。彼の創作史では、私生活の転機と作風の転機がシンクロしていることが多い。

 1957年、彼はピアノ連弾や複数のピアノのための作品に集中的に取り組み、「グリッド内の音符の音高のみ厳密に指定する」新しい書法を試みた。以後60年代末まで、この書法が彼の作曲の中心になった(ピアノ独奏曲も全てこの書法)。同様の書法はヨーロッパの「管理された偶然性」でも見られ、演奏実態にも即していた。クラシック畑の演奏家には音高は特権的で、それが不確定であることは大きなストレスになる。ある者は苦し紛れ、ある者はサボタージュとして既存の旋律の切り貼りで音高選択を処理し、音楽が台無しになる経験を経て、彼は現実的な書法に至った。翌1958年からグリッドと数字の図形楽譜作品も再び書き始めたが、アンサンブルはトゥッティと沈黙が交代する進行、グリッド内の数字は殆ど1にして、「旋律的なソロ」がなるべく生じないように工夫した。緩やかな偶然性で特徴付けられる新しい書法は軌道に乗り、ピアノ独奏曲《Last Pieces》(1959) や《Durations》シリーズ(1960-61) は、彼の最初のピークになった。

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 この時期にニューヨーク楽派の状況は大きく変わった。ケージとチューダーの1958年のヨーロッパ演奏旅行は熱狂的に受け入れられ、米国実験主義のヨーロッパにおける受容は新たな段階を迎えた。ペータース社は1960年からケージ、1962年からフェルドマンとウォルフの作品を網羅的に出版した。だがこの頃からチューダーは、自作電子回路の即興的操作に基づいた活動に軸足を移し、ケージもチューダーに追随して、マルチメディア・パフォーマンスに移行する。ハーヴァード大学で学んでいたウォルフは、西洋古典学で博士号を取得し、1970年までは同大学、以後はダートマス大学という東海岸の名門大学で西洋古典学と文学の教鞭を執り、音楽と無関係に安定した生活を手に入れた。すると彼は音楽では、自身のピアノ即興や政治参加を中心に据えた自由な活動を展開する。

 このようにケージ、チューダー、ウォルフは1960年頃から、クラシックに通じる「現代音楽」の世界から離れる方向で活動を展開した。すると相対的に、この世界ではフェルドマンの存在がクローズアップされることになる。作品集もいくつかリリースされ、管弦楽のための図形楽譜作品《…Out of Last Pieces》(1961) は1964年に、バーンスタイン/NYPの定期演奏会で取り上げられた。だが、彼の上り調子もここまで。新奇なコンセプトの提唱よりも、漸進的な改良で質を高めてゆく彼の姿勢は、「現代音楽」が決して根付いてはいない米国では十分には受け入れられなかった。この頃から服飾業界の寡占化のために家業は傾き、生計も苦しくなっていった。図形楽譜による最後の作品《オーケストレーションを探して》(1967) は自信作だったが、演奏には恵まれなかった。

 生計の悪化とともに二度目の結婚生活も冷え込み、1970年には破綻した。この年は、抽象表現主義の生き残りのマーク・ロスコとバーネット・ニューマンが相次いで逝去し、フィリップ・ガストンとの親交も、毒々しい具象画に作風を急転換したことで終わった。彼にとって、不確定性を内包した作曲と抽象表現主義の絵画は切り離せないもので、この界隈との交流が失われた結果、恣意的な解釈に悩まされながら不確定性を含む作品を書き続ける気力も失われた。楽譜出版社をウニヴェルザール社に変更したタイミングで、彼は再び伝統的な確定譜面に戻ることに決めた。この様式による最初の代表作《The Viola in My Life》シリーズ(1970-71) は、新恋人カレン・フィリップスを独奏者に想定した(従ってViolaには定冠詞が付く)連作である(女性関係はマメな人だ)。ロスコ作品で埋め尽くされた私設美術館の開館記念作として委嘱され、追悼作になった《ロスコ・チャペル》(1970-71) の初演でも、ソリスト的な扱いのヴィオラはフィリップスが担当した。

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 ヴィオラへの偏愛は、フィリップスとの関係とともに終わったが、独奏楽器とアンサンブルという編成への偏愛は、70年代にわたって続いた。トゥッティと沈黙が交代する展開で、トゥッティの音色変化に焦点を絞ったアンサンブル書法は、50年代末に再び図形楽譜を使い始めた時期から受け継いできた方向性だが(不確定性を排除したことで音色のコントロールはより繊細になり、この側面が近藤譲の音楽に最も影響を与えた部分である)、そこに旋律的な独奏楽器が加わったのがこの時期の特徴である。図形楽譜作品では既存の旋律の引用を防ぐため、不確定性を含む作品でも自己顕示欲の強い奏者の暴走を防ぐために、アンサンブル作品では旋律的なソロは極力控えてきたが、確定譜面になればその心配はなく、むしろ不確定性を含む時期との差別化のために積極的に導入したのだろう。

 この時期を代表する作品群は、《Cello and Orchestra》(1972) に始まる、独奏楽器とオーケストラのための連作である。この種の曲の演奏機会が得られるのは米国ではなくヨーロッパ、特に制度的に現代音楽に取り組むドイツの放送オーケストラであり、この連作でもチェロ、ピアノ(1975)、オーボエ(1976)、フルート(1977-78) のための4曲はみなツェンダー/ザールブリュッケン州立放送響が初演している。オーストリアのウニヴェルザール社に出版社を代えたのも、そのあたりの事情を見越していたのだろう。1970年に家業を諦めて教職を探し始めた彼は、ニューヨーク州立大学バッファロー校に常勤職を得て(彼の要望通り「エドガー・ヴァレーズ記念教授」として)同地に移住した。

 読書家としてベケットに親しんできた彼が「ベケットの時代」の総決算としてベケットに台本を依頼してオペラを書くのは、自然な成り行きではある。《Orchestra》(1976)、《初歩的手法》(1976)、《型通りの探求》(1976) という音響プロトタイプ3曲を経て、彼は《Neither》(1977) に臨んだ。彼がこの曲で「出し尽くした」ことは、ハイペースで書いていた声とアンサンブルのための作品を、この曲の後は殆ど書かなくなったことにも表れている。中期のその後は、やり残したことを探すモードに入る。《PIano》(1977) もそのひとつ。ピアノ独奏曲は小品か組曲ばかりだった彼とっては初の大曲であり、素材の多彩さでも表現の振れ幅の大きさでも、期待に違わぬ内容を持っている。

 《Violin and Orchestra》(1979) が中期と後期の分水嶺にあたる理由をもう少し説明すると、この曲は中期を代表する独奏楽器とオーケストラの連作の最後に位置する一方、独奏パートに現れる旋律素材は、以後の曲で使われているものが多いことが挙げられる。中期作品としても後期作品としても「総集編」なのである。この次に書かれたのが弦楽四重奏曲第1番(1979)、少数の素材を不規則に反復して演奏時間は1時間半を超える、後期作品のプロトタイプである。彼の弦楽四重奏曲はもう1曲、5時間を超える第2番(1983) だけだが、それ以外にも独奏楽器と弦楽四重奏という編成で3曲ある。すなわち、中期におけるオーケストラが後期では弦楽四重奏に入れ替わった格好になっている。長時間作品に見合う練習時間をオーケストラに期待するのは非現実的という実際的な理由に加えて、この時期の彼が重視したのは音色の変化よりも旋律断片の記憶の中での変容なので、アタックが目立たない弦楽四重奏の滑らかな音表面は、理想的な表現媒体だった。

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 また後期作品では、ピアノも弦楽四重奏と並ぶ大きな位置を占めている。ピアノは彼が自分で弾ける楽器として、前期作品では大きな役割を担っていたが、中期は独奏曲自体が少ない上、アンサンブル曲の中での役割も限られている。これは前期のチューダーに匹敵するピアニストに出会えなかったことが大きいが、1980年に知り合った高橋アキの真摯なアプローチに接して、《三和音の記憶》(1981) を彼女に献呈した。彼女の「絶対的に静止した」タッチは、後期作品には理想的だと彼は感じ、以後の作曲も彼女の演奏が基準になった。弦楽四重奏を含まない後期アンサンブル作品は、フルート、弦楽四重奏の構成楽器、打楽器のいくつかとピアノという編成を持ち、ピアノは不可欠な存在である。

 既に触れた《三和音の記憶》と《For Bunita Marcus》は、いずれも演奏時間1時間半前後の典型的な後期作品だが、最後のピアノ独奏曲《マリの宮殿》(1986) の演奏時間は30分を切っており、後期としては凝縮された部類の作品。長時間作品では数種類の素材の登場周期を変えて不規則に繰り返すのが基本戦略だったが、この曲では本質的に1種類の素材を、反復ごとに扱い方(どの箇所を切り取るか、和音かアルペジオか)と音価の配分を微妙に変え、モノトーンと多様性を両立させている。このような書法は《コプトの光》(1985) や《For Samuel Beckett》(1987) でも見られ、最晩年の新境地である。

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 作曲家バニータ・マーカス(1952-) は1976年に大学院生として彼の研究室に加わり、彼女が博士号を取得した1981年に彼は結婚を申し込んだ。彼女は拒絶してニューヨークに移ったが、その後も彼との関係は続き、《For Bunita Marcus》を献呈された。《マリの宮殿》を委嘱したのも彼女である。ネット上の彼女の曲を聴く限りは、彼が惚れ込んだのは果たして彼女の才能なのかは疑わしいが、ミニマル音楽第一世代以外の調性的な現代音楽に付きまとう、復古主義的な重苦しさとは確かに無縁で、調性的素材の導入を躊躇していた彼の背中を、彼女の音楽が押したことは想像に難くない。1987年9月、彼は61歳で膵臓癌で亡くなった。同年6月には生徒のバーバラ・モンクと三度目の結婚をしたが、葬儀で弔辞を読んだのは長年親密な関係にあったバニータ・マーカスだった。

 彼の音楽はW.ツィンマーマンらを中心に特にドイツで深く研究され、ヨーロッパでの名声はケージに勝るとも劣らなかった。しかし米国では総じて冷遇され、《コプトの光》のシュラー/NYPによる米国初演の新聞評は、「音楽史上最も退屈な作曲家」という惨憺たる扱いだったという。彼は、ニューヨーク楽派の作曲家の中では最初に亡くなった。現在はウォルフ以外は世を去り、大半のメンバーは晩年に大きく作風を変えることはなかったが、ケージは彼の死に合わせたかのように作風を大きく変え、彼の前期後半の書法によく似た「タイムブラケット書法」を導入した。この最晩年の試みによってケージのヨーロッパでの評価はさらに上がり、ヴァンデルヴァイザー楽派の結成にも結びついたが、「ケージの弟子」と見做されることを嫌ってあえて批判的姿勢を取ることもあった彼にとって、死後にケージに影響を与えたことは大きな誇りだろう。死の直前に病室を訪れたケージに彼は「私たちは良い人生を送った、思い残すことはない」と語ったという。






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by ooi_piano | 2017-12-03 20:59 | POC2017 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


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