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1/27(土)フィニッシー自選ピアノ代表作集+木山光新作

ポック[POC]#35】 2018年1月27日(土)18時開演(17時半開場) フィニッシー自選ピアノ代表作集

大井浩明(ピアノ独奏)

JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html

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●マイケル・フィニッシー(1946- ):
《英吉利俚謡(イングリッシュ・カントリーチューンズ)》(1977/1985)〔全8楽章〕 45分
  I.緑なす草場
  II.夏の盛りの朝ぼらけ
  III.花飾を君に贈ろう
  IV.5月と12月
  V.嘘と奇蹟
  VI.シーズ・オブ・ラヴ
  VII.愛おしい人
  VIII.打てよ太鼓、吹けよ横笛

  (休憩10分)

《ヴェルディ編曲集》(1972-2005)より
  第5曲「合唱付き七重唱: 見よ、この殿方はいかにして [エルナーニ]」 5分
  第26曲 「ロマンツァ: 私はさまよい歩くみなしごに [運命の力]」  4分

《音で辿る写真の歴史》(1995–2001)より終曲「陽光の食刻」(日本初演)  30分

  (休憩10分)

●木山光(1983- ):《ピアノ・ソナタ》(2017、委嘱新作・世界初演)  8分

●マイケル・フィニッシー:《「テレーズ・ラカン」から五つの断章》(1993/2005、日本初演)  9分
  I. - II. - III. - IV. - V.

《第三の政策課題》(2016、日本初演)  7分
  I. 腐敗. 欺瞞. 無知. 不寛容. - II. 口先の. 破壊的で. 間抜けな. 党派 - III. 祖国は. 私を. 裏切った.

《ミュコノス》(2017、献呈新作・世界初演)  4分




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木山光:《ピアノ・ソナタ》(2017)  
  時代の精神的危機から起こる奇想性や退廃性、あるいは陰惨な美をパルミジャニーノの『凸面鏡の自画像』の様に増幅させた作品。パルミジャニーノ(Parmigianino, 1503-1540) は、マニエリスム初期、ローマなどで活躍したイタリアの画家。1520年頃から中部イタリアでは巨匠たちの様式の模倣が目的である芸術が出現し、「マニエラ」は芸術作品の主題となった。その結果、盛期ルネサンス様式の造形言語の知的再解釈が行われ、極端な強調、歪曲が行われるようになった。(木山光)

木山光 Hikari Kiyama, composer
   1983年岡山県出身。2002年、岡山県立岡山城東高等学校音楽コース卒業。2006年、東京音楽大学卒業。久留智之、糀場富美子、成田和子、久田典子、三木稔、Daniel Capelletti、Carlo Forlivesi、Claude Ledoux らに師事。The 2007 International Young Composers Meeting (Apeldoorn, The Netherlands.) 審査員 ルイ・アンドリーセンにて1位。The Prix de la ville de Boulogne-Billancourt 2011 賞を受賞(le Conservatoire à Rayonnement Régional (CRR) de Boulogne-Billancourt主催)。The Intenrational Ensemblia Composition Competition in Mönchengladbach 2009にて第2位と聴衆賞。Gaudeamus Prize 2006、2007、2008年度でファイナリスト。The Fifth International Jurgenson Competition for Young Composers in Moscowにてファイナリスト。


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《英吉利俚謡(イングリッシュ・カントリーチューンズ)》(1977/1985)
  この作品はエリザベス2世の銀禧紀念(即位25周年)である1977年に書かれた。私は音楽における「英国らしさ」(旋法性や特徴的な旋律型)、そして独特の気質(牧歌的、憂鬱、穏やかさ、錯雑、突発的な狂暴さ)を再検討した。また、諸様式の回覧よりは、ピアノのために「交響的」に書こうとした。8つの部分は俗謡由来の個々の副題を持つが、大きな単一楽章として通奏されるべく設計し、三つの所作単元を巡回している: (1)創案された旋法上の律。民謡的でもあり、ときおり五音音階的で、通常はト音あるいは変トを主音とする。 (2)最高音域あるいは最低音域での打楽器的拍動。 (3)ピアノの鍵盤の全88音における「不規則な」置換。最初の5つの部分ではこれらの型は互いに挟み込まれるが、残りの3つの部分では単離している。

《ヴェルディ編曲集》(1972-2005)より第5曲&第26曲
  この編曲集は、私が大学を卒業して4年後の1972年に始まり、《英吉利俚謡》《ガーシュイン編曲集》《ガーシュインふたたび》《所伝 I-IV》《音で辿る写真の歴史》といった大規模なピアノ連作を跨いで、完結まで34年の歳月を要した。ヴェルディの各オペラ(場合によっては初期稿と最終稿の双方)、弦楽四重奏、レクイエムから一曲ずつの編曲を集成している。当初の構想では、リスト・タウジヒ・ゴドフスキーの流儀を敢えて召喚した気軽なパロディだったが、これらは放棄され、一つのアリア、重唱、景、あるいは場面まるごとに基づくファンタジアの重ね書き(パリンプセスト)を、より野心的かつ劇的に追求した。ヴェルディ原曲の台本よりも、純粋に音楽的構造と展開を優先したが、これはブゾーニの有名な編曲論を参照している。すなわち、編曲とは作曲行為の諸相を横断するものであり、手が思考を転写し、演奏家が楽譜を転写し、聴衆は演奏を転写するのである。爰において、異なった(そして美学的に相反することもある)様式、旋法性(調性的であれ無調的であれ)、時代の語法(バロック、クラシック、現代)の交接の探求を眼目とした。第5曲は、歌劇《エルナーニ》の合唱付き七重唱「見よ、この殿方はいかにして」を素のまま左手に置き、その上に右手が独立した無調的カノンを紡ぐ。第26曲、《運命の力》第1幕第1場のレオノーラのロマンツァ「私はさまよい歩くみなしごに」は、冒頭から織り直され、やがてブゾーニの第1ソナチネのフーガ動機(《青年に》にも現れる)を暗示する。

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《音で辿る写真の歴史》(1995–2001)より終曲「陽光の食刻」
  曲名は、デレク・ジャーマンの構想中だった映画《Sod 'em》の脚本からの引用で、対象物を光が媒体間を超えて食刻する(転写=編曲する)という、写真の現像過程を効果的に説明したものである。この曲は5時間半を要する連作《音で辿る写真の歴史》の最終部にあたる。私の父は写真家であり、「代替現実」を創造的に発見するという観点を教えてくれた。切断、焦点の再整合、編集により、「光景」を踏査し、変容し、暴露し、突き放し、未視感化し、そしてしばしば等閑視するのである。「光景」を「音」に置き換えれば、それは私の「履歴」、すなわち一つの総目録、記憶の大海、さまざまな体験の思い出深い航跡である。また私の音楽知識の俯瞰でもある(誰しも持つ人生経験、来し方の比喩として)。ここでは多くの音楽的「ファウンド・オブジェクト」が暗示されているが、魚が回遊するマーラー第2交響曲を波乗りするベリオの《シンフォニア》を舗装している。

《「テレーズ・ラカン」から五つの断章》(1993/2005)
  私の舞台作品《テレーズ・ラカン》は、当初は男性歌手のみ(カウンターテナー2名とバリトン2名)で構想したが、最終的にゾラの小説と演劇を翻案し、女性・男性両方の登場人物の扮装で演じられた。作品は英国東部(サフォークとリンカンシャー)の後、ロンドンの仏語学校を巡演したが、楽器のアンサンブルにはどこも手狭だったので、ラカン夫人の小間物屋の階上の小さなアパートに家具としてピアノを置き、それを唯一の演技場とした。時代背景(1860年代半ば)は音楽上も示唆され、マイアベーアのオペラ《アフリカの女》が引用してある。(主人公の娘はアフリカの血を引くとされている。)

《第三の政策課題》(2016)
  この作品は、2016年6月23日のイギリス国民投票に対する回答である。人口の半数をやや超える票決により、政府の倣岸・不正確で欺瞞的な声明を受け、欧州連合(EU)を離脱することになった。以下の副題が、この政治情勢に対する私の気持ちを伝えよう。 (i) 「腐敗. 欺瞞. 無知. 不寛容.」 - (ii) 「私は衆愚政治に物申す(口先の. 破壊的で. 間抜けな. 党派.)」 - (iii) 「祖国は. 私を. 裏切った.」。 初演は2016年7月7日にロンドン大学シティ校でイアン・ペイスが行った。
  最初の2つの部分は、トーマス・アーンの仮装劇《アルフレッド大王》から「統べよ、ブリタニア」、ヘンリー・パーセルの歌劇《アーサー王》から「最も美しき島よ」に基づく。これらは作曲から300年経って、むしろ劣化し主戦的に響く。イギリス独立党(UKIP)の「島嶼ポピュリズム」 は人種差別と同性愛嫌悪を奉じ、ポーランド人移民労働者を排斥するキャンペーンは、地域社会の一定層に強く支持された。私の名親はポーランド人であり、第3の部分ではオスカル・コルベルク「ポーランド民衆歌集」所収のサンドミエシュ地方の旋律断片が用いられている。

《ミュコノス》(2017)
  この新作は、大井浩明のための感謝の贈り物であり、私の作品個展を開催してくれた彼の雅量と、他の多くの作曲家の作品の彼の見事な演奏に対して捧げられている。この曲を皮切りにして、ギリシアの民俗音楽の旋法性やリズムを反映した短いシリーズを始めるかもしれない。私は今夏、ミコノス島のデロス現代音楽アカデミーで教鞭を執る予定である。(マイケル・フィニッシー)



英国現代音楽史の中のフィニッシー―――野々村 禎彦

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 「現代音楽」の定義を形式的に「20世紀以降に生まれた作曲家の作品」とするならば、英国での端緒はウォルトン(1902-83) とティペット(1905-98) ということになる。彼らの音楽に紙数を割くつもりはないが、彼らの問題点に英国の状況の問題点は集約されているのは確かだ。ウォルトンは10代で「天才少年」としてもてはやされ、名声を確立した後は果てしなく保守化した。ティペットはそこまで退嬰的ではなかったが、英語圏ではメシアン(1908-92)、カーター(1908-2012) と並び称されているのは目を疑う。国力の優位が過大評価に繋がり、芸術家の成長を妨げてしまう。

 そもそも英国作曲界には、20世紀前半にもモダニズムと看做せる動きは皆無で、戦後前衛が育つ土壌自体が存在しなかった。ただ一人、スペイン内戦で人民戦線に与したために英国亡命を余儀なくされたロベルト・ジェラール(1896-1970) を除いて。彼は、12音技法開発直後のシェーンベルクに数年間師事したが、帰国後はカタルーニャ民族主義に傾倒しその影響は表面化しなかった。40年代の英国での創作も、民俗的素材を新古典主義で処理したものである。だが、民族主義路線の集大成となるオペラ《The Duenna》(1947-49) から12音技法を使い始め、50年代以降はセリー主義に専心して抽象化を進め、1955年以降は電子音楽も導入した。4曲の交響曲(1952-53/57-59/60/67)、カンタータ《ペスト》(1963-64)、2曲の弦楽四重奏曲(1950-55/61-62) などが代表作である。

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 20世紀前半の保守的な作品群は「英国音楽」と総称されて一部で愛好されているが、その末裔と看做されがちなブリテン(1913-76) は、そこに留まる器ではない。天才少年枠の初期はさておき、《シンフォニア・ダ・レクイエム》(1940) や《ラクリメ》(1950) は既にシリアスな強度を持ち、畢竟の大作《戦争レクイエム》(1960-61) を経て、能『隅田川』による教会寓話劇《カーリュー・リヴァー》(1964) と無伴奏チェロ組曲第1番(1964) から始まる極めて半音階的な作品群で異次元に突き抜けた。このような志向は、同時期に頭角を現したマンチェスター楽派にも見られない。

 ここで言及したマンチェスター楽派とは、マンチェスター王立音楽院とマンチェスター大学出身の作曲家:アレクサンダー・ゲール(1932-)、ハリソン・バートウィッスル(1934-)、ピーター・マックスウェル・デイヴィス(1934-2016)、エルガー・ハワース(1935-)、ジョン・オグドン(1937-89) が結成した作曲家集団である。ただしハワースとオグドンは作曲家よりも演奏家として知られている。ハワースはトランペット奏者としてはロイヤルフィル首席奏者を務めてロンドン・シンフォニエッタにも参加し、指揮者としてはその音楽監督を務め、バートウィッスル作品をはじめ現代音楽を得意とした。オグドンはピアニストとしては、ブゾーニやソラブジなどの名技的な作品を得意とした。

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 ゲールはシェーンベルクに学んだ作曲家=指揮者の父ワルターとともに、幼年期にドイツから亡命したユダヤ系作曲家であり、父譲りの12音技法とメシアンのもとで身に付けた語法の混合から出発したが、穏当な旋法的セリー書法に落ち着いた。穏健な作風の二世作曲家の存在は、楽派初期の認知に貢献した。P.M.デイヴィスは初期はペトラッシやバビットに師事してセリー書法を用いていたが、英国に戻ってからは劇場的な要素を用いた《狂った王のための8つの歌》(1969) などの表出的な作品で注目された。だが70年代に入ると急速に保守化し、交響曲第1番(1973-76) 以降は古典的形式に則った「新・新古典主義」に落ち着いた。晩年には英国王室の音楽顧問すら務めている。

 バートウィッスルは吹奏楽団のクラリネット奏者から音楽を始めた。その後作曲に転じ、米国留学中に書いたオペラ《パンチとジュディ》(1966-67) が出世作である。英国の伝統的な残酷大衆劇を大衆音楽の要素を取り入れて音楽化するスタンスは、ベリオ米国時代の代表作《迷宮II》(1963-65) をモデルにしている。その後も反復書法の導入など、ベリオの歩みを数年遅れで辿る傾向が続くが、80年代初頭の寡作期を経て、オペラ《オルフェウスの仮面》(1973-84) と《秘密の劇場》(1984) 以降は、無調だがクラシック音楽の伝統的な様式感に沿った作風に落ち着いた。創作の中心がオペラであることも含め、「英国アカデミズムの中では最も進歩的な存在」という位置付けになる。

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 このようにマンチェスター楽派と戦後前衛の距離は小さくないが、彼らと同世代で最も戦後前衛に近かったのがコーネリアス・カーデュー(1936-81) である。彼の音楽歴はブーレーズ《主なき槌》英国初演のギター奏者に始まり、シュトックハウゼンの助手を務めて全面的セリー技法を身に付け、ブラウンやフェルドマンの図形楽譜を研究して図形楽譜のカタログ的な大作《論文》(1963-67) を生み出し、集団即興グループAMMにピアニストとして参加し、アマチュア音楽家集団スクラッチ・オーケストラをハワード・スケンプトン(1947-) らと始めた。だが、70年代に入ると毛沢東主義に傾倒し、どの方向性もブルジョア的だったと自己批判して、民衆的な素材を伝統的な形式で展開する「新・社会主義リアリズム」に転向した。この姿勢は交通事故で急逝するまで変わらなかった。

 カーデューのキャリアの実験音楽寄りの部分をなぞったのがギャビン・ブライヤーズ(1943-) である。デレク・ベイリー(1930-2005)、トニー・オックスレー(1938-) との即興トリオ「ジョセフ・ホルブルック」で音楽を始め、アマチュア音楽家が泰西名曲を演奏するというコンセプトのポーツマス・シンフォニアを結成し、60年代末から70年代初頭にかけては初期テニーや初期グラスを思わせるコンセプチュアルなミニマル音楽を書いたが、《タイタニック号の沈没》(1969-72) と《イエスの血は決して私を裏切らない》(1972) ではそこに意味性を持ち込んだ。これらの曲はブライアン・イーノのオブスキュア・レーベルからリリースされて評価されたが、作風も環境音楽寄りに変化し、同レーベル消滅後も80年代まではその傾向が続く。だが90年代に入り、和声進行を取り入れ「マキシマル」化したグラスに後期ロマン派的要素を加味したマイケル・ナイマン(1944-) の音楽がブームになると、その流れで再び注目されたブライヤーズもその方向に軌道修正し、以後変化はない。

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 20世紀後半の英国音楽は、ポピュラー音楽界では米国をも牽引する影響力を持ったが、それ以外の分野で国際的に重要なのはまず自由即興音楽であり、ベイリーは死までの40年間、AMMと出身者は今日に至るまで、この分野の中心人物であり続けた。カーデューとブライヤーズは、一時期ではあるがこの分野に関わったという点でも特筆すべき存在である。カーデュー脱退後のAMMは迷走したが、80年代に入ってスクラッチ・オーケストラのメンバーでもあったピアニストのジョン・ティルバリー(1936-) が加わって安定した。ティルバリーはカーデューやスケンプトンらの作品をレパートリーにし、カーデューの評伝も著している。ブライヤーズも90年代以降に保守化するまでは、自由即興音楽界隈の音楽家たちと自作を録音しており、音楽の質のメルクマールにもなっている。

 このように、戦後前衛第二世代に相当する作曲家たちは軒並み保守化していったが、その次世代はこの顛末を予期したかのような方向性を打ち出していた。ブライアン・ファーニホウ(1943-) とマイケル・フィニッシー(1946-) は現代音楽祭でまとめて取り上げられることが多く、英語圏での新ロマン主義の総称である「新しい単純性」と対比して「新しい複雑性」と呼ばれた。ただし二人の姿勢はかなり異なる。ファーニホウは英国の現代音楽状況の問題点の源泉は全面的セリー技法の伝統の欠如にあると考え、意図的に「遅れて来た戦後前衛」として歩み始めた。管理された偶然性以降の「弾きやすく合理的」な譜面ではなく、初期シュトックハウゼンのような非合理音価が頻出する譜面を志向し、演奏不可能性の瀬戸際で生まれるオーラを追求した。彼は英国の保守性を早々に見限り、ドイツを拠点に新ロマン主義に抗する勢力を築き、ジャーナリステッィクな呼称通りの道に進んだ。

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 他方フィニッシーは、独自のセリー書法を無調性の拠り所にしているがファーニホウのような歴史意識はなく、ピアニストならではの超絶技巧志向が「複雑性」の根幹にある。《ヴェルディ編曲集》(1972-2005) や《ガーシュウィン・アレンジ集》(1975-88/89-90) のような超絶技巧編曲の伝統に沿った作品はその典型である。彼は主に英国内で活動を続けたが、現代音楽業界の保守性に絡め取られないよう、修行時代にはモダンダンスの伴奏で生計を立て、現代音楽演奏家としても自作以外は専ら同世代や年少世代の作品を取り上げた。《英吉利俚謡》(1977/82-85) は彼のピアノ書法の完成型かつ民俗音楽への関心の典型例であり、本日のこの他の自選曲は、西洋音楽史の総括/大衆音楽/政治参加といった彼のさまざまな関心を象徴している。彼は200曲以上をあらゆる編成のために作曲しているが、不定楽器のためのコンセプチュアルな作品も多く、実験音楽への関心も依然高い。

 「新しい複雑性」の次世代は、ファーニホウがクラーニヒシュタイン音楽賞を審査してプロモートした作曲家がまず挙げられる。英国ではジェームス・ディロン(1950-)、クリス・デンク(1953-)、リチャード・バレット(1959-) である。彼らも英国の保守性とは距離を取り、バレットはオランダ、デンクはオーストラリアに拠点を移し、ディロンはスコットランド出身を強調する。ディロンとデンクは保守化を免れられなかったがバレットは今のところ免れているのは、エレクトロニクス奏者として自由即興音楽の伝統と関わり続けたからだろう。ポール・オベルマイヤー(1964-) とのエレクトロニクスデュオFURTは作曲歴に匹敵するキャリアを持ち、2005年以降は即興音楽家を加えたfORCHとして、集団即興を組織化した《codex》シリーズ(2001-) などをレパートリーにしている。

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 彼らとは別系統の後継者としては、英国で「新しい複雑性」の紹介を主目的に結成されたアンサンブル・スオラーンの創設者リチャード・エムズレイ(1951-) とジェームス・クラーク(1957-) 、イクシオンの創設者アンドリュー・トゥーヴェイ(1962-) らが挙げられる。フィニッシーはこれらのアンサンブルにピアニストとして参加し、音楽監督や指揮者も務めている。彼は母国で次世代を育てるために英国に留まった(トゥーヴェイは作曲の弟子でもある)。ただし、ファーニホウに見出された作曲家たち(彼らの多くは「新しい複雑性」として括られることを好まない)とは対照的に、英国では初期ブーレーズの劣化版でもこの括りで認知されてしまうのが現状で、英国の問題点は根深い。

 ジョナサン・ハーヴェイ(1939-2012) は、世代的にはマンチェスター楽派に近いが、IRCAMで制作した電子音楽《死者を悼み、生者を呼ぶ》(1980) でようやく認知され、アンサンブルと電子音響のための《バクティ》(1982) が出世作となった遅咲きの作曲家であり、音楽的にはフィニッシーよりも年少、スペクトル楽派第二世代と看做すべきだろう。IRCAMと密接に関わる一方、「裏スペクトル楽派」のフィードバック・グループとも縁が深く、エレクトロニクス即興にも取り組み続けた。作曲家として認知される前にシュトックハウゼンの研究書を著し(1975)、ファーニホウの所属出版社での紹介文を早い時期に書く(1981) など、英国内に留まらないバランスの取れた目配りを続けてきた彼は、この楽派の同世代が軒並み保守化した90年代後半以降も安定した創作を続けた。

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 天才少年をもてはやす風潮は20世紀後半になっても変わらなかった。交響曲第1番(1967-68)・第2番(1970-71) を10代で書いて自ら指揮したオリヴァー・ナッセン(1952-)、10代半ばでメシアンに師事し、《平らな地平線に囲まれて》(1979-80) でプロムス登場最年少記録を持つジョージ・ベンジャミン(1960-)、20代初めまでの大半の作品がたちまちCD化されたトーマス・アデス(1971-) は、この枠で評価された。才気に溢れ完成度は高いが革新的とは言えない書法もこの枠の伝統通り。その後ベンジャミンはIRCAMで学び、スペクトル楽派第二世代のひとりとして自己を再定義した。作曲活動に加えてナッセンは指揮者として現代作品を中心に、アデスはピアニストとしてクラシック歌曲の伴奏や室内楽を中心に幅広く活動し、みな音楽家としては堅実な人生を歩んでいる。

 ヨーロッパ大陸の主要楽派や英国固有の楽派に身を寄せる作曲家が多い中、独自の道を歩むアウトサイダーも少数ながら存在する。尺八作品を創作の中心に据えたフランク・デニヤ(1943-) はその代表格だ。彼の選択は素朴な日本趣味ではなく、活動初期に民俗音楽学を専攻し、アジア・アフリカ諸国を数年間かけて実地調査した結果であり、英国在住の尺八奏者岩本喜一(1945-) との出会いも大きい。小編成作品を中心に、楽器の未知の可能性を探求する方向性は一貫している。またピアニスト=指揮者でもある彼は、米国の作曲家=トロンボーン奏者ジェームス・フルカーソン(1945-) とバートン・ワークショップをアムステルダムで結成し、実験主義音楽に的を絞って活動している。

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 ベネディクト・メイソン(1954-) の立ち位置も独特だ。活動初期は映画制作に取り組み、作曲に転じたのは30代に入ってからであり、音楽の制度自体を問い直す汎様式的かつ俯瞰的なスタンスは、しばしばカーゲルと比較される。コンサートホールの空間に着目し、個々の会場の音響特性を可聴化するために音楽を用いるという発想のサウンドインスタレーション的なシリーズは特にユニークだ。逆に、サイモン・ホルト(1958-) のように、書法の理論化を行わないナイーヴな作風の持ち主でも、アウトサイダーとしては受容されるのも英国の特徴である。武満徹や近藤譲の音楽が母国日本の次に(音楽学の研究対象としては日本以上に)受容されているのも、同様の背景によるのだろう。

 特異なスタンスの持ち主という点では、クリス・ニューマン(1958-) の右に出る者はいない。カーゲルに師事して決定的な影響を受け、初期にはパンクバンドを結成したりもしたが、ドイツに定住し画家を生業にした(生業にふさわしい、抽象と具象の狭間の地味で穏当な作風)ことで現代音楽業界の動向に左右されない足場を固め、「既存の音楽様式で意図的に下手に作曲する」という、現代美術を思わせるコンセプチュアルな方向を突き進む。このようなコンセプトには理解ある演奏家が欠かせないが、フィニッシーは彼の意図を深く汲んで録音にも積極的で、ピアノデュオも組んでいる。

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 フィニッシーが積極的に取り上げている作曲家では、ローレンス・クレーン(1961-) も興味深い。彼のコンセプトは調性音楽のありふれた語法のみで作曲することだが、その際に旋律やリズムの個性を極力排除しているのが特徴である。泰西名曲からミニマル音楽に至るまで、我々が聴いてきたのは個性的な癖で語法自体ではなかった、と気付かされる。現在音盤化されている作品は専らクラシック音楽の様式を持つが、彼はポピュラー音楽にも同様のコンセプトでアプローチしている。

 本稿で列挙した作曲家の大半は、作風によらず英国国外ないしクラシック音楽以外の分野で学んだ経験から出発している。英国の現代音楽状況の閉塞ぶりを物語るが、この状況への「新しい複雑性」第一世代の二人の姿勢は対照的だ。ファーニホウは基本的に「前途ある作曲家は一刻も早く英国を離れよ」であり、ヨーロッパ大陸で名声を確立しエピゴーネンが輩出する状況を前に、そこも見限って戦後前衛未開の地米国に拠点を移した。他方フィニッシーは、状況に積極的に関わって少しでも改善しようと演奏もマネジメントも献身的に行い、ISCM英国支部長も務めて同会名誉会員に選ばれた。彼は自筆人物紹介に、初リサイタルはスケンプトン、ナッセン、自作のほぼ全曲初演をフライブルクで行ったとわざわざ記している。ファーニホウが拠点にした都市での、「実験音楽も保守的な音楽も全部俺が引き受けた、俺は英国の作曲家=ピアニストだ」というマニフェストだったのだろう。



by ooi_piano | 2018-01-13 09:40 | POC2017 | Comments(0)