
京都在住の画家Mississippi氏:「大井浩明さんによる、morton feldman の演奏を聴きに行ったのは去年の夏。地下で、空調をとめて、知らないひとばかりで、いつ終わるともしれない不思議な曲で。明かりがついたとき、いちじかん潜水したみたいな気分でした。」
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ニューヨークのユダヤ系服職人の家庭に生まれたフェルドマンは、9歳で作曲、12歳でピアノを始め、15歳から作曲のレッスンも受け始めたが、本格的に職業音楽家を目指したわけではない。大学受験を前にいったんレッスンは止めたが、受験生の雰囲気が気に食わないと称して試験を放棄し、父が独立して始めた子供服会社でフルタイム事務員として働いた。余暇に作曲のレッスンも再開し、シュテファン・ヴォルぺ(1902-72) に師事した。だが、師の評価は「さまざまな書法を試みては否定するばかりで、5年間何の進歩もなかった」。最初の妻アーリーンと所帯を持つまでは、何事も中途半端だったようだ。
1950年1月、ミトロプーロス/NYPによるヴェーベルン《交響曲》の米国初演で彼はジョン・ケージ(1912-92) と出会って意気投合した。夫婦でケージと同じアパートに移り、同世代の美術作家たちとも知り合ってキャリアが本格的に始まるが、実はその前年に決定的な出会いがあった。レッスンを止める時、ヴォルペは彼にヴァレーズを紹介した。ヴァレーズは彼をたびたび自宅に招き、作曲の心得を伝えた。この経験がなければ作曲家にはなっていなかったと彼は回想している。後にニューヨーク州立大学バッファロー校で得た常勤職の肩書は、彼の希望通り「エドガー・ヴァレーズ記念教授」になった。
「音楽は音響現象であり、音が舞台から客席に達し再び舞台に戻るまでに要する時間を織り込んで作曲を行うべき」というヴァレーズの教えは、極端に少ない音数と遅いテンポで特徴付けられる、フェルドマンの特異な作風の土台になった。また、米国の作曲界に絶望していたヴァレーズは「この国で本物の作曲家になるためには、音楽で生計を立てようとしてはいけない」という持論を持ち、家業を生業とする彼を祝福した。なお、師弟関係を止めてもヴォルペとは、芸術談義を交わす友人として20年以上親交を続けた。
ケージとの出会いから程なく、彼はブーレーズの第2ソナタの米国初演を企画していたケージにピアニストとして同門のデヴィッド・チューダー(1926-96) を紹介し、ケージはクリスチャン・ウォルフ(1934-) への作曲レッスンを始め、「ニューヨーク楽派」の創立メンバーが揃った。一緒に行動することが多かった4人は、同1950年暮れのチューダーによるブーレーズの第2ソナタ米国初演後もケージとカニングハムのアパートに集まってケージの料理を待っていたが、この時フェルドマンに図形楽譜の発想が降りてきた。
紙切れに引いた4本の横線の隙間を高音域・中音域・低音域とみなし、縦線でグリッドに区切ってところどころを塗り潰すと、五線譜を使わず音高も指定せずとも音楽的持続が生まれる。このスケッチが音楽史上初の図形楽譜作品、チェロ独奏のための《Projection 1》(1950) の原型になった。グラフで旋律をスケッチする手法はシリンガー・ハウス(後のバークリー音楽大学)で教えられた作曲システムに先例があり、グリッドを切って決めたリズム構造に音符をはめ込む手法もケージが打楽器合奏曲のために開発したものだが、旋律楽器でも音高を確定せずに「作曲」が可能だと示したことは彼の独創である。これはケージが《易の音楽》(1951) で「偶然性の音楽」に至るよりも前の出来事だった。
彼が図形楽譜に至った背景として、ケージに導かれた美術への関心は見逃せない。翌年からは抽象表現主義の画家たちの交流会の常連になり、特にフィリップ・ガストンと親しくなった。「楽派のピアニスト」チューダーが、不確定性を含む譜面を読み解き演奏譜を作る作業を、作曲を学んだキャリアを演奏に生かす行為として歓迎したことも手伝って、各メンバーは思い思いの手法で「偶然性の音楽」を発展させた。ハーヴァード大学文学部に進んだウォルフと入れ替わるように、翌1952年からアール・ブラウン(1926-2002) が加わり、電子回路技師の経験を楽派初期の電子音楽に生かした。また、シリンガー・ハウスでジャズを学んだブラウンは、フェルドマンとは独立に図形楽譜に到達していた。
フェルドマンの50年代前半の図形楽譜作品は、《Projection》シリーズ5曲(1950-51) と《Intersection》シリーズ4+1曲(1951/53) で出版曲は尽くされ、それ以外の曲(自演が前提のピアノ曲が多い)は伝統的な確定譜面で書かれている。彼にとっての図形楽譜はアイデンティティではなくイディオムであり、複数の記譜法を並行して使う姿勢を、絵画と彫刻を並行して制作する美術作家に喩えている。グリッドと数字で構成される彼のストイックな図形楽譜は、「抽象絵画のような図形」というこの記譜法の一般的なイメージとは様相を異にするが、このイメージはむしろブラウン《Folio》(1952-53) に由来する。ブラウンは50年代半ばから度々ヨーロッパに赴いてダルムシュタット国際現代音楽で講師も務めており、ヨーロッパにおける図形楽譜のモデルになったのはブラウン作品だった。
クラシック畑の演奏家には音高は特権的で、それが不確定であることは大きなストレスになる。ある者は苦し紛れに、ある者はサボタージュとして既存の旋律の切り貼りで音高選択を処理し、音楽が台無しになることも少なくなかった。1953年を最後に、彼がいったん確定譜面に戻ったのも無理はない。だが、それも1956年まで。この年は、抽象表現主義最大のスター画家ジャクソン・ポロックが交通事故死した年であり、図形楽譜による作曲と抽象表現主義が分かち難く結びついている彼にとっても大きな出来事だったことは想像に難くない。またこの年は、彼の最初の結婚が破綻した年でもある。
彼は立ち直りも早く、同年にシンシアと再婚した。翌1957年にはピアノ連弾や複数のピアノのための曲に集中的に取り組み、「グリッド内の音符の音高のみ厳密に指定する」新しい書法を開発した。この書法は60年代末まで彼の作曲の中心になったが、ヨーロッパの「管理された偶然性」でも同様の書法が見られ、演奏実態にも即していた(むしろ音価は、厳密に指定しても守られることは殆どない)。ピアノ独奏曲《Last Pieces》(1959) や《Durations》シリーズ(1960-61) など、最初の代表作はこの書法から生まれている。翌1958年からグリッドと数字の図形楽譜作品も再び書き始めたが、あえて音高を指定せずにグリッド間を軽やかに飛び回る運動を生み出すという当初の意図は放棄して、トゥッティと沈黙が交代する、旋律的なソロがなるべく生じない展開に絞っている。
ペータース社は1960年からケージ、1962年からフェルドマンとウォルフの作品を網羅的に出版したが、この頃からチューダーは自作電子回路の即興的操作に基づいた活動に軸足を移し、ケージもチューダーに追随してマルチメディア・パフォーマンスに移行した。ウォルフはハーヴァード大学で西洋古典学の博士号を取得し、音楽とは無関係な研究生活に時間を割いた。相対的にフェルドマンへの注目が高まり、特に60年代前半は録音(ブラウンは録音技師の経験を積んだ後、Timeレーベル現代音楽部門のプロデューサーを任された)や大舞台での演奏(バーンスタイン/NYPによる定期演奏会での)に恵まれたが、新奇なコンセプトよりも漸進的な改良で質を高めてゆく彼の姿勢は米国では理解されず、振り回されただけとも言える。この時期を代表する《誤った関係と引き伸ばされた終結》(1968) や《カテゴリーの間に》(1969) などの作品は、60年代末に書かれている。
ただし、「音高のみ厳密に指定」書法の円熟期は、私生活は底の時期だった。1960年代半ばから家業は傾き、生計が苦しくなってゆくにつれて二度目の結婚生活も冷え込み、1970年には破綻した。またこの年は、ポップアート絶頂の中でも抽象表現主義を守ったマーク・ロスコとバーネット・ニューマンが相次いで世を去り、フィリップ・ガストンも毒々しい具象絵画に転向して長年の親交が終わった年でもある。彼にとって、不確定性を内包した作曲と抽象表現主義の絵画は切り離せないもので、この界隈との交流が失われた時点で不確定性を含む作品を書き続ける気力も失せ、確定譜面に回帰した。ケージとの出会いから始まった、彼の創作歴の過半数を占める長い「前期」が終わった。
しかし、落ちるところまで落ちたらスカッと切り替えられるのが彼の強み。彼がいつまでも「ケージ一派」という扱いだったのは譜面も同じペータース社から出版していたからで、作風を転換した機会に出版社も、ヨーロッパに強いウニヴェルザール社に切り替えた(逆に言えば、この時点で彼を「ケージの亜流」ではないと評価する人々も存在した)。また、ニューヨークで生まれ育った彼は、芸術の最新動向に触れられる都市生活に拘りを持っていたが、もはや家業では暮らせないのであれば背に腹は代えられない。教職で生計を立てることを前提に、内外数校の非常勤講師や客員研究員を経て、ルーカス・フォスの招きでニューヨーク州立大学バッファロー校に職を得て同地に居を移した。結婚生活よりも上だった都市生活の優先順位は、抽象表現主義と縁が切れたら下がったのだろう。
また彼は女性関係の切り替えも早い。確定譜面による最初の代表作《The Viola in My Life》シリーズ(1970-71) はヴィオラとアンサンブルの連作だが、ヴィオラ独奏者として想定されたカレン・フィリップスは新しい恋人に他ならない。彼女との関係が終わった後も、独奏楽器とアンサンブルという編成への偏愛は「中期」を特徴付ける。トゥッティと沈黙が交代し、トゥッティの音色変化に焦点を絞ったアンサンブル書法は、50年代末からの音高のみ厳密に指定した時期の方向性を受け継いでいるが、不確定性を排除した結果音色のコントロールはより精緻になった(近藤譲が最も影響を受けた部分である)。図形楽譜作品では既存の旋律の引用を防ぐため、不確定性を含む作品でも自己顕示欲の強い奏者の暴走を防ぐために、アンサンブル作品では旋律的なソロは極力排除していたが、確定譜面になればその心配はなく、むしろ差別化のために積極的に導入したのだろう。
この時期を代表する作品群は、《Cello and Orchestra》(1972) に始まる、独奏楽器とオーケストラのための連作である。この種の曲の演奏機会が得られるのは米国ではなくヨーロッパ、特に制度的に現代音楽に取り組むドイツの放送オーケストラであり、この連作でもチェロ、ピアノ(1975)、オーボエ(1976)、フルート(1977-78) のための4曲はみなツェンダー/ザールブリュッケン州立放送響が初演している。この連作に限らず、この時期の作品は楽器編成そのもののストイックなタイトルを持ち、自ら「ベケットの時代」と称していた。その総決算としてベケットに台本を依頼してオペラを書いたのは自然な成り行きだった。音響プロトタイプ3曲を書く入念な準備を経て、彼は《Neither》(1977) に臨んだ。彼がこの曲で「出し尽くした」ことは、ハイペースで書いていた声とアンサンブルのための作品を、この曲の後は殆ど書かなくなったことにも表れている。
長時間化と調性化で特徴付けられる「後期」と中期の境界は、前期と中期のように明確ではなく行きつ戻りつしたが、分水嶺を定めるならば《Violin and Orchestra》(1979) になる。独奏楽器とオーケストラの連作の最後に位置し、管弦楽書法は中期を引き継ぐ一方、独奏パートの旋律素材には以後の作品で再利用されたものが多い。この次に書かれたのが弦楽四重奏曲第1番(1979)、少数の素材を不規則に反復し演奏時間は1時間半を超える、後期のプロトタイプである。彼の番号付き弦楽四重奏曲はもう1曲、5時間を超える第2番(1983) だけだが、それ以外にも独奏楽器と弦楽四重奏という編成でさらに3曲ある。すなわち、中期におけるオーケストラが後期は弦楽四重奏に入れ替わった格好になる。長時間作品に見合う練習時間をオーケストラに求めるのは非現実的という実際的な理由に加え、この時期の彼が重視したのは音色の変化よりも旋律断片の記憶の中での変容なので、アタックが目立たない弦楽四重奏の滑らかな音表面は理想的な表現媒体だった。
また後期作品では、ピアノも弦楽四重奏と並ぶ大きな位置を占めている。弦楽四重奏を含まない編成では、ヴァイオリン、チェロ、フルート、打楽器からの組み合わせに、常にピアノが加わる。前期作品ではピアノが大きな役割を担っていたのは、自分で弾けることに加えてチューダーという信頼できる指標があったからだが、中期は独奏曲自体が少なくアンサンブル曲の中での役割も限られているのは、中期の協力者ウッドワードとの関係はそこまで緊密ではなかったということだ。だが後期は、高橋アキの「絶対的に静止した」タッチを基準にした長時間作品が、ピアノ独奏曲《三和音の記憶》(1981) を端緒に続々と書かれた。《バニータ・マーカスのために》(1985) もその中の1曲である。マーカスは1981年に博士号を取得し、フェルドマンの求婚を断ってニューヨークに移ったが、その後も密接な関係が続いた。彼女の公式サイトには「(フェルドマン後期にあたる)7年間の二人は分かち難く、手を携えて作曲し、音楽思考や発想を分かち合った」とある。
ニューヨークで活動を始めた彼女は、1982年に同地に移住してきた画家のフランチェスコ・クレメンテ(1952-) と親交を結んだ。80年代後半には連続サロンコンサートを共同企画している。イタリアに生まれ長年インドで暮らしていたクレメンテは、後期ガストンを思わせる具象画と抽象表現主義を受け継ぐ抽象画の二面性を持ち、晩年のフェルドマンも傾倒した。マーカスが委嘱し初演した彼の最後のピアノ独奏曲《マリの宮殿》(1986) はクレメンテに献呈されている。彼女の分析によると、この曲は彼女の旧作を明確に参照しているというが、本質的に1種類の素材を反復ごとに微妙に変容させてモノトーンと多様性を両立させる凝縮された書法は、《コプトの光》(1985) や《サミュエル・ベケットのために》(1987) にも見られる最晩年の新境地である。1987年6月、彼は研究室で博士号を取得したバーバラ・モンク(1953-) と結婚した。マーカスは彼女と親しく、結婚式では彼女のメイクを担当した。だがその数日後、胃潰瘍の手術を受けた際に末期の膵臓癌と診断され、同年9月に急逝した。葬儀では新妻ではなくマーカスが弔辞を述べている。
マーカスは弦楽四重奏のための《絨毯職人》(1986) で少女時代の父親からの性的虐待を題材にし、作曲家として知られるようになった。彼女のキャリアはPTSDの発症でたびたび中断されたが、児童虐待被害者の支援活動を通じて克服し、音楽活動の傍らフェルドマンとの仲睦まじい思い出を語ってきた。だが2014年、彼女はイタリアの音楽情報サイトsentireascoltareのインタビューの中で、大学院生時代に彼からたびたび性的暴行を受け、それが原因で結婚生活が破綻したこと、作曲の素材や発想を彼に盗用されていたことなどを初めて語った。「7年間の二人は分かち難く…」という記述の真意、《絨毯職人》というタイトルの真意(彼は後期作品のテクスチュアをペルシャ絨毯に喩えていた)、彼女と出会うまでの彼の華やかな女性遍歴などとも整合的である。情報ソースはこのインタビューと当時のネット上の反応への彼女名義のコメントに限られ、また一方の当事者は四半世紀以上前に世を去っており、慎重に扱うべき事例ではあるが、複雑な権力関係を伴うハラスメントの被害者が真実を語るまでにはしばしば長い時間を要することは広く知られている。この事例は近年の#MeTooムーヴメントの中で再び注目され、追加取材を行ったジャーナリストもいるようだが、現時点で大きな矛盾は見出されていない。
ただし、後期フェルドマン作品は実はマーカスが作曲した、という単純な話でもない。彼女の作品と後期フェルドマン作品の持続の質は違い、それは彼の中期までの創作の積み重ねに由来する(ちなみに彼女は、「私と出会うまでの彼の音楽は退屈」という姿勢)。ケージと出会ってからの彼は、映画音楽のような特殊な機会以外は基本的に無調で作曲を行ってきた。後期の作風への飛躍は決して小さくなく、彼女がいなければ不可能だった。ハラスメントに寛容な時代背景と、父親からの性的虐待を内面化していた彼女の背景が、DVの共依存に似た不幸な関係を生んだ(80年代までの彼女のキャリアが「優秀な弟子」としての評価に支えられていたことも否定はできない)。彼女の痛みを意識することで、宗教的崇高さに傾きがちだった彼の後期作品への視座が広がることに期待したい。
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【cf. リンク集】
https://sentireascoltare.com/articoli/bunita-marcus-intervista-2014/
https://nmbx.newmusicusa.org/hearing-and-remembering-trauma-in-bunita-marcuss-the-rugmaker/
https://nmbx.newmusicusa.org/who-is-bunita-marcus/
http://slippedisc.com/2014/12/us-composer-accuses-another-of-sexual-violence/ (コメント欄付)
https://slippedisc.com/2017/08/did-the-composer-write-this-piece-for-a-woman-he-raped/ (コメント欄付)
http://www.good-music-guide.com/community/index.php/topic,28007.20.html
https://twitter.com/bunitamuse

Triadic Memories is jointly dedicated to Aki Takahashi and Roger Woodward. After the first German performance, Morton Feldman laconically described it as the “biggest butterfly in captivity", and it is indeed vast, lasting over an hour and a half. During the eighties, Feldman's pieces began to escalate in length – compared to the 5-hour String Quartet No. 2 or the 4-hourFor Philip Guston, Triadic Memories is almost aphoristic. Why these enormous lengths? Feldman says: "Personally, l think the reason the pieces are so long is that form, as I understand it, no longer exists... I'm not looking so much for a new form, I’d rather substitute the word scale or proportion, and in music it's very difficult to distinguish between a thing's proportions and its form...My pieces aren't too long, most pieces are actually too short...lf one listens to my pieces, they seem to fit into the temporal landscape I provide. Would you say that the Odyssey is too long?”
Let's not argue about Homer; there are other factors. During the eighties, Feldman became obsessed with 19th century Turkish carpets. Part of this interest was financial, and allowed him to die rich. But the patterning of these carpets also became a (musical) preoccupation for him, and is reflected in titles of late pieces such as Why Patterns? and Crippled Symmetries.This interest led him to completely reassess the role of pattern and repetition in his work, and, as indicated above, of 'scale':
“Music and the designs or a repeated pattern in a rug have much in common. Even if it be asymmetrical in its placement, the proportion of one component to another is hardly ever substantially out of scale in the context of the whole. Most traditional rug patterns remain the same size when taken from a larger rug and adapted to a smaller one...
I was once in Rothko's studio when his assistant restretched the top of a large painting at least four times. Rothko, standing some distance away, was deciding whether to bring the canvas down an inch or so, or maybe even a little bit higher. This question of scale, for me, precludes any concept of symmetry or asymmetry from affecting the eventual length of my music.
As a composer I am involved with the contradiction in not having the sum of the parts equal the whole. The scale of what is actually being represented, whether it be of the whole or of the part, is a phenomenon unto itself. The reciprocity inherent in scale, in fact, has made me realize that musical forms and related processes are essentially only methods of arranging material and serve no other function than to aid one's memory.
What Western forms have become is a paraphrase of memory. But memory could operate otherwise as well. In Triadic Memories, there is a section of different types of chords where each chord is slowly repeated. One chord might be repeated three times, another, seven or eight – depending on how long I felt it should go on. Quite soon into a new chord I would forget the reiterated chord before it. I then reconstructed the entire section: rearranging its earlier progression and changing the number of times a particular chord was repeated.
This way of working was a conscious attempt at formalizing a disorientation of memory. Chords are heard repeated without any discernible pattern. In this regularity (though there are slight gradations of tempo) there is a suggestion that what we hear is functional and directional, but we soon realize that this is an illusion: a bit like walking the streets of Berlin – where all the buildings look alike, even lf they're not.”
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For Bunita Marcus was untypical of my music, but I’ll tell you exactly how I wrote it, formally speaking. Not the notes; the notes didn’t write the piece. I have a talent for notes, the way some people have a talent for catching fish or for making money. I have no problems with notes. I just pull them back out of my ear – no problem at all.
For me, rhythm doesn’t exist. I would rather use the term “rhythmicize.” I started to get interested in metre; for me, at the moment when you use it, it implies the question, “How do I get beyond the bar-lines?” I wrote down 4/4, left a little space, drew a bar-line and then I wrote over that bar-line. “The black hole of metre,” because some people shouldn’t come too close to the bar-line – there is a lot of music where the style tends to pull it across the bar-line.
For Bunita Marcus mainly consists of 3/8, 5/16 and 2/2 bars. Sometimes the 2/2 had musical importance, like at the end of the piece. Sometimes the 2/2 acts as quiet, either on the right or the left or in the middle of a 3/8 or a 5/16 bar, and I used the metre as a construction – not the rhythm – the metre and the time, the duration which something needs.
What finally interested me were the “development sections,” where I was using mixed-metre. It went 2/2, 3/4, 5/8 … so I used metre up to a certain point as a period of instability. I didn’t consider it a development section where I – I can’t find a better expression – developed the metre. Then, like every other composer, I thought, how much change is possible in this grid? And I said; accelerate it or slow it down. But I couldn’t make a definitive plan – that wouldn’t work. It can only work if you go along with the material and see how it is turning out.
Morton Feldman
