Portraits of Composers [POC] 第37回公演 《北米ピアノ・アンソロジー》
大井浩明(ピアノ)
2018年10月6日(土)17時開演(16時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】essai-Ïo(エッセ・イオ) poc2018@yahoo.co.jp
【第一部】
●M.バビット(1916-2011):《3つのピアノ曲》(1947) 8分
《パーティションズ》(1957) 3分
《ポスト・パーティションズ》(1966) 4分
●E.カーター(1908-2012):《夜想(ナイト・ファンタジーズ)》(1980) 22分
《懸垂線》(2006) 3分
〔休憩10分〕
【第二部】
●G.クラム(1929- ):《マクロコスモス》第1巻(1972)+第2巻(1973)〔黄道十二宮による24の幻想小曲集〕 65分
1. 原初に響あり(創世1) [巨蟹宮] - 2. 海神プローテウス [双魚宮] - 3. 牧歌~紀元前1万年のアトランティス王国より [金牛宮] - 4. 十字架 [磨蝎宮] - 5. 輕舸乗りの幻 [天蝎宮] - 6. 夜の咒1 [人馬宮] - 7. 蔭の音楽~エオリアン・ハープのための [天秤宮] - 8. 果てしなき魔法円(無窮動) [獅子宮] - 9. 時の深淵 [処女宮] - 10. 春の焔 [白洋宮] - 11. 夢の面影(愛の死) [双子宮] - 12. 渦巻く天の川 [宝瓶宮] - 13. 暁の音楽(創世2) [巨蟹宮] - 14. 神秘和音 [人馬宮] - 15. 死雨変奏曲 [双魚宮] - 16. 幻日(永遠の影法師) [双子宮] - 17. 幽遊夜曲~ストーンヘンジの道士達へ(夜の咒2) [処女宮] - 18. 石像鬼 [金牛宮] - 19. トラ・トラ・トラ!(ワレ奇襲ニ成功セリ)~黙示録的カデンツァ [天蝎宮] - 20. ノストラダムスの大予言 [白洋宮] - 21. 宇宙風 [天秤宮] - 22. 竈星からの呼び声 [宝瓶宮] - 23. 銀河の鐘の連禱 [獅子宮] - 24. 神羊誦 [磨蝎宮]
〔休憩10分〕
【第三部】
●C.ヴィヴィエ(1948-1983):《シーラーズ》(1977) 13分
●J.C.アダムズ(1947- ):《中国ゲート》(1977) 5分
《フリュギアのゲート》(1977) 24分
●J.ゾーン(1953- ):《雑技団巡業(カーニー)》(1989) 12分
〔休憩10分〕
【第四部】
●D.ゼミソン(1980-):《霞を抜けて》(2018、委嘱新作初演) 7分
●J.C.アダムズ(1947- ):《アメリカン・バーセルク》(2001、日本初演) 6分
●J.ゾーン(1953- ):《爾の懷ふを爲せ》(2005、日本初演) 22分
ダリル・ゼミソン:《霞を抜けて Through the mist, empty sky》(2018、委嘱新作)
霞のような三層の音楽素材が厚くなり、次第に消散していく。バスのクラスターは、次第に個々の音符になっていく。旋律が鍵盤の上に大きく広がり、だんだん早くなり、そして遅くなっていく。鍵盤中央部の倍音は、あるときは複雑な、またあるときは簡素なニュアンスの微分音の和音を伴なって、本曲のサウンドスケープを彩っていく。(ダリル・ゼミソン)
ダリル・ゼミソン Daryl Jamieson, composer
1980年、カナダ・ハリファックス生。ウィルフリッド・ローリエ大、英ギルドホール音楽演劇学校、ヨーク大を経て、文部科学省奨学生として来日、東京藝大で近藤譲に作曲を師事。代表作にモノオペラ《松虫》(2014年)、和楽器五重奏のための《憂きこと聞かぬところありや》(2017年)、大野一雄に献呈された声・琵琶・笙のための《スペクトル》、尺八協奏曲《鎖されし闇》等。作品はボッツィーニ弦楽四重奏団やMusiques Nouvelles、Orchestre National de Lorraine、アンサンブル室町、井上郷子(ピアノ)、上田純子(琵琶)、アルノルト・シェーンベルク室内楽団、ヨーク大学室内楽団などによって演奏されている。2018年、第3回一柳慧コンテンポラリー賞受賞。現在、ミュージック・シアター「工房・寂」アーティスティック・ディレクター、作曲家集団「Music Without Borders」メンバー、昭和音大非常勤講師。 http://daryljamieson.com/
POC流・北米「アカデミズム」小史──野々村 禎彦
POCシリーズで取り上げた北米の作曲家はアイヴズ、ケージ、フェルドマンと、広義の実験主義の作曲家に限られ、今回がそれ以外の潮流をまとめて紹介する機会になる。とは言っても、ピストン、ロイ・ハリス、コープランド、ウィリアム・シューマン、バーバーら、パリに留学してブーランジェに学んだ新古典主義者たちやその周辺までは取り上げない。作品の質や企画意図との整合性以前に、彼らは第二次世界大戦後の米国アカデミズムの主流ですらない。米国発の抽象表現主義を現代美術の主役に押し上げた以上、音楽は旧態依然では格好がつかないという事情もあろうが、ナチスの伸張に伴ってストラヴィンスキー、ヒンデミット、ミヨーらヨーロッパの新古典主義を代表する作曲家たちも「米国の作曲家」になっており、そのエピゴーネンなど用済みということだったのだろう。
ピッチクラスセット理論は、創始者バビットの手を離れて音楽学者たちの手中で発展し、次世代を代表するチャールズ・ウォーリネン(1938-) は既にバビットと直接の接点はない。濃密な師弟関係の中で育まれた新ウィーン楽派の12音技法や、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習という共通の場で育まれたヨーロッパ戦後前衛の総音列技法とは成り立ちが違う。このようなプラグマティックな標準化志向と、貴族的な真理探究よりも短期的な資金獲得を重視して流行のテーマに集中する米国の学問的体質が相まって、前衛の時代の米国のアカデミズムはピッチクラスセット理論一色になった。平明な米国流新古典主義で一世を風靡したコープランドや、バビットの師だったセッションズすら、この流れの中でセリー主義者になった。ただしこの「総音列技法」は、英語圏の現代音楽史ではヨーロッパ戦後前衛のものと同列に扱われるが、それ以外の地域ではほぼ無視されている。複雑な迷宮を志向するヨーロッパ流とは対照的な、聴取可能な構造への志向も特徴的だが、この技法を使い始めて20年近く経た《ポスト・パーティションズ》(1966) も音楽的には殆ど差がないのが一番の問題だ。これはバビットに限った話ではなく、「伝統を墨守するアカデミズム」の証に他ならない。
《交響曲》はブーレーズがNYPの首席客演指揮者を務めていた時期に献呈され初演された。ケージとの決裂以来米国音楽には辛辣だったブーレーズも、ヨーロッパ的な迷宮志向の彼は唯一高く評価しており、以後ヨーロッパからも多くの委嘱を受けるようになる。カーターが国際的評価を確立する中で、彼の作品を自前できちんと演奏しようとする機運も高まり、米国の演奏水準への絶望から作曲の中心をシンセサイザーに移していたバビットが、再び器楽曲を作曲の中心に据えるようになるような波及効果もあった。ただし80年代に入ると、カーターは「複雑性」からは距離を取り始める。既に70歳を越えた年齢も大きな要因だろうが、結果的に最晩年までコンスタントに委嘱を得られたのはこの路線変更の賜物である。《ナイト・ファンタジーズ》(1980) はその端緒になった。
ミニマル音楽はニューヨーク楽派以降の米国実験主義で最も影響力を持った潮流である。インド音楽とフルクサスの強い影響から出発したラ=モンテ・ヤング(1935-) やテリー・ライリー(1935-) と、よりアカデミックな発想から出発したスティーヴ・ライヒ(1936-、ベリオに師事してセリー主義を見限る) やフィリップ・グラス(1937-、実験主義に向かう前はブーランジェに師事) がサイケデリック・ムーヴメントの中で反復と電気増幅の魅力に目覚め、協同歩調を取って始まったわけだが、次世代になるとアカデミズムに取り込まれてゆく。ジョン・クーリッジ・アダムズ(1947-) はその代表である(米国実験主義の「素朴派」にあたるジョン・ルーサー・アダムズ(1953-) と区別するためにミドルネームも表記される)。グラスとライヒは、オペラや管弦楽曲の委嘱を受ける中で機能和声を用いた「マキシマル」な書法に移行してゆくが、その方向性ではアカデミックな手堅い基礎を持つJ.C.アダムズに優位性があり、表舞台の主役になってゆく。オペラ《中国のニクソン》(1987) は、ニクソンと毛沢東の和平会談という題材も手伝って内外で再演が相次ぎ、グラス《浜辺のアインシュタイン》(1975) と並ぶ米国現代オペラの代表作と看做されるようになった。音楽も台本も現在でも評価は割れているが、舞台芸術では炎上商法が特に有効という確信を得て、金融自由化に支えられたバブル下でのブームに乗って現時点で8作を数え、すっかりオペラ作曲家と認知されている。ただし彼の本領はピアノ曲や小編成作品にあり、このような受容は果たして幸福だったのだろうか。ミニマル音楽第一世代の作曲家たちも完全に取って代わられたわけではなく、グラスはポップカルチャーとの折衷、ライヒはメディアミックス、ライリーとヤングは純正律探求と棲み分ける形になった。
クロード・ヴィヴィエ(1948-83) は70年代前半にケルン音大でシュトックハウゼンに学び、フォルメル技法を使い始めた時期の師の関心を受け継いだ。彼は70年代半ばにバリ島や日本に滞在して民俗音楽を深く身に着け、《サマルカンド》(1976) からオリエンタルな旋律素材を使い始めたが、構成手法は依然師の影響下にあった。60年代半ばに「世界音楽」を提唱したシュトックハウゼンのもとには主に非ヨーロッパの作曲家が集まり、彼の民俗音楽志向もその流れの中で育まれた。オペラ《コペルニクス:死の祭祀》(1979) と《オリオン》(1979) で旋法的な旋律の儀式的なユニゾンを基調とするヘテロフォニックな独自語法がほぼ確立されたが、前者では器楽奏者も歌手と同等に動き回る舞台構成、後者では生々しい声で音楽を異化する所作に、まだ同時期の師の面影が残っている。翌年の《孤独な子供》(1980) と《ジパング》(1980) で遂に独自語法のみで勝負する態勢が整ったが、その3年後にパリで男娼を装った19歳の強盗と同宿し数日後に刺殺体で発見された。エキゾティシズムをはるかに超えた「想像上の民俗音楽」に至った彼は、東海岸/西海岸、アカデミズム/実験主義といった表層的な二項対立に収斂しがちな北米の音楽状況の中で、第三極として機能したカナダを象徴する作曲家である。実験主義をアカデミックに精査したジェームス・テニー(1934-2006) も長らくカナダを拠点にしていた。日本の民俗音楽に魅せられて移り住み、日本の風土に即した音楽を探求している委嘱作曲家のゼミソン・ダリル(1980-) も、このカナダの「伝統」に連なっている。
最後にジョン・ゾーン(1953-)。音楽家として総合的に判断すると今回取り上げる中で最も重要な存在であり、「現代作曲家」としての側面は彼のごく一部に過ぎない。彼は70年代後半、NYダウンタウンの即興音楽を牽引するサックス奏者として頭角を現した。当時の即興音楽を代表する潮流は、デレク・ベイリー(1930-2005)、エヴァン・パーカー(1944-) ら英国の音楽家が牽引するヨーロッパ自由即興だったが、後期ヴェーベルンをモデルに録音を聴き返しつつ反復練習して「いかなる既存語法の痕跡も排除」する即興のあり方は、同質的なコミュニティだからこそ可能な姿勢で、この時点で既に新たな伝統語法と化しつつあった。ワールドミュージックやポップ音楽寄りの音楽家も多く、複数のターンテーブルを操って既存の録音のカットアップを「音楽」として提示するクリスチャン・マークレイ(1955-) のような音楽家(近年は映像を同様の手法で処理する美術作家としての活動の方が中心)も含む、NYダウンタウンのコミュニティにはそぐわない。そこでゾーンが考案したのは、即興の細部を指定せず音楽の成り行きを決めるルールのみ定めた、一連の「ゲームピース」だった。このような音楽のあり方はシュトックハウゼンのケルン・アンサンブルやNew Phonic Artのような60年代の現代音楽側の集団即興で既に試みられていたが、同質的な固定メンバーのアンサンブルと多様な背景を持つ不定メンバーのアンサンブルでは土台が違い、さらにパンクやハードコアを偏愛する彼の「速度」フェチの嗜好も相まって、NYダウンタウン即興を特徴付ける傾向が固まってゆく。特に《コブラ》(1984) は、具体的な音楽様式を一切指定せずに指揮者役の嗜好の表出も排除した、音響のサンプリングや指揮者への反逆まで含む柔軟なシステムであり、広範な影響を与えた。彼が80年代後半から90年代初頭まで高円寺で暮らしていたこともあり、日本では巻上公一を中心とする定期公演が現在まで続き、山本裕之らは音楽教育に取り入れている。多様式の混淆で特徴付けられるNYダウンタウン即興の傾向はゲームピースに留まらず一般化され、相性を意識した慎重な人選よりも意外な出会いを重視する方向に、即興音楽のあり方も変えた。
だが流行には終わりがある。ヘンリー・カウとアート・ベアーズに参加し、70年代英国の実験的ロックを代表するギタリストだったフレッド・フリス(1949-) が1979年にNYに移住すると、その知名度ゆえにNYダウンタウン即興はヨーロッパの即興フェスティヴァルの注目を集め、ゾーンらの音楽は徐々に世界に広まっていったが、「意外な出会い」も日常化すると新鮮さは薄れ、相性の良い組み合わせでなければ共演を繰り返しても深化は起こらない。90年代に入ると、素材を限定し相性を重視する(ヨーロッパ自由即興との差異化は持続音志向とエレクトロニクス志向で行う)「音響的即興」が世界各地で勃興し始め、数年後にはヨーロッパ自由即興の大家たちが彼らの志向を意識した方向転換を行ったことも手伝って、再び主役は入れ替わった。ゾーンはこの変化をいち早く察知しており、90年代に入ると活動の中心をユダヤ音楽と古典的作曲に移し始める。そのような作品は日本のDIWレーベル内に立ち上げたサブレーベルAvantでリリースし、NYダウンタウン即興の仲間たちの発表場所も確保した。1995年にはAvantレーベルの担当者杉山和紀と共にNYでTzadikレーベルを立ち上げ、プロデュース活動もさらに拡大した。彼は元々初期カーゲル作品に衝撃を受けて音楽を始め、〈九尾の猫〉(1988) や〈カーニー〉(1989) などの初期作曲作品ではNYダウンタウン即興の音楽様式を確定譜面に移植していたが、その後のより構築的な作曲作品では私淑するウォーリネンの書法を参照しており、この意味で米国アカデミズムの継承者でもある。彼の作曲作品はアカデミックにも評価されており、コロンビア大学による米国の作曲家の生涯業績賞であるウィリアム・シューマン賞は、最初の20年は専らアカデミックな作曲家の中で回されていたが、00年代以降は2000年のライヒを皮切りに、2007年のゾーン、2009年のポーリン・オリヴェロス(1932-2016)、2015年のJ.L.アダムズと、専ら実験音楽の作曲家に与えられている。ゾーンの早期受賞には、Tzadikレーベルからウォーリネンやバビットらの作品集をリリースした貢献も考慮されたのかもしれない。