大井浩明(ピアノ)
2018年12月14日(金)19時開演(18時半開場)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp

●アンリ・デュティユー(1916-2013):《コラールと変奏》(1948) 10分
●三善晃(1933 - 2013):《ピアノソナタ》(1958) 20分
I. Allegro - II. Andante - III. Presto
●松村禎三(1929-2007):《ギリシャに寄せる二つの子守唄》(1969) 9分
●三善晃:《24の前奏曲集「シェーヌ(鎖)」》(1973) 17分
第一部 〈A〉〈B〉〈C〉〈B'〉〈C'〉〈B"〉〈C"〉〈Aへの復帰〉-小さな鎖〈I〉〈II〉
第二部 〈A〉〈B〉〈C〉〈D〉〈短い綜合〉-小さな鎖〈III〉 (ABCB'D)
第三部 小さな鎖〈IV (C.H.A in Es)〉〈A〉〈B〉〈C〉〈D〉-復帰と応照〈A〉〈B〉〈C〉
(休憩10分)
●野平一郎(1953- ):《アラベスク第2番》(1979/89/91) 10分
●三善晃:《アン・ヴェール》(1980) 7分
●野平一郎:《間奏曲第1番「ある原風景」》(1992) 6分
●三善晃:《円環と交差Ⅰ・Ⅱ》(1995/98) 8分
●野平一郎:《間奏曲第2番「イン・メモリアム・T」》(1998) 4分
●松村禎三:《巡禮 I/II/III》(1999/2000) 10分
(休憩10分)
●野平一郎:《響きの歩み》(2001) 8分
●野平一郎:《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006) 11分
●棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/2018、改訂版初演) 3分
●野平一郎:《間奏曲第7番》(2014) 7分
棚田文紀 Fuminori Tanada, composer

1961年岡山市生。河田文忠氏に作曲、和声法、対位法を学ぶ。1979年東京藝術大学音楽学部作曲科入学。作曲を北村昭、南弘明、八村義夫の各氏に、ピアノ伴奏方をアンリエット・ピュイグ・ロジェ女史に師事。1984年、フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ国立高等音楽院に入学。作曲科、管弦楽法科、ピアノ伴奏科の全科でプルミエプリ(一等賞)を得て卒業。その間、クロード・バリーフ、ポール・メファーノ、ベティ・ジョラス、ジャン・ケルネール、ソランジュ・キャパランの各氏に師事。以降、作曲家、ピアニストとしてフランスを中心に活動を続けている。1991年よりパリ国立高等音楽院のフルート科伴奏者を務める。また現代音楽のアンサンブル、イティネレールのピアニストとして数多くの現代作品の初演にたずさわる一方、2014年よりパリ国立高等音楽院室内楽科の教授として後進の指導にも当たっている。作曲家としては、エマニュエル・パユの為に書かれたフルート四重奏曲、レ・ヴァン・フランセの為の六重奏曲、サクソフォーン四重奏曲、ギターとアンサンブルの為の作品、フルート協奏曲、二本のフルートとフルートオーケストラの為の作品、Lancelot国際コンクールの為に書かれたクラリネット協奏曲などがある。現在はレ・シエクル(Les Siècles)の為のオーケストラ作品を作曲中。作品の多くはÉditions Henry Lemoineから出版されている。
POC流・日本「アカデミズム」小史──野々村 禎彦
今年度のPOCにおける
米国アカデミズムの総説では、伝統的アカデミズムは自明なものとして扱ったが、日本の場合はそれほど単純ではない。ただし戦前のアカデミズムは、米国と同程度に自明である。ヨーロッパの伝統音楽(日本固有の音楽ではない)を教える機関として東京音楽学校が設立され(明治維新後に作られた「日本画」という擬似伝統の比重が大きい東京美術学校とは対照的)、ドイツ人と独語圏留学組が教授陣を占めた。作曲は大学院修士課程に相当する研究科の片隅で細々と教えられてはいたが、本科で演奏を専攻した後、海外留学で学ぶのが通例だった。例えば山田耕筰(1886-1965) は声楽部を卒業後ドイツで作曲を学び、信時潔(1887-1965) は器楽部でチェロを専攻した後ドイツで作曲を学んだ。山田は指揮活動に時間を割き、文化学院などで教鞭を執ったが専門教育には関わらなかったのに対し、信時は東京音楽学校教授として本科作曲部の創設(1932) に尽力し、下総皖一(1898-1962)、橋本國彦(1904-49)、細川碧(1906-50)、長谷川良夫(1907-81)、髙田三郎(1913-2000)、大中恩(1924-) らを育てた。戦後の日本合唱界で活躍した髙田や大中の世代になると、作曲部で学んで海外留学は経ていない。

このようにして日本でも作曲におけるアカデミズムが確立し、アカデミックな様式に忠実な作風が楽壇で評価されて教職に結びつき、公的行事でもアカデミックな様式に沿ったオリジナルな音楽が用いられるようになる。ただしこのアカデミズムは米国と同様に、極めて内向きなものだった。1934-37年に日本に滞在し、教育や日本人作品の海外への紹介に尽力したロシア生まれフランス育ちの作曲家=ピアニスト、アレクサンドル・チェレプニン(1899-1977) は、日本人が対象の作曲コンクールを1935年に主催したが、ルーセルらフランスのアカデミックな作曲家たちが審査した結果は、1位は伊福部昭(1914-2006)、2位は松平頼則(1907-2001) と、ほぼ独学でフランス新古典主義を研究していた在野の作曲家たちが上位を占めたのは象徴的である。公的行事のためのアカデミックな作品の比重は、日本が戦争に向かう中で高まったが、戦後には「戦争責任」を問われて東京音楽学校作曲部の多くの教員が職を解かれた。理論書の執筆や童謡・文部省唱歌に関わり教授職への昇進は遅かった下総や長谷川は戦後も藝大教授を続けたのに対し、ウィーン留学を経て早々に東京音楽学校教授に就任し旺盛な創作を行った橋本や細川は失職し、失意の中で早逝した。特に橋本は、作曲部創設に際して教授に着任する以前はバレエ音楽や歌謡曲にも取り組み、留学の帰途にロサンゼルスでシェーンベルクから12音技法を学び、フランス近代音楽も独自に研究して学生たちにも薦めるなど、作曲家としても教師としても進歩的で懐の広い人物だった。

彼らと入れ替わる形で1947年に着任し、アカデミズムの中心人物になってゆくのが池内友次郎(1906-91) である。池内は戦前には稀少なフランス留学組で、帰国後の活動も作曲よりも音楽理論や教育が中心で「戦争責任」を問われる余地はなかった。他方1946年には伊福部が着任した。実作に精通した彼は学生に慕われ、芥川也寸志(1925-89) や黛敏郎(1929-97) の初期の作風には強い影響が見られる。ただし、1949年に東京美術学校と合併し東京藝術大学に改組される中で、芥川も黛もアカデミーには残らず、伊福部も主著『管絃楽法』上巻(1953) 出版に先立って藝大を辞している。彼らが教職に頼らない道を選んだ背景には、商業的なピークに向かいつつあった日本映画の音楽を担当すれば、生活には困らなかったという時代状況が大きい。アカデミズムからも国際的な戦後前衛の潮流からも距離を置いた、早坂文雄(1914-55) や
武満徹(1930-96) のような作曲家が主導的な役割を果たした日本作曲界の特殊性は、映画音楽が商業音楽教程の最終段階としてシステムに組み込まれている米国とは対照的な、当時の日本映画のあり方に多くを負っている。

1951年、旧制東京音楽学校研究科を修了した黛と矢代秋雄(1929-76) は、パリ音楽院に留学した。伊福部の影響を受け在学中からジャズバンドでも活動していた黛は、保守的なパリ音楽院では学ぶものなしとして1年で帰国したが、池内の影響を受けた矢代は1956年まで在学し、後に留学してきた
三善晃(1933-2013) と親交を結んだ。この時点で、戦後日本のアカデミズムの骨格は作られたとも言える。ただし、フランスのアカデミズムを範とすることには矛盾がある。現地に馴染んだら、もはや日本に戻る理由はない。矢代の場合は作曲で一等賞を取れなかったのが帰国の理由だが、丹波明(1932-)、
平義久(1937-2005)、今回改作初演が行われる
棚田文紀(1961-) らは現地で職を得て音楽活動を続けている。また、藝大に飽き足らず中退して1954年からパリ音楽院に留学した
篠原眞(1931-) はさらに意識が高く、一等賞で卒業しても満足できずGRMでミュジック・コンクレートを学び、師メシアンに助言されてダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加し、ケルンでB.A.ツィンマーマンとケーニヒに学び、シュトックハウゼンの助手を経てユトレヒトのソノロジー研究所に職を得た。アカデミズムを極めたら、戦後前衛に目覚めてしまったわけだ。

帰国後の矢代は国内で受賞を重ね、野田暉行(1940-)、池辺晋一郎(1943-)、北爪道夫(1948-)、
西村朗(1953-) ら、海外留学を経ずに藝大や東京音大の教授陣の中核になった作曲家たちを門下から輩出した。アカデミズムが完成すれば海外留学の必要はなくなり、むしろポスト前衛の時代には「前衛」側が、国際的潮流の中での立ち位置を海外留学で確認するようになった。西村や権代敦彦(1965-) は日本のアカデミズム内では異色だが(権代は留学先だけ見れば「前衛」側のようだ)、旋法性で特徴付けられる彼らの作風は、比較的早くからアカデミズムに分類されていた。アカデミズムの対象は徐々に広がってゆくもので、結成当初はフランスの「アカデミズムの反逆者」だったスペクトル楽派も、近年は世界各地でアカデミズムの一部になりつつある。前衛志向が強いと見做されてきた八村義夫(1938-85)、
甲斐説宗(1938-78)、川島素晴(1972-) らも、そろそろアカデミズムに分類されても良い時期かもしれない。「娯楽の王様」が映画からテレビに移り、高度経済成長も曲がり角を迎えた後は、映画音楽が作曲家のキャリアの抜け道として機能する状況ではなくなった。委嘱のみで生計を立てられる作曲家は国際的にも数えるほど、演奏家とは違って個人レッスンは生計を立てる手段には成り得ない以上、何らかの形で教職に就くことが作曲家には普通になっており、それだけではアカデミズムの要件にはならない。自らの作風ないし美学を受け継いだ弟子が楽壇で評価されるサイクルの当事者のみが、アカデミズムと呼ぶにふさわしい。

八村は棚田、野川晴義(1962-)、藤家渓子(1963-) ら、美学の一端を受け継いだ弟子を輩出したことで、甲斐は禁欲の美学を受け継いだ嶋津武仁(1949-) や伊藤祐二(1956-) を育て、また作曲指導を通じてピアニスト井上郷子(1958-) を創造的な選曲・委嘱活動に導いたことで、川島は「演じる音楽」のコンセプトを真摯に受け止めて、極端なコンセプトの重要性を理解する弟子を育てつつあることで、アカデミズムの要件を満たす。逆に日本における12音作曲の草分けである柴田南雄(1916-96) や入野義朗(1921-80) は、音楽史観や音楽理論の後継者は育てたものの、作曲美学は自分限りと割り切っており、アカデミズムには分類しにくい。ただし柴田は、藝大教授と作曲家の両立は困難と気付いて教職を辞した後、民謡を素材とするシアターピースという独自の鉱脈を探り当てた。アカデミーでの地位が上がると雑用に追われて作曲ができなくなる(最悪の場合は矢代のように過労死する)という日本のアカデミズムの問題点を、柴田は身をもって実証した。

前置きが長くなったが、これでようやく今回の主役である
松村禎三(1929-2007)、三善、
野平一郎(1953-) の位置付けに入る準備が整った。3人とも池内の弟子ないし孫弟子だが、池内や矢代のような典型的な日本のアカデミズムからは逸脱しており、そこに彼らをPOCシリーズで取り上げたポイントがある。彼らは戦後前衛の宿敵ではなく、少なくとも前衛の時代には同じ山に反対側から挑むライバルだった。また、日本においては前衛とアカデミズムの対立構造は、八村、池辺、毛利蔵人(1950-97, 三善に師事)、柿沼唯(1961-, 松村に師事) らアカデミズムの有望若手を積極的に助手(主に大編成作品の浄書を担当)として採用した武満の政治的センスによってあらかじめ無化されていた。このあたりも音楽プロデューサーとしての武満の才覚である。
松村は
旧制三高(現京大教養部)卒業後上京し、清瀬保二(1900-81) の知遇を得て池内に紹介されて作曲を学んだ。音大受験前に未来の指導教官に私的に学んでおくのは日本のアカデミズムの常道だが、松村は結核を発症して受験に失敗し、5年間の療養に入る。結局受験は諦めて作曲を再開し、退院年の《序奏と協奏的アレグロ》(1955) で日本音楽コンクール作曲部門管弦楽の部1位となり楽壇デビューした。この時、伊福部が審査員として松村作品を高く評価した縁で作曲を師事する。石井眞木(1936-2003) も同年、ベルリン留学に備えてかねてから知遇のあった伊福部に師事しており、前衛の時代にオスティナートを基調とする音群音楽で一世を風靡したふたりは伊福部の影響下に語法を育んだ。1958-61年にベルリンで学んだ石井は、帰国後は日独文化交流の企画を通じて華々しく活動したが、松村は映画音楽で生計を立てながら
ストラヴィンスキーと伊福部に由来する管弦楽書法を同時代の
リゲティに匹敵する強度まで磨き上げ、《交響曲第1番》(1965) と《管弦楽のための前奏曲》(1968) で楽壇に衝撃を与えた。
《ギリシャに寄せる二つの子守唄》は代表作2曲とは対照的な、ラヴェルを範とする簡潔なピアノ曲だが、全盛期の彼は素材のインパクトに頼った一発屋ではなく、強靭な持続を生む地力の持ち主だったことを伝える。

《前奏曲》は翌年の尾高賞を受賞し、大阪万博のために書いた《飛天》(1969)・《祖霊祈祷》(1969)・《詩曲1番》(1969) もそれぞれに味わい深く、松村は創作歴の頂点にあった1970年にアカデミックなキャリアを経ずに藝大助教授に着任した(1978年より教授)。だが、その後の彼はアカデミズムの環境に過剰適応し、創造力の源泉だった進取の気性まで失ってしまったのではないか。多くの弟子を育てたものの、自身の全盛期の音楽性を受け継ぐ方向に導いたわけではない。実験工房参加以前の武満は清瀬に師事しており、松村とは藝大受験以前から親交を結んでいた。その
武満が藝大着任以降の松村の作風の変化を心配し、たびたび退官を薦めていたというのも宜なるかな。ただしこれは、音楽観の根本的変化というよりは、作曲に集中できる時間を削るアカデミズムの弊害の結果だったのかもしれない。《子守唄》と同じ編成で30年後に書かれた
《巡禮I-III》を聴けば、彼の全盛期と晩年では何が変わり、何が変わらなかったのかを見極められるだろう。

三善は小学生時代から平井康三郎(1910-2002) に作曲を学んで将来を嘱望され、橋本、細川と共に教壇を去った彼から池内に交代した頃には、既に日本の音大で学ぶことは残っていなかった。来たるべきフランス留学に備えて1951年には東大に入学して仏文科に進み、在学中の1953年に日本音楽コンクール初参加で作曲部門1位、1955年には最初の尾高賞受賞と、実力を実証した上で同年からパリ音楽院に留学した。だが、当時のパリ音楽院は彼の期待に沿う場所ではなかった。1952年時点で黛は学ぶものなしと見切り、1958年時点での篠原の疑義にメシアンも「新しい音楽を学ぶには良い場所ではない」と認めた状況は、三善にとっても満足できる環境ではなかった。結局彼は1958年に中退し帰国するが、唯一の収穫は、この時にはラジオ・フランス音楽部門長を務めていた
デュティユー(1916-2013) を、師にふさわしい美学の持ち主として見出したことだった。デュティユーは交響曲第2番(1957-59) で評価を確立し、1961年からエコール・ノルマル音楽院で教え始めており、もし三善が藝大に進んで修士課程まで修了してから留学するアカデミズムの通常ルートを歩んでいたならば、デュティユーに師事してフランスに残り、日本のアカデミズムの歴史は大きく変わっていたかもしれない。これは平義久が歩んだ道に他ならないが、秀才として鳴らした平が日本には戻らない覚悟で渡仏したのは、国内には三善という高峰がそびえ立っていたからでもあり、三善と平が入れ替わっただけの、よく似た歴史が続いていたのかもしれないが。

帰国した三善はまず
ピアノソナタを発表した。デュティユーのピアノソナタ(1947-48) よりも半音階的で凝縮されており、まだ伝統的だが10年のタイムラグに見合う進歩は刻印されている。《交響三章》(1960) とピアノ協奏曲(1962, 尾高賞) を受けて1963年に藝大講師、《管弦楽のための協奏曲》(1964, 尾高賞) とヴァイオリン協奏曲(1965) を受けて1966年に桐朋学園大教授に着任し、順調な創作にアカデミー内の地位も自然と伴った。だがその地位を意識して守りに入ることはなく、弦楽四重奏曲第2番(1967) 以降、三善の作風はますます無調的で尖ったものになってゆく。その背景としては、私淑するデュティユーが《メタボール》(1963-64) 以降一作ごとに尖鋭化し、最初の曲がり角を過ぎて柔和化しつつある戦後前衛に追いついたことと、日本でも戦後前衛のプレイヤーが交代し、黛と諸井誠(1930-2013) に代わって武満が同世代のライバルとして浮上してきたことが挙げられる。その後長らく武満と三善を両極とする日本の現代音楽の記述が音楽マスコミでは一般化する。楽壇での影響力を考慮すれば妥当だが、前衛側では湯浅譲二(1929-)、篠原、松平頼暁(1931-)、アカデミズム側では松村、間宮芳生(1929-) をはじめとする日本の戦後前衛第一世代の国際的にも稀な豊かさが、結果的に矮小化されがちだったことも否めない。

《レクイエム》(1971) は、武満にとっての《ノヴェンバー・ステップス》(1967) のような、作品自体の価値すら超えた代表作になった。クライマックスに近づくほどに合唱と管弦楽が互いをマスクするこの曲は、太平洋戦争の本質を音楽で描こうとすると、西洋音楽としては破綻したカオスこそが説得力を持つという逆説を体現している。《詩篇》(1979)・《響紋》(1984) と続く、戦争体験を題材とする「三部作」は、1974年の桐朋学園大学長就任後も創作のモチベーションを維持する原動力になった。ただし、同時期のデュティユー作品が持つ密度や完成度に比肩し得るのはむしろ、チェロ協奏曲第1番(1974)・《変化嘆詠》(1975)・《レオス》(1976) などの作品群である。この時期の三善作品の充実を支えたのは不確定書法の導入であり、相対的に古典的な佇まいを持つピアノ独奏曲
《シェーヌ》と
《アン・ヴェール》でも控え目に使用している。確定譜面に回帰した80年代半ば以降は創作ペースも落ちていたが、桐朋学園大学長を辞した90年代後半には、再び戦争体験を題材に《夏の散乱》(1995)・《谺つり星》(1996)・《霧の果実》(1997)・《焉歌・波摘み》(1998) の「四部作」及びオペラ《遠い帆》(1999) を書き上げた。
《円環と交差I・II》もこの時期の作品である。

90年代に入ってポスト前衛の諸潮流が一挙に紹介されて音楽評論家の世代交代も進む中、武満と三善に「日本の現代音楽」を代表させる風潮も変わり始めた。「前衛」側の評論家には、三善を過小評価して音楽史記述に含めない者すら珍しくないが、これに反発するアカデミズム側関係者は三善を神格化し、「四部作」は「三部作」に匹敵する作品と位置付ける。だが筆者はいずれの極論にも与しない。少なくとも60年代半ばから《響紋》までの三善作品は、デュティユーの同時期の作品同様、戦後前衛のトップクラスに劣らぬ前向きな姿勢に貫かれていたが、その後の作品は同列には論じられないと判断している。70年代後半には「調性の海」などと唱えて迷走していた武満が、80年代前半にまず室内楽、後半には管弦楽でも輝きを取り戻したのとも開きがある。ただしこの時期の両者の対比には、運命の皮肉が付きまとう。80年代武満の充実には、70年代後半から80年代末まで助手を務めた毛利蔵人の貢献が大きいが、そもそも毛利は三善に憧れて作曲を独学し、高校卒業後は桐朋学園大図書館で働いて1971年から師事し、僅か2年で日本音楽コンクールに入選してデビューした、アカデミックな経歴とは全く無縁な三善の秘蔵っ子だった。だが、彼が人生を捧げたのは師ではなく武満であり、武満の後を追うように師よりも先に早逝した。

野平は藝大付属高から藝大作曲科に進み、池内門下の理論家永冨正之(1932-) に作曲理論を、同じく池内門下の間宮芳生に作曲実践を学んだ。バルトークにならった民謡研究を通じて声楽書法を発展させた間宮の《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は、ヨーロッパ戦後前衛の探求に比肩する達成であり、管弦楽曲でも《オーケストラのためのタブロー’65》とピアノ協奏曲第2番(1970) で尾高賞を2回受賞し、藝大や桐朋学園大で教鞭を執ったが常勤職には就かなかった。民謡のフィールドワークが重要な作曲スタンスの持ち主には常勤職の制約は窮屈だったのだろう。同期の矢代の急逝を補う形で黛は藝大で教え始め、松下功(1951-2018)、
南聡(1955-) ら門下生を輩出したが、藝大着任の年に自由国民会議(自民党党友組織)代表、後には日本を守る国民会議(
日本会議の源流となる右派政治団体)議長にも就任し、常勤職には就かなかった。黛の門下生たちと同じく、野平も師の作曲美学を受け継いでいるわけではない。野平の場合は副専攻でピアノも学んでおり、アカデミックな書法の習得以上の美学に構っている余裕はなかったのだろう。

野平は1978年からパリ音楽院に留学する。彼はスペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりになるが、この時点ではIRCAMの研究プログラムに指定されてアカデミズムの対象になるどころか、まだ「スペクトル楽派」という呼称自体が存在していなかった。彼が師事したのは
ブーレーズ、
バラケと並ぶフランスの戦後前衛第一世代のセリアリスト、ベッツィ・ジョラス(1926-) らであり、確立された書法を磨く場になった。ピアノも引き続き副専攻として学んだが、彼はピアノ演奏を武器に新しい道を自力で切り開く。卒業後に彼が選んだのは、アンサンブル・イティネレールのピアニストとしてパリに留まることだった。スペクトル書法の作品の演奏には特殊調律が求められるため、広く認知される以前は一般的なアンサンブルは演奏を忌避した。そこで、自作を音にするために楽派第一世代の作曲家が中心になって結成したのがこの団体だった。野平はこの楽派が「アカデミズムの反逆者」としてDIY精神で活動していた時期を知る最後の世代なのである。異国で伝統を持たない団体に参加する以上、作曲家の視点で楽派を十分に調べたはずで、参加直後からこの楽派の様式に基づいた《錯乱のテクスチュア》シリーズ(1982-) を書き始めている。

そもそもこの楽派の出発点は、パリ音楽院の優等生
ミュライユとグリゼーが、ローマ賞を得てメディチ荘滞在中に
シェルシの音楽を知って衝撃を受け、その本質を科学的に再構築しようとした試みであり、伝統的エクリチュールとの親和性は元々高かった。また野平が活動を続ける上で特に参考にしたのは、楽派第一世代最後の作曲家でアンサンブルの先輩ピアニストでもある、ミカエル・レヴィナス(1949-) だったことは疑いない。楽派第一世代では最もノイズ志向の強い彼に倣って、野平の代表作にはエレキギター協奏曲《炎の弦》(1990/2002) や、MIDIピアノ、アンサンブルと電子音響のための《挑戦への14の逸脱》(1990-91/93) などが並ぶ。また独奏ピアニストとしての活動でも、フランス近現代作品に加えて
ベートーヴェンのソナタ全曲をレパートリーにし、優先的に全曲録音を行った方向性も一致している。しかし90年代に入ると、ノイズ志向だったレヴィナスの曲にも伝統的なフレーズや形式感が目立ち始める。この傾向は彼に限った話ではなく、楽派第二世代の多くの作曲家たちにも並行して起こった出来事だった。このあたりの事情は
ミュライユ特集回の解説で書いたので繰り返さないが、日本のアカデミズムに飽き足らずフランスに留学したのに、結局彼地も伝統回帰したのではもはや留まる理由はない、という判断は合理的だ。

帰国後の野平は室内協奏曲第1番(1995) で尾高賞を受賞し、東京シンフォニエッタ初代代表として現代音楽普及にも積極的に取り組みながら藝大で教え始めた。その後の作風はレヴィナス同様伝統回帰で特徴付けられるが、内外の情勢を把握した上での自覚的な選択であり、ある種の風格は感じられる。スペクトル楽派第二世代以降の調性回帰の少なからぬ部分が、スペクトル和声を使い続けていることを言い訳に、音楽の内実は限りなくムード音楽に近づいていることから目を逸らすレベルなのとは対照的ではある。今回の曲目は出版譜ないし公認自筆譜が存在する演奏会用ピアノ独奏曲全曲=パリ音楽院時代の
《アラベスク第2番》、スペクトル楽派の一員だった時代の
《間奏曲第1番》、帰国しアカデミーの一員となってからの
《間奏曲第2番》以降と、彼の歩みをコンパクトに辿るものになっている。《間奏曲》シリーズの番号が飛ぶのは、
自演が前提の曲も通し番号に含めているためで、このシリーズは演奏家の生理から自然体で生まれた曲集だと伝えている。