2005年クリスマスディナー、バートウィッスル邸で七面鳥に取り組むサー・ハリーとなかにしあかね氏
Portraits of Composers [POC] 第40回公演
ハリソン・バートウィッスル全ピアノ作品 The complete piano works by Sir Harrison Birtwistle
大井浩明(ピアノ)
2019年1月26日(土)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp
○小林純生(1982- ):《フーガ》(2016、委嘱作東京初演) 7分
■H.バートウィッスル(1934- ):
《ウックウ鳥 Oockooing Bird》(1950、日本初演) 3分
《約言 (J.オグドンのために) Précis》(1960) 3分
《悲しい歌 Sad Song》(1971) 2分
《ジャンヌの子守歌 Berceuse de Jeanne》(1984) 3分
《ヘクターの薄明 Hector's Dawn》(1987) 1分
○なかにしあかね(1964- ):《Dialogue》(2018、委嘱新作初演) 9分
I. In the Knot Garden - II. In the Water - III. From Both Sides of the River - IV. Into the Deep Forest - V. At Home, Sweet Home
■H.バートウィッスル:《ハリソンの時計 Harrison's Clocks》(全5楽章、1998) 25分
I. - II. - III. - IV. - V.
(休憩15分)
■H.バートウィッスル:《メロディとオスティナート (P.ブーレーズのために) Ostinato with Melody》(2000) 5分
《ベティ・フリーマン - 彼女のタンゴ Betty Freeman: Her Tango》(2000) 2分
《サラバンド:王の拝辞 Saraband: The King's Farewell》(2001、日本初演) 3分
《メトロノームの精の踊り Dance of the metro-gnome》(2006、日本初演) 1分
○金澤攝(1959- ):《烏枢沙摩 Ususama, Toilet Music》(2018、委嘱新作初演) 9分
■H.バートウィッスル:《ジーグ・マシーン Gigue Machine》(2011、日本初演) 16分
《ゴールドマウンテン変奏曲 Variations from the Golden Mountain》(2014、日本初演) 10分
なかにしあかね:《Dialogue (Series 1)》(2018)
Dialogueには様々な種類があります。表面的な言葉のやり取りに過ぎない会話、むなしくすれ違う会話、深く相手を受け止める対話、第三者の意志が働いているかのような言葉の受け渡し・・・言葉の使い方は民族によっても異なりますし、どこで、どのような背景や感情をもって言葉が交わされるかによっても、色合いも温度も深度も異なります。私達の生きている世界は、個人レベルから国家レベルまで、対話のさまざまなルートや方向性を豊かに持つことが、切実に必要とされています。ひとつの対話が機能しなくても、別の方法を試みることはできるはず。このDialogue for piano soloシリーズは、短くシチュエイションを切り取った小品群を提示することにより、対話の様々な可能性を立体的に組み上げて行ければと願うものです。
本日大井浩明さんに初演して頂きます第1シリーズの5曲は、「place=場所」がテーマとなっております。発想の出発点となった第1曲「In the Knot Garden」は、英国の16世紀エリザベス1世時代に流行した庭園スタイルで、「knot=結び目」を特徴とする幾何学模様の庭で近づいたり離れたりしながら対話が進みます。第2曲「In the Water」は深海の中で、発される言葉はあぶくとなって立ち昇って行きます。第3曲「From Both Sides of the River」は河の両岸から呼びかけ、併走する言葉。第4曲「Into the Deep Forest」は深い森の中。こだまする音、乾いて消えて行く音などが響き合い存在し合います。第5曲「At Home, Sweet Home」は、イギリスで愛唱されている歌の題名の通り、愛しい我が家での語らいです。ささやかな不協和音があることが日常の穏やかさであり、不協和は何も傷つけません。
Dialogueは、今回の第1シリーズ「place」以外に「time」「with」「emotion」・・・などのシリーズを構想しております。数を頼んで大きなひとつのメッセージになろうという、ほぼ妄想に近い計画ですが、いつの日か、どこかでお聴き頂くこともあるかも知れません。
本日、第1シリーズを初演して下さる大井浩明さんに心から感謝申し上げます。敬愛するサー・ハリーの作品群と共に皆様にお聴き頂けますことは、この上ない光栄です。(なかにしあかね)
なかにしあかね Akane Nakanishi, composer
東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ大学院にて作曲修士号、キングスカレッジ大学院にて作曲博士号を修める。作曲をサー・ハリソン・バートウィスル氏、声楽伴奏法を故ジェフリー・パーソンズ氏に師事。第66回日本音楽コンクール作曲部門第1位及び安田賞受賞、国際フランツ・シューベルト作曲コンクール入賞ほか、入選・入賞多数。作曲と演奏の双方向から「言葉と音楽」を多角的に研究し実践し続け、国内外の演奏家から委嘱を受けている。歌曲、合唱曲の他、室内楽作品やピアノ独奏、連弾作品、こどものためのソングブックなどが多数出版されている他、「合唱エクササイズ~作曲家編」執筆、歌曲や合唱のコンクール審査員や講習会講師など、多角的に活動している。作品CD『なかにしあかね歌曲作品集~歌が生まれる』(ALCD7211音楽現代推薦盤)ほか。平成17年度文化庁在外研修員。現在、宮城学院女子大学教授。 https://soundinternationaljapan.com/
金澤攝:《烏枢沙摩》(2018)
今回書き下ろした新曲は、トイレの守護神・烏枢沙摩(うすさま)明王からインスパイアされた、謂わば「音の仏像」である。元より大井氏の持つピアニズム - 色合いを想定して作曲したものだが、同時に彼の新たな表現性に挑む内容でもありたいと考えた。このところ19世紀の作曲家の発掘調査や実演に明け暮れている中で、5年振りの新作となったこの作品は、私にとっても大井氏にとっても、新機軸を拓く契機となる予感がする。
ところで人間の生活に不可欠のトイレを扱った音楽作品は極めて少ない。常識で考える「美」のイメージとは正反対であれが故に取り合わないのだろう。しかし、正面から取り組むと、これは相当重いテーマとなる。トイレは単なる排泄の場ではない。汚せば魔が入り、磨けば神光が射す。唾を吐くと目を患い、倒れると命が危ういとされるように、人間の命運を左右する、極めて深秘な霊域である。誰もが他者との関わりを謝絶して、自分と神の摂理と向き合う。
そしてこの場を司るのが烏枢沙摩(うすさま)明王である。不浄を払うと共に財運に大きく関わる神と伝えられる。新曲はこの神名をメインタイトルに据え、その威徳を讃えると同時に、その姿を音として写し取ったものである。その尊影は作曲中、常に私の傍らにあった。人には「気線」というものがあり、この明王と大井氏を結ぶ何らかのそれが、私を介して働いている可能性も考えられる。いづれにしても大井氏は今宵、"烏枢沙摩"の使徒を務めることになる。願わくばその威神力を開顕されんことを。(金澤攝)
金澤攝 Osamu N. Kanazawa, composer
作曲家、ピアニスト、研究家。1959年石川県金沢生まれ(旧名:中村攝)。70年から74年までピアノを宮沢明子氏に師事。15歳で渡仏、パリに学ぶ。1979年メシアン・コンクール第2位(1位なし)。1985年第1回日本現代音楽コンクール審査委員長(園田高弘)奨励賞。エピックソニーより『アルカン選集』(全8集)リリース、アルカンブームの火付け役となる。第3回村松賞大賞、金沢市文化活動賞、石川テレビ賞ほかを受賞。知られざる名作を日本に紹介すべく、現在千名の音楽家を対象として研究・演奏を行っている。著作に『失われた音楽 秘曲の封印を解く』『表紙の音楽史 ―楽譜の密林を拓く―(近代フランス篇 1860-1909年生まれの作曲家たち)』『同 資料集』(龜鳴屋・刊)。ウェブ連載《音楽における九星》《演奏とコンクール》、ライヴ音源リスト
小林純生:《フーガ ~モーリス・ラヴェルを頌して》(2016)
この曲はラヴェルのフーガ、特にその構造を模して作曲されている。極めて幾何学的なその構造は楽曲の基盤として作品のバランスを整える。安定した土台の上に、ラヴェルのフーガは均整のとれた形で構築されているが、この曲では曖昧にぼかされた線が曲を形作る。音の交差や声部数の多さ、リズムの不安定さ、ヘテロフォニックな書法が線を、そして作品自体を霞ませる。
フーガの体を成している限り、特に鍵盤楽器のソロ曲の場合、複雑すぎるフーガはおそらくただ無秩序な音の連続に聞こえるだろう。この曲のなかではその不安定な音の集合に秩序を与えるものとして、安定した形式に加えて、ラヴェル的な和声が重要な役割を果たしている。調性という規則によって、雲散しそうな線に形が与えられるが、この和声法は楽曲を締め付け過ぎはしない。
上記の配慮があってもバランス次第で楽曲は極めて難解なものにも簡明なものにもなりうるが、理解と不理解のはざまで、平衡がとられている。(小林純生)
小林純生 Sumio KOBAYASHI, composer
1982年三重県菰野町生まれ。作曲を伊藤弘之と湯浅譲二に師事。日本音楽コンクール (2009)、 国際尹伊桑作曲賞 (2011)、 インターナショナル・ミュージック・トーナメント (2010)、 ICOMS国際作曲コンクール (2011)、 シンテルミア国際作曲コンクール (2012)、 アルヴァレズ室内オーケストラ作曲コンクール (2012)、 武満徹作曲賞 (2013)、 パブロ・カザルス国際作曲コンクール (2015)、サン・リバー賞(2015)、 ワイマール春の音楽祭作曲コンクール (2016)、欧州文化首都ブロツワフ国際作曲コンクール等に入賞・入選。ルーマニアのアイコン・アーツ現代音楽際 (2013) 、武生国際音楽祭 (2010、 2013、 2014)、韓国の統営市国際音楽祭 (2015) 、スロバキアのメロス・エトス国際現代音楽祭(2015)等で、アンサンブル・カリオペ、アンサンブルTIMF、イデー・フィクス・アンサンブル、東京シンフォニエッタ、東京フィルハーモニー交響楽団、ネクスト・マッシュルーム・プロモーション、アンサンブル・ミセーエン等により作品が演奏されている。現在は英国ケント大学博士課程で韻律論の研究に従事する一方で、東京にて日本大学芸術学部音楽学科助教を務める。 http://sumiokobayashi.com/
サー・ハリソン・バートウィスルと私――小林純生
サー・ハリソン・バートウィスルと出会った時に思い浮かんだ言葉は「純朴さ」だった。コンクールの審査員と審査されるファイナリストという立場での出会いはそれなりに気まずいものではあったが、巨匠である彼自身が「審査前に会うというのも気まずいよね」と、なんとなくバツが悪そうに話しているのを見てその純朴さを強く感じた。その時私が同時に考えていたのは、三島由紀夫がトーマス・マンやゲーテを「したたか」と発言していたことで、彼はそういったしたたかさとは無縁の、純粋に自分の美学を追求する芸術家であるように思え、それと同時に自分にあるやも知れぬしたたかさを恥じた。
審査結果を発表したあとも、自分が下した結果に関して「君が満足していてくれたら良いのだけど」と私のことを気遣ってくださり、私としてはファイナリストになって曲が演奏されただけで満足だったので、そのことを伝えたら気恥ずかしくも嬉しそうな顔を見せてくれた。
私にとっては他にも十分に満足できることがあり、それは彼が私の音楽を「詩的な極端主義」と形容したことだった。曲目解説にも楽譜にも書いてはいなかったが、ここ数年の私の作曲における目標は言語的な詩を音楽で表現することだった。そのことに気づいてくれたこと、つまり自分の目的が達成できたことで、思いがけない贈り物をいただけたような気持になれた。
私の作曲の師である湯浅譲二先生は、時の構造に着目した作品を書き、その曲を聞いたメシアンがその曲の時間軸を高く評価し、それがとても励みになったと語っていたが、それと同じような印象を、サー・ハリソン・バートウィスルの「詩的な極端主義」とう表現にもった。
私はイギリスかアメリカで言語学を学ぶ予定だったのでそのことを話すと、「イギリスに来るなら是非イギリスの自宅に遊びに来てくれ」と連絡先を教えて下さった。結局私はイギリスに滞在し博士課程をもうすぐ終えようとしているが、一度も連絡はしなかった。彼に会うことで何かあさましい感情が芽生え、そういったあさましさが彼の純朴さに対して汚らわしいようにも思え、結局は会わないことがお互いにとって一番良いように感じたからだ。願わくば彼のような純朴さをもって、また再会出来れば。
サー・ハリーが教えてくれたこと――なかにしあかね
1990年代ある日の『タイムズ』紙に、こんな時事漫画が載ったことがある。国鉄BRが民営化されてからストライキ続きで(民営化される前もスト続きだったが)、暴動を起こしそうな乗客達を必死に抑えながら、駅長が放送係に叫ぶ。
「ディーリアスじゃ生ぬるい。バートウィスルをかけろ!!」
サー・ハリソン・バートウィスルの「サー」の称号は、ナイトに叙任された男性の肩書で、サー・ハリーは1988年に叙勲され、その後2001年にはCompanion of Honour (名誉勲爵士)にも叙されている。”最も偉大な作曲家”という大見出しと共に『ガーディアン』紙の一面にサー・ハリーの顔が全面アップになり、ウィルトシャーの自宅シルクハウスの庭は、造成された当時ガーデニング雑誌で特集を組まれていた。押しも押されもせぬセレブリティである。
私がロンドン大学キングスカレッジ大学院博士課程でバートウィスル門下であったのは1995年から1999年までで、彼は1995年から2001年まで、ヘンリー・パーセル・プロフェッサーという冠つきの教授であった。
バートウィスルがキングスで教える、というニュースは当時相当なセンセーションを巻き起こし、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ大陸からも入学希望者が殺到した。私はそれ以前からキングスに在籍していて、別の大学へ移籍するか迷っていたところに、降って湧いた幸運だった。
最初の面会で気に入られなければ門下に採ってもらえない、と言われていた。私はそれまでのロンドンでの苦闘の歴史である自作品のスコアを持って、サー・ハリーの待つ部屋へと入った。
メディアの作り上げるイメージが、これほど現実と合致している人も珍しいと思うくらい、ニコリともしない無愛想なサー・ハリソン・バートウィスルが部屋の中をうろうろしていた。
「ハロー。サー」
サー・ハリーは私の顔をちらっと見ただけで、不本意に檻に入れられた熊のようにいらいらと動き回った。
私がバッグからスコアを出そうとすると
「待て待て。そう慌てるな。楽譜なんか俺に見せるな。まあ座れ。俺はここ、おまえはここだ」
明らかに選択が逆の、サー・ハリーは小さ過ぎる椅子、私は大き過ぎる椅子に、私達はようやく落ち着いた。
「おまえのことをしゃべれ。」
「は?」
「おまえ自身のことを聞きたい」
サー・ハリーは私の迷走の歴史を我慢強く聞いた後、言った。
「しかし、無駄じゃなかっただろう?」
「無駄ではありませんでした。いっぱい考えましたから」
「ならいい・・・それは何だ?おまえの曲か?」
こうしてようやくサー・ハリーは、私のスコアを手に取ってくれたのだった。
レッスンは、最初のうちは当時サー・ハリーがテムズ河畔に持っていたフラットに伺い、やがてフランスの家もロンドンのフラットも手放してウィルトシャーのシルクハウスに腰を据えられると、ロンドンから車で3時間の道のりを泊りがけで伺うようになった。緑の丘陵に浮かぶホワイトホース(白い馬の地上絵)、ストーンヘンジなどを通り過ぎ、元は絹の工房だった建物を改築したという邸宅シルクハウスへと至る。立体的に造形された庭にはコンクリートで四角く切った池があり、夏だけ姿を見せる鯉が泳いでいて、その奥に、サー・ハリーの仕事用のコテージがあった。
サー・ハリーのレッスンは、まるで禅問答のようだった。
「ネイチャーとはなんだ?」
自然?天然?何を指しているのだろう?それがこの曲とどういう関係があるのだろう?・・・私はじっと考える。
「どうだ?」
「考えてます(I’m thinking.)」
「いや、おまえは沈んでいる(No, you are sinking.)」
こんな冗談ともつかない会話から、私はサー・ハリーが、楽器にはそれぞれ特有の個性と特質があり、それを生かすということをおまえ自身はどう考えるか明確にせよと言っているのだと、ようやく理解する。
他の学生には最初からぺらぺらと説明しているように見えるのに、なぜか私には禅問答をふっかけて楽しんでいる節があった。しかしそうやって、考えに考えて意味をつかんだひとつひとつが、その時々の私の作品に必要なものを教え、いらざる些末なもやもやしたものをふっ切らせた。私は、肩が凝るほど虚飾やこだわりを着込むのではなく、裸で自分の音楽と向き合って、最もふさわしい着物だけを選んで着ることを、次第に覚えて行った。
彼は私に「作曲」は教えなかった。作品以前の、根源的な部分を常に問題にした。読むべき本。見るべき絵や映画。私にとって音楽を創るとはどういうことか。考え抜くとはどういうことか。それぞれの楽器について一般論ではなく私自身の考えをどう確立するか。音を楽譜に移すとはどういうことか。・・・私が何に引っかかっているか、どこでもたもたしているか、サー・ハリーには手に取るようにわかるらしかった。
「俺は方法を知っているぞ」
サー・ハリーはよく言った。
「でも教えない。自分で考えろ」
「おまえは、何かは考えたかも知れない。だが、まだ考え抜かれていない。」
「一番簡単な道を探すんじゃない。一番いい道を探せ」
たったひとつの音符の記譜をめぐって何時間でも議論した。サー・ハリーはもっと的確に表す方法があると主張し、デモンストレーションまでして見せてくれたが、私はその記譜によって失われるものがあると主張した。議論は平行線のまま終わり、サー・ハリーは私を「頑固者」と呼んだ。
ある日「ちょうどロンドンでダニーとリハーサルしているからBBCのスタジオに来い。」と言われて行ってみると、「ダニー」はダニエル・バレンボイムで、BBCシンフォニーの新曲リハーサルをまるまる聴かせてくれようと言うのだった。
阪神大震災で私の実家が被災した時、サー・ハリーは慰めのような言葉は一切言わず、私を、当時貧乏留学生には高嶺の花だった日本食レストランに連れて行き、なんでも好きなものを頼めと言った。うどんの汁をすすりながら(今思えばもっと高いものを頼めばよかった!)私の心は温められ、サー・ハリーが「俺はこれが好きだ」と薬味の生姜ばかりを何皿も注文するのを見て、心が緩んだ。
サー・ハリーと過ごした時間がゆっくりと私の中で実を結んでいく実感を得た頃から、レッスンは少しずつ変わって行った。サー・ハリーが私の作品を見て根源的な何かを指摘したり、記譜について延々とやり合うこともなくなった。
「私はこの部分の音楽はこういう風に鳴って欲しいと思っているんですが、この記譜は有効だと思いますか?」
「おまえが書いた通りに鳴るだろう」
私は自分で検証せざるをえなくなった。
少しずつ、少しずつ、サー・ハリーは私を突き放した。判断を仰ぎたい私を素っ気なく振り払い、助けを求めてもヒントも与えてくれなくなった。問題は自分で解決するしかなかった。すべてが自分の力で考え抜かれなければならなかった。
そしてついにある日のレッスンで、サー・ハリーはこう宣言した。
「俺はもう教えてやらないぞ。おまえはもう俺の生徒じゃない」
大学院博士課程の指導教官という立場もシステムも完全無視の宣言だった。私は数か月じっと考えて、ある日、ウィルトシャーへ車を飛ばした。
私達は大学の話も作曲の話もしなかった。ただ、ハリーご自慢の庭を散歩し、息子さんの作ったセラミックの置物をどこにどう置くのがよいかでもめた。作曲する上での確信に近いものをつかみつつありながら、心のどこかでハリーに頼りたがっていた私の弱さを、見抜かれていたのだと思った。教え教わる関係が、自立した者同士のそれに変わらなければならないことを、私は意識的に自覚していた。ハリーはそれを感じ取ったのか、安心したように音楽の話を始めた。奥様のシーラに、私が日本のコンクールで賞をもらったことや、委嘱作品が演奏されたことを得々と話した。
「あら。よかったわねえ」
「あたりまえだ。何しろ彼女はいい先生についているんだからな」
はぁぁぁ?! 呆れるのを通り越して私は爆笑した。その夜は私が和食らしきものを作り(もちろん生姜も大量にすりおろし)、翌朝はハリーが特製のブレックファースト・シリアルを怪しげなうんちくと共に創作した。奥様と競い合うように息子たちや孫たちの話をし、料理してくれるんならなぜヒロ(夫・テノール歌手辻裕久)を連れてこなかったかと責めた。夫は料理がうまく浮世離れしたのどかな人で、夫妻のお気に入りだった。近くの街で市が立つと言うので3人で出かけ、私が夫のためにミニチュア・モデルの旧型ロンドンバスの模型を買うと、帰りの車の中で見せろ見せろと包みを開けさせた。
私は書きかけの作品を持っていたのだが、あえてハリーには見せず、別室を借りて一人で作業した。1時間も経たないうちにハリーの方から痺れを切らせてやってきて、横からのぞいていった。未解決の問題がいくつかあったが、まだ自分で十分よく考えていなかったのでハリーには聞かず、彼も何も言わなかった。
「また遊びに来い。今度は必ずヒロも連れて来いよ」
私がサー・ハリーから”卒業”した日だった。
日本に帰って大学教員になると報告した時、ハリーは言った。
「教えるのはいい。だがフルタイムは避けろ。」
恩師の言葉を尊重せず、私は専任教員として仙台に赴任した。マネージできると思った。東日本大震災の後、数百人に及ぶ被災学生を抱える大学の担当教員として、また現地に関わる音楽家として、心のエネルギーを絞り尽くしてなお絞り出すような日常が続いた。心の中で何度ハリーに「はいそうです。私はあなたの言いつけを守りませんでした。」と呟いたことだろう。
しかし。
サー・ハリーに鍛えられた人間が、ただ打ちのめされ、ただ消耗している訳にもいくまい。『音楽の力』が空疎なスローガンに成り下がっていないか。変化し続ける状況の中で、私が音楽を創るとはどういうことか・・・。今も私は、じっと考え続けている。そして自分に問いかける。おまえは本当に考え抜いているか。
サー・ハリーが教えてくれたことは、確かに「作曲」ではなかった。[初出:東京オペラシティ文化財団「コンポージアム2013」]