

大井浩明ピアノリサイタル
《盤涉(ばんしき)の調(しらべ)にのせて In Moll besingend》
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分 ( GoogleMap https://bit.ly/2FdmuZP )
各回 3000円(全自由席)
【お問い合わせ】松山庵 banshiki2019@hotmail.com (要予約)
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)
─────────────────────────
【第1回】 2019年7月6日(土) 15時開演(14時45分開場)

R.シューマン(1810-1856) ピアノソナタ全3曲
I. Un poco Adagio - Allegro vivace - II. Senza passione, ma espressivo - III. Scherzo e Intermezzo - IV. Allegro und poco maestoso
I. So rasch wie möglich - II. Andantino. Getragen - III. Scherzo. Sehr rasch und markiert - IV. Passionato
I. Allegro brillante - II. Scherzo Primo. Vivacissimo - III. <Promenade> Scherzo Secondo / Intermezzo. Molto commodo - IV. Quasi variazioni. Andantino de Clara Wieck(主題と6つの変奏) - V. Prestissimo possibile
[使用エディション:新シューマン全集版(2012/2018)]
【第2回公演】2019年7月20日(土) 15時開演(14時45分開場)

●A.スクリャービン(1872-1915):
I. Andante - II. Presto
I. Drammatico - II. Allegretto - III. Andante - IV. Presto con fuoco /Maestoso
●T.ミュライユ(1947- ):《水に映える礫(つぶて)Cailloux dans l'eau》(2018、日本初演)
●A.スクリャービン ピアノソナタ第4番嬰ヘ長調 Op.30 (全2楽章、1903)
I. Andante - II. Prestissimo volando
(休憩15分)
●A.スクリャービン ピアノソナタ第5番 Op.57 (1907)
[以上、使用エディション:Bärenreiter新訂版(2013)]
●S.ラフマニノフ(1873-1943):
I.Allegro agitato - II. Non allegro /Lento - III. Allegro molto

Ich weiß ―― ロベルト・シューマンはクララに歌った 山村雅治

ロベルト・シューマン(1810-1856)は18歳になる1828年、9歳の少女クララ・ヴィーク(1819-1896)のピアノ演奏を聴いて衝撃を受けた。フンメルの三重奏曲のピアノパートを見事に弾いた彼女は、名高いピアノ教師フリートリヒ・ヴィークの娘だった。
このときシューマンは故郷のツヴィカウから出てきてライプツィヒ大学法科に入学したばかりで、しかも音楽家としては出遅れていた。同年からヴィークに師事して2年がたち、1930年。その年にはすでにショパンはピアニストとして作曲家として新しい星として仰がれていた。一歳年少のリストがパリの社交界の偶像になっていたとき、シューマンはようやくライプツィヒからハイデルベルクの大学生活に別れを告げて音楽に打ち込んだ。
音楽家として立つ決意を固めるためには大きな迂回が必要だった。子供のころからの音楽の天才児ではなかったロベルトは書籍商アウグスト・シューマンの息子であり、本に囲まれて成長した。文学には早熟だった。ギムナジウムへ進む前からギリシア語、ラテン語、フランス語を学びはじめ、入学後の10歳代前半には詩の創作を試みているほどだ。バイロン、シラー、ジャン・パウル、E.T.A.ホフマンなどを耽読した。
『詩と音楽』は17歳のときの詩だ。ここにシューマンが終生にわたって追求したテーマが簡潔に語られていた。「詩の韻律の器をやさしく そよかぜの拍子がゆらすとき 音と音、ことばとことばが競い 音は感じ、詩句は息づき ついにやさしくひとつの調和に ふたつの芸術が誠実に愛に満ちて抱きあうのだ」。

1830年、作品1『アベッグ変奏曲』から1939年の作品28『3つのロマンス』にいたるまで、彼はピアノ独奏曲ばかりを書いていた。そして執筆活動に力を注いでいた。
シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809 - 1849)を紹介する論文を投稿した。そして当時の音楽批評に不満を感じていた。1833年に準備を始めて翌1834年に刊行した音楽紙「音楽新報」の執筆者たちのなかにもフロレスタンとオイゼビウスがいる。彼の二人の分身だけではなくラロー楽長という名に変わったとされるヴィーク先生、キアリーナに変わったクララもそのなかにいる。
シューマンは「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」と語っている。自分のなかに対照的な二人の人物がいる。シューマンにはジャン・パウルの小説からの影響が深く根を下ろしていたようだ。「対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだ」とも語っていた。

ピアノソナタ第1番 嬰ヘ短調 作品11の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。作品5『クララ・ヴィークの主題による即興曲』、作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』についで書かれた作品9『謝肉祭』にもフロレスタン、オイゼヴィウス、クララは登場した。しかしこの年1834年はシューマンにとってはヴィーク家に住み込みの弟子になったエルネスティーネ・フォン・フリッケンに首ったけになり婚約して婚約を解消した。それまでは兄と妹のような関係だったクララは成長し、翌1835年にシューマンは求愛した。1837年に互いに結婚の意志を確かめあう仲になった。その年に完成した作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』は重要な作品だ。ダヴィッド同盟はシューマンの空想と現実が織りまぜられた音楽の革命をめざす多様な人間の集団であり、この曲の主役はシューマン自身の二人の分身であるフロレスタンとオイゼヴィウスだ。フロレスタンは現実に生きて前へと進む勇者であり、オイゼヴィウスは深みへ沈み黙考する瞑想者。
しかしながらロベルトとクララの結婚へ至るまでには大きな困難を乗り越えなければならなかった。クララの父、ヴィークが執拗に妨害したのだ。ロベルトとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移らせシューマンから遠ざけた。シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵言雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視のもとに置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会えば罵り、顔につばを吐きかけた。ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。
ソナタ第1番第2楽章アリアには旧作の歌曲『アンナに寄す』があらわれる。ケルナーの詩には「ぼくはきみをおもう、かわいいひとよ」の一行がある。そして第3楽章と第4楽章には明らかに自分の意志をうたう「ファンダンゴ」が変転しながら繰りかえされている。
クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。その後もすったもんだが繰りかえされて、やっとのことで1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下された。9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。

ロベルト・シューマンは少年時代には読書家だった。愛し、のめりこんだのはジャン・パウル、E.T.A.ホフマン、バイロンなど狂気をはらんだ作品を書いた作家や詩人であり、当時のノートには狂気への憧れを記した言葉もある。いまや、かつてあこがれた狂気が大波のように容赦なく襲いかかってくる。彼が驚くべき音楽家だったのは、こうした晩年にあっても作品の姿は支離滅裂ではなく、むしろ大きな構築力が必要な大作を書き続けたことだ。17歳の12月の日記には詩的な創作について「なにごとにも縛られず自由に動く資質を持つ人は、もっとすばらしく詩作していた。そこに理論がなかったからだ」と書いた彼は、まさに初期のピアノ曲に少年時に抱いた理想を実現させていた。
1840年は「歌の年」。クララとの結婚を機にシューマンは歌曲を次々と書き、120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。それまで書いていたピアノ曲は姿を消した。「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」としたシューマンはこの年、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と宣言した。1840年3月から7月にかけて二つの『リーダークライス』(作品24と作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)を書きあげたことには驚嘆を禁じ得ない。
歌曲はクララとの結婚の1840年「歌の年」以来、ほぼその後の生涯にわたってつくられた。音楽をつくりだす少年の時間には、すでに本を読み魅入られた言葉が全身に渦巻いていた。1839年までの『ピアノ・ソナタ』3曲を含む名作ぞろいのピアノ独奏曲には言葉を音に結びつけて時空に放った「詩」があった。「歌の年」から歌われた作品には、暗誦できるほどのおびただしい数の詩人の言葉があった。どれもシューマンの感性に合う精選された詩だった。

ピアノソナタ第3番 ヘ短調作品14は、「第1番」に先立ち1835年に完成されていた。ロベルトはしばしばクララが書いた旋律を自作のなかに引用した。すでに1833年の『クララ・ヴィークの<ロマンス>による即興曲集』に自作を作る重要な音楽の素材としてつかっていた。のちにも枚挙のいとまもないほどだが「ソナタ第3番」の第3楽章には隠れもなく「クララ・ヴィークのアンダンティーノによる変奏曲」と記されている。全体の構成については変転がある。1836年9月に出版された時のタイトルは『管弦楽のない協奏曲』(Concert sans orchestre)であって、1853年10月にスケルツォが挿入され、大幅な改訂が施された際に、『ピアノソナタ第3番』(原題は『大ソナタ』 Große Sonate - 『グランドソナタ』)になった。いずれにせよ「クララの主題による変奏曲」は中心にある楽章だ。単純な旋律にこめられた音楽は意外に深い。青春のときめきの初々しさを表すことができれば、葬送行進曲の響きがきこえたこともある。
ピアノソナタ第2番 ト短調 作品22は、1833年に着手して1838年に完成し、翌1839年に出版された労作だ。「第1番」と同じく、快速な第1楽章―緩徐楽章―スケルツォ楽章―急速な終楽章。第2楽章は作品1『アベッグ変奏曲』(1829‐30)より前につくられた1828年の歌曲『秋に』(Im Herbste、ユスティヌス・ケルナー詞) が素材になっている。ここにもクララへの思いが語られていなかったはずがない。
アレクサンドル・スクリャービン ~その時代と作曲家を取巻くひとたち───大塚健夫

ロシア中部を滔々と流れカスピ海に注ぐ大河、母なるヴォルガを大型の客船がくだってゆく。1910年4月、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874 – 1951) とオーケストラの楽員を乗せ沿岸11箇所の街でコンサートを催すというロシア始まって以来の大規模なプロジェクト・ツアーだった。ソロ・ピアニストとして同行し自作のピアノ協奏曲嬰へ短調を披露したのはアレクサンドル・スクリャービン(1872 – 1915) 、当時38歳、あと数年で終わる自分の生涯をこのときは予感もしていなかっただろう。
1910年代はロシアに資本主義と呼んでよい景色が現れる短い期間だった。学校で教わる世界史では日露戦争、2月革命、レーニン率いる10月革命、そして社会主義政権の樹立ということがハイライトされているが、農業や鉱工業も発展し自由で大胆な資本家や経済人が出たそれなりにきらびやかな時代でもあった。たとえば、ロシア(ウクライナを含む)の家畜の頭数は1913年がピークであり、ソ連邦崩壊(1991年)までこの記録を超えることがなかった。革命後の農業集団化で絶望した富農(クラーク)たちが自らの財産であった家畜たちをことごとく処分してしまったからである。(ソ連崩壊後も集団農場の後遺症は一向に癒えず、2014年になってウクライナをめぐって米欧がロシアに経済制裁を課し多くの農産物が禁輸となるに至り、ようやく自国での農業生産に目覚めたプーチンのロシアにおいて、ロシアの近代的農業は発展をみた。)
ロシアの片田舎の決して豊かではない家庭に生まれたクーセヴィツキーが、茶葉の輸入と販売流通で億万長者となったウシュコーフの一人娘ナターリアと結婚し、自分の才能プラス圧倒的な財力で前述のようなツアー企画を実現させたことは、19世紀の貴族出身のパトロンと一線を画している。彼は露欧米を市場とする出版社を起業し、有望な作曲家を独占的に支配し、版権と演奏というソフトでカネを稼ぐという、いまの言葉でいうプラットフォーム・ビジネスみたいなことを始めたのだ。しかも彼は資本家専業ではなく名コントラバス奏者、そして大指揮者でもあり、革命後は欧州を経てボストン交響楽団の音楽監督まで登りつめた。スクリャービンにはそれまでミトロファン・ベリャーエフ(1836 -1903、材木商で財をなした実業家かつペテルブルグ音楽界のリーダー)、マルガリータ・モローゾヴァ(莫大な遺産を相続した未亡人)といった彼の芸術を支援する19世紀タイプのパトロンがいたが、いずれも縁が切れ、経済的な窮地に陥っていた。その矢先、1908年のクーセヴィツキーとの出会いは渡りに舟だったであろう。ところ3年続けたヴォルガ・ツアーのあと、この資本家型パトロンとは主として金銭的な揉め事から仲違いしてしまう。ツアー中11回のコンサートのソリストとしての出演料を全部で1,000ルーブルと言われ、スクリャービンがキレたらしい。当時のルーブルの価値を現代に置き換えるのは難しいが今の日本でおよそ100万円から150万円、つまり1回の出演につき11万円程度、演奏旅行の足代や食事は込みだったのかという細かいことはわからないが、当時の流行ピアニスト、スクリャービンとしては屈辱的な額であったのだろう。クーセヴィツキーも「億万長者の婿」のわりに採算にはセコかったようだ。一方、全生涯を通じてスクリャービンという人には経済感覚がなかったことも、多くの知人が認めている。

スクリャービンも上級貴族の出身ではなかったが、彼を生んですぐに死んだ母親はピアニストだった。彼を育てた叔母は、彼の音楽の才能を早くに見抜き、良い教師につけさせた。モスクワ音楽院小ホールの入口を入ったところにある歴代の最優秀卒業生の名を金文字で刻んだプレートの中にはセルゲイ・ラフマーニノフ(1873 – 1943) と並んでスクリャービンの名前がある。二人の音楽院在学中の作曲(楽理)の教授はアントン・アレンスキー(1861 – 1906)。大酒飲みで遊び人という師の性格は生真面目なラフマーニノフよりスクリャービンに近かったのだが、なぜかスクリャービンには厳しく評価も低くかった(当時、彼がピアノの曲しか書かなかった、というのも理由らしい)。結局スクリャービンはピアノ科のみ優秀な成績で卒業し「小金メダル」、ピアノ科に加えて作曲科でも最優秀だったラフマーニノフが「大金メダル」という差がついてしまった。若きスクリャービンの代表作のひとつであるピアノ協奏曲嬰へ短調、作品20のオーケストレーションを、完成前に管弦楽法の大御所リムスキー=コルサコフに見せた時は酷評されたようだ。しかし、その後の特に後期のオーケストラ作品を聴くと、あの独特な和声進行は当時最先端を行っていたワグナーやドビュッシーなどを徹底して解析したことに加えての独創性であり、彼も「大金メダル」に値する才能と筆者は思う。スクリャービンは時に右手が自由に動かなくなるというハンディを抱えつつも高度な演奏技術をもち、ラフマーニノフ、ニコライ・メットネル(1880 – 1951)とともに花形のピアニストであった。音楽院時代はショパンの譜面を枕にして寝たという逸話もあり、これはピアノ協奏曲や初期のソナタを聴けば全く自然に受け入れられる。もっとも1906年のアメリカ旅行において、当時まだ現地ではロシア音楽・演奏家の認知度が低く、「コサックのショパンが来る」という見出しが新聞等に出たとき、スクリャービンは憤慨したという。
スクリャービンはその後半の作品において神秘主義に大きな影響を受け、「スクリャービンの神秘和音」と言われる独創的な和声を考え出していったことがよく知られている。スクリャービン一家と家族ぐるみで親交のあったボリス・パステルナーク(「ドクトル・ジバゴ」の著者)の自伝にある以下の記述にひとつのヒントがあるかもしれない(またパステルナークの父は画家で、スクリャービンのコンサートの絵などをいくつか残している)。
「超人についてのスクリャービンの議論は、異常であることを願うロシア人固有の考えであった。(中略)音楽は全てを意味する超音楽でなければならず、世の中の全てのものはその存在を超えて秀でていなければならない」(藤野幸雄訳)。

もっとも「スクリャービンが雷雨を呼び寄せることができると言ったのを聞いた」等々の当時の周辺の人たちの話を読むと、かなり危ないところまで来ていた人、という気になる。一方、死の3年前に締結したモスクワの住まいの賃貸契約が、彼が死んだ日(1915年4月14日、旧露歴)をもって切れたという証言に接すると、「神がかった人」いう感も抱かざるをえない。筆者の知る最も詳細なスクリャービン伝である「スクリャービンの思い出」(モスクワ、1925年、森松晧子氏による訳が2014年に出ている)の著者であるレオニード・サバネーエフ(1881 – 1968)はこういったことを極めて淡々と書いている。
サバネーエフは純粋数学や動物学でも論文を書くというマルチの才能を持った作曲家/ピアニスト/音楽評論家であるある。1896年にスクリャービンがまだ二つの楽章しかできていないピアノ協奏曲を自ら弾いて聴かせたときは「薄められたショパンもどき」の音楽に聴こえたという。スクリャービンが1910年に交響曲第5番「プロメテ(火の詩)」作品60」を作曲した後、サバネーエフはピアノ2台(4手)による編曲を引き受けた。その理由のひとつはスクリャービンがこの曲のピアノ版には少なくとも4人(8手)のピアニストが必要だとして悩んでいたこと。もう一つは初演指揮者のクーセヴィツキーがオーケストラの総譜の理解がいまひとつで、スクリャービン(ピアノ・パート)とサバネーエフ(オケ・パート)による曲想の提示が必要だったからだ。ひと月足らずで完成したピアノ編曲に作曲者本人はおおいに驚き、こういうことができる奴がいるということに気を悪くさえした。そして、スクリャービンという作曲家はオーケストラの作曲家ではなく、生来のピアノ曲の作曲家であるということを理解するに至ったという。

一方でサバネーエフはピアニストとしてのスクリャービンがいかに卓越した演奏技術をもっていたかを絶賛している。とくにそのペダリングによる音色の変化は彼独自のもので、弾きだされた音の響きは即興性も含めて変幻していった。スクリャービンは、「ラフマーニノフの弾く音はマテリアーリヌィ、即物的・唯物的なものに過ぎず、打鍵のあとの音色の変化で人を酔わすところがない。そういうピアニストにとってペダルは単なる足の乗せ場でしかない。」と批判した。しかしスクリャービンはそれがペダリングという技術によるものではなく、自分から発せられるアストラル(「星幽」とも訳される一種のオカルト用語)が響きに作用するのだと思いこんでいたので、サバネーエフはそれ以上にマトモな話を展開できなかったという。(20世紀末には、オウム真理教が「アストラル音楽」なるものを考案している。)スクリャービンのピアノ演奏の音色の変化は絶妙であったが、音量は当時のラフマーニノフ他ロシア・ピアニズムの代表者たちに比べると小さく、鋼鉄の楽器をホール一杯に響かせるというものではなかった。彼の作風が大きく変化する時期の代表的な作品であるピアノ・ソナタ第5番 作品53(1907年)は、なぜか交響曲第3番と第4番「法悦の詩」のモスクワ初演演奏会で2作品の合間に作曲家によって披露されたのだが、あまりにデリケートな音量であったため、聴衆には印象が薄く、曲が終わったのか単に作曲家が舞台から姿を消したのかわからなかった、とサバネーエフは回想している。
「プロメテ(火の詩)」は後期スクリャービンの集大成ともいうべき作品である。音を特定の色のイメージでとらえ、ホールにその色彩を映し出しながら演奏するという構想で、その彼の「哲学」は当時では斬新なものだったはずだ。ただし、ある音から特定の色が見えるというのは現在の精神医学で「共感覚 」と言われるもので、この感覚を表明する現代の音楽家は結構存在する(イツァーク・パールマン、エレーヌ・グリモーなど)。
「プロメテ(火の詩)」はピアノ協奏曲と言ってよいくらいピアノ・パートの目立つ作品で、初演は作曲家自身がピアノ・パートを弾き、1911年モスクワでクーセヴィツキーの指揮で行われた。ロシア音楽出版(指揮者の所有する出版社, 1947年Boosey & Hawkes社によって買収)から出された初版のスコアの表紙は、竪琴の内部に両性具有者の顔が大きく描かれた、いわくありげな意匠になっている。Clavier à lumières(色光鍵盤)と呼ばれる音ごとに色を投影する鍵盤楽器、3管編成のオーケストラ、それにヴォカリーズ(歌詞を伴わない母音のみでの歌唱)のコーラス、オルガンも入った贅沢な編成で、これもクーセヴィツキーの財力ゆえに受け入れられたものであろう。前述のサバネーエフによれば、指揮者は初演に際し光の演出には関心を示さずにClavier à lumièresの使用をきっぱりと断わり、スクリャービンはやむなくこれに同意したという(この装置を準備したがうまく機能しなかったという記録もあるが)。初版スコアに「Clavier à lumièresは無しでも演奏可」と書かれていることからも、クーセヴィツキーのクールな態度がうかがわれる。色の投影を伴った演奏が初めて行われたのは1915年、ニューヨークにおける演奏会の場であった。

スクリャービンは音楽院の女子生徒やロシア以外も含めてあらゆる階層の女性たちとスキャンダラスな交際をいくつも重ねた男であったようだが、パートナーとして彼の生涯を支えた二人の女性がいた。
最初の妻、ヴェラ・イサコーヴィチ(1875 - 1920)はモスクワ音楽院でピアノを学んだ女性であり、ピアノ協奏曲の2台ピアノ版を試みたりしている。二番目の妻(正式に籍は入れていない)のタチアナ・シュレッツェル(1876 – 1920) はヴェラのピアノの師であったシュレッツェル教授の娘であり、「サーシャ(スクリャービン)はワグナーのさらに上を行っている」と言って憚らなかったというスクリャービンの熱烈な崇拝者。ロシア正教は離婚を原則認めないので二人の女性には多くの葛藤があったはずだ。両者ともそれぞれスクリャービンとの間に子供を儲け、タチアナの娘、マリーナは作曲家、音楽学者として1998年まで生きた。ロシアの文献は宗教的に厳密なのかタチアナのことを夫人とは書いていないものが多い。筆者はスクリャービンの母代わりだった叔母のリュボーフィ(愛称リューバ)がかくあるべきと言ったという「市民結婚」という言葉が最も合っているように思う。(市民結婚による夫、妻はロシア語でгражданский муж, гражданская жена といい、現代でも頻繁に使われる、いわゆる籍を入れていない夫婦のこと。「愛人」とか「内縁の妻」とか訳すとなにか艶めかしく、あるいは湿っぽく響いてしまうので。)
二人のパートナーの共通点は、いずれも音楽院で本格的な教育を受けた教養の高い女性であり、ユダヤ系であるということだ。彼女たちは相当ハイレベルな生徒であったのだろうが、当時のモスクワやペテルブルグの音楽院は、いわゆる縁故で入ってくる貴族や上流家庭のお嬢さんが多かったという。花嫁修業の一部として、あるいはちょっとアップグレードして売り込むために腰掛け的な入学をさせたのだろう。チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父」(1899年)に、初老のやたらと気難しい教授と彼に従順に付き合う若い妻、エレーナという美人が登場する。閑人のワーニャは彼女を口説こうとするが相手にされない。聞くと彼女はコンセルヴァトアールを出ておりピアノも弾いたりする・・・。エレーナのような職業音楽家ではないが音楽の素養のある魅力的な女性が当時のロシアの都会には多くいたのであろう。

ところでヴャチェスラフ・モーロトフ(1890 – 1986)というソ連時代の政治家を覚えておられる方はいるだろうか。彼は本名をヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンといった。モーロトフというのはレーニンやスターリンと同じくペンネームであり、ロシア語の「モーロト(ハンマー)」からとっている。戦中から戦後にかけてスターリンの片腕、ソ連邦外務大臣として活躍した。作曲家のスクリャービンとの直接の血縁関係はないようだが、幼少時にはヴァイオリンを弾き、兄のひとりは作曲家(ニコライ・ノリンスキー、1886 – 1966)であった。スターリンの没後は共産党から除名されたが、1984年に名誉回復がされ、96歳の長寿を全うしている。

(※)スクリャービン第5ソナタのエピグラフ(自作詩)
Я к жизни призываю вас, скрытые стремленья!
Вы, утонувшие в темных глубинах
Духа творящего, вы, боязливые
Жизни зародыши, вам дерзновенье приношу!
Je vous appelle à la vie, ô forces mystérieuses !
Noyées dans les obscures profondeurs
De l’esprit créateur, craintives
Ébauches de vie, à vous j’apporte l’audace !
吾は爾を生命(いのち)へと喚ぶ
噫、秘鑰の勁(ちから)よ!
造化の靈の朧朧たる深淵(ふかみ)に溺れし
怯懦なる生命の胚子、
爾に吾は驍悍を齎す! (安田毅・訳)

【艷なる讌樂】
君の心は 奇らかの貴なる風景、
假面假裝の人の群 窈窕として行き通ひ、
竪琴をゆし按じつつ 踊りつつ さはさりながら
奇怪の衣裳の下に 仄仄と心悲しく、
誇りかの戀 意のままのありのすさびを
盤涉の調にのせて 口遊み 口遊めども、
人世の快樂に涵る風情なく
歌の聲 月の光に 入り亂れ、
悲しく美しき月魂の光 和みて、
樹樹に 小鳥の夢まどか、
噴上げの水 恍惚と咽び泣き、
大理石の像の央に 水の煙の姿たをやか。