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POC 第42~第46回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs II》


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大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第42~第46回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs II》
大井浩明(ピアノ独奏)

松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
チラシpdf




c0050810_04130168.jpg【ポック(POC)#42】 「戦後前衛音楽の濫觴」 2019年10月14日(月・祝)17時開演 松涛サロン(渋谷区)
R.シュトラウス:《皇紀2600年奉祝音楽》(1940/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演
しばてつ(1959- ) :《「君が代」逆行形による変奏曲》(2019、委嘱改訂初演)
李聖賢(1995- ):《W.フェントン「君が代」による変容》(2019、委嘱初演
成田為三(1893-1945):《「君が代」変奏曲》(1942)
M.グルリット(1890-1972):《信時潔「海ゆかば」による変奏曲》(1944、全曲による世界初演)
黛敏郎(1929-1997):《オール・デウーヴル》(1947)
松平頼則(1907-2001):《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/1983)
諸井誠(1930-2013):《αとβ》(1954)、《ピアノ曲1956》(1956)
入野義朗(1921-1980):《三つのピアノ曲》(1958)
松下眞一(1922-1990):《可測な時間と位相的時間》(1957/60)



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【ポック(POC)#43】 「ヤナーチェクからの眺望」 2019年11月9日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)
林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928):《ズデンカ変奏曲 Op.1》(1880)、《草かげの小径にて》(1901-08/1911)、ピアノソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」(1905)、《霧の中で》(1912)、弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928/2018)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演


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【ポック(POC)#44】 「スクリャービンの窯変」 2019年12月20日(金)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
山田耕筰(1886-1965):《スクリャービンに捧ぐる曲》(1917)、舞踊詩《青い焔》(1916)
スクリャービン(1871-1915) :ソナタ第7番「白ミサ」Op.64 (1911)、詩的夜想曲 Op.61 (1911/12)、ソナタ第6番 Op.62 (1911/12)、2つの詩曲 Op.63 (1911/12)、3つの練習曲 Op.65 (1912) 、2つの前奏曲 Op.67 (1912/13)、ソナタ第9番「黒ミサ」Op.68 (1912/13)、2つの詩曲 Op.69 (1912/13)、ソナタ第10番「トリル・ソナタ」Op.70 (1913)、ソナタ第8番 Op.66 (1913)、2つの詩曲 Op.71 (1914)、詩曲「焔に向かって」Op.72 (1914)、2つの舞曲 Op.73 (1914)、5つの前奏曲 Op.74 (1914)

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【ポック(POC)#45】 「シマノフスキの讖緯」 2020年1月18日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
若尾裕(1948- ):委嘱新作初演(2019)
李聖賢(1995- ):委嘱新作初演(2020)
カロル・シマノフスキ(1882-1937):《メトープ(浮彫) Op.29》(1915)、《仮面劇 Op.34》(1916)、《ピアノソナタ第3番 Op.36》(1917)、《20のマズルカ集 Op.50》(1924/25)、《2つのマズルカ Op.62》(1933/34)



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【ポック(POC)#46】 「ジョリヴェの蚕蝕」 2020年2月15日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
門脇治(1964- ):委嘱新作初演(2019)
前田克治(1970- ) :委嘱新作初演(2020)
アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974):《マナ》(1935)、《五つの儀式的舞踊》(1939)、ピアノソナタ第1番(1945)、ピアノソナタ第2番(1957)
エドガー・ヴァレーズ(1883-1965):《アルカナ》(1927/2018、米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演





POC2019:日本戦後前衛の源流を辿って――野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で9期目。第6期ではヨーロッパ戦後前衛に直結したシェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーを取り上げたが、日本の戦後前衛への直接的な影響は実は限定的だった。12音技法の学習は柴田南雄、入野義朗らの戦後最初の課題だったが、生まれてきたのは新ウィーン楽派とは似ても似つかない音楽だった。新古典主義を取り入れた作曲家は多いが、ドイツ系ではヒンデミットやオルフ、フランス系では後期ラヴェルや六人組が参照され、ストラヴィンスキーに挑んだ作曲家はいない。バルトークの影響を標榜する作曲家も多いものの民謡素材の導入という入り口の段階に留まり、それを活かすためにヨーロッパ古典音楽の体系の方を組み換える(対象が微分音や噪音ならば前衛語法に直結する)という核心部分には至らなかった。

 むしろ同時代には、スクリャービン(シマノフスキが後期ロマン派風書法から飛躍したのも、スクリャービンの影響が大きい)やジョリヴェ(「若きフランス」の作曲家としては、メシアンよりも断然)の方が、日本作曲界への直接的な影響ははるかに大きかった。またオペラ作曲家として発話旋律の収集を根幹に据えたヤナーチェクのアプローチは、日本語に根ざしたオペラの指標になった。ロシアと東欧、及びフランスでのオリエンタル志向という彼らの立ち位置が、ヨーロッパの中心から見ればさらに辺境にあたる日本の作曲家たちにとっては近づきやすかったことは疑いない。前衛の時代が終わってから欧米では再評価が始まった彼らと日本の作曲家たちの影響関係や照応関係を具体的に見てゆくことが、今年度のテーマである。
 
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 アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915) はモスクワ音楽院でセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943) と同期だった。十度を楽に掴める大きな手と異常に柔軟な指関節を活かし、楽曲の対位法構造を徹底的に抽出してモダニズムを体現したピアニスト=ラフマニノフは、作曲家としては19世紀の語法の革新を必要としなかったが、ピアニストとしては化け物ではなかったスクリャービンはそれでは済まない。《法悦の詩》(1908) 《プロメテ》(1910) で独自の無調書法を編み出し、ようやくライバルの影から解放された。長三度・完全四度・増四度を堆積した「神秘和音」で「無調」のトーンを作り、時間分節は持続音で行う。ダンパーペダルで持続音を作ると和音が混濁するピアノ独奏曲の場合は、アルペジオとトリルで代用する。彼にとって管弦楽の作曲は得意分野ではなく、この2曲以降に完成されたのはすべてこの書法によるピアノ独奏曲だった。その大半が今回網羅的に取り上げられる。

 スクリャービンは音楽史から隔絶された特異な存在だと長年見做されてきた。彼のインスピレーションの源泉は神智学やニーチェの超人思想で、色彩と音響の共幻覚が強調されてきたことも要因のひとつだろう。彼の影響を神秘和音の使用に限定すると、その構成音は全音音階の構成音1個を半音ずらしたものなので、彼の影響は無視して「印象派風」と見做されがちだった(シマノフスキがまさにそうだった)。だが「無調的な構成音と持続音による分節」まで拡大すれば影響圏は一挙に広がる。ロスラヴェッツ、ルリエー、ヴィシネグラツキーらロシア・アヴァンギャルドの作曲家の大半はこの意味では彼の影響下にある。シェルシも12音技法と並行してスクリャービンの弟子からその作曲法を学び、微分音オルガンを使い始めるまでのピアノの即興に基づいた作品群に至った。セリー技法は本質的に筆記的だが、広義のスクリャービン流「無調」は即興音楽における「無調」表現の現実的な処方箋になった。

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 カロル・シマノフスキ(1882-1937) は、当時はロシア支配下のポーランドの貴族の家庭で生まれ育った。親戚のネイガウス家の音楽学校で学び始め、スクリャービンの音楽に初期から親しんでいた。ワルシャワ音楽院に進み、ルービンシュタイン、コハィンスキらと音楽家集団「若きポーランド」を結成する。当時の彼はワーグナーやR.シュトラウスを好み、交響曲第2番(1909-10) やピアノソナタ第2番(1910-11) はまさにそのような音楽だ。1914年に南欧や北アフリカを旅行してオリエントやアラブの音楽を知り、異国の音組織と無調化以降のスクリャービンの音組織の類似性は、後期ロマン派を超える音楽を模索していた彼に啓示を与えた。ピアノ独奏のための《メトープ》(1915) 《仮面劇》(1916)、ヴァイオリンとピアノのための《神話》(1915)、交響曲第3番(1914-16)、ヴァイオリン協奏曲第1番(1916)、ピアノソナタ第3番(1917)、弦楽四重奏曲第1番(1917) などで、彼は一挙にヨーロッパ作曲界の最前線に立った。なかでも《神話》は、バルトークの最も尖鋭的な作品であるヴァイオリンソナタ第1番(1921) に直接的な影響を与えている。

 この充実期は、ロシア革命に際しボリシェヴィキの一団に自宅を襲撃された事件で終わる。そのショックで音楽活動を中断していた彼が活動を再開したのは、第一次世界大戦が終結してポーランドが独立を回復した時だった。しばらくは「若きポーランド」の盟友との海外での活動が中心だったが、ストラヴィンスキー《結婚》に衝撃を受けて民俗音楽に目覚め、1922年からポーランド南端ザコパネに別荘を借り、近代西洋音楽に毒されていない同地の音楽を収集した。充実期の作風を受け継いだオペラ《ロジェ王》(1918-24) 完成後の《20のマズルカ》(1924-25)、《スターバト・マーテル》(1925-26)、弦楽四重奏曲第2番(1927) がこの時期の成果である。ただしフィラデルフィア音楽財団の弦楽四重奏曲コンクールでは入賞を逃し(バルトーク第3番は相手が悪すぎたが、カゼッラ《セレナータ》にも後塵を拝した)、この時期の彼の方向性はもはや同時代にも作曲界の最前線とは見做されていなかった。

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 レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928) は生年で見れば今期最年長だが、音楽的にはむしろバルトークやシマノフスキと同世代と見做せる。生涯の大半をチェコ・モラヴィア州の州都ブルノで過ごし、晩年までヨーロッパのモダニズムの動向とはほぼ無縁だったが、この孤立が唯一無二の音楽を生んだ。彼の音楽歴は修道院で暮らす聖歌隊員として始まり、声楽曲の作曲が終生活動の中心になる。教会オルガニストとしても頭角を現し、1882年にはブルノにオルガン学校を設立して長らく校長を務めた(チェコスロヴァキア独立後の1919年にブルノ音楽院に発展)。また彼はモラヴィア民謡を網羅的に収集・刊行し、チェコ文化の中心地であるボヘミア州の州都プラハでは長らく、「作曲も嗜む民俗音楽学者」という扱いだった。《ズデンカ変奏曲》(1880) などのロマン派風の初期作品の後は、民謡を直接的に用いた作品が続くが、カンタータ《アマールス》(1897) でその段階を離れた。

 民謡研究を進める中で、言葉が内包する「発話旋律」こそが民謡の起源だと考えるに至った彼はその収集も始め、オペラ《イェヌーファ》(1894-1903) から作曲に応用した。ただし発話旋律の収集はそれを直接引用するためではなく、既存の旋律に引きずられないためのガイドだった。彼の旋律はテキストと不可分で、望ましい旋律を得るためにしばしばテキストの方を変更していた。今回の曲目の中核となるピアノ曲集《草陰の小径にて》(1901-08/11)《1905年10月1日》(1905)《霧の中で》(1912) は、独自語法を見出しても世間では正当に評価されない、鬱々とした日々の中で書き溜められた。単純な動機の執拗な反復と唐突な転換、全く異質な要素の重ね合わせと結果的に生じる斬新な和声。動機の有機的な展開と対位法的な構成を良しとする伝統的な価値観(たとえ技法的には「前衛」であっても)に立てば、同時代には素朴なローカル作曲家として片付けられていたのもやむを得ない。

 第一次世界大戦の趨勢と共に独立への期待が高まった1916年、《イェヌーファ》はようやくプラハで上演されて大成功を収め、翌年には40歳近く年下の人妻カミラ・シュテスロヴァと出会って一方的な恋愛感情を抱いた。このように公私とも充実した最晩年の十余年が彼の「傑作の森」になった。今回は最後の完成作、弦楽四重奏第2番《内緒の手紙》(1928) のピアノ独奏版が取り上げられる。彼が本格的に評価されたのは1950年代以降、まずマッケラスの尽力で「ブリテンと並ぶオペラ作曲家」という位置付けで英国で受容された。さらに1980年代以降、ポストミニマルやスペクトル楽派第二世代以降の潮流が「新しい調性」に向かう中、そこで議論されていた「新しさ」は彼が既にはるかに高い水準で達成していたことが再発見されてゆく。モダニズムの歴史は無調とその組織化及び特殊奏法の探求にほぼ特化していたわけだが、それが相対化された時、ヤナーチェクの真価が明らかになった。

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 アンドレ・ジョリヴェ(1905-74) は師エドガー・ヴァレーズ(1883-1965) からオリヴィエ・メシアン(1908-92) を経てモーリス・オアナ(1913-92) まで続く、エキゾティックな音楽に強いインスピレーションを受けたフランス近代の作曲家の列に連なる。作曲家集団「若きフランス」結成に際してメシアンが在野の作曲家ジョリヴェに声をかけたのは、ヴァレーズ譲りの無調書法が反新古典主義を旗印にしたグループの理念に合致していたからだが、早くから電子音響を夢想していたヴァレーズ、インド音楽の旋法やリズムを科学的に分析したメシアン、セリー主義へのアンチテーゼとして地中海の民俗音楽を創造的に用いたオアナと比べると、ジョリヴェの姿勢は典型的なエキゾティシズムに留まっていたことは否定できない。

 《マナ》(1935)、《5つの呪文》(1936)、《5つの儀礼的舞踏》(1939) などの生気に満ちた作品群から出発した彼は、《兵士の3つの嘆き》(1940) で調性回帰し、ピアノソナタ第1番(1945) の頃にはすっかり保守的な精神の持ち主になっていた。80年代は「クセナキスの唯一の弟子」にふさわしい輝きを見せていたデュサパンの90年代以降の変節を例に挙げるまでもなく、「在野の改革派」がいったん名声を確立すると保守派以上に保守的になってしまうのはフランス作曲界の宿痾なのだろう。ただし、マッカーシズムに葬られたニューディール左派の理想主義が日本国憲法に残されたように、《赤道協奏曲》(1950) の悪名の前に忘れられたジョリヴェ初期の輝きは、日本の現代音楽草創期の作品群に残されていた。

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 このような認識を踏まえて日本の作曲家の曲目は選ばれた。スクリャービンの影響を直接的に受けた山田耕筰の2曲を本家と聴き比べ、合唱曲やオペラを通じて日本語の話し言葉に正面から対峙した間宮芳生林光の代表作にヤナーチェクの精神を確認し、ジョリヴェ受容の諸相を日本の現代音楽草創期の作品群に探す。初期ジョリヴェの影響を最も強く受けたのは湯浅譲二福島和夫だが、このリストには黛敏郎も含まれる(彼の場合はその後の顛末も含めてだろうが)。松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951) は、フランス新古典主義(モデルは主にプーランク)から雅楽のフィルターを介した戦後前衛に乗り換える瞬間に現れた、創作史の特異点という位置付けだが、雅楽の素材をエキゾティシズムの対象として扱って多様式を繋ぐハブにするという発想には、同時代の「ジョリヴェ的なもの」も無関係ではないだろう(その影は石井眞木やその後の世代まで伸びている)。この文脈では、諸井誠・入野義朗・松下眞一の初期作品は解毒剤として並んでいることになりそうだが、併せて聴くことで見えてくるものもあるはずだ。


by ooi_piano | 2019-07-26 02:12 | POC2019 | Comments(0)