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10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)


(※)公演は予定通り開催致します

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大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp


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【ポック(POC)#42】 「戦後前衛音楽の濫觴」 2019年10月14日(月・祝)17時開演 松涛サロン(渋谷区)

●R.シュトラウス(1864-1949):皇紀2600年奉祝音楽(1940/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演) 14分
  海景 - 櫻花祭 - 噴火山 - もののふ蹶起 - おほきみは神にしませば
成田為三(1893-1945):「君が代」変奏曲(1942)  15分
  主題 Largo - 変奏1 - 変奏2 Poco più mosso - 変奏3 Animato - 変奏4 Andante - 変奏5 Allegro moderato ma non troppo - 変奏6 Tempo di Thema - 変奏7 Più mosso - 変奏8 Allegretto agitato - 変奏9 Scherzando - 変奏10 Lento ad libitum - 変奏11 Con moto - 変奏12 Con forza - 終結部 Allegro con fuoco
M.グルリット(1890-1972):信時潔海ゆかば」による変奏曲(1944、全曲による世界初演)  30分
  主題 - I.導入 - II.前奏曲 - III.夜想曲1 - IV.幻想曲1 - V.夜想曲2 - VI.急迫曲1 - VII.綺想曲 - VIII.挽歌1 - IX.譚詩1 - X.幻想曲2 - XI.夜想曲3 - XII.譚詩2 - XIII.間奏曲 - XIV.急迫曲2 - XV.挽歌2 - XVI.急迫曲3 - XVII.葬送行進曲 - XVIII.牧歌 - XIX.闘諍 - XX.終曲

(休憩)

黛敏郎(1929-1997):オール・デウーヴル(オードブル)(1947)  8分
  I. 導入部とブギウギ - II. ルンバ/フォックストロット
松平頼則(1907-2001):盤渉調音取(1988) + 盤渉調越天楽による主題と変奏(1951/1983)  20分
  主題 - 変奏I Andante - 変奏II Allegro - 変奏III Allegro(ルンバ) - 変奏IV Lento - 変奏V(ブギウギ) - 変奏VI(トッカータ・メカニコ) - 終結部 Lento
しばてつ(1959- ) :「君が代」逆行形による変奏曲(2007/2019、委嘱改訂初演) 10分
  主題(君が代逆行形) - 変奏1(順行と逆行) - 変奏2(逆行カノン) - 変奏3(和声1) - 変奏4(和声2) - 変奏5(和声3) - 変奏6(ジャズ/2声のインヴェンション) - 変奏7(和声4/エッケルト) - 変奏8(拡大縮小音価) - 終曲
  
(休憩)

●李聖賢(1995- ):君が代-遺聞(ユムン)(2019、委嘱初演) 7分
諸井誠(1930-2013):α(小ソナタ)とβ(主題と12の変奏)(1954)、ピアノ曲(1956) 14分
入野義朗(1921-1980):三つのピアノ曲(1958) 8分
  I. トッカータ - II. コラール - III. スケルツォ
松下眞一(1922-1990):ピアノのための三楽章〈可測な時間と位相的時間 Temps mesurable et temps topologique〉(1957/60) 10分
  I. - IIa. - IIb. - III


10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_00421798.jpg  2010年9月に松下眞一歿後20周年追悼公演で開始されたPOC (Portraits of Composers)のシリーズは、既に40プログラムを超えました。10月公演では、今まで取り上げてこなかった、戦中・戦後のミッシング・リンクにあたる作品群を特集致します。
  第一部で演奏する戦中(1940年~44年)に書かれた3作品は、まごうことなき正調ドイツ音楽です。没後70周年のリヒャルト・シュトラウス《皇紀2600年奉祝音楽》(1940/2019、米沢典剛による独奏版)は、現在の相場で1000万円を超える日本政府からの高額の委嘱料に見合った、まさに垂訓的お手本の如き和声と対位法の贅を尽くした豪華絢爛な音絵巻ですが、戦後は「皇紀」というネーミングに無頓着な来日外国人指揮者が取り上げるのが関の山で、演奏頻度としては同じ日本ネタのメシアン《七つの俳諧》さえ下回っています。(一方、21世紀になっても邦人オケ作品で「リヒャルト・シュトラウスが後ろを通り過ぎる」(柴田南雄)のは相変わらずです。)

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_00441255.jpg  若書きの歌曲《浜辺の歌》(1916)や《かなりや》(1918)で広く知られる成田為三(1893-1945)は、1922年~26年のベルリン留学時はロベルト・カーンに作曲理論を師事しており、スカルコッタス・ライトナー・ケンプ・ルービンシュタインの同門にあたります。日本人作曲家による変奏曲の最高峰と言うべき《君が代変奏曲》(1942)は、師・山田耕筰の《御大典奉祝前奏曲―君が代を主題とせる》(1915、大正天皇即位礼のための)の綿密な動機労作を意識しながらも、ブラームスからレーガー、新ウィーン派に継がれた重厚な変奏技法が真摯かつ入念に展開される力作です。
  そもそも、19世紀中欧軍歌を模した様式の「国歌」がアジア・中南米を含め圧倒的多数を占める中にあって、アイルランド人楽隊長ウィリアム・フェントンの「君が代」初稿(1869)は即座に却下され、宮内庁雅楽部の林廣守による「君が代」の旋法や構成は西洋音楽の変奏技法には不向きでもあり、プロイセン人楽隊長フランツ・エッケルトの和声付け(1880)も当時から違和感があったのか、山田耕筰・溝部国光・平井康三郎らは「君が代に最高のハーモニーを付ける」ことを何年かかけた課題として競ったそうです。
  国歌を自由に裁断してパラフレーズ化するのは「不敬」だから作品例が少ない・・・、というわけではなく、例えばイギリス国歌《女王陛下万歳(ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン)》などは、古来ベートーヴェン・クレメンティ・ハイドン・クリスチャンバッハ・フンメル・パガニーニ・リスト・タールベルクから、ドビュッシー・レーガー・アイヴズを経てビートルズ・ジミヘン・ピストルズ・クイーンに至る、多彩なヴァージョンが存在しています。プロイセン王フリードリヒ2世が(ベルリン近郊で)作曲した主題を、おかかえ楽士の父親が「反行」させたり半音階的に歪めたりしても(バッハ「音楽の捧げ物」)、大王自身が激怒するわけもありません。
  これらの「歴史」に則り、音楽素材としての君が代の扱いは、戦後よりもむしろ戦前戦中のほうが自由であり、前記の山田耕筰・成田為三作品はもとより、吉本光蔵《君が代行進曲》(1902)や(かもめの水兵さんの)河村光陽《君が代踊り》(1941)の奔放さに比べると、勤務先の高校卒業式で演奏して分限免職処分となった小弥信一郎《君が代ジャズ風》(1979)や、「むかしのわるいうた」として恐る恐る断片的に君が代を引用した林光:交響曲第2番《さまざまな歌》(1983)などは、全く腰が引けています。戦後でも国歌継ぎ接ぎコラージュの大作、シュトックハウゼン《ヒュムネン》(1967、君が代の引用あり)に各国から苦情が殺到した、などという話は聞いたことがありません。

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_00451839.jpg  《海ゆかば》(1937)の作者、信時潔(1887-1965)はベルリン留学時(1920-22)に、リヒャルト・シュトラウスの盟友ゲオルク・シューマンに師事、同氏には箕作秋吉(1921-24)や諸井三郎(1932-34)も薫陶を受けています。ベルリン生まれのマンフレート・グルリット(1890-1972)は同地にてE.フンパーディンクに作曲を学び、1939年に日本に亡命、そのまま東京で後半生を過ごしました。グルリットにより日本初演が行われた多数の作品には、R.シュトラウス《ばらの騎士》(1957)や《サロメ》(1962)も含まれています。
  グルリット《海ゆかばによる20の変奏曲 Nobutoki-Variationen》は1944年5月に作曲、四管編成オーケストラ版が作曲者指揮東京交響楽団(現:東京フィルハーモニー交響楽団)によって放送初演されています(1944年10月&1945年2月)。グルリット邸で作曲中の試演に接した信時潔の感想は、「グルリット氏は(…)、大衆、否、音楽者を含めて、聴者の理解気に入る入らぬを顧慮せず、オカマヒ無しに作れるらしきこと愉快なり」、というものでした。歌曲「海ゆかば」は2005年頃まで出版も演奏も忌避され続けていた事情もあり、今回演奏するピアノ独奏版は作曲から75年目にして初の全曲世界初演となります。

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10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_00465545.jpg  第二部では、黛敏郎《オール・デウーヴル》(1947)松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951)を、新旧2世代(18歳と44歳)の(戦後直後の新しい息吹の表象たる)ブギウギとルンバへのアプローチを共通項として対比させつつ、さらにフリージャズ演奏家しばてつ氏(生誕60周年)による君が代インプロヴィゼーション(平成/令和)へとつなげます。
  黛敏郎といえば、平成初期(1989年~90年頃)に京大西部講堂で黛作品を取り上げようとしたところ、管轄団体である「西部連絡協議会」から演奏禁止を言い渡されたことがありました。まさに「表現の不自由展」を地で行く、不当な検閲行為にほかなりません。当時、譜面提供などでご協力頂いていた黛氏にお伝えしたところ、「大変でしたね、無理しないで下さい」との暖かい御返信、御慰労を頂きました。今年で生誕90周年、没後22周年を迎えながら、カンタータ《なぜ憲法は改正されなければならないか》(1981)は、初演どころか譜面の所在さえ不明だそうで、令和の世でも余り状況は変わってないのかもしれません。
   松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/1983)は懐かしい作品です。盤渉調越天楽は笙で嗜んでいたこともあり、全音楽譜から公刊直後(1991年)に、西部講堂南隣の関西日仏学館ホールで鼻息荒く演奏した際は、中川真氏親子に引率されて故ホセ・マセダ、カール・ストーン各氏らが七福神のようにお見えになっていたのを思い出します。同じ雅楽由来のテーマでも、9年前の成田為三の変奏曲とは驚くべき隔絶があります。
  POCシリーズ第2回公演(2010年10月)で演奏した松平頼則:ピアノ組曲《美しい日本》 (1969)は、戦後日本ピアノ音楽を代表する傑作であり、全音のあらゆるピアノ楽譜の巻末にそのタイトルがクレジットされながら、なぜ「作曲以来41年ぶりの公開全曲初演」になったかと言えば、「ジャンルの違う幾つかの日本の伝統音楽が前衛風に加工されている」という、ピアノ奏者にとって二重の〈表現の不自由さ〉があり、また、川端康成のノーベル賞講演に由来する「美しい日本」という言葉が、後期武満の頽廃性を揶揄する際に使われるなど(浅田彰)、昭和末期には余り良いイメージでは無かったせいもあるかと思われます。(どうせ誰も作品そのものは知らない。)

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10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_00481669.jpg  第三部では、1950年代に日本で十二音技法を模索していた代表的な三人、諸井誠・入野義朗・松下眞一の巧緻な佳品を演奏します。松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/44歳)と諸井誠《αとβ》(1954/24歳)は、どちらも当時の国際現代音楽協会(ISCM)入選作の「変奏曲」でもあります。
  既にPOCの第1回~第41回公演では、ブーレーズケージシュトックハウゼンから実験工房に至る、1950年代に書かれた代表的なピアノ作品群は縷々取り上げて来ました。そこで思い返されるのは一柳慧氏の述懐、「1950年代は作曲のしにくい時代だった」です。確かに、1960年代に入って急激に開花した人、失速した人、さらに雌伏し続けた人などさまざまなケースがありました。作品そのもののクオリティと、現在「いかに忘れられているか」は直接関連はなく、〈調性がない〉〈ロマンチックな演奏効果がない〉〈遺族が根気よくプロモーションしない〉という程度で演奏頻度は決まるようです。

   1953年(26歳)時点のフランコ・ドナトーニは、「自分が変わらなければならない自覚はあった」が、「音列作法などまるで知らなかった」し、「ラジオで耳にしたシェーンベルグなど耳障りで切ってしまった」ほどで、この年に知り合ったマデルナの話は理解の範疇を超えており、翌1954年初めて参加したダルムシュタット夏季講習会では、クシェネックやレイボヴィッツのセミナーで12音作法を学び、「何ヶ月も家で4色の色鉛筆片手にシェーンベルグの作品31を分析」したそうです。最初期のピアノ曲、《四楽章の作品 Composizione in quattro movimenti》(1955年作曲/1957年ショット社刊)と《3つの即興 Tre improvvisazioni》(1957年作曲/1958年ショット社刊)について、晩年のドナトニ自身の回想では、前者は「ダラピッコラから借りた擬似ウェーベルン」であり、後者は「ブーレーズ第2ソナタの醜悪なコピー」と評されています。
  地続きの中央ヨーロッパでさえこの体たらくなので、講習会もチュートリアルもない戦後直後の日本で新たな潮流を試行するのは難儀だったことでしょう。諸井誠は1955年5月16日~1956年1月9日にかけて渡欧し、リンダウでのジュネースミュジカール・ドイツ支部総会と国際音楽教育教会(ISME)総会に日本代表として出席、(5月29日~6月6日開催のダルムシュタット講習会は不参加)、続けて《αとβ》が演奏されたISCM(バーデンバーデン)に参加(6月17日~21日開催、18日にハンス・ロスバウトによって《マルトーサンメートル》世界初演)、8月にバイロイト音楽祭へ行き、9月から三週間ほどシュトックハウゼンのいた北西ドイツ放送局の電子音楽スタジオに滞在、10月にドナウエッシンゲン音楽祭に出席、そして11月にはパリでブーレーズと面会したそうです。外遊の成果として帰国後に書かれたのが《ピアノ曲》(1956)ということになります。

  第三部では併せて、陳銀淑の秘蔵っ子であり国際的に注目を浴びる韓国人作曲家、李聖賢(イ・ソンヒョン)氏(24歳)による、フェントン初稿「君が代」(1869)を韓国伝統音楽の打令(タリョン)としてパラフレーズ化した新作も初演します。外国人作曲家による「日本ネタ」として、「日本には行ったことが無く伝聞情報だけで仕上げた豪奢な一品」(リヒャルト・シュトラウス)、「かねてよりオペラの題材にしていた遠い異国に実際に亡命して、当地で最もポピュラーな歌曲を主題に大管弦楽用に完成した長大な変奏曲のピアノ版」(マンフレート・グルリット)、「軍楽長として来日したアイルランド人が急遽あり合わせで作った暫定的国歌初案を、そのジャスト150年後に韓国人が韓国伝統音楽風にギタギタにした新作」(李聖賢)の三種三様をお楽しみ頂きます。
  「ルツィファー発言」後のシュトックハウゼンさながら、なぜ松下眞一氏が没後20年間追悼演奏会がなかったか等の「表現の不自由」状況を含めて、白石知雄氏・野々村禎彦氏他の論考(リンク)が、下記(この投稿末尾)にて御覧頂けます。



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しばてつ(1959- ) :「君が代」逆行形による変奏曲(2007/2019、委嘱改訂初演)
  日本の法律に五線紙が記されているのは、国旗国歌法だけだろう。テンポもコードネームもないが、歌詞は明記されている。作曲者名は林廣守で和声をつけたエッケルトの名はない。この11小節の曲は、遥か昔、子供の頃から実効国歌で、最後が突然ユニゾンになるのが変と思ってた。更に昔、私が生まれる14年前以前の大日本帝国憲法下でも国歌として実効していた。かなり長い期間、多くの様々な人々が歌い聴いた有名曲である。12年ほど前、特に志なしに、エッケルト和声もろとも逆行で弾いてみるとなかなか良いので、変奏曲を書いた。それを今回、大井浩明の委嘱で1.5倍ほどに増補加筆した。(しばてつ)


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しばてつ Shiba Tetsu, composer
  ピアノ/ピアニカ奏者、作曲家、即興家。1984年よりスティーブ・レイシーのソプラノサックスsoloに感銘し、ピアニカsoloの即興を始める。書かれた作曲作品として、ピアニカ5重奏「5chサラウンドサウンド ハイドン変奏曲」、「リトルネロ練馬」、オンド・マルトノとピアニカのための「電波梅」、ピアノ曲「フリードリッヒ・タンゴ・バッハ」、jazz曲「ビネール」「土木」などなど。2016年ピアニカ生音soloのCD「Plastic Pneuma」をFtarriよりリリース。2019年還暦達成。



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李聖賢:君が代遺聞(ユムン)(2019、委嘱新作初演)
  アイルランド人楽隊長ジョン・フェントン(1831-1890)による「君が代」の暫定的な初稿(1869)に接した際、その厳粛なコラールは同時に哀調も感じさせ、祖国の擾乱の世に忘却された魂に思いを馳せた。フェントンの素材に準拠しつつ、伝統音楽の打令(タリョン)調の朗詠され繰り返される身振りによって、より内省的なピアノ作品へと昇華させた。終わり近くでシューベルト《影法師 D957》(1828)、グレゴリオ聖歌《怒りの日》、尹龍河(1922-1965)光復節歌》(1949)が引用される。(李聖賢)


10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_08062798.jpg李聖賢(イ・ソンヒョン) Sunghyun Lee, composer
  1995年ソウル生まれ。2009年~2017年、ソウル市響「アルス・ノヴァ」講習会にて陳銀淑(チン・ウンスク)に師事。ソウル大学音楽学部で崔宇晸(チェ・ウジョン)に師事。ジュネーヴ国際コンクール第3位(3つの特別賞、2015)、音楽ジャーナルコンクール第1位(主催/音楽ジャーナル社)、韓国音楽協会コンクール第2位(1位なし)(主催/韓国音楽協会)、中央音楽コンクール第1位(主催/中央日報)、2016年韓国音楽賞新人賞(主催/韓国音楽協会)。作品は、フリクション四重奏団(サンフランシスコ、2013)、ヴォーチェ四重奏団(パリ、2015)、シャルフェルト・アンサンブル(グラーツ、2017)、ミザン・アンサンブル(ニューヨーク、2018)等によって演奏されている。


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●M.グルリット(1890-1972):信時潔「海ゆかば」による変奏曲
10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_15550835.jpg  マンフレート・グルリット(1890-1972)はベルリン生まれの作曲家・指揮者。ピアノ初学者向けの小品で名高いコルネリウス・グルリットは大叔父にあたる。同地にてE.フンパーディンクに作曲を学ぶ。1914年、ブレーメン歌劇場首席指揮者に就任。1920年、平家物語「祗王」に基づく最初の歌劇《聖女》初演。1924年同歌劇場総監督(27年まで)。1926年歌劇《ヴォツェック》初演(ベルクの同名作の4ヵ月後)。同《兵士たち》(1930)、《ナナ》(1932)等創作活動に邁進しながら、ナチスとの軋轢を経て1939年に日本に亡命。東京フィル初代常任指揮者(1940-1945)他を歴任。グルリットにより日本初演が行われた作品は、R.シュトラウス《ばらの騎士》(1957)、同《サロメ》(1962)、モーツァルト《魔笛》(1953)、同《後宮からの誘拐》(1956)、マスネ《ウェルテル》(1955)、ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(1960)、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》(1949)等、多数に及ぶ。ドイツ連邦共和国功労勲章(1958)、ザルツブルク国際モーツァルト協会賞(1959)、勲四等旭日章(1959)他受章。
10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_15552858.jpg  信時潔(1887-1965)作曲の国民唱歌《海ゆかば》(1937)による20の変奏曲は、1944年5月に作曲され、四管編成管弦楽版がグルリット指揮東京交響楽団(現:東京フィルハーモニー交響楽団)によって放送初演された(1944年10月22日/第一部、1945年2月5日/第二部・第三部)。作品名は「Nobutoki-Variationen」から後に「20 Orchesterstücke」へと改名された。そのピアノ独奏版は、今回の演奏が作曲から75年目にして初の全曲世界初演となる。グルリットによる作曲中の試演を聴いた信時潔の感想は、「Gur[litt]氏は別段東洋的たるを企図せず、欧州人的に作れる由なり、大衆 否音楽者を含めて聴者の理解気に入る入らぬを顧慮せずオカマヒ無しに作れるらしきこと愉快なり」。



●松平頼則:盤渉調音取(1988) + 盤渉調越天楽による主題と変奏(1951/1983)
10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07320609.jpg  盤渉調音取は雅楽の演奏会で、その日に演奏される6調子の中の或調子―例えば盤渉調の曲ばかり演奏する場合、昔は各楽器に調べのために短い断片を演奏していたのが、次第に或る一定の短い形式となって(各調はそれぞれ、その形は異なる)所属調の雰囲気を喚起するような役目をになっている。
  このピアノのための盤渉調音取は雅楽の原曲を殆どそのままピアノに移したもので最後の所だけ箏の連(れん)という奏法を採り入れてある。
  盤渉調「越天楽」の原曲はピアノと管弦楽のための作品で1951年作曲、1952年ザルツブルクのS.I.M.Cの音楽祭で初演、同年カラヤンの指揮によりウィーンで再演、1953年カラヤンの初来日の際、同氏指揮N響定期で東京初演、その後山田一雄指揮、高良芳枝のピアノで十回東京で演奏されている。外国では初演及び再演の後イボンヌ・ロリオがドイツその他で数回演奏、ローマのピアニストがローマでも演奏している。
  1981年佐々木弥栄子さんからの委嘱でピアノ・ソロに編曲、翌年彼女のリサイタルで初演、彼女はその後私の新古典派時代の作品展と彼女との共同企画によるピアノ曲作品による個展で演奏している。猶ほ第6変奏曲には彼女の編曲した部分がある。
  曲は主題と6つの変奏曲そして主題の再現となっている。〔主題:A + A' + B + A + A' + coda〕
  変奏曲 Ⅰ: 華麗な装飾楽句のちりばめられたピアニスティックな曲。
  変奏曲 Ⅱ: 低音部と中音部と高音部がそれぞれ異る調性(又は旋法)によって対立、中間部の笙の和音(合竹)のアルペヂオの中に主題の影が散見する。
  変奏曲 Ⅲ: 私が初めて試みた12音技法にもとずいている。
  変奏曲 Ⅳ: 「無言歌」という副題をもつ最も旋律的で静謐な曲。
  変奏曲 Ⅴ: 当時巷に溢れていたブギ・ウギ(ジャズの一種)のリズムによっている。
  変奏曲 Ⅵ: 左右の腕の交錯する肉体的運動によるトッカータ・メカニコ、その中間部は演奏者自身の発想による6連音符によって飾られている。
  Coda : 変奏曲Ⅵのクライマックスが過ぎると直ちに主題の再現となり、“連(れん)”という箏の奏法を模し乍ら静かに終る。(1991年1月10日 松平頼則)



●黛敏郎:〈Hors-d'œuvre オール・デウーヴル〉(1947)
10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07324584.jpg  1947年、東京音楽学校在学中の作品である。当時、私は、ジャズに非常な興味を持ち、学校には内緒で、ジャズ・バンドのピアノを弾いていた。そのジャズ・バンドが現在“ブルー・コーツ”と云つているバンドの前身であつたが……。
  この作品は、そうしたジャズの溌剌たる躍動感、生命力に溢れたヴァイタリティを、純音楽的に表現しようと試みたものである。
  第1楽章は、短いイントロダクションとブーギー・ウーギー――これはニグロのラグ・タイムに源を発する1940年代にアメリカで流行したジャズのリズムで、低音部の8分音符の動きが特徴である。『東京ブギ・ウギ』という歌謡曲が一世を風靡したのは、私のこの作品が書かれてから約1年後のことだつた。
  第2楽章はルンバ。この曲は後に、オーケストレーションされ、“シンフォニック・ムード”として発表された。
  なお、この作品は、作曲者の自演によって東京音楽学校の演奏会で初演されたほか、公開されていない。(1957年5月 黛敏郎)
  〔音楽之友社編集註 “オール・デウーヴル”は、今日では日本語化されてしまつて、“オードブル”などと云われている。これは料理の“前菜”のことである。(1957年)〕


●松下眞一:可測な時間と位相的時間(1957/60)
10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07322207.jpg  この曲は、1957年夏に初稿が、そして1959年春に改訂が出来上がったが、作曲者の意志によって1960年にふたたび手が加えられ、それが現在の形になった。そして
  国内初演 1959年3月31日(大阪) 演奏者; 横井和子
  国外初演 1965年10月11日(ベルリン) 演奏者; ヘルムート・ロロフ
  初演者の横井さんは何度かこの曲を演奏および放送されており、したがって曲の終りには「ヨコイ」の文字が音符でもって表され(ベルクの“音名象徴”とも言うべきであろうか)、曲自身も彼女も献呈されている。と言っても、ほかの誰がひいても勿論構わないわけで、その際は、そんな“音形象徴”など見逃してひいていただいても音楽的には少しも差しつかえないのである。
  ラジカルな生命感が強調されている部分(すなわち可測な部分)と、在来のビートの観念に支配されない部分(位相的な部分)とから成っていて、この曲での作曲者の主要課題は、ピアノと言う楽器を通しての“音楽時間”の問題への挑戦であった。(松下眞一)



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大政翼賛と万博の間 - 戦後作曲家の同人会とは何だったのか?―――白石知雄

「日本の作曲家たちが得たのは、好きなように作品を書き、それを好きな時に自分たちの資金と手間で発表する権利になるだろう。[…中略…]戦後、作品発表を目的とする作曲家たちの自主的なグループが次々と生まれるが、その理由はつまりそのへんにあったと言える。」(片山杜秀「戦前・戦中・戦後 -- その連続と不連続 1945-1951」佐野光司他編『日本戦後音楽史』上、平凡社、2007年、86頁)

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07535463.jpg  大日本帝国の大政翼賛を強いられた作曲家たちは、敗戦後に芸術音楽の再建・復興に取り組んだ。セリエリズムに代表される国際的で合理的な創作技法(世界標準の「ゲームの規則」)に準拠した前衛・実験音楽は、戦後立憲民主主義ニッポンの音楽芸術におけるシンボルだったとひとまず言うことができるのだろう。
  音楽における「戦後」は、敗戦の1945年から、復興・成長の総仕上げとして日本万国博覧会に前衛・実験音楽が再び「総動員」される1970年までの四半世紀25年と考えるのがわかりやすい。
  片山杜秀が指摘するように、この復興・成長の四半世紀は作曲家同人会の時代でもあった。大政(=国家)礼賛へのアンチとしての、個人の自由意志による作曲家の連帯・グループ活動である。橋本國彦は東京音楽学校教授、マンフレート・グルリットは同校講師にして藤原歌劇団常任指揮者の肩書きを背負ったが、黛敏郎といえば團伊玖磨、芥川也寸志との「三人の会」、入野義朗は第1回毎日音楽賞を得た柴田南雄らの「新声会」、松平頼則は戦前からの「新作曲派協会」、松下眞一はやや遅れて大阪で「現代音楽研究所」や「えらん」名義のグループ作品発表会を開いた。
  そして1970年大阪万博が戦後の終わりに見えるのは、彼らが個人/同人の趣旨とは別次元の「構造と力」(という名の本を1983年に書いた浅田彰は丹下健三の腹心というべき都市プランナー浅田孝の甥なわけだが)によって、再び国家(ならびに協賛企業)の巨大プロジェクトに組み込まれたからである。
  どうしてこうなったのか?


●同人会の世俗性

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07552761.jpg  同人活動は、個人の自由意志によるが、俗世から浮いた無重力空間ではない(無調・セリー音楽は無重力な宇宙というSF的なイメージと親和しがちだが)。
  レイボヴィッツ『シェーンベルクとその楽派』をサイゴン(現ホーチミン)で入手して入野や柴田とむさぼり読んだ戸田邦雄は外務官僚だったのだから、十二音技法の日本上陸は国家外交の副産物。非転向の十二音主義者、入野義朗が(短命に終わった本家シェーンベルクの「私的演奏会」と違って)長く同人活動を維持できたのは、彼が経済学部出身で財務に長けていたのと無関係ではないだろう。同人会は公権力の外部というより隙間に花開き、手弁当ゆえに、地味だが膨大で、決して効率的とは言えない雑務を発生させる。
  そして戦後はマス・メディアの時代だった。オーケストラを雇って華やかだった團・黛・芥川の「3人の会」は、それぞれが映画の仕事で滞在していた京都の旅館で結成されたと伝えられる。ケルンのシュトックハウゼンと同じく日本の電子音楽はラジオ放送で発表されたが、柴田南雄や芥川也寸志は音楽番組の有能なパーソナリティでもあった。黛敏郎はテレビ番組「題名のない音楽会」で和製バーンスタイン(ニューヨーク・フィル/CBSの「ヤング・ピープルズ・コンサーツ」におけるような)を演じ、柴田はのちに放送大学の音楽史初代教授に就任する。
  「日本前衛音楽のウッドストック」というべき20世紀音楽研究所の軽井沢での現代音楽祭(1957-1959)には、このように俗世の才に長けた人材が集まっていた。「記録魔」柴田の自伝『わが音楽わが人生』(岩波書店、1995年)に詳しいが、人脈を頼ってNHKやドイツ大使館等の協力を取り付けて、第2回音楽祭(1958)では音楽之友社協賛の作曲コンクールが開催された。かつて大政翼賛のメディアだった放送局、出版統制下で生まれた国策出版社が新時代の旗振り役を演じたわけだ。

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07572194.jpg  音楽之友社は1959年から1973年まで『音楽芸術』別冊として『日本の作曲』という年鑑を出し、当初は柴田と吉田が編集人に名を連ねた。そして『音楽芸術』自体が1960年から大判横書きの判型に変わる。2000年代にオタク文化が出版物のデザインを一変させたように、作曲家たちの同人活動は1960年代「文化の最前線」として晴れやかな表舞台に出た。(『音楽芸術』の判型はわずか3年で元に戻るのだけれど。)
  作曲コンクールで順位なしの入選、音楽之友社賞を得たのが武満徹(「ソン・カリグラフィ」)と松下眞一(「八人の奏者のための室内コンポジション」)である。やり手の同人たちとはやや距離のあった2人は、その後、前衛運動を広い文脈に開く役割を果たすことになる。
  「実験工房」で詩人や美術家とつきあっていた武満はメディア・ミックスに強い、彼が手がけた映画を通じて、不定形のサウンドを切り裂く邦楽器の一打一吹きが「現代日本の音」としてブランディングされる経緯は今さら詳述するまでもないだろう。
 一方、松下眞一は関西、大阪北部の丘陵地帯、茨木在住の数学者。第4回現代音楽祭(1961)が大阪、第5回(1963)が京都で開かれたのは、松下の地元というより別の事情によるが、松下は東京の作曲家たちの動きに対抗しつつ「ワルシャワの秋」(1956-)の向こうを張る意気込みで、現代音楽祭がなかった1962年に「大阪の秋」国際現代音楽祭なるものを開催した。(ちなみに「可測な時間と位相的時間」を1959年に初演した「現代音楽研究所」は計4回公演した関西の団体で、発足時は大栗裕や評論家の上野晃、指揮者の岩城宏之らが同人に名を連ねた。団体名はこれも「20世紀音楽研究所」のモジリだろう。)「大阪の秋」は、大阪フィルの経営母体、関西交響楽協会が主催を引き継ぎ、1963年に第1回のカウントで再出発して1973年まで続いた。
  ただし結局のところ、武満や松下にとって、国内の同人活動は海外へ出るための通過点に過ぎなかったかに見える。武満は当時バーンスタインのもとにいた小澤征爾の推薦を得て、ニューヨーク・フィルハーモニック125周年記念委嘱作として書いた「ノヴェンバー・ステップス」(1967)以後、海外の仕事が増える。数学論文が物理学者パスカル・ヨルダンの目にとまり、松下は1965年ハンブルク大学客員研究員となりドイツに拠点を得る。1970年万博の開催地は奇しくも松下の生まれ故郷の茨木から吹田にまたがる千里丘陵だが、彼が期間中の内外作曲家のシンポジウムに呼ばれたのは、地元代表というより、ヨーロッパ事情に詳しい国際派としてであった。


●万博、「普通の国」へ

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07584521.jpg  そして1970年日本万国博覧会である。
  堺屋太一のアイデアとされる「プロデューサー・システム」で、作曲家たち(実は案外世辞に長けた)が「一本釣り」される。京大人文研の中堅学者たちがイベントの立案実働部隊として動き、跡地の一角、西ベルリンのフィルハーモニー周辺を思わせる広大な造成地にダーレム博物館風の国立民族学博物館が建ち、梅棹忠夫が館長になった。
  三波春夫が「こんにちは、世界の国から」と歌った万博は、ヨーロッパもアメリカもアジアも、西も東も北半球も南半球も、経済大国も新興AA諸国も、あらゆる国(と企業)を横並びで参加させるフラットな世界像(「丸い(=global)」地球像)を実感させるイベントであり、文化人類学時代の到来を印象づけたと言えるだろう。科学的客観性(実態はフランシス・ベーコン流の比較と計量)に固執していた柴田南雄は1970年代のシアターピースで「農村」を発見して、民間フランス派の武満徹は1980年代に「海」「水」「島」(日本の人類学は南洋に強い!)を発想の拠り所にする。かつて都会の一室で日々顔を付き合わせていた同人たちが、山や海で身心を癒やす中高年になった。
  世界規模で見れば、「戦後」と呼ばれる25年は、1930年代にはじまる金本位制ブロック経済/鉄鋼と石炭・石油の重工業/映画・放送等のニューメディアがタッグを組んだ大衆動員の時代から、1970年代以後のブレトンウッズ体制による信用通貨/半導体産業/情報ネットワーク・システムで世界がフラットにつながるグローバルでパーソナルな時代への過渡期だった。日本の戦後作曲家たちの振る舞い、時代の各局面における行動・選択は、偉大なアートに期待される冒険・挑戦・投企というより、事態の推移へのドメスティックな反応の集積に見える。未來への旅というより、直近の対処に追われる日々。同人活動と切っても切れない無数のやりくり、そこで鍛えられた終わりなき日常のエートスこそが、当時さかんに言われた「コンテンポラリー/同時代性」の正体ではなかったか。
  こうして日本は、「帝国」から「普通の国」へと軟着陸した。


●「つながり」の日本前衛音楽史?

10/14(月・祝)「戦後前衛音楽の濫觴」 (10/11 update)_c0050810_07593853.jpg  携帯通信器機によるSNSが急速に普及した2000年代には、歴史学が社会学化して、国家や企業と個人の中間、テンニース流に言えば機能集団(Gesellschaft)でも血縁集団(Gemeinschaft)でもない社交(「つながり」)の意義が様々に検証・称揚された。ひょっとすると、労音の盛衰を追う長崎励朗『「つながり」の戦後文化誌』(河出書房新社、2013年)の姉妹編として、作曲家同人会をめぐる「つながりの日本前衛音楽史」が書かれていいのかもしれない。
  高潔なアヴァンギャルドを俗世に引きずりおろすと、往年の諸先輩から不謹慎だと怒られてしまうだろうか?
  万博の年に5歳で大阪に越して来た私よりも若い世代の音楽学者は、第33回京都賞を得たリチャード・タラスキン (Oxford History of Western Music, 2010) など北米の「新しい音楽学 New Musicology」(カルチュラル・スタディーズ、ポスト植民地主義と軌を一にするニュー・レフト)を見習って、音楽史のあらゆる領域を日常のコモン・センスで語り直す作業を着々と進めているように見えるのだけれど。



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【関連記事リンク】
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●白石知雄 松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて(2010年1月) https://ooipiano.exblog.jp/13519884/
●白石知雄 松下眞一歿後20周年追悼演奏会を聴いて(2010年3月) http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20100227/p1
●白石知雄 松下眞一の肖像(2010年9月) https://ooipiano.exblog.jp/15145179/
●松井卓 数学者としての松下眞一  http://ooipiano.exblog.jp/13734324/
●野々村禎彦 日本の戦後前衛第一世代について  https://ooipiano.exblog.jp/19277696/
●石塚潤一 松平頼則が遺したもの  http://ooipiano.exblog.jp/15280570/
●石塚潤一 松平頼則「美しい日本」について http://ooipiano.exblog.jp/15304150/
●西田博至 一柳慧のピアノ音楽から(その1) https://ooipiano.exblog.jp/25169504/
●伊藤謙一郎 韓国作曲界の「河」の流れ  https://ooipiano.exblog.jp/17209183/


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【関連作品の演奏動画】
■R.シュトラウス(1864-1949):《メタモルフォーゼン》(1945/2017)(米沢典剛によるピアノ独奏版)https://youtu.be/narUgmlcnD4
■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902) https://youtu.be/IDIWRZPTtro
■山田耕筰(1886-1965):《御大典奉祝前奏曲 ~「君が代」を主題とせる》1915/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版)https://youtu.be/fbn5gCN0imk
■H.ビュッセル(1872-1973):《日本の歌による即興曲(君が代)Op.58》(1915) https://youtu.be/QSB3i-UpDRg
■河村光陽(1897-1946):《君が代踊り》(1941) https://youtu.be/qMVos6KSO-o
■小弥信一郎(1950- ):《君が代ジャズ風》(1979) https://youtu.be/6YgKq2-J4pA(※勤務先の高校卒業式で演奏して分限免職処分)
■冬木透(蒔田尚昊)(1935- ):《君が代パラフレーズ》(1880/2007) https://youtu.be/UQU4G5mYXMI
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■松下眞一(1922-1990):《スペクトラ第4番》(1971) https://www.youtube.com/watch?v=Z9jdxLpcK7Q
■松平頼則(1907-2001): 組曲《美しい日本》(1969)より第1曲「前奏曲」・第2曲「朗詠的な幻想(七夕)」・第3曲「わらべ唄(手まり唄)https://www.youtube.com/watch?v=a4WMVhE1Dw8
同:第4曲「草刈り唄」・第5曲「平曲のパラフレーズ(横笛)」・第6曲「箏曲風の終曲(茶音頭)」 https://www.youtube.com/watch?v=8YNwJwFLa18
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■武満徹(1930-1996):《二つのメロディ》(1948) https://youtu.be/kL77G__Ha98
同:《二つの作品》(1949) https://youtu.be/FNQBXlSWw-w
同:《二つのレント》(1950) https://www.youtube.com/watch?v=H8fpdTCaRd0
■黛敏郎(1929-1997):《スポーツ行進曲》(1953)  https://youtu.be/THTIXCqCOz8
同:《「天地創造」のテーマ》(1966)  https://youtu.be/GiAiInq-LR4
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■姜碩煕(カン・スキ)(1934- ):《ゲット・バック》(1989)  https://youtu.be/RaoI6rrEY58
■陳銀淑(1961- ): 《ピアノのためのエチュード集 第2番「連鎖」・第3番「自由なスケルツォ」・第4番「音階」(オリジナル版)》(1994) https://www.youtube.com/watch?v=FmUIdRBlc5A
■西村朗(1953- ): 《アリラン幻想曲》(2002) https://www.youtube.com/watch?v=Bn2QpbdGS3Q




by ooi_piano | 2019-10-11 15:20 | POC2019 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


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