大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
【ポック(POC)#43】 「ヤナーチェクからの眺望」 2019年11月9日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
●レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928):ズデンカ変奏曲 Op.1 (1880) 9分
主題 Andante - 第1変奏 Andante - 第2変奏 Allegro - 第3変奏 Con moto - 第4変奏 Con moto - 第5変奏 Meno mosso - 第6変奏 Adagio - 第7変奏 Adagio
●ヤナーチェク:ピアノソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」(1906) 10分
I. 予感 - II. 死
■林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981) 15分
I. - II. - III.
(休憩10分)
●ヤナーチェク:草の小径(全10曲)(1901-08/1911) 27分
I. わたしたちの夕べ - II. 舞い散る木の葉 - III. さあ一緒に! - IV.フリーデクの聖母 - V. 娘たちは燕みたいにおしゃべり - VI. どう言えばいいのか! - VII.おやすみ! - VIII.心配でしかたない - IX. 涙にくれて - X. ふくろうが飛ばないなんて!
■間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973) 15分
I. Allegretto - II. Presto
(休憩10分)
●ヤナーチェク:霧の中で(1912) 14分
I. Andante - II. Molto adagio - III. Andantino - IV. Presto
●ヤナーチェク:弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928/2018)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演) 27分
I. Andante/Con moto/Allegro - II.Adagio/Vivace - III.Moderato/Andante/Adagio - IV.Allegro/Andante/Adagio
[使用エディション:新ヤナーチェク全集版 (Editio Supraphon Praha)]
林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)
「木々について」は、ベルトルト・ブレヒトの(第2次大戦中の)詩『あとから生まれる人びとへ』からの引用。いまという時代に自然(たとえば木々)について会話することは、他のことから、例えば無数の非行(もちろんファシズムによる)について「会話しない」こと、沈黙することであり、犯罪でさえある、と詩人は書いた。詩人に共感しつつも、なお木々について(ついても)語りたいというのが、作曲者の弁。ソナタ形式によらない3楽章からなるこの曲では、また、各楽章に音楽上の引用がある。第1楽章では、フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩による作曲者のソング『新しい歌』の旋律が引用され、第3楽章の中間部の旋律は、おなじく作曲者の歌曲『光州5月』のなかの『わかれ』の一節によっている。また、第2楽章は、沖縄童歌『がらさ(烏)』とその変奏で、歌の大意は、カラスよカラス、気をつけろ、オマエのうしろからヤマトンチュウ(日本人)が、鉄砲でお前を狙っているぞ、というようなもの。(林光)
間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)
サックス奏者オーネット・コールマン(1930-2015)が無手勝流で弾くヴァイオリン演奏に想を得た《無伴奏ヴァイオリンソナタ》(1970)と並んで、フリージャズの巨星セシル・テイラー(1929-2018)に触発されたのが《ピアノソナタ第2番》(1973)である。彼らアメリカの黒人が、ヨーロッパの音楽伝統を美しく体現するヴァイオリンとピアノを、遮二無二その伝統から引きちぎり、「何が何でも自己の表現のために使い切る攻撃的な姿勢」に奮起したと云う。「そのリファインされない、荒々しい音楽の息づかいと、硬質のざらざらした響きに出会って強く引き付けられた。その経験は、当時ぼくの中にくすぶりはじめていた奥深い希求の声が、少しずつ具体的な楽想の形を取りはじめるきっかけを作ってくれたようである。《ピアノソナタ第2番》の場合でいえば、その希求は冒頭の上行する無骨なモティーフの形を次第にはっきりさせながら、しきりにぼくに向かって働きかけ、ぼくを導いて歩かせはじめることになる」。
ヨーロッパの中心から少し離れて:ヤナーチェクの場合――野々村 禎彦
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928) は生年で見れば今期最年長、フォーレとドビュッシーの間に位置するが、音楽的にはむしろバルトークやシマノフスキと同世代と見做せる。生涯の大半をチェコ・モラヴィア州の州都ブルノで過ごし、晩年までヨーロッパのモダニズムの動向とはほぼ無縁だったが、この孤立が唯一無二の音楽を生んだ。彼の音楽歴は修道院で暮らす聖歌隊員として始まり、声楽曲の作曲が終生活動の中心になる。また教会オルガニストとしても頭角を現し、1882年にはブルノにオルガン学校を設立して長らく校長を務めた(チェコスロヴァキア独立後の1919年にブルノ音楽院に発展)。さらに彼はモラヴィア民謡を網羅的に収集・刊行し、農民音楽家集団を引率して都市部や海外での紹介活動も積極的に行った。チェコ文化の中心地であるボヘミア州の州都プラハでの彼は、国際的名声が高まる晩年までは「作曲も嗜む民俗音楽学者」という扱いだった。
妻との交際中に留学先のライプツィヒで書いた《ズデンカ変奏曲》(1880) などのロマン派風の初期作品の後は、収集した民謡を直接的に用いた作品が続くが、カンタータ《アマールス》(1897) でその段階を離れた。民謡研究を進める中で、言葉が内包する「発話旋律」こそが民謡の起源であると考えるに至った彼はその収集も始め、オペラ《イェヌーファ》(1894-1903) から作曲に応用した。ただし発話旋律の収集はそれを直接引用するためではなく、既存の旋律に引きずられないためのガイドだった。彼の旋律はテキストと不可分で、望ましい旋律を得るためにしばしば細部の語句を変更していた。オペラ《ブロウチェク氏の休暇旅行》(1908-17) の台本は、月世界旅行と15世紀へのタイムスリップという題材の難しさも加わって9人の作家をたらい回しにされ、作曲は自作の仮台本に基づいて進められた。これ以降に書かれたオペラの代表作群では、台本も自作になったのは自然な成り行きだった。
ピアノ独奏曲集《草陰の小径にて》(1901-08/11)・《1905年10月1日》(1905)・《霧の中で》(1912) は、独自語法を見出しても正当な評価は得られない、鬱々とした日々の中で書き溜められた。単純な動機の執拗な反復と唐突な転換、全く異質な要素の重ね合わせと結果的に生じる斬新な和声。動機の有機的な展開と対位法的な構成を良しとする伝統的な価値観(たとえ技法的には「前衛」であっても)に立てば、同時代には素朴な地方の作曲家として片付けられていたのもやむを得ない。この時期の作品では、男声合唱曲《ハルファール先生》(1906)・《マリチカ・マグドーノヴァ》(1906-07)・《七万》(1909) とヴァイオリンソナタ(1914/21) も重要である。第一次世界大戦の趨勢とともに独立への期待が高まる1916年に、《イェヌーファ》はようやくプラハで上演されて大成功を収め、翌年には40歳近く年下の人妻カミラ・シュテスロヴァと出会って一方的な恋愛感情を抱いた。このように、公私とも充実した状況が訪れたことで彼の創作意欲は燃え上がり、人生最後の10年が彼の「傑作の森」になった。
ただし、ピアノ独奏曲をはじめとする上記作品群は彼にとって身近な編成に限られ、同時期に書かれたオペラ《運命》(1903-05/06-07) と《ブロウチェク氏の休暇旅行》、交響詩《タラス・ブーリバ》(1915-18) のような大編成作品では、書法はより伝統的だった。モダニズムとは生涯無縁だった彼は、組織的に語法の革新を行ったわけではなく、音楽的必然に導かれて手の届く範囲で新しい試みを進めた結果に他ならない。全面的に新しいフェーズに入った最初の作品が歌曲集《消えた男の日記》(1917-19) である。ジプシー女の肉体に惹かれて故郷を捨てた青年が残した詩(実際は、職業詩人が方言を駆使してその状況を装い、匿名で発表)にカミラへの恋愛感情を重ね、新ウィーン楽派の表現主義が無調への飛躍に至ったのに匹敵する変化が訪れた。若干の重唱と合唱以外はピアノ伴奏歌曲というシンプルな編成がこの曲でも力になっており、この後に書かれたオペラ《カーチャ・カヴァノヴァー》(1919-21) もこの曲には及ばない。ドロドロした世話物だけに、オペラ劇場のレパートリーとしては《イェヌーファ》と人気を二分しているが。
彼は《利口な女狐の物語》(1921-23) で、オペラでも《消えた男の日記》の水準に達した。発話旋律の採集の対象は、人間の会話だけでは飽き足らず、動物や鳥や虫の鳴き声まで広がっていたが、動物が主人公のこのオペラでその蓄積は活かされた。原作は新聞連載小説で、女狐ピストロウシュカの冒険をコミカルに描いているが、ヤナーチェクの台本ではその部分は大幅に削り、動物たちの森の世界と人間の世界をつなぐ森番に重要な役割を与えた。さらに独自ストーリーの最終幕を追加し、主人公の女狐が死んでその子供たちに世代が受け継がれるところまで描き、台本作家としての成熟も作品の充実に貢献している。弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》(1923) では、スル・ポンティチェロの多用と極端なダイナミクスやテンポの対比が、バルトーク第3番すら予言する一方、トルストイの同名小説をなぞるプログラム音楽でもあり、大元のベートーヴェン作品も引用される。モダンな音響とロマン主義的な旋律が何の矛盾もなく共存するのが彼の音楽の特徴で、システムに依らないからこそ可能な、アイヴズの音楽にも通じる魅力と言えるだろう。
好調な創作は続き、木管六重奏のための《青春》(1924)、オペラ《マクロプロス事件》(1923-25)、ピアノとアンサンブルのための《コンチェルティーノ》(1925)、《シンフォニエッタ》(1926) が相次いで書かれた(左手のためのピアノ協奏曲《カプリッチョ》(1926) もこの時期の作品だが、この編成に求められる技巧的性格が彼の作風には合わなかった)。初めて参加したISCMプラハ大会(1925) でチェコを代表する作曲家として遇され、バルトークと知り合って親交を結んだことも大いに刺激になった。特に《コンチェルティーノ》はかつてピアノ独奏曲で試みた方向性をアンサンブルに独自手法で拡大(楽章ごとに異なる楽器とのデュオ、後半でフル編成合奏)しており、ピアノ独奏曲の先駆性を実証している。この曲はISCMフランクフルト大会(1927) に入選し、怒れる若者のような音楽と拍手に応えて登場した白髪の老人のギャップが話題になった。そして終生の代表作、《グラゴル・ミサ》(1925-26) が生まれた。合唱と管弦楽の組み合わせはオペラで十分な経験を積んできたが、テキストは古代教会スラヴ語によるミサ通常文なので音楽の性格は抽象的になっている。そこに加わるオルガンが聴き所で、演奏・教育歴と比べて作品は少なく、独奏曲は専ら初期、管弦楽曲の中でも《タラス・ブーリバ》で型通りに使われていただけだが、本作では終曲前のソロをはじめとして存分に暴れ回り、汎スラヴ主義を情熱的に唱える作曲者を代弁するかのようだ。
嵐のような創作が一段落し、ドストエフスキー『死の家の記録』に基づいたオペラ《死者の家より》(1927-28) に取り組み始めた時、彼は自らの晩年を意識した。1904年に当時はロシア支配下のワルシャワ音楽院院長職を打診された時から(条件が折り合わなかったようだが)、彼にとってロシア文化は特別な存在だった。ドストエフスキーの獄中体験記として同時代のロシア文学に大きな影響を与え、『地下室の手記』以降の後期作品の母胎になった小説は、人生の最後を賭けるにふさわしい題材だった。《コンチェルティーノ》で既に試みていた、楽章ごとにアンサンブルを細分化して音色のコントラストを大きくする書法を管弦楽に拡大し、薄く室内楽的で明確なクライマックスを持たない場面が続く。作曲が停滞していたヴァイオリン協奏曲《魂のさすらい》(1926-) を放棄してその素材を転用し、同じく難航していた弦楽四重奏曲第2番《内緒の手紙》(1923-28) をオペラの全容が見えてきた時点で完成させるなど、「まるで人生の決済をまもなくすませなくてはならないかのように」創作を進めた。オペラ完成後程なくカミラ夫妻とその息子を故郷に招いた際、その子供が森で迷子になったと思い込んで雨中を探し回り、肺炎を悪化させて世を去った。ただし、この休暇旅行に妻は呼ばず、妻が駆け付ける前に遺書の遺産配分指定をカミラ寄りに書き換えて死んでおり、計画的に人生の幕を引いたかのような最期だった。
彼はオルガン学校校長時代から、少なからぬ生徒に作曲を教えてきたが、独自の音楽を書くだけに音楽理論の捉え方も独特で癖があり、優秀な生徒ほどプラハの伝統的な教師のもとに移りがちだった。このオルガン学校がブルノ音楽院に昇格した時も、彼の期待に反して院長には選ばれなかった。それでも1925年までは同校で作曲を教えたが、絶頂期に雑事に忙殺されなかったのは結果的に幸いだった(ワルシャワ音楽院院長就任後は保守派との争いに巻き込まれて作曲の時間が殆ど取れず、晩年の可能性が摘み取られたシマノフスキとは対照的である)。彼の音楽性を理解して受け継いだ「弟子」には恵まれなかったが、彼の成功を願って援助を惜しまない友人はマックス・ブロート(彼のオペラ台本を片っ端から自主的に独語訳して出版社に売り込み、全作品がウニヴェルザール社から出版される土台を作った文学者)をはじめ少なくなく、残された問題作《死者の家より》に対して彼らが取った判断は、「薄く不完全な」オーケストレーションを「修正」し、ハッピーエンドの最終場面を「補筆」して上演に漕ぎ着けることだった。彼が求めた音楽への理解が進むにつれて復元作業が始まり、最終版が上演されたのは実に2017年のことである。彼のオペラに取り組み続けた指揮者チャールズ・マッケラス(オーストラリア→英国)と、大部の評伝 ”Years of Life” を著した英国の音楽学者ジョン・ティレルの共同作業による、半世紀に及ぶ執念の結晶だった。
彼が本格的に評価されたのは1950年代以降、まずマッケラスの尽力で「ブリテンと並ぶオペラ作曲家」として主に英国で受容された。さらに1980年代以降、ポストミニマルやスペクトル楽派第二世代以降の潮流が「新しい調性」に向かう中、そこで主張されていた「新しさ」は既にヤナーチェクがはるかに高い水準で達成していたことが再発見されてゆく。無調とその組織化及び特殊奏法の探求にほぼ特化していた、音楽におけるモダニズムの歴史が相対化された時、ヤナーチェクの真価が明らかになった。アンチェル、イーレク、クーベリック、ノイマンらチェコ出身の指揮者以外では彼を早くから評価していたバーンスタインの後任としてNYPの音楽監督になったブーレーズは、彼の音楽に接する機会は比較的多かったと思われるが、長らく「田舎のドヴォルザーク」と小馬鹿にしていた。だが《消えた男の日記》の実演に接して評価は一変し、最晩年の重要なレパートリーのひとつになった。《死者の家より》の映像化に加え、《グラゴル・ミサ》や《シンフォニエッタ》のシカゴ響やBBC響との演奏記録が残されている(いずれも慣用譜ではなくオリジナル復元譜を使用)。スペクトル楽派第二世代以降の演奏経験を重ねる中でヤナーチェクの音楽性を受信する回路がある時繋がった、と理解すべき実例だろう。