![11/22(金)R.シュトラウス《ツァラトゥストラ》《アルプス交響曲》2台ピアノ版初演 [11/10増補]_c0050810_11094555.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201911/05/10/c0050810_11094555.jpg)
■思想家フリードリヒ・ニーチェについて
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思想家フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の出現は、ヨーロッパ精神史上の事件であった。その半生は病苦と無理解にさいなまれたが、1880年代から識者の間で名声が徐々に高まり、1889年1月精神の平衡を失った後の1890年代に入ると、「哲学者の発狂」というロマン派的話題性も寄与して、わずか数年の間にフランス、イギリス、イタリア、ロシア、スウェーデンの思想・文学界に絶大な影響を与える「ニーチェ熱」と呼ばれたブームを巻き起こした。ことにフランスでは爆発的に流行し、1902年メルキュール・ド・フランス誌の行ったアンケートでは、最も影響を受けたドイツの文学者・思想家として、ゲーテ、ショーペンハウアー、ヴァーグナーを抑えて、ニーチェを挙げる者が最多であったという。
西欧で長く続いた中世キリスト教原理主義の時代は、16世紀のマルティン・ルターらの宗教改革に始まり三十年戦争に至る、カトリックとプロテスタントの対立による社会の荒廃によって終わりの始まりを告げた。続く17~18世紀の「啓蒙の時代」には、キリスト教に由来する道徳的進歩を目指す情熱と、科学的合理主義との結びつきが生み出した近代精神である啓蒙思想が、宗教支配と封建主義から離れた理性の支配する社会を目指し、結果キリスト教会の権威を弱体化させていった。
科学的合理主義からは、創造主としての神は認めるが、歴史と運命を支配する「神の摂理」を認めない理神論が生まれ、さらには世界の創造にも神の力は必要なく、神を道徳的秩序とする無神論に発展する。19世紀にはフランス革命により国民国家が成立して封建主義が終焉し、市民社会が発生・発展したことで、新たに生まれた教養市民層に無神論と自由主義が広まった。生化学、進化論の確立と産業革命により、「科学の世紀」となったこの時代にキリスト教会の権威はさらに低下し、旧来の社会的価値観の劇的な変化(パラダイムシフト)が起きていた。
にもかかわらず社会を抑圧し続けるキリスト教文化の因習への反発が極限まで高まっていた19世紀末に、「神は死んだ」という度肝を抜く箴言(しんげん)、言わば鮮烈なキャッチコピーによって、二千年間続いたキリスト教文化による諸価値の根本的転換を問うニーチェの出現は、「ニーチェ熱」を巻き起こした諸国の社会に充満して爆発を待つばかりであった新時代を開く機運への、まさに待望された点火であったのだ。
一方ニーチェの故国ドイツの状況はやや異なっていた。普仏戦争の勝利によって統一されたドイツ帝国はヨーロッパ最強の軍事力と、産業・経済の発展による大国化によって自信を増したドイツは思想的に保守化していた。フランスへの勝利をドイツの文化的優位の結果と位置づけ、小市民的なビーダーマイアー期を迎え、キリスト教の権威が復活して勢力を取り戻しつつあった。ニーチェの「神の死」は、その社会情勢への痛撃であった。
こうして20世紀思想の源流となったニーチェの根本思想が展開されたのが、代表作とされる”Also sprach Zarathustra”(『ツァラトゥストラはこのように語った』 1883-1885)である。本書は思想書であるにもかかわらず、ルター訳聖書のパロディと言われる擬古的な説話形式をとり、ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラ(紀元前13世紀~紀元前7世紀。ルネッサンス期の西欧で、形而上学の祖・キリスト教の先駆者という虚像が流布した)のドイツ語読みを借りたツァラトゥストラなる架空の人物が、ニーチェの思想に加えてその感情をも、寓意や擬人化という前時代の手法を交えたパロディによって披歴してゆく、文学とも哲学ともつかない特異な構成になっている。
謎かけのような副題「万人のための、誰のためでもない書」を持つ本書は、抽象的な手法によってその真意の理解に、読者一人一人の思索と内省、自己変革を要求する。従って、そこに記されたニーチェの思想の概要をここで伝えるのは不可能であり無意味だが、シュトラウスの楽曲にかかわる範囲でまとめるならば、2つのニヒリズムの克服ということになるだろう。ひとつは、捏造された神と彼岸世界を信じて、人間が実際に生きる地上の世界の価値を認めず蔑視するニヒリズム。もうひとつは、その克服により神を失うことで存在の意味と価値を見失う虚無感としてのニヒリズムである。
「神の死」によりキリスト教のニヒリズムから自由になった人間を待ち受けるのは、新たなるニヒリズムの深淵である。この世に真理は存在せず、人間の生には何の意味もなく、行くべき来世もない。無常の人生は苦しみに満ち、人間は苦悩に病んで死を待つ死刑囚である。このような世界に生まれ落ちたこと自体が誤りで、最も良いのは生まれないことであり、次に良いのはなるべく早く死ぬことである。
その生の苦しみを和らげ慰め、一時的にも苦痛を忘れさせるのが芸術・音楽の力であるという、哲学者ショーペンハウアーの厭世哲学と、音楽論に強く共感したリヒャルト・ヴァーグナーの創作した天才的音楽芸術作品にニーチェは心酔し、ニーチェを優れた理解者と認めたヴァーグナーとの幸福な交友が始まった(ショーペンハウアーも一般レベル以上の音楽愛好家であったが、ヴァーグナーの進歩的音楽は理解できず、その好意を受け入れなかった)。その後不幸ないきさつからニーチェはヴァーグナーと決別し、ヴァーグナーがキリスト教に回帰した『パルジファル』を徹底批判することになる。前述のようにドイツでキリスト教が勢力を取り戻す中、ヴァーグナーが無神論から転向して神による「救済」をテーマとしたことは、思想的な必然性ではなく、バイロイト劇場の顧客たる富裕層に気に入られる作品を作ろうという商策だというのである。
ショーペンハウアーとヴァーグナーの、ニヒリズムからの消極的な逃避を乗り越え、ニーチェは『ツァラトゥストラ』で明快に「神の死」を告げ、宗教的価値観に縛られた人間を克服する「超人」という寓意的概念と、ニヒリズムを克服する「永遠回帰」という謎めいた思想を提示した。
■作曲家リヒャルト・シュトラウスについて
そして、若き日にニーチェと同じくショーペンハウアーとヴァーグナーに心酔した作曲家リヒャルト・シュトラウスは、ニーチェ思想との出会いにより蒙を啓かれ、同じくショーペンハウアー/ヴァーグナーの厭世哲学と決別し、地上世界を肯定する独自の道を見出していった。
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)は、バイエルン宮廷管弦楽団の首席ホルン奏者フランツ・シュトラウスを父とし、有名なビール醸造業者プショル家(現ハッカー‐プショル社)の娘ヨゼフィーネを母として生まれた。父の意向で音楽学校には進まず、その同僚たちからピアノ、ヴァイオリンを学んだ後、作曲を宮廷楽長フリードリヒ・ヴィルヘルム・マイアーに師事する。ミュンヘン・ルートヴィヒスギムナジウム(ドイツの中高一貫校)では歴史とゲーテをはじめとする古典文学に興味を持ち、ソフォクレスの『エレクトラ』を学んだ折には、その一節に合唱曲を作曲して学園祭で演奏された。
ヴァーグナー嫌いの父と異なり、リスト、ヴァーグナーを敬愛する師マイアーの影響もあって、シュトラウスは『トリスタンとイゾルデ』、『ニーベルングの指輪』に熱中し、1882年のギムナジウム卒業祝いには、バイロイトで父の出演する『パルジファル』初演を鑑賞した。そのゲネプロを見学した時に、18歳のリヒャルトは翌年没する巨匠ヴァーグナーの姿を遠くから見たという。ギムナジウム卒業後は父の勧めもあり、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ミュンヘン大学)哲学科に進学し、ショーペンハウアー哲学に関心を持つが、音楽の道に専念するため一年余りで中退した。
この頃、父親の同僚で、後年ドヴォルザークにチェロ協奏曲を献呈された名チェリスト、ハンス・ヴィーハンの妻で4歳年上のドーラと知り合い恋仲に発展し、その「ヴァーグナー的許されざる愛」の関係は、シュトラウスの結婚まで続くことになる。
若くして早くも2曲の交響曲を含むいくつかの作品で好評を得たシュトラウスは、大指揮者ハンス・フォン・ビューローに才を認められ、1885年ビューローが楽長を務めるマイニンゲン宮廷管弦楽団の副指揮者となった。そのコンサートマスターの一人で親しくなった作曲家・詩人のアレクサンダー・リッターは、ヴァーグナーとショーペンハウアーの使徒であり、二人の著作をシュトラウスに叩き込んだ。
ソナタ形式はベートーヴェンによって極められた以上、それに固執するブラームス、ブルックナーとは異なる新しい形式を求めるべきとするリッターは、詩的テキストが形式の構成要素となるリストの交響詩に倣うようシュトラウスに勧め、以後このジャンルが、シュトラウスの管弦楽作品の主要部門となる。また歌曲では、今日も広く愛唱される名歌曲「献呈」「万霊節」を含む傑作ぞろいの『8つの歌曲集』作品10を発表しており、歌曲作家としての早熟の天才ぶりに驚かされる。
1886年、マイニンゲン宮廷管弦楽団との契約切れにより、シュトラウスはミュンヘン宮廷歌劇場の第三楽長に着任する。この時代指揮者としては不遇であったが、イタリア静養旅行の成果とも言える交響的幻想曲『イタリアから』から、作曲家としての個性が確立されてゆく。ミュンヘンには夫と離婚した年上の恋人ドーラが住んでおり、交際が続いていたようだが、1887年にはのちに妻となるソプラノ歌手パウリーネ・デ・アーナと出会う。同じ年にはライプツィヒで、その後盟友となる指揮者・作曲家グスタフ・マーラーと面識を得ている。
1888年、最初の交響詩『ドン・ファン』を作曲し、翌年ヴァイマールで初演されるこの斬新な傑作は、新進作曲家シュトラウスの名声を確立することになる。続いてこれも今日名曲として名高い交響詩『死と浄化』、そして同『マクベス』を作曲するが、これらの作品に共通するのは、リッターを介して受けたショーペンハウアー・ヴァーグナー流の、ほの暗い情念の渦巻く世界苦とペシミズム、死のテーマである。
1889年にはミュンヘンの地位を辞してヴァイマール宮廷歌劇場の副楽長となる。熱烈なヴァグネリアンであったシュトラウスは、ヴァーグナーの『ローエングリン』を父から借金をしてまで理想的上演に努め、バイロイトから観劇に来たコジマ・ヴァーグナーに才を認められ、バイロイト祝祭劇場で大指揮者ヘルマン・レヴィの助手を務めた。それからシュトラウスはコジマと急速に親しくなり、彼女を教祖とする新興宗教のようなバイロイト・サークル(ヴァーグナーの思想と音楽に影響された音楽家・知識人の集まり)に取り込まれてゆく。
作曲家・指揮者として上り調子のシュトラウスだったが、多忙な生活がたたって健康を害し、コジマが約束したバイロイト・デビューを断念して療養に専念することになる。そして1892年秋、医師の勧めにより、ギリシャ・エジプトに長期静養のためギリシャ・エジプトに向かう。アテネでの遺跡の見分はシュトラウスに古代ギリシャ文化への愛着を生み、後年の名作オペラ群の創作に活かされることになる。カイロでは「棕櫚とバラとアカシアの国」エジプトに魅了され、シュトラウスは肉体的にも精神的にも健康を取り戻していった。
休暇中に取り組んでいたのが初のオペラ作品『グントラム』で、アテネで自ら台本を完成し、カイロで大半の作曲を終えた。リッターに勧められたショーペンハウアー的題材によるヴァーグナー風の楽劇だが、シュトラウスはその結末を、初期の構想であった主人公の告解による贖罪から、世俗と愛を断念して孤独の中に自ら罪を引き受け、自らを裁く形に改めた。シュトラウスは既にマイニンゲンでニーチェの『悲劇の誕生』を読んでいたと思われるが、エジプトでその『アンチクリスト』を読み、その激烈なキリスト教批判に感化され、ショーペンハウアーの思想から離脱していたのである。のちにシュトラウスは、ニーチェを読んだことが、15歳の頃から感じていたキリスト教への反感、告解によって信者の罪を免れさせてしまうことへの疑念を決定づけたと回想している。
この件は、筋書きの変更を厳しく非難したリッターとの決別を招いた。さらに、ヴァーグナーが『パルジファル』でキリスト教へ回帰したことを激しく攻撃したニーチェの思想への接近は、コジマとの関係にもひびを入れることになった。愛弟子となっていたパウリーネのバイロイト出演をコジマが一方的にキャンセルし、憤激したシュトラウスが抗議する事件が起こり、1894年7月には『タンホイザー』を指揮してようやくバイロイト・デビューを飾るが、聴衆の不評とバーナード・ショーら批評筋の酷評を受け、以後コジマの存命中には二度とバイロイトに招聘されることはなかった。
『グントラム』は1894年5月ヴァイマールで初演された。公演は4回で終わったが、まずまずの成功であった。その年の9月にシュトラウスは、生涯の良き伴侶となる婚約者パウリーネと結婚し、ヴァイマールの地位を辞してミュンヘンに戻り新居を構える。ミュンヘン宮廷歌劇場音楽総監督ヘルマン・レヴィの意向により、ミュンヘン宮廷楽団第一楽長という、願ってもない地位を得て、故郷に錦を飾ったのである。ところがこの職は長続きしなかった。
1895年11月、『グントラム』のミュンヘン初演が行われたが、リハーサルから歌手と楽団員のボイコットにあい、なんとかこぎ着けた上演は、最後までまともに歌えた歌手はパウリーネだけという、破滅的失敗となった。この失敗はシュトラウスに大きな失望をもたらし、しばらくの間オペラの創作から離れることになる。歌手と団員を敵に回したシュトラウスは、翌年には歌劇場管弦楽団によるオーケストラ演奏会の指揮者もはずされる。嫌気のさしたシュトラウスは、1898年ミュンヘンを辞してベルリン・フィルの指揮者に就任する。
指揮者としては不毛に終わった第2のミュンヘン時代だが、作曲家としてはその個性を確立する実りある時期となった。音詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、『ツァラトゥストラはこのように語った』、『ドン・キホーテ』という屈指の名作を生み出したのである。そして『グントラム』ミュンヘン上演の大失敗にも、かつてのようにストレスで健康を害することなく、苦境に前向きに立ち向かっていく力強さを身につけていた。
ミュンヘン着任直後から作曲を始めた、民話を題材とする『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』は、熟達の管弦楽法に加え、それまでのシュトラウスの作品になかったユーモアと諧謔に満ちており、『ドン・ファン』、『死と浄化』、『マクベス』のショーペンハウアー=ヴァーグナー的世界苦、ペシミズムと一線を画している。『グントラム』の変更された結末に現れたニーチェ思想の影響が、いよいよその姿を現し、以後のシュトラウスの作品における、架空の彼岸よりも現世と人間を愛する現実主義が確立されるのである。
そのニーチェの主著『ツァラトゥストラはこのように語った』の名を冠するシュトラウスの新作音詩は1896年に作曲された。読書家のシュトラウスはニーチェに傾倒し、ニーチェの友人だったフリードリヒ・レーシュとの手紙を交換や、1893年の秋にはアーサー・ザイドルとニーチェの主要な作品の全般について話し合うなど、その著書に精通していた。
前述のように19世紀末の知識層には「ニーチェ熱」が蔓延し、熱狂的な崇拝者とともに非難の声も高まっていた。その思想を精神病による道徳的狂気とみなし「悪魔ならびに嘘の父の預言者」「誇大妄想」といった誹謗がまかり通る一方、L.シュタイン『ニーチェの世界観とその危険』(1893)の「彼に刺激されて産声を上げた《貴族たち》ほど笑止千万なものはない。彼らは襟の汚れたシャツを着て顔も剃らずにライプツィヒの街をうろつき、超人風をひけらかしている」という「ニーチェ熱」に浮かされた人々の風俗への非難には、ニーチェ崇拝の軽佻浮薄な一面を垣間見ることができる(『ニーチェを知る事典』ちくま学芸文庫より)。
■音詩『ツァラトゥストラはこのように語った』について
こうした状況下で、既に音詩『ドン・ファン』、『死と変容』、『ティル・オイレンシュピーゲル』といった、水際立った楽曲を発表していた新進気鋭の作曲家リヒャルト・シュトラウスが『ツァラトゥストラ』による管弦楽作品を作曲しているというニュースがいかに注目の的となったか。この作品におけるシュトラウスのニーチェ解釈についての論議は、作品の初演どころか作曲中すでに始まっていたのである。
1896年初頭、シュトラウスがオーケストレーションを始める前に、「ノイエ・ムジーク・ツァイトゥング」誌に、作曲家の周辺から出たと思われる匿名の記事が掲載された。曰く、「リヒャルト・シュトラウス氏は交響詩『ツァラトゥストラ』を作曲している。音響の超人。音楽に表現されたニーチェの思想!」。シュトラウスに人々が期待し、あるいは非難しようとしたのは、「ニーチェ哲学を直接音楽に変換した作品」であった。シュトラウスはニーチェ崇拝と非難の論争から距離を置くため、「ニーチェに倣って、自由に」という副題を追加して、次のように説明したとされる。
「哲学的な音楽を書いたり、ニーチェの素晴らしい作品を音楽的に描いたりするつもりはありませんでした。人類の起源から宗教、科学と、ニーチェの超人のアイデアまでのさまざまな発展段階を通じて、人類の進化を音楽で伝えることを意図していました。音詩全体は『ツァラトゥストラ』で最大の例示が見られるニーチェの天才へのオマージュとして意図されています。
(ノーマン・デル・マーが1962年の著書で、シュトラウスの1897年の発言として英訳を引用した有名なものだが、ヴェルベックによるとそのドイツ語の出典は確認されていないという)
こうした作曲家の注釈と説明により、本作はニーチェ『ツァラトゥストラ』の標題的解釈による作曲ではなく、「その中心的な概念を音楽的構成そのものに置き換えている」(音楽之友社ポケットスコアの小鍛冶邦隆による解説より)と見るのが大方の一致するところである。
だが作品中にはツァラトゥストラの哄笑や12回の鐘の音など、明らかな描写的手法も見られ、作品の構成には起承転結的物語の推移を感じることができる。総譜に記された原著の章名の順序は前後しており、原著の構成とは異なる筋立てが設定されているように見受けられる。また、途中で音楽の局面が変わる「病から癒えつつある者」で顕著だが、総譜の各所にカッコつきで記された原著の章名の位置は、必ずしも楽曲構成の切れ目と一致していない。
(1)(序説)(第1部~序説1/10)
(2)背後世界論者について(第1部3/22)
(3)大いなる憧れについて(第3部 14/16)
(4)歓楽と情欲について(第1部 5/22)
(5)墓の歌(第2部 11/22)
(6)学問について(第4部 15/20)
(7)病から癒えつつある者(第3部 13/16)
(8)舞踏の歌(第2部 10/22)
(9)夢遊病者の歌(第2部 9/22)
ヴェルベックによれば、公式的な説明以外に私的・内的なプログラムが存在しており、初期の段階における作曲者のメモにそれを垣間見ることができる。その「崇拝―疑念」、「疑いの認識―絶望」、「夜明けの復活」というキーワードは明らかに楽曲構成のアイデアを示している。シュトラウスと親しかった作家アルトゥール・ザイドル Arthur Seidl(1863-1928)は、エッセイ『ツァラトゥストラはこのように歌った Also Sang Zarathustra』(1900)で、「病から癒えつつある者」に自伝的意味があるとし、シュトラウスの「古い神々:ヴァーグナーとショーペンハウアーから新しい預言者ニーチェへ」の改宗を指摘している。
この時期のシュトラウスと数多くの手紙のやり取りや家族ぐるみでの交流のあった仏文学者ロマン・ロランの日記には、シュトラウスの構想について、自然の謎に直面した英雄が、宗教によってもユーモアによってもついに満足できない無力感だとする解説がある。
この説明では、交響詩の物語の主人公は、ツァラトゥストラではなく「英雄」となっている。それはニーチェ思想との出会い以後の音詩『英雄の生涯』、『家庭交響曲』、『アルプス交響曲』に設定された主人公と同一の、すなわち作曲家シュトラウス自身と見ることもできるだろう。つまり音詩『ツァラトゥストラ』で構成される物語は、ニーチェ思想との出会いにより、ニーチェと同じくヴァーグナー/ショーペンハウアーの影響を脱して自己変革を成し遂げ、ヴァーグナーの追従者を脱して作曲家としてのオリジナリティを確立し、厭世思想を克服して享楽主義的作風に転換した、作曲家自身の成長物語と言えよう。
近年出版された、シュトラウス研究の権威ヴァルター・ヴェルベックの著書 "Richard Strauss Handbuch" (2014)で、シュトラウス自身による原書テキストを引用した書き込みがシュトラウス所有の総譜に残されていることが明らかにされた。本稿ではシュトラウス自身が引用したテキストと、ロマン・ロランによる解説をもとに、音詩楽曲構成の基になっているはずの内的プログラムを考察する。(テキスト翻訳:甲斐)
(1)導入部(ツァラトゥストラの序説)
出版譜の冒頭には『ツァラトゥストラ』の10編からなる「序説」の第1部分が置かれ、序奏部はこの情景を描いた音楽とされる。
ツァラトゥストラの序説
フリードリヒ・ニーチェ
ツァラトゥストラは30歳で故郷とその湖を去り山に入った。ここで自らの精神と孤独を楽しみ、10年の間飽くことがなかった。だがついにその心が変わる時が来た。―ある朝、彼は日の出とともに起き、太陽の前に歩み出て、このように語った。
「偉大な天体よ! もしあなたに照らすべきものがなかったなら、あなたに幸福はあるだろうか。
10年間あなたはわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしの鷲と蛇がいなかったなら、あなたはあなたの光と道とに飽き果てていたことだろう。
だがわたしたちは毎朝あなたを待ち受け、あなたから溢れこぼれるものを受け取り、その代わりにあなたを祝福した。
見られよ! 蜜をあまりに集め過ぎた蜜蜂のように、わたしもおのれの知恵に飽き果てている。わたしはそれを受け取るべく差し出される手を必要とする。
わたしは贈り、分け与えたい。人間のなかの賢者が今一度その愚かさを悟り、貧者が今一度その豊かさを喜ぶまで。
そのためにわたしは深みへ降りていかなければならない。あなたが夕方に海の背後に沈みゆきながら、なおも下界に光をもたらすように。あなた、溢れるほど豊かな天体よ!
わたしは人間たちのところへ下ってゆく。人間たちの呼び方をすれば、あなたと同じく 没 落 す る(untergehen) のである。
わたしを祝福されよ、あまりに大きな幸福をも嫉妬なく見られる安らかな目よ!
この杯を祝福されよ、水が黄金色をなして流れ出し、いたるところにあなたの歓喜の反映を運ぶようにと、溢れることを欲するこの杯を!
見られよ! この杯は再び空になろうと欲する。そしてツァラトゥストラは再び人間になろうと欲する。」
―このようにしてツァラトゥストラの没落(untergang)は始まった。
〔第1部~序説1/10〕
オルガン、コントラバス、大太鼓の低く鳴る地響きのような持続音の上に、「自然の動機Natur Motive」がトランペットにより荘厳に奏される。クライマックスに達し全管弦楽がハ長調の和音を最強奏して断ち切られ、オルガンのみが残って轟然と鳴り響く。
作曲家公認の解説に記されている「自然動機」という名称だが、筆者が調べたところでは、原著で「自然 Natur」という語が使われているのは第2部の「詩人について」でのただ一か所であり、それも全く重要な語でないことから、この最重要モティーフの名称としては疑問がある。この序奏モティーフが、ツァラトゥストラの偉大な思想の比喩としての太陽であり、ニーチェ思想の偉大さの象徴であることは間違いないので、本稿では「ZN動機 (Zarathustra-Nietzsche Motiv)」と呼称することにする。
(譜例)
この「序説」の第2部分で、山を下りる途中ツァラトゥストラは森に住む老いた「聖者」と出会い、神と人間について問答する。神を愛する聖者と人間を愛するツァラトゥストラはかみ合わず、別れたのちにツァラトゥストラが独白するのが名高い「神は死んだ」である。
「こんなことがあるのだろうか! あの老いた聖者は森の中にいてまだ聞いていないのだ、神は死んだということを。」(第1部~序説2/10)
(2)背後世界論者について Von den Hinterweltlern (第23小節)
かつてツァラトゥストラもまた、すべての背後世界論者たちと同じく、彼岸の世界に妄想を馳せた。わたしに世界は、苦悩し責めさいなまれた神の作品と思われた。
そのとき世界は、ひとりの神の夢であり詩作であると思われた。崇高にして満ち足らざる者が、その眼前に漂わせた多彩で儚い靄かと思われた。(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)
暗いロ短調で「憧れの動機」が奏される。(譜例) 宇宙の謎の解明を希求し、知恵と認識を深めようとする精神、つまり人間の主題である。ZN動機と共に最重要の動機であり、ロマン・ロラン言うところの「英雄(主人公)」であり、自伝的プログラムとしては作曲家自身を表すと思われる。ホルンにグレゴリオ聖歌の「クレド(我は信じる)」(23-24)が現れ、変イ長調の祈りの音楽が始まる。(35-)
クレド(譜例)
弦楽は20にも分割され、オルガンが伴奏する。教会で多人数の信者が祈る情景であろうか。美しく感動的な音楽に皮肉や揶揄は見られないが、かすかな疑念が管楽器で奏される。背後世界論者とはニーチェの造語で、地上を生きるに値しない苦界とし、天国・来世といった肉体を捨ててゆく彼岸世界の存在を説く宗教者、すなわちキリスト教徒を指す。ロマン・ロランはこの章を「宗教思想について」と記している。
この世界、永遠に不完全なこの世界。永遠の矛盾の反映、それも不完全な反映―不完全な創造者の陶酔した喜び、それが世界だとかつてわたしには思われた。
こうしてわたしはかつて、すべての背後世界論者のように、彼岸に妄想を馳せた。だがそれは真実の彼岸であったのか?(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)
(3)大いなる憧れについて(75-)
「憧れの動機」が再びロ短調でチェロとファゴットに現れ、弦楽でグレゴリオ聖歌「マニフィカト」が奏されると続いてロ長調となるが、木管に「ZN動機」が異質なハ調で現れて信仰への疑念を提示する。(82-)
ああ、兄弟たちよ、わたしが作り出したこの神は、すべての神と同じように、人間の作ったものであり、その妄想の産物だったのだ!
その神は人間であった。わたしの自我の貧弱な断片に過ぎなかったのだ。その幽霊はわたし自身の灰と残り火から、わたしのところにやって来たのだ。まことに! それは彼岸から来た者ではなかったのだ!
兄弟たちよ、それから何が起こったかと言うか? わたしは苦悩する自分自身を克服し、自分の灰を山上に運び、わたしが発明したより神より明るい炎を持ち帰った。
すると見よ! その幽霊はわたしから退散したのだ!(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)
「世界背後論者」の動機が再現して「憧れの動機」と対立、拮抗するなか、「自然の動機」が断続的に現れる。この部分にシュトラウスが書き留めたニーチェのテキストは「世界背後論者」のもので、それが楽曲前半のほとんどを占めているのは注目される。「背後世界論者」の動機と「憧れの動機」との闘争のクライマックスにトランペットの「自然の動機」が現れ、ついで劇的に「歓楽と情欲について」の部分になだれ込む。
(98-)
耳傾けよ、わが兄弟たちよ、健全な身体の声に。それはより誠実で、より純粋な声である。(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)
(4)歓楽と情欲について(115-)
この部分にニーチェのテキストは引用されていない。
「背後世界論者たちの動機」に対して優勢となった「憧れの動機」がハ短調で情熱的に展開される。その頂点においてトロンボーン3本による「嫌悪の動機」が提示される。これは「自然の動機」「憧れの動機」と並び重要な動機となる。主人公はキリスト教で悪とされる、地上の歓楽と情欲に耽ろうとするが、それに満足できず飽きてしまう。この動機の出現により情熱的音楽は減衰する。年上の不倫の恋人、ドーラとの恋愛関係が想起される個所である。
嫌悪の動機 譜例
(5)墓の歌(164-)
「あそこに墓の島、沈黙の島がある。そこにはわたしの青春の墓もある。あそこへ青々とした常緑樹の葉環を捧げに行こう。」
このように心に決め、わたしは海原を越えていった… 。
おお、お前たち、わたしの青春の面影と幻よ! おお、お前たちすべての愛の眼差し、お前たち、神々しい瞬間よ! どうしてこんなにも早く死んだのだ! 今日わたしは亡き友のように、お前たちを偲ぶ。
わたしの亡き最愛の友よ、お前たちからわたしに漂う甘い香りは、心をとろかし涙を誘う。まことに、それは孤独な船乗りの心を揺さぶり、そして砕く。
(「墓の歌」〔第2部 11/22〕)
ツァラトゥストラの教説集である『ツァラトゥストラ』の中で、「夜の歌」、「舞踏の歌」と並び、ツァラトゥストラの心情が吐露される散文詩の章である。この章はこの後、その青春は殺されたと言い、その殺害者たちへの憤りを延々とつづって行く。その執拗さにはいささか当惑するほどだが、この章はニーチェのヴァーグナー・コジマ夫妻との親しい交流への哀惜と、ヴァーグナーへの愛憎併存の感情を込めているとされる。
ヴァーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』からイゾルデのセリフ「そもそもどのようにしてわたしはそれに耐えたのか?」が引用され、「最愛の歌い手」(ヴァーグナー)が、重苦しい歌曲(キリスト教を題材とするヴァーグナーの神聖舞台祝典劇『パルジファル』)を歌って自分を苦しめたと訴える。
ニーチェは後年の著書『この人を見よ』で、『ツァラトゥストラ』の執筆開始の年が、ヴァーグナーの死の年であったことを特筆し、離反して以後、厳しい批判の対象ともしたヴァーグナーへの、変わらぬ敬意と哀惜を表明している。ヴァーグナーが亡くなったヴェニスの地にかつてニーチェが滞在した折、借りた屋敷の窓から、墓地の島であるサン・ミケーレ島が見えることを、ニーチェは気に入っていたことから、「墓の島」とはサン・ミケーレ島のイメージともされる。
この全編中特異な章を選んだシュトラウスの意図も同じところにあったのではないだろうか。ニーチェと同じくヴァーグナーの音楽に深く傾倒し、その死後とはいえヴァーグナー家に出入りし、バイロイトでヴァーグナー作品を指揮するなど重用され、ヴァーグナー風の楽劇『グントラム』を作曲していたシュトラウスは、ニーチェ思想との出会いを機に、ヴァーグナーの影響下を抜け出し、独自の道を見出していくのだから。
音楽はロ短調に戻り、前章の素材を用いて痛切な哀歌が歌われ、「自然の動機」による緩やかなクライマックスを形成する。小鍛冶邦隆は「憧れの動機」をクラリネットからチェロに受け渡す結尾について「ヴァーグナー風の『移行の技術』を思わせる」と評している。
(6)学問について
この章にシュトラウスはテキストを引用していない。原著ではひとつ前の「憂愁の歌」に続いて章の主役と言える登場人物である、俳優的芸術家の「年老いた魔術師」は、その設定と、セリフにヴァーグナーの言葉が引用されていることから、ヴァーグナーがモデルであることが定説化している。
狡猾な扇動家として描かれる老魔術師には、ニーチェの愛憎併存の感情が見て取れる。原著ではそれぞれ第2部(11/22)と第4部(15/20)にある、ヴァーグナーに関連した2つの章を連続させたことは、キリスト教への帰依と疑念を描く「背後世界論者について」「大いなる憧れについて」「歓楽と情欲について」の3つの章に続いて、ニーチェの、ヴァーグナーの音楽とショーペンハウアーの厭世思想への傾倒と反発を描く意図と読むこともできるだろう。前述のザイドルの説に従うなら、次の「病から回復しつつある者」がそこからの離脱を描くことで3章一組になる。
原書における前章で老魔術師が歌う「憂愁の歌」の「狡猾に仕組まれた悦楽の網」に、ツァラトゥストラの弟子たちは誘い込まれる。シュトラウスの楽曲では、魅惑的な悲歌である「墓の歌」が、原作の「憂愁の歌」の役割を担っているとも言えるだろう。「自然の動機」を基にした12の半音を含む陰鬱な主題によるフガートに始まり、一旦高揚してからロ長調に転じる。
(7)病から回復しつつある者(201-)
「学問について」のフガート主題と嫌悪の動機の二重フーガに始まる。宗教を捨てたためのニヒリズムをも克服するという、ツァラトゥストラの根本思想となる永劫回帰がついに姿を現そうとする。だがこの思想を受け入れるには大きな障害がある。世界のすべてが反復されるのならば、この世の愚劣も卑小もまたすべて繰り返されることを受け入れなければならない。その嫌悪感にツァラトゥストラは吐き気を催す。
(263-)
嬉しや! おまえはやってくる、― おまえの声が聞こえる! わたしの深淵が語っているのだ、わたしの最後の深みが明るみに出るのだ!
嬉しや! 近く寄れ! 手を握らせよ ―― あっ! 放せ! ああ! ―― おぞましい、おぞましい、おぞましい ―― ――情けない!
(321-)
ツァラトゥストラはそう発するやいなや死んだように倒れ、長い間死体のように横たわった。そして我に返ると、青ざめて震え、横たわったまま長いこと飲みも食いもしなかった。
ZN動機が全管弦楽のfffで轟然と再現される。注目されるのは、序奏で管弦楽が静まった後も鳴り響いて存在感を示したオルガンが、この再現を最後に、それ以後の全曲後半では一切姿を現さないことである。キリスト教との対決を描いた「背後世界論者について」と続く2章では、マニフィカト音形を奏するなど、キリスト教会の象徴として用いられているので、その呪縛が断ち切られたことを表現しているとみてよいだろう。
この直後にシュトラウスは第1部序説5の一節を引用しているので、曲頭の「序説」の再現であるとも言える。ツァラトゥストラが市場の民衆に向かって、彼らにも人間の内なる可能性のあることを説く。(338-)
あなたがたに言おう:踊る星を産み出そうとするには、人は自らの中に更なる混沌を宿していなければならない。あなたがたに言おう:あなたがたはいまだその中に混沌を宿しつづけている。(「序説」(第1部~序説5/10))
ツァラトゥストラは動物たちのとりなしにより嫌悪の打撃から立ち直る。
(8)舞踏の歌(409)
ここでは原書における前章「夜の歌」の一節が引用される。(561-)
夜がきた。愛する者たちのすべての歌が今や目覚める。そして、わたしの魂もまた、ひとりの愛する者の歌である。(「夜の歌」〔第2部 10/22〕)
続いて「大いなる憧れについて」の一節が引用される。(661-)
しかし、おまえが泣きたくないならば、おまえの深紅の憂愁に泣きはらしたくないならば、おまえは歌わなければならない。おお、わたしの魂よ! …見よ、このようにおまえに予言するわたしは、自らにむけて微笑んでいる:
…激越に歌わねばならない、すべての海が静まり、おまえの憧れに耳を傾けるまで、…
(「大いなる憧れについて」〔第3部 14/16〕)
心を高めよ、あなたがた良き舞踏者よ、高く、より高く! そして忘れるなかれ、良き笑いをも! …笑いは聖なるものとわたしは宣する。あなたがた、ましな人間たちよ、わたしから学ばれよ...笑いを!(「ましな人間について」第4部 13/20の20/20)
(der höhere menschの訳語は、高等な人間 貴人 ましな人間 などがあるが、超人と「終わった人間」の間なので、ましな人間が適当だろう))
音楽はZN動機と背後世界論者のコラールを用いた第1のワルツ、舞踏の動機による第2のワルツからなる。弦や木管に笑い声を模倣する音形が現れ、舞踏者ツァラトゥストラ、哄笑者ツァラトゥストラが暗示され、ニーチェ思想へのオマージュが明らかとなるが、問題はワルツという形式の採用である。
作曲当時ワルツは舞踏会の伴奏音楽で通俗なものとみなされ、管弦楽団の演奏会で上演されることはなかった。それをわざわざ導入し、前半のオルガンが姿を消してから前面に現れるヴァイオリン独奏が活躍する、大変に上機嫌で幸福な舞踏音楽を繰り広げるさまに筆者は、シュトラウス自身の、新妻パウリーネとの結婚の喜びが投影されているように思えてならない。
(9)夢遊病者の歌(876-)
ここにテキストは引用されないが、「もうひとつの舞踏歌」に由来するとみられる、鐘の12連打があるところから、その部分のテキストを参照する。(876)
一つ!
おお人間よ、心せよ!
二つ!
深い真夜中は何を語るのか。
三つ!
「わたしは眠っていた、眠っていた...
四つ!
「深い夢から目覚めた...
五つ!
「世界は深い。
六つ!
「昼が思っているよりも深い。
七つ!
「深いのはその痛み、
八つ!
「よろこび...それは苦しみよりさらに深い:
九つ!
「痛みは言う:消えよ!
十!
「だがすべてのよろこびは永遠を望む…
十一!
「...深い、深い永遠を望む!
十二!
(「もうひとつの舞踏歌 3/3」)
喜びのワルツが大団円を迎え、夜の訪れと永遠の喜びを語って楽曲は静かな終焉に向かう。ロ長調の木管・ヴァイオリンと、トロンボーンと低音弦のハ音がずれたまま終わる終結は、永遠回帰思想の象徴とも、ついに自然の謎に到達できない人間の象徴とも言われるが、ロマン・ロランの解説にある、ついに満足できない英雄という設定によれば後者がふさわしい。
ニーチェの思想に傾倒し、精通していたシュトラウスだが、合理主義者の彼が、永遠回帰という謎めいた思想を納得して信じていたとまでは考えにくい。キリスト教からの離脱とは、キリスト教を否定し、別のものを信じるということではない。シュトラウスこそは、「わたしを信じるな。わたしはあなたがたを担いでいるのかもしれない。」と、批判精神を持つことを教えるツァラトゥストラの、最良の弟子であった。
![11/22(金)R.シュトラウス《ツァラトゥストラ》《アルプス交響曲》2台ピアノ版初演 [11/10増補]_c0050810_02443258.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201911/11/10/c0050810_02443258.jpg)
『芸術家の悲劇』から『反キリスト者―アルプス交響曲』へ――甲斐貴也
■シュトラウス14歳の実体験について
『アルプス交響曲』の起源はシュトラウスが14歳の折までさかのぼると思われる。1879年夏、少年シュトラウスは、父親とハイキングの名所ハイムガルテン山(標高1791メートル)に登った。その「ハイムガルテンへの大冒険」を、ギムナジウムの同級生で同じく作曲家となる親友、ルートヴィヒ・トゥイレに報告した手紙が残されている。
8月26日 親愛なるルートヴィヒ!
先日、12時間をかけた山登りをしたんだ。午前2時に馬車でふもとの村に出発し、そこから暗闇の中をカンテラを頼りに登り、5時間後に頂上に着いた。それは素晴らしい眺めだったよ。シュタッフェル湖、リーク湖、アンマー湖、ヴュルム湖、コッヘル湖、ヴァルヒェン湖、そしてイザール渓谷は山々に囲まれ、エツトハール(エッツタール?)、シュトゥーバイヤーフェルン、インスブルックの山脈、ツークシュピッツェを眺めた。そして山の反対側をヴァルヒェン湖を目指して降りるはずが、暑い日差しのなか道に迷い、3時間も彷徨い歩くことになってしまった。ヴァルヒェン湖は美しいが、左を森に、右を山々に囲まれて、寂しい印象を与える。その水は美しく輝き、明るい緑色をしていた。それから僕らは湖を船で渡り、ハイムガルテン山の隣、ヘアツォークシュタント山のふもとにある、ウーアフェルデンに向かった。そこからケッセルベルクを通ってコッヘル湖畔のケッセルベルク食堂で1時間を過ごした。
出発するとすぐに、僕らはすごい嵐に襲われた。樹木が根からなぎ倒され、小石が顔に飛んでくるほどで、ずぶ濡れになってしまった。いつもはロマンティックで美しいコッヘル湖は恐ろしいほど波立ち、僕らの馬車を置いていた対岸のシュレードルフに渡ることなど考えられないくらいだった。結局嵐が去ってから2時間かけて、コッヘル湖岸を歩くことになった。するとまた雨が降ってきたので、1分も休むことなく急いで歩き続け、疲れ果て、びしょ濡れになって、ようやくシュレードルフに到着した。そこで一晩泊まり、翌朝にはすっかり静かになった中、馬車に乗ってムルナウに帰った。この旅は本当にたのしかった。その後数日間、僕はこの旅の行程の全てをピアノで演奏したんだ。もちろんそれは長大な音の絵画に、見かけだけヴァーグナー風のものになったがね。
『アルプス交響曲』のプログラムそのままと言えるこの内容だが、このアイデアが作品に結実するまで30年の歳月と、構想の紆余曲折があった。
1892年、シュトラウスはビューローから詩人ジョン・ヘンリー・マッケイを紹介される。「あした」「ひそやかな誘い」というシュトラウスの名歌曲に歌詞を提供した詩人だが、彼はビューローのかつての知人でドイツの哲学者マックス・シュティルナーの伝記を書いていた。シュトラウスはシュティルナーの主著『唯一者とその所有』を読み、そのキリスト者による自然蔑視批判と、大自然の前の人間の無力というくだりに感銘を受けた。ニーチェ思想に加えてこのシュティルナーの思想も、『アルプス交響曲』の構想に影響を与えていると見られる。
■幻の音詩『芸術家の悲劇』について
次いでニーチェ思想との出会いにより感化され、1896年の音詩『ツァラトゥストラ』で、キリスト教とヴァーグナー/ショーペンハウアーからの離脱を描いたシュトラウスは、以後、音詩『ドン・キホーテ』(1897)、音詩『英雄の生涯』(1898)と傑作を生みだしていたが、ヴェルベックによれば、その次作に音詩『芸術家の悲劇』を構想していた。
1900年1月28日、シュトラウスは父親に「スイスの日の出とともに」始まる新しい音詩の計画について書いた。同時代のスイスの肖像画家・彫刻家で登山家、カール・シュタウファー=ベルンの思い出に捧げられ、シュトラウスが「芸術家の愛と人生の悲劇」、「芸術的悲劇」、「芸術家の愛の悲劇」などと呼んだこの構想は、後に『アルプス交響曲』で使用されたプログラムと音楽に共通する素材を持つと考えられている。おそらく1899年から1902年にかけて制作された『芸術家の悲劇』のスケッチには、「山の主題」の初期形態と、谷に降り注ぐ太陽の光を表す下行形による「日の出」など、『アルプス交響曲』と共通の素材が多くあるという。
シュトラウスは『芸術家の悲劇』で自然を主に描くつもりはなく、「芸術家」と「破滅」の2楽章からなるプログラムを構想していた。シュトラウスとシュタウファーには共通の知人がおり、面識もあったが、シュトラウスはシュタウファーの死後、オットー・ブラームスによるシュタウファーの伝記(1892)を読んで、その悲惨な運命を知ったという。
カール・シュタウファー=ベルン Karl Stauffer-Bern(1857-1891)はスイス・ベルン出身。ミュンヘンで学ぶ。1881年にベルリンの国際美術展で発表されたマックス・クラインの肖像画が高く評価され、肖像画家としての名声を得た。1886年、ギリシア彫刻の崇拝者であったシュタウファーは、ベルンの資産家リディア・エッシャーとアルフレッド・エッシャー夫妻の財政的支援により、 彫刻を学ぶために夫妻と共にローマに赴いた。 ローマでリディアとの恋愛関係が発覚し、リディアの親族は彼女を精神病院に入院させ、シュタイファーは刑務所に収監された。釈放後ベルンに戻ったシュタイファーは精神を病み、何度かの自殺未遂後に1891年薬物で自殺した。精神に異常のないことを証明され解放されたリディアも、一年後に後を追って自殺した。
シュタイファーの弟子には、高名な彫刻家ケート・コルヴィッツ、画家マリア・スラヴォーナ、クララ・ジーベルトがいる。
ヴェルベックは、カール・シュタウファーとニーチェには明確な類似点があると指摘する。
・山の孤独に隠れて知識を求める。
・感情的安定と芸術的生産性を見いだすことを望んでの、イタリアへの脱出。
・最愛の女性との破局。
・狂気と早死。
私見では、『ツァラトゥストラ』の項で検討した、ニーチェとシュトラウス自身の体験の類似性も重要である。シュトラウスに狂気と早世はないかわり、人妻ドーラ・ヴィーハンとの禁じられた愛は、ニーチェが一方的に想いを募らせた才女ルー・サロメへのプラトニックな愛よりも、シュタウファーとの共通性が高い。
最終的にシュトラウスはこの構想を放棄し、1903年に発表された新作は大規模な音詩、標題交響曲『家庭交響曲』であった。練達の管弦楽法を縦横に駆使し、シュトラウスとパウリーネの幸福な家庭生活を華麗にユーモラスに描いた、『芸術家の幸福』とでも呼ぶべきこの作品と、『芸術家の悲劇』の救いのなさの落差はあまりに大きい。そしてこの曲を区切りとしてシュトラウスの主要創作ジャンルは音詩から、優れた歌手である妻パウリーネの領域、すなわちオペラに移行する。オペラ『サロメ』(1905)、『エレクトラ』(1908)、そして『薔薇の騎士』(1910)、『ナクソス島のアリアドネ』(1903)の成功によってオペラ作家としての名声を得、ベルリン・フィルの指揮者としての活動と合わせ、シュトラウスは多忙な日々を送ることとなる。
■マーラーの死、ドーラとの別れ、『アルプス交響曲』本格着手について
1902年から1910年の間に、シュトラウスは『芸術家の悲劇』の完成を断念し、その素材を用いた新たな作品、ニーチェの山に生きる精神と、非キリスト教的自然を賛美する全4楽章の交響曲を構想していた。
『反キリスト者―アルプス交響曲』
第1楽章
夜と日の出/登り道、森(狩り)/滝(アルプスの妖精)/花咲く草原(牛飼い)/氷河/雷雨/下山/静寂(日の出の後に、痛みに引き裂かれた心と自然との強い対比/優しい気持ち/少年時代/無邪気で宗教的な気持ちと厳しい自然の対比/無力感と慰め:自立した思考の覚醒と試み)
第2楽章
田舎の喜び:舞曲、民衆の祭り、行進
第3楽章
ゴヤ風の夢と亡霊
第4楽章
創作・芸術的創造による解放・フーガ
第4楽章の標題の意図は、シュトラウスが日記に記した「芸術的直感、芸術的生産、哲学の喜びは、苦悩すべての10倍を上回る」という考えを反映していると思われる。
名作オペラ群作曲の多忙により遅々として進まなかった『アルプス交響曲』がようやく日の目を見るきっかけとなったのは、マーラーの死であるかもしれない。
1911年5月、グスタフ・マーラーが50歳で死去した。シュトラウスと同時代の偉大な指揮者・作曲家であり、お互いの作品を上演し合う盟友でもあった。その前年、マーラーは短期間に終わったニューヨーク・フィル時代のデビューとなる演奏会で、シュトラウスの音詩『ツァトゥストラはこのように語った』を演奏している。病を得てヨーロッパに戻るマーラーのために、シュトラウスはベルリンで、マーラーが自作の第3交響曲(ニーチェ『ツァラトゥストラ』のテキストを歌詞に用いた作品)を指揮できるよう準備をしておくと手紙で約束し、マーラーを喜ばせている。直後のマーラーの訃報に、いつも規則正しく仕事をする習慣のシュトラウスは、一日何も手につかず、ほとんど口もきかなかったという。
「重病の末にグスタフ・マーラーが世を去った。この野心家で、理想主義者で、精力的な芸術家の死は、まことに大きな損失だ。(中略)ユダヤ人マーラーは、キリスト教の中で自身を高めることができた。英雄リヒャルト・ヴァーグナーは、ショーペンハウアーの影響を受けたが、老人になった時、再び身を落として本来の自分に戻った。
完全に明白なことは、ドイツ民族は、キリスト教からの解放のみによって、新しい活力を得られるということだ。(中略)わたしは『アルプス交響曲』を『反キリスト者』と名付けたい。そこには自分自身の力による道徳的浄化、創造による救済、永遠の自然への崇拝があるからだ。」
(シュトラウスの日記 1911年5月)
この年の同じ月には、かつての恋人ドーラとの再会と別れもあった。夫ヴィーハンと離婚したドーラはミュンヘンを離れ、ギリシャ在住の資産家夫人のピアノ教師として暮らしていたが、その後故郷のドレスデンに戻り、歌劇場のコレペティートル(歌手に下稽古をつける練習ピアニストで、オペラの専門知識が必要とされる職業)として生計を立てていた。1911年当地でのシュトラウスの『薔薇の騎士』初演に際してドーラはコレペティートルを務めた。ミュンヘン時代から上品なドーラと親しく、粗忽なパウリーネと折り合いが悪かったシュトラウスの母と妹は喜んで、ドーラを自宅に招いてもてなした。しかしドーラを敵視するパウリーネにより険悪となり、以後ドーラは二度とシュトラウス家を訪ねることも、シュトラウスと会うこともなかった。
ドーラはその後1938年に亡くなるまで居室のピアノの上にシュトラウスの写真を飾っていたという。彼女がシュトラウスに書いた多くの手紙は、遺言によって処分され、ほとんどが残されていない。
そしてこの年シュトラウスは『アンチクリスト―アルプス交響曲』に本格着手し、第2楽章以後を放棄した、第1楽章の構想のみによる単一楽章の作品構成を確定した。上記のこの作品のテーマは、第1楽章の内容のみで、十分に表現できると判断したようである。1913年8月にスケッチが完成。オーケストレーションの完成は1915年に入ってから、オペラ『影のない女』作曲の合間にに行われた。116名を擁する大編成による、演奏時間50分を要する大曲である。
■ ニーチェ『アンチクリスト(反キリスト者)』について
シュトラウスが『アルプス交響曲』の本来のタイトルにしていた、ニーチェ後期の著書『反キリスト者~キリスト教呪詛』は、1895年に刊行されたグロースオクターフ社のニーチェ全集で初出版された。本書はその名のとおりキリスト教への徹底的な批判・非難の書である。偉大な精神、自由な精神とは懐疑から生まれるとし、懐疑と逆の信仰への欲求を、弱さと依存への欲求とする。その序言でニーチェは本書の対象を「私のツァラトゥストラを理解してくれる読者」とし、その真意を理解するために「山頂で生きる修練――政治や民族的利己心という哀れな当世風のお喋りを足元に見下す修練が必要である」と説く。これは『ツァラトゥストラ』序説における、ツァラトゥストラの山での10年間を想起させる。
「信仰の人、あらゆる種類の『信者』は必然的に、依存的な人間である。(中略)『信者』は自己に属していない。彼は単なる手段でしかありえない。使い捨てられるに決まっている人間である。自分を使い捨ててくれる何びとかを必要としている人間である。信者の本能は、自己滅却の道徳に最高の栄誉を与えている。自己滅却の道徳に与するように、すべてのものが、彼の智慧、彼の経験、彼の虚栄心が、よってたかって彼を説きつけている。あらゆる種類の信仰は、それ自体、自己滅却の表現であり、すなわち、自己疎外の表現なのである。」(『反キリスト者』54 西尾幹二訳)
詩的な『ツァラトゥストラ』と異なり、キリスト教への攻撃に終始する全62章のあとに、結語として「キリスト教に対抗する律法」の「布告」をする。以下がその全文である(甲斐訳)
キリスト教に対抗する律法
救いの日、第1年の初日に公布さる (偽りの暦によれば1888年9月30日)
悪に対する決戦: 悪とはキリスト教である
第1条:
悪質なのはあらゆる種類の反自然である。最も悪質な人間は牧師である。反自然を教えているからである。牧師に反駁の余地なく刑務所が待つのみ。
第2条:
礼拝への参加はすべて、公道徳の暗殺である。カトリック教徒に対するよりもプロテスタントに対して、厳格な信者に対するよりもリベラルなプロテスタントに対して、より厳しくなければならない。キリスト者であることによる犯罪性は、学問的であるほど増大する。したがって、犯罪者中の犯罪者は哲学者である。
第3条:
キリスト教がそのバジリスクの卵を育てた悪質な場所は、破壊して平らに均し、後世の恐怖の的となる、地面の焦げた場所にしなければならない。そこで毒ヘビを繁殖させる必要がある。
第4条:
貞操の説教は、反自然への公的な扇動である。性生活に対する軽蔑、「汚れ」という言葉による不潔化は、生の聖霊に対する本質的罪である。
第5条:
テーブルで牧師と食事を共にすること:それは合法社会との関係を壊す。牧師は我々にとってチャンダーラである。彼を追い立て、飢えさせ、いずこであろうと荒野に追放する必要がある。
第6条:
「聖なる」物語は、呪われた歴史として、それにふさわしく呼称すべきである。「神」、「救世主」、「救い主」、「聖人」という言葉は罵詈雑言として用い、犯罪者の記章に利用されるべし。
第7条:
以下これよりさらに続くべし。
反キリスト者
※バジリスク:人間を睨み殺す伝説上の怪蛇
※チャンダーラ:インドの被差別民
1899年にはシュトラウスの友人、アルトゥール・ザイドルの編集により、グロースオクターフ新全集版が出版される。『反キリスト者』は当初、『ツァラトゥストラ』に続く新たな4部作として構想された『あらゆる価値の価値転換』の第1部として執筆された。しかし4部作の計画は破棄され、ニーチェは『反キリスト者』が『あらゆる価値の価値転換』そのものとみなすようになり、それを副題として『反キリスト者~あらゆる価値の価値転換』としたが、最終的に副題を「キリスト教呪詛」とした。そして自伝的内容の『この人を見よ』を先に世に出す方が、『反キリスト者』のより良い理解につながると考えたニーチェは、前者を先に出版させたが、1889年初頭のニーチェの精神崩壊により、『反キリスト者』の出版は延期されたのだった。
第二次大戦以前に出版された『反キリスト者』は、キリストを「白痴」と呼んだ部分、ヴィルヘルム2世を揶揄、誹謗する箇所が削除されていたが、親友ザイドルが編集に携わっていたことから、シュトラウスはその箇所のニーチェの真意を知っていたと思われる。
全4部作の構想が第1部のみになった経緯は、シュトラウスの『アルプス交響曲』の作曲経緯と酷似しており興味深い。これについてもシュトラウスがザイドルから聞き知っていた可能性はあるかもしれない。
シュトラウスは作品の初演と出版にあたり、プロイセン宮廷歌劇場指揮者という公的な立場から、『反キリスト者』というタイトルを断念せざるを得なくなり、副題の「アルプス交響曲」がタイトルに昇格させられたとされているが、ヴェルベックによれば、これは楽曲のプログラムを隠蔽するための処置であるという。
『反キリスト者―アルプス交響曲』Der Antichrist—Eine Alpensinfonie
1)夜 Nacht
変ロ短調の全ての音を中低音で響かせるトーンクラスター風のくぐもった序奏に続き「夜」の動機が奏され、やがて山の動機が和音で現れる。
2)日の出 Sonnenaufgang
夜の動機が変容されたイ長調の「太陽」の動機が輝かしい姿を見せる。下行音形により、朝日が山々の谷まで下りてゆく様が描かれる。
3)登り道 Der Anstieg
動的な「登山」の動機が低弦に変ホ長調で現れて主部、登山が始まる。これが楽曲の主要主題となる。金管に岩壁の動機が現れ、対位法展開が続く。舞台裏で奏される狩猟ホルンの動機が現れ、遠方の狩人たち、あるいは中世騎士団の幻影が示される。
4)森に入る Eintritt in den Wald
突如ハ短調に転じ「森」の動機が現れる。ヴェルベックはT230-266を、『ツァラトゥストラ』の「世界背後論者Hinterweltlern」への言及としている。これはHinterweltlernという語が、「Hinterwalder 森の向こうの人=無知な田舎者」にひっかけたニーチェの造語であることにも関連するという。
5)小川に沿って歩く Wanderung neben dem Bache
変イ長調のせせらぎ。
6)滝 Am Wasserfall
せせらぎは岩壁で滝となり、ニ長調に転じてしぶきとなる。
7)幻影 Erscheinung
しぶきは色彩の幻影、虹を作り出す。3拍子。
8)花咲く牧草地で Auf blumigen Wiesen
8分の6拍子、パストラーレ。
9)山の牧場で Auf der Alm
牛の首に着けられたカウベルが聞こえる。
10)道に迷い茂みと藪を抜ける Durch Dickicht und Gestrüpp auf Irrwegen
山登りの動機と岩壁の動機のフーガ
11)氷河で Auf dem Gletscher
12)危険な瞬間 Gefahrvolle Augenblicke
13)頂上で Auf dem Gipfel
トロンボーンに頂上の主題がヘ長調で現れ、頂上が視界に入ったことを示す(T566)。次にハ長調で壮大に提示され、頂上への到達を示す。これは『ツァラトゥストラ』の「ZN動機(自然動機)」の変容形とされる。
14)幻視 Vision
それまでの動機も加わって、登頂の感動と自然への畏敬の念を描く壮大なクライマックスを築く。そこに全曲で初めてオルガンが加わるのが注目される。『ツァラトゥストラ』では前半のみだったオルガンが、『アルプス交響曲』では後半のみに使われているのである。
15)霧が立ちのぼる Nebel steigen auf
キリスト教会の象徴ともとれるオルガンの登場後、音楽に暗い影が差し始める。この部分は『芸術家の悲劇』の素材とされる。
16)しだいに日がかげる Die Sonne verdüstert sich allmählich
17)哀歌 Elegie
18)嵐の前の静けさ Stille vor dem Sturm
19)雷雨と嵐、下山 Gewitter und Sturm, Abstieg
山の反対側を降り始める。登山の主題が転回され、下山の主題となる。ウィンドマシーンが強風を表し、木管に大粒の雨がぽつぽつと降り始め、急激に激しくなる。私見ではこの木管は「十字架音形」である。『芸術家の悲劇』で主人公に襲いかかる宗教的モラルの抑圧だろうか。
20)日没 Sonnenuntergang
21)終音 Ausklang
日没後にふもとの教会を通りすがる。オルガンのコラールが聞こえ、これまでの楽想が次々回想される。この感動的な音楽は、「反キリスト者」を標榜するこの曲の大きな謎となっている。結局はキリスト教の祈りに取り込まれるのだろうか。だが『ツァラトゥストラ』における「世界背後論者について」の、教会で信者たちが祈る敬虔な音楽を思い起こしたい。すなわちこの教会のコラールは、背後世界論者たちの祈りであろう。祈りが結論ではない証拠に、楽曲はここで終わらない。
22)夜 Nacht
登山の楽しみと雄大な大自然への畏敬の念。それを否定するキリスト教とはなんなのか。もやもやとした疑念が、宿で床に就いた少年の夜の夢にまとわりつく。その疑念を晴らすのは、ニーチェ思想との出会い、『ツァラトゥストラ』冒頭の夜明けを待たねばならない。
■『ツァラトゥストラ』前日譚としての『アルプス交響曲』について
ヴェルベックは上記のように『アルプス交響曲』と『ツァラトゥストラ』の関連を指摘しているが、『ツァラトゥストラ』を、作曲家自身を主人公とする自伝的作品と捉えれば、その関連性はさらにはっきりとする。『アルプス交響曲』の原体験はシュトラウスが14歳の時であり、初めてキリスト教に疑念を抱いたのは15歳の時だったと回想していた。本作が、大自然への畏敬の念とともにキリスト教への疑念を抱いた、『ツァラトゥストラ』の前日譚的自伝的作品であるという解釈は十分成り立つだろう。
『ツァラトゥストラ』について、後半にのみ現れるヴァイオリン独奏を、『英雄の生涯』、『家庭交響曲』で公式に用いられる「英雄の妻」の先駆けという見立てをしたが、『アルプス交響曲』にはヴァイオリン独奏が一切現れない。美しい自然情景、牧歌的風景を描く音楽にふさわしいにもかかわらず、まるで頑ななまでに使用されないのである。これは、本作がパウリーネとの出会い以前の自伝的作品だからではないだろうか。つまり本作では、ヴァイオリン独奏の不在によって、後のパウリーネとの出会いが暗示されているわけである。
そして、ニーチェへのオマージュよりも、むしろドーラとの不倫の愛を想起させる『芸術家の悲劇』の構想が幻に終わり、代わりに幸せな家庭生活を描いた『家庭交響曲』が作曲されたのも、愛妻家シュトラウスがパウリーネのご機嫌を忖度してのことだったのではないだろうか。
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【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】
■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)
■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
P.ブーレーズ:構造Ia (1951)
■2015年5月22日 http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章] (約20分)
I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)
■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの地獄踊り》
S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版)
■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)
■2017年9月20日 現代日本人作品2台ピアノ傑作選 https://ooipiano.exblog.jp/27397266/
ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017、米沢典剛による2台ピアノ版) 花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997)
湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)
(アンコール) 武満徹(1930-1996):《クロスハッチ》(1982)
■2018年5月25日 ストラヴィンスキー2台ピアノ作品集成 https://ooipiano.exblog.jp/29413702/
ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版)
I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版)
I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)
I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)
二台ピアノのための協奏曲(1935)
I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版)
I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943)
I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版)
I. - II. - III. - IV. - V.
■2018年11月30日 米英近現代作品コンピレーション https://ooipiano.exblog.jp/29850225/
G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)
I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃない It Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)
I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン――二台ピアノのための構築》(2017/18、日本初演)
J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)
N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)
(アンコール)メシアン:《星の血の喜び》(1948)(米沢典剛による2台ピアノ版)
■2019年5月31日 調性音楽の仄暮~2台ピアノによる協奏曲集 https://ooipiano.exblog.jp/30257234/
G.フォーレ:《幻想曲 ト長調 Op.111》(1919、アルフレッド・コルトーに献呈)
I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Allegro moderato
K.シマノフスキ:《交響曲第4番 Op.60 「協奏的交響曲」》 (1932、アルトゥール・ルービンシュタインに献呈) [グジェゴシュ・フィテルベルクによる2台ピアノ版]
I. Moderato - tempo commodo - II. Andante molto sostenuto - III. Allegro non troppo, ma agitato ed ansioso
スクリャービン:《ピアノ協奏曲 嬰へ短調 Op.20》 (1897) 全3楽章
I. Allegro Moderato - II. Andante - III. Allegro
スクリャービン:《交響曲第5番 Op.60 「プロメテウス(火の詩)」》(1910) [レオニード・サバネーエフによる2台ピアノ版]