
大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp

【ポック(POC)#44】 「スクリャービンの窯変」
2019年12月20日(金)18時開演(17時30分開場) 松涛サロン(渋谷区)
●山田耕筰(1886-1965):《スクリャービンに捧ぐる曲》(1917) 5分
I. 夜の詩曲 - II. 忘れ難きモスコーの夜
■スクリャービン(1871-1915) :ソナタ第7番「白ミサ」Op.64 (1911) 11分
■詩的夜想曲 Op.61 (1911/12) 7分
■ソナタ第6番 Op.62 (1911/12) 11分
■2つの詩曲 Op.63 (1911/12) 3分
I. 仮面 - II. 異相
■3つの練習曲 Op.65 (1912) 7分
I.Allegro Fantastico - II. Allegretto - III. Molto Vivace
(休憩10分)
●山田耕筰:舞踊詩《青い焔》(1916) 4分
■スクリャービン: 2つの前奏曲 Op.67 (1912/13) 3分
I. Andante - II. Presto
■ソナタ第9番「黒ミサ」Op.68 (1912/13) 8分
■2つの詩曲 Op.69 (1912/13) 3分
I. Allegretto - II. Allegretto
■ソナタ第10番「昆虫ソナタ」Op.70 (1913) 12分
(休憩10分)
■ソナタ第8番 Op.66 (1913) 13分
■2つの詩曲 Op.71 (1914) 4分
I. 気まぐれに - II. 夢見て
■詩曲「焔に向かって」Op.72 (1914) 5分
■2つの舞曲 Op.73 (1914) 5分
I. 花環 - II. 冥炎
■5つの前奏曲 Op.74 (1914) 6分
I. Douloureux, déchirant - II. Très lent, contemplatif - III. Allegro drammatico - IV. Lent, vague, indécis - V. Fier, belliqueux

スクリャービンとラフマニノフ:今日の視点から――野々村 禎彦

アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)はモスクワ音楽院で作曲とピアノを学んだ。彼の音楽歴では、セルゲイ・ラフマニノフ(1973-1943) という作曲家=ピアニストが同期のライバルだったことの意味は大きい。ラフマニノフは十度を楽に掴める大きな手と異常に柔軟な指関節を持ち、この身体的なメリットを活かして楽曲の対位法構造を徹底的に抽出してモダニズムを体現した。この目的には伝統的な調性音楽の方が都合が良く、自作自演を前提にする限り、作曲家ラフマニノフは19世紀の語法を革新する必要はなかった。他方スクリャービンはたびたび右手を故障し、左手のための作品を試作したこともある。この経験はピアノソナタ第5番(1907) までの、伝統的だが異様に分厚いテクスチュアを生んだ一因にもなった。
彼の転機は、決して得意とは言えなかった管弦楽のための作曲にあたり、同時代の潮流にならって編み出した独自の無調書法とともに訪れた。《法悦の詩》(1908) と《プロメテ》(1910) は、R.シュトラウス《エレクトラ》(1906-08) やシベリウスの交響曲第4番(1910-11) と同時代に書かれたが、直観の産物ゆえにそれ以上先には進めなかった彼らとは違い、スクリャービンにはシンプルだが明確な方法論があった。長3度・完全4度・増4度を堆積した「神秘和音」で「無調」のトーンを作り、時間分節は持続音で行う。ダンパーペダルで持続音を作ると和音が混濁するピアノ独奏曲の場合は、アルペジオとトリルで代用する。この2曲以降に完成されたのは、総てこの書法によるピアノ独奏曲であり、その大半が今回網羅的に取り上げられる。

ラフマニノフはモスクワ音楽院修了時にピアノ・作曲両部門の金賞(=大金賞)を得たが、スクリャービンはピアノ部門の金賞のみに留まった。ラフマニノフはロシア革命に際して米国に亡命し、主にピアニストとして活動を続けて十分な数の録音を残した。スクリャービンは生来虚弱で、上唇の潰瘍から感染した敗血症のため早逝し、ピアノ演奏音源は残されていない。ラフマニノフのピアニズムの核心である対位法構造の表現は、ピアノロール録音や電気吹込以前のSP録音からも十分聴き取れるが、スクリャービンのピアニズムの核心は精妙なペダル操作から生み出される音色表現だったと伝えられており、練習嫌いだったことも相まって、たとえラフマニノフと同程度に長生きしていたとしても、その真髄を死後に聴くことは叶わなかっただろう。
伝記的事実の表面だけ眺めると、ラフマニノフの方が幸福な人生だったように見えるが、必ずしもそうではない。ラフマニノフとスクリャービンは共に多くの取り巻きに囲まれ、当人同士の関係は良好でも、取り巻き同士は激しく対立していた。ラフマニノフの取り巻きにはヴィルトゥオーゾとして熱狂する女性が多かったが、スクリャービンの取り巻きには神秘主義まで含めて崇拝する文字通りの「信者」が多く、彼もそのような支持を望んでいた。だが彼の支持者の中には、無調化以降の作風を高く評価しつつも問題点も指摘し、取り巻きのスノビズムには批判的だった音楽評論家レオニード・サバネーエフ(1881-1968) のような真の理解者もおり、回想録(1925, 2003再刊) を残している(森松皓子訳、音楽之友社, 2014)。スクリャービンの死を受けて、ラフマニノフは遺族のために連続演奏会を企画したが、スクリャービンの取り巻きは彼の解釈を厳しく批判し、ショックを受けた彼は1年以上作曲ができなかった(ただし気を取り直して書いたのが、ピアノ独奏曲の最高傑作《音の絵》第2集(1916))。米国亡命後はピアニストとしては成功したが、新古典主義全盛の音楽界の中で作曲家としての自信は衰えるばかりで、《鐘》(1913) や《徹夜祷》(1915) に匹敵する作品が書かれることはなかった。

スクリャービンは音楽史から隔絶された特異な存在だと長年見做されてきた。「無調」の本道は新ウィーン楽派が開発した組織的な12音技法を経てヨーロッパ戦後前衛の総音列技法に連なる道である、と前衛の時代までは信じられてきた。新ロマン主義の台頭とともにこの歴史観が相対化されても、そこで注目されたのは後期シベリウスのような「新たな調性」であり、「別ルートの無調」への関心の高まりは遅れた。彼のインスピレーションの源泉は神智学やニーチェの超人思想で、色彩と音響の共感覚などの神秘主義的な側面が強調されてきたことも要因のひとつだろう。彼の影響を狭く、神秘和音の使用に限定した場合には、その構成音は全音音階の構成音ひとつを半音ずらしたものなので、彼の影響は無視して「印象派風」と片付けられがちだった。
だが「無調的な構成音と持続音による分節」まで拡大すれば、その影響圏は一挙に広がる。ニコライ・ロスラヴェッツ(1881-1944)、アルトゥール・ルリエー(1892-1966)、イワン・ヴィシネグラツキー(1893-1979) らロシア・アヴァンギャルドの作曲家の多くはこの意味では彼の影響下にある。彼らは革命後もソ連に残り、ロスラヴェッツとルリエーは無調化を進めて一種の12音技法に到達した。ただし、和音の構成音を制限して12音を均等に扱う以上のものではなく、組織的な12音技法の核心である音列操作による素材の生成発展は組み込まれていない。ルリエーは1921年にドイツに亡命し、翌年からパリに定住すると新古典主義に転じた。ロスラヴェッツは社会主義リアリズムが公認美学になった1930年に公職を追われたが、20年代を通じてプロレタリア音楽運動側から批判され続け、20年代半ばには既にスクリャービンよりも穏当な作風まで後退していた。ヴィシネグラツキーは1920年にパリに亡命し、ハーバらとの交流を通じて四分音構成を組織化した独自の作曲技法を編み出し、スクリャービンの影響から離れて孤独な探求を終生続けた。

シェルシも12音技法と並行してスクリャービンの弟子から作曲法を学び、微分音オルガンを使い始めるまでのピアノの即興に基づいた作品群に至った。しかし、ヨーロッパ戦後前衛の音楽観が共有されるようになると、スクリャービンの音楽は過去のものになったかのように見えた。ラフマニノフの場合はさらに悲惨で、非専門家による一過性の人気だと切り捨てられた。この時代は、ふたりの音楽を共に得意とするホロヴィッツのようなヴィルトゥオーゾが一世を風靡した時代でもあるが、むしろ彼らの音楽がアクチュアリティを失い、差異が透明化された結果と見做せる。新ロマン主義の時代のラフマニノフ評価は、前衛の時代の批判をそのまま裏返した称賛に過ぎず、評価の枠組は変わらなかった。近年のニコライ・メトネル(1880-1951) やサムイル・フェインベルク(1890-1962) のような超絶技巧指向のロシアの作曲家=ピアニストへの注目も、同様の歴史的切断を経た神話化以上のものではない。
他方、21世紀に入ってからのラフマニノフ評価は、ピアニストとしての本質を踏まえた対位法の作曲家としての評価であり、普遍的な歴史化のプロセスと見做せる。新ロマン主義的な文脈でのスクリャービンへの注目は限定的だったが、即興音楽における「無調」表現の現実的処方箋として、広義のスクリャービン流「無調」は広がっていった。スクリャービン自身は作曲技法の論理性を強調して即興を否定していたが、サバネーエフが記録した作曲プロセスはむしろ即興的断片の再構成に近い。彼の音楽の本質は正しく継承されて、その影響は今日においてもまだ過去のものにはなっていない。