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12/29(日)ショパン:マズルカ公演

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大井浩明ピアノリサイタル Recital Fortepianowy Hiroaki Ooi
《花々に蔽われた大砲 ~ショパンのマズルカを巡って Armaty ukryte wśród kwiatów - Mazurki Chopina》
2019年12月29日(日)15時開演(14時45分開場)
松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
3000円(全自由席)
お問い合わせ 松山庵 banshiki2019@hotmail.com (要予約)
後援  一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)
チラシ 


○F.F.ショパン(1810-1849):5つのマズルカ Op.6 (1830)  8分
 4つのマズルカ Op.17 (1831/33)  12分
●C.ドビュッシー(1862-1918):マズルカ (1890) 3分
○F.F.ショパン:マズルカ Dbop.42A 「ガイヤール」 (1840) 3分
 3つのマズルカ Op.50 (1841/42) 10分
●A.スクリャービン(1871-1915):マズルカ Op.25-3 (1898) 2分
○F.F.ショパン:マズルカ風ロンド Op.5 (1826) 8分

(休憩15分)

○F.F.ショパン:3つのマズルカ Op.56 (1843) 13分
●L.ゴドフスキー(1870-1938):マズルカ(ショパンOp.25-5に基づく) (1904) 4分
○F.F.ショパン:3つのマズルカ Op.59 (1845) 10分
●K.シマノフスキ(1882-1937):2つのマズルカ Op.62 (1933/34) 6分
○F.F.ショパン:3つのマズルカ Op.63 (1846) 7分
 マズルカ Op.68-4 (1849) 4分
●T.アデス(1971- ):マズルカ(2009) 4分
○F.F.ショパン:マズルカ風ロンド Op.21-3 (1830、作曲者による独奏版) 8分

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ポーランド・アラベスク――山村雅治

きこえぬことばにおどるとき
しじまにうかぶ
ふかいうごきにあしをふむ
てがちゅうをまい
からだがことばをおどってる
ちちとははのことば
ふみしめる
つちのことば
まずるか
1,

 阪神淡路大震災で家も職場も潰されたあとは、旧・山村サロンも閉鎖を余儀なくされておよそ一年近く復旧のための金策ばかりに走っていた。自然災害に被災して生きのこれば、まず水。そして食糧、屋根がある寝床と続くのだが、それらが満たされると正気に戻る。何よりの必要なのは家と職場を元に戻すためのお金が必要だということだ。芦屋は戦中の写真そのままの大空襲に遭ったかのような瓦礫の街。それまで続いていた時間がとつぜん切れて、明日が訪れるかどうかも定かではなかった。未来は習慣通りには続かない。毎日がたたかいだった。

 翌年春には、それぞれに家がつぶれたスタッフも戻り旧・山村サロンを再開した。半壊だったラポルテ本館がようやく復旧工事がおわったときで、戻ってきた店舗のみなさんも明日があるかどうかはあるだろうことを信じるしかなかった。その後には復旧費を払えずに夜逃げした店があり、返さずに裁判沙汰になった店もあった。

 てんやわんやのそのときに、老婦人が旧・山村サロンを訪れた。震災前年に喪った母の小学生からの友人で、大きな紙袋をお持ちになった。「実家の母が娘時代に持っていたSPレコードで、私も娘時代に母から毎夕食後に聴かされていたものです」と告げられた。その後は何度にもわたって、それらの思い出深いSPレコードが詰めこまれた紙袋を届けられた。米国ビクターの最初期の「片面の赤盤」がたくさんあった。1920年代に録音され市販されたものだ。

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 それらのSPレコードはどの放送局にも大学にも受け取ってもらえなかった。亡母が彼女に「息子はクラシックのレコードをよく聴いてる」と話していたことを思い出して、それらの貴重な盤が手元に舞い込んできたのだ。彼女は実家は大阪にあった。ということは、あの苛烈をきわめた大阪大空襲に焼けのこり、住まいが芦屋になっってからの阪神淡路大震災にも割れ残ったという奇跡の結晶のような遺産なのだ。

 罹災証明が低利での融資を引き出した。それで一息ついたものの、旧・山村サロン再開の翌年に父を喪った。本厄の年に震災で前後して母と父を送ることになり、そのころは不運と失意が休む間もなく続いていた。困難が集中した時期に支えてくれていたものは、僕が夫であり父である家族であり旧・山村サロンのスタッフ、そして友人たちだったことはまちがいないが、もうひとつあった。老婦人がお持ちくださったSPレコードの音楽だった。

 オーディオも新しく組み立てなければならなかった。急ごしらえのレコード・プレーヤーSL1200で聴けばSPレコードは雑音が甚だしい。しかし、その奥にきこえるピアノの音色の、ピアニストたちが奏でる音楽のなんと美しいこと! 
 そのなかにはラフマニノフ、コルトーがあり、彼らよりさらに古いウクライナ生まれのパハマンとポーランド生まれのパデレフスキがいた。パハマンとパデレフスキの響きに論外の美しさが聞こえてきて、電気を通さない昔の手巻き式の蓄音機でぜひとも聴かなければ、と思った。


2.

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SPレコードが発明されて、音楽が刻まれた音盤が発売された1900年代初頭には、パデレフスキはピアノの帝王だった。イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860- 1941)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家。当時の偉大なピアニストであり、第1次大戦後に独立を果たしたポーランドの初代首相を務めた。
20世紀初頭に「パリのショパン」から「ポーランドのショパン」に奪還したのがパデレフスキだった。その時代にはショパンはフランス音楽だったし、ドイツ音楽を至上のものとする人たちからは歯牙にもかけられていなかった。

 ショパンの音楽に秘められていた天才が世界に広まったのは、パデレフスキとパハマンらが録音したSPレコードの功績が大きい。ドイツ・グラモフォンが1898年、イギリス・コロンビアが1897年、アメリカ・ビクターが1901年に設立されたころからの録音が鑑賞にたえる音源として残された。SPレコードは片面盤が最初期に売りだされた。片面には4分半ほどしか音を刻むことができない。メルバやカルーソーらの声楽とクライスラーやカザルスらの弦楽器の小品、そしてパデレフスキやパハマン、コルトーらのピアノ演奏の音盤はそれらの片面盤にショパンの作品をたくさん刻んだ。パデレフスキのは1920年代の録音から手元にある。

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 パデレフスキはポーランドの独立のために力を尽くした闘士でもあった。ポーランドは17世紀なかばからすでにロシア、オーストリア、プロイセンに分割統治されていた。1795年に独立を求めての戦いに敗れてワルシャワはプロイセン領になった。ところが1807年にフランス軍がプロイセン軍をしりぞけて、ナポレオンはワルシャワ公国をつくる。しかし1812年にフランス軍はロシア軍に粉砕される。ワルシャワもロシア軍が占領した。ウィーン会議が開かれたのは1815年。ワルシャワ公国が「ポーランド立憲王国」として再建されることが決まった。王はロシア皇帝アレクサンドル一世だった。ワルシャワの中心部の建物はロシア軍が駐留した。多くのポーランド人がフランスへ亡命した。

 このときすでにフリデリク・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin 1810-1849)は5歳。彼は1810年、ワルシャワから西に46kmはなれたジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにしてミコワイとなのった。彼は自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった。フランス語が堪能だったミコワイは貴族の家庭教師をするようになった。そのつながりでユスティナ・クシジャノフスカと出会った。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、家が没落して貴族の家で住み込みの侍女をしていた。ミコワイとユスティナは1806年に結ばれた。 
 ショパンは6歳でピアノを習いはじめた。そして一年半後には演奏会を開いている。はじめからピアノが弾けた。7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。ポロネーズはフランス語で「ポーランド風」の意味をもち、マズルカと並んでポーランド起源の舞曲である。4分の3拍子で、もとはポーランドの民族舞踊だった。幼いショパンにはからだに浸み込むほどに親しい音楽だった。
 
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 ポーランドはその後、独立運動の時代をむかえる。1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こった。青年に成長したショパンは「ピアノ協奏曲第2番」、「同第1番」を自ら初演し成功をおさめ、西ヨーロッパに活動の場を広げようとして到着したばかりのウィーンに滞在していたときだった。旅の仲間だった親友は蜂起に加わるために帰国したが、ショパンはウィーンにとどまった。蜂起はつぶされた。ショパンはウィーンに冷遇された。
 ポーランドは、最後の作品がマズルカだったショパンの没後にもくりかえし蜂起する。1856年の「一月蜂起」またしても敗れ、数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアに流刑になった。

 プロイセン王国内の旧ポーランド王国領では、1871年からはビスマルクにより、ポーランド人に対する抑圧政策が敷かれた。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあともドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年まで続けられた。1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。翌1919年1月、イグナツィ・パデレフスキ首相/外務相による内閣発足。1920年のポーランド・ソビエト戦争ではフランス軍の協力により勝利をおさめた。

 パデレフスキは1922年に政界を引退してカーネギーホールで復帰リサイタルを開いた。大成功をおさめてアメリカ・ビクター社と契約を結び、たくさんの音盤を世に出すことになった。そして1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割され、ポーランドは消滅することになる。この年の「ポーランド祖国防衛戦争」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年にはロンドンにおけるポーランド亡命政府「ポーランド国家評議会」の指導者になった。80歳のピアニストがポーランド回復基金を発足させ財源確保のために何度も演奏活動を行なった。この演奏旅行の中でパデレフスキは1941年6月29日の午後11時にニューヨーク市で客死した。
 彼こそがポーランドだ。ショパンこそがポーランドだったように。
 

3.

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 パデレフスキが没したとき、ポーランドはナチス・ドイツ、スロバキア、ソビエト連邦、リトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな反独闘争を展開した。ユダヤ人収容所で何が行われていたかは当時の誰もが知らなかった。ドイツ人さえも。苛烈をきわめた独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていく。1944年8月、レジスタンス・ポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起きた。それはパデレフスキの後をつぐ亡命政府の武装蜂起であったためにソ連軍が加勢せず約20万人が命を落として失敗に終わった。1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。

 1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。ナチス・ドイツの悪夢からは解放されたものの戦後はスターリンの圧政と、それを継ぐ後継者たちのソビエト連邦に圧しつぶされていくままになる。1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。レフ・ワレサが第三共和国初代大統領だった。1989年は雪崩を打ってヨーロッパの共産主義政権国家が崩壊した年だった。

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 ナチス・ドイツとソビエト連邦に圧しひしがれていた時代にもポーランドにはショパンがいた。パデレフスキはショパン生誕100年の1910年、彼の政治演説のはじめにショパンの天才をポーランドの象徴として語った。1918年に独立をかちえるとワジェンキ公園にショパン像を建て、ショパンが生まれたジェラゾヴァ・ヴォラに庭園モニュメントをつくった。そしてピアニストたちが競いあう「ショパン国際ピアノコンクール」と「フリデリク・ショパン研究所」(のちの「フリデリク・ショパン協会」)設立への動きを起こした。

 ショパンコンクールは1927年に第1回が開催された。8か国26名が参加した。優勝は19歳のレフ・オボーリン。20歳のドミトリー・ショスタコーヴィチが本選入選名誉ディプロマを得た。コンクールは5年ごとに開くということで第2回は1932年、第3回は1937年に開かれた。1939年から終戦の1945年にワルシャワは戦闘と空爆により焦土に瓦礫が散乱する街になった。その期間には第2次大戦の当事国は国際大会を断念せざるを得なかった。再開されたのは1949年の第4回。その後、第5回を1955年に開いて、以後は5年に一度の催しとして世界の若者が腕を競っている。


4.

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 ポーランドの人びとは長く続いた苦難の時間を生きてきた。ポーランドには多民族の人びとが暮らす。西スラブ人系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人、リトアニア人、ロシア人、ルーシ人・ルーシ族(ヴァリャーグ、ルシン人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、サルマタイ人、タタール人、ラトビア人、バルト人、スウェーデン人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ハンガリー人、ロマ人、アルメニア人、モンゴル系民族やトルコ系民族などの人びとが生きてきた。言語はポーランド語。文学はポーランド語だけではなくイディッシュ語で書かれたり英語で書かれたりした。ザメンホフが創造した人工言語のエスペラント語はワルシャワで発祥した。世界共通語をつくりたかったのだろう。

 文化は民族をひとつに結いあげる。民族の文化の表現が他民族にも訴えるものがあるとき、文化は国境をこえて世界の人のものになる。文学ではシェンキェヴィチが日本では戦前から知られていた。太宰治はシェンキェヴィチの長編小説『クオ・ヴァディス』をほめていた。だからそれを読んだ。おもしろかった。息をつかせずに一気に読んだ。人を楽しませる「おはなし」の書き手として太宰治ほどの作家はいない。『ろまん燈篭』がその面での白眉であり『斜陽』『人間失格』は別の文脈での大傑作だ。ポーランドには太宰治がほめたヘンリク・シェンキェヴィチ、『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモント、詩人のチェスワフ・ミウォシュと、そして同じく詩人でヴィスワヴァ・シンボルスカのノーベル文学賞受賞者がいる。そういえばスタニスワフ・レムもポーランド人だった。『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって映画化されたことで世界に知られている。ポーランド文学は英訳や独訳からではなく原語からの翻訳書がたくさん出てほしい。

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 地動説を唱えた天文学者コペルニクスや、物理学者のキュリー夫人、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はいずれも世界の誰もが知っているポーランド人だ。そしてフリデリク・ショパン。彼がいなければ日本ではポーランドの音楽は民謡「森へ行きましょう」と「ポーレチケ」にとどまっていたかもしれない。彼の前にはポーランド固有のリズムと旋律を書いて人々の心に訴える音楽を創造する作曲家はいなかった。だからこそショパンが12歳から師事した作曲の先生、エルスネル自身は古典音楽を目指していたが若いショパンの古典から自由にはばたく独創性を認めていた。1829年、音楽院の卒業試験に与えたエルスネエルの評価は「稀有な才能―音楽の天才」という言葉だった。

 エルスネルは若いショパンに将来は宗教曲や歌劇を書くことを求めていた。しかしショパンの才能はそうした大曲を書くことには向いていなかった。少年時代から病弱だったこともあるかもしれない。音楽を創造することができる時間のかぎりを直感していたかもしれない。ショパンはモーツァルトに似た神童とされたけれども、モーツァルトは生来の歌劇作家だったが、ショパンは生来の叙情詩人だった。劇の作家は他者を書くことが得意だ。シェイクスピアもモーツァルトもその作品に端役はなく、どんなに出番が少なくてもどの役も生きていた。ヴェルディも彼らの劇を継いだ天才だった。ヴァーグナーは知らない。あれは劇だろうか。ヴァーグナーの音楽は大好きだけれども。歌劇としては「主人公歌劇」はつまらない。ヴァーグナーは歌劇を模して自分自身を表現する偉大な音楽を書いた。歌劇を書くには魅力ある主人公を立たせるとともに、その周りの人間のすべてを生かさなければならない。ショパンがそうした仕事をするには健康も生きる時間も足りなかった。宗教曲にしても同じようなことが言える。生涯の多くの時間に咳きこみ喀血を繰り返したショパンは、一度ならず「深き淵より、主よ」と祈りを捧げたことがあったにちがいないと思うけれども。彼が切実に作品に生かしたいのはイエス・キリストではなく自分自身だった。

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 音楽が流れ、爆発する一瞬にショパンはすべてをかけた。少ない音符にきりつめられた短い時間に語りつくす音楽に彼の天才は輝く。1829年、ベートーヴェンの死後わずか2年の年にショパンは「ピアノ協奏曲第2番」作品21を書きはじめ翌1930年に初演した。同年夏には「ピアノ協奏曲第1番」作品11を仕上げて自宅で試演会をして10月にウィーンへ旅立つ前の告別演奏会で公開初演した。曲そのものは絶讃された。しかしピアノ演奏については「音が小さい」と難癖をつけられた。当時の聴衆にはショパンの音楽も演奏技術もそれまでに聴いたことがなかったものだったけれども、この批評には応えることができない。以後、ショパンは大きなホールでの演奏が苦手なものになり、サロンでの少人数の集まりで作品を聴いてもらうことに音楽家としての喜びを見出していくことになった。かつてウィーンで冷遇され、晩年にロンドンで無視されても、彼はパリへ戻った。サロンでの演奏では<つぶやき>や<ささやき>をピアノで歌うことが少ない聴衆の底にまで届いた。人間はほんとうのことを洩らすときにはそうした声になる。自分の内密を明かすときには、ことに。

 ジョルジュ・サンドとの出会いと喜びと失望と別れについては、ここでは触れない。書いていけば一冊の本になる分量になるだろう。彼女がいたからショパンの創作は豊かになった。作品はピアノ独奏曲がほとんどを占める。曲集といえるのはエチュード。プレリュード。バラード。スケルツォ。ワルツ。ノクターン。即興曲。ノクターン。そしてポロネーズとマズルカだ。ショパンの傑作はマズルカに多い。外に向けての飾りつけは作品を表に出すときには、芸術家は誰もそれをすることはわかりきったことだが、マズルカには飾りを排した曲がある。裸のショパン。ポーランドについて語るつもりだった。しかし、それはショパンを語ることにほかならなかった。


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Edward Okuń (1872–1945) ; "Chopin Mazurka" (1911), oil on canvas.


by ooi_piano | 2019-12-21 17:30 | POC2019 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


by ooi_piano