
大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
【ポック(POC)#45】 「シマノフスキの讖緯」
2020年1月18日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
■カロル・シマノフスキ(1882-1937):《メトープ(浮彫) Op.29》(1915) 15分
I. セイレーンの島 - II. カリュプソー - III.ナウシカアー
●李聖賢(1995- ):《夜の集(すだ)き》(2019、委嘱初演) 7分
I. 星舞 - II. 氖灯グルーヴ - III. 儚雲
■シマノフスキ:《仮面劇 Op.34》(1916) 20分
I. シェヘラザード - II. 道化師タントリス - III. ドンファンのセレナーデ
(休憩10分)
●若尾裕(1948- ):《さりながら雪》(2019、委嘱初演) 12分
■シマノフスキ:《ピアノソナタ第3番 Op.36》(1917) 20分
(休憩10分)
■シマノフスキ:《20のマズルカ集 Op.50》(1924/25) 50分
第1巻 [1. Sostenuto, Molto rubato - 2. Allegramente, Poco vivace - 3.Moderato - 4. Allegramente, risoluto]
第2巻 [5. Moderato - 6. Vivace - 7. Poco vivace - 8. Moderato (non troppo)]
第3巻 [9. Tempo moderato - 10. Allegramente, Vivace, Con brio - 11. Allegretto - 12. Allegro moderato]
第4巻 [13. Moderato - 14. Animato - 15. Allegretto dolce - 16. Allegramente, Vigoroso]
第5巻 [17. Moderato - 18. Vivace, Agitato - 19. Poco vivace, Animato e grazioso - 20. Allegramente, Con brio]
■《2つのマズルカ Op.62》(1933/34) 6分
I. Allegretto grazioso - II. Moderato

若尾裕:《さりながら雪》(2019)
ずっとある曲が気にかかっていた。いつかその曲に一筆返礼したいと思っていた。ちらつく雪の下、なんでも消えてゆく。音も、そして記憶も。(若尾裕)
若尾裕 Yu Wakao, composer

東京生まれ、京都在住。東京藝大大学院音楽研究科作曲専攻修了。広島大学教育学部教授、神戸大学大学院発達科学研究科教授を経て、現在、神戸大学名誉特任教授および広島大学名誉教授。作曲から始まり、音楽教育、音楽療法、即興演奏などのフィールドをめぐって現在に至る。いま取り組んでいることは現在の時代に、誰もが参加できて持続可能な音楽を取りもどす試み。最近の活動に、部屋を訪れた誰もと即興演奏を三日間続ける『即興の部屋』(京都芸術センター)、誰でも参加できる一日続く『ドローンの部屋』(ソーシャルキッチン)など。著書に、『サステナブル・ミュージック』(アルテスパブリッシング)、『親のための新しい音楽の教科書』など。
李聖賢:《夜の集き I》(2019)
このところ続けている「夜」に因むシリーズの4作目にあたる。私が生まれ育った首爾の街の個人的な体験、記憶、そして夜型の私の生活を反映している。新たな現代音楽の作曲法や素材の探求よりむしろ、賑やかで煌びやかな首爾に響く音楽の多様な可能性に拠って、率直で肩肘張らずに作曲した。(李聖賢)
李聖賢(イ・ソンヒョン) Sunghyun Lee, composer

1995年ソウル生まれ。2009年~2017年、ソウル市響「アルス・ノヴァ」講習会にて陳銀淑(チン・ウンスク)に師事。ソウル大学音楽学部で崔宇晸(チェ・ウジョン)に師事。ジュネーヴ国際コンクール第3位(3つの特別賞、2015)、音楽ジャーナルコンクール第1位(主催/音楽ジャーナル社)、韓国音楽協会コンクール第2位(1位なし)(主催/韓国音楽協会)、中央音楽コンクール第1位(主催/中央日報)、2016年韓国音楽賞新人賞(主催/韓国音楽協会)。作品は、フリクション四重奏団(サンフランシスコ、2013)、ヴォーチェ四重奏団(パリ、2015)、シャルフェルト・アンサンブル(グラーツ、2017)、ミザン・アンサンブル(ニューヨーク、2018)等によって演奏されている。

ヨーロッパの中心から少し離れて:シマノフスキの場合――野々村 禎彦

カロル・シマノフスキ(1882-1937) は、今日ではウクライナに属する地域のポーランドの貴族の家庭で生まれ育った。親戚のネイガウス家の音楽学校で学び始めた(師事したグスタフ・ネイガウスは、リヒテル、ギレリス、ヴェデルニコフらの師として名高いゲンリフ・ネイガウスの父)こともあり、スクリャービンの音楽は初期からよく知っていた。ワルシャワ音楽院に進んだ彼は、ルービンシュタイン、コハィンスキらと音楽家集団「若きポーランド」を結成するが、当時の彼はワーグナーやR.シュトラウスを好み、初期代表作の交響曲第2番(1909-10) やピアノソナタ第2番(1910-11) はまさにそのような音楽である。ただし当時のワルシャワはさらに保守的で、この時点で彼らは十分「改革派」だった。1914年、南欧や北アフリカを旅行してオリエントやアラブの音楽を知った時、彼に転機が訪れた。異国の音組織と無調化以降のスクリャービンの音組織の類似性は、後期ロマン派を超える音楽を模索していた彼に啓示を与えた。一度音楽の見方が変われば、自ずと関心はドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーらの音楽にも広がってゆく。
折しも第一次世界大戦が始まり、旅行や演奏の機会が減ったことで、古代ギリシャ、ビザンチン、イスラームなどの音楽や文化を深く研究する時間が生まれ、独自の音楽が育まれてゆく。ピアノ独奏のための《メトープ》(1915) や《仮面劇》(1916)、ヴァイオリンとピアノのための《神話》(1915)、交響曲第3番(1914-16)、ヴァイオリン協奏曲第1番(1916)、ピアノソナタ第3番(1917)、弦楽四重奏曲第1番(1917) などの作品群で、彼は一挙にヨーロッパ作曲界の最前線に立った。これらの作品は母国では理解されなかったが、大半は自身のピアノと盟友コハィンスキのヴァイオリンのために書かれており、演奏解釈を通じて音楽をさらに深めてゆくことができた。なかでも《神話》は、バルトークの最も尖鋭的な作品であるヴァイオリンソナタ第1番(1921) に直接的な影響を与えており、《メトープ》《仮面劇》とともにシマノフスキの「3M」として知られている。

「3M」の特異性は、スクリャービンの後期無調作品と比べても音楽からディスコースが抜け落ちている点にある。しかもそれは無時間的な静謐さの結果ではなく、音楽は運動性とエネルギーに満ちている。この時期の彼の音楽性は純粋に内面から湧き上がってきたものではなく、さまざまな外的刺激の結果ではあるが、だからこそ遠くまで行けたことも確かだ。また、ヴァイオリン協奏曲第1番と交響曲第3番は20世紀前半を代表するレパートリーとして確立され、晩年のブーレーズもテツラフ&ウィーンフィルと録音を残している。「3M」ほど徹底した革新性はなく、後期ロマン派風の書法とのパッチワークになっているが、モダニズム本流の組織的なアプローチからは生まれ得ない佇まいには独特の魅力がある。同時代を見渡しても、この時期における管弦楽曲の成果はほぼバレエ音楽に限られており(もちろん、バレエ・リュスの貢献が大きい)、その意味でもこれらの作品の歴史的価値は高い。
この充実期は、ロシア革命に際してボリシェヴィキの一団に自宅を襲撃され、略奪と破壊を受けた事件で終わる。彼は強いショックを受けて音楽活動を中断し、小説『エフェボス』執筆に専念して同性愛指向と向き合った。第一次世界大戦が終結するとドイツとロシアに分割されていたポーランドは独立を回復し、彼もワルシャワに居を構えて音楽活動を再開する。しばらくは「若きポーランド」の盟友との海外での活動が中心だったが、ストラヴィンスキー《結婚》に衝撃を受けて民俗音楽に目覚め、1922年からポーランド南端ザコパネに生活の拠点を移し、近代西洋音楽に毒されていない同地の音楽を収集した。彼の民謡収集活動は、バルトークとコダーイのような学問的なものでも、ヤナーチェクのような出版や演奏旅行まで視野に入れた総合的なものでもなかったが、ダンスも含めて「音楽」と捉え、演奏の邪魔にならない物陰で静かに採譜する、エキゾティシズムに留まらない真摯なものだった。

戦間期の作風を受け継ぐオペラ《ロジェ王》(1918-24) を完成させた後、民謡収集の成果は《20のマズルカ》(1924-25)、《スターバト・マーテル》(1925-26)、弦楽四重奏曲第2番(1927) で生かされた。従来の(特に共産党政権下ポーランドでの)見方では、この時期が彼の絶頂期と見做されていた。ボリシェヴィキの襲撃で創作力のピークが絶ち切られたというのも、民謡収集の成果は限定的だったというのも、政治的には大変都合が悪い。だが実際、この時期の最後を飾る弦楽四重奏曲第2番は、フィラデルフィア音楽財団の弦楽四重奏曲コンクールでバルトーク第3番に敗れ(これは相手が悪すぎたが、カゼッラ《セレナータ》にも後塵を拝して入賞を逃した)、この時期の彼の方向性はもはや同時代にも作曲界の最前線とは見做されていなかった。
ヤナーチェクやバルトークはキャリアの早い時期から民謡収集を始めて自作にも転用したが、音楽的成果が得られるようになったのは原曲の痕跡を残さずにエッセンスのみ抽出できるまで内面化した時だった。シマノフスキは、まだその段階には達していなかった。さらに作曲を続けていれば新たな展開が訪れたかもしれないが、彼は1927年にワルシャワ音楽院院長を引き受け、カリキュラムの改革に乗り出す。だが保守的な教授陣の抵抗は根強く、思わしい成果は得られない中で作曲の時間だけが失われていった。そもそもザコパネに居を移したのは温和な気候が持病の結核に良いためで、ワルシャワの寒さは彼の身体を蝕み、1929年には院長を辞して治療に専念した。だが翌年、音楽院が大学扱いに昇格すると改革派に乞われて院長職に復帰し、今度は実務は改革派に任せてザコパネで改革案を練った。しかし保守派の抵抗は依然根強く、健康も悪化したため1931年に再び院長を辞した。

ようやく作曲の時間を得た彼は交響曲第4番 (1932) とヴァイオリン協奏曲第2番(1932-33) を相次いで書き上げた。交響曲第4番は実質的にピアノ協奏曲であり、自らソリストを務めて生活の足しにすることも意図していた。だが、加齢と健康の衰えで演奏活動は思うように進まず、4年間ほぼ作曲から遠ざかっていた間に霊感もさらに衰え、《2つのマズルカ》(1933-34) が最後の作品になった。生活も困窮し1936年にはザコパネの邸宅を売却したが、病状が改善することはなく翌年に世を去った。ショパンの革新性を指摘するなど音楽評論家としても活躍した彼の代表作になるはずだった小説『エフェボス』の原稿も、1939年のワルシャワ大火で失われた。30歳台半ばで時代の先端に立った後は不運が続き、人生における大きな決断はことごとく裏目に出た。例えば、ワルシャワ音楽院院長に最初に着任した年には、気候の温暖なカイロ音楽院からもはるかに有利な条件で院長職の打診を受けていた。
戦後のポーランドでは、ソ連圏には例外的に前衛音楽が公的に称揚された。様式の中心は初期クセナキスを参照した音群音楽だが、セリー技法も抑圧されていたわけではなく、ヨーロッパ戦後前衛の主流に後から追随しても不毛だという判断の結果と思われる。その後の「ポーランド楽派」の歩みを眺めると、伝統的な様式感の採用に始まり、三和音を混ぜ始め、全面的な伝統回帰に至った作曲家が大半で、むしろこの方向転換では戦後前衛第一世代の中心的作曲家たちよりも先行していた(出発が遅れた代わりに最初の曲がり角が伝統回帰になった)。その中でタデウシュ・バイルト(1928-81) はシマノフスキに傾倒したが、直接的な影響は前衛語法採用以前と伝統回帰以後に限られ、「戦後前衛の先駆者」としてリスペクトしていたわけではない。

シマノフスキの音楽がポーランド国外でも注目を集めるのは1990年代以後だが、スペクトル楽派第二世代以降が調性化した結果、彼の音楽を思わせるテクスチュアに至ったというコンテクストにすぎない。彼らの仕事の中でも特に退嬰的なオペラが生気のない《ロジェ王》のように響いたとしても、彼の名誉にはならない。ただしシマノフスキも、自らの美質を十分には把握していなかったようにも思える。ボナールの絵画のようにその先駆性は断片的で、後世の歴史を知る者にしか見えない。貴族という特権的な身分ゆえに同時代のモダニズムを把握していたことが、かえって彼を惑わせたのかもしれない。地方都市の一庶民として民謡研究に専念し、モダニズムからは隔離されていたヤナーチェクが、音楽的孤立の中で達した境地とは対照的である。


Edward Okuń (1872–1945) : "Widok z okna" (1905)