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2/15(土)ジョリヴェ主要ピアノ曲+ヴァレーズ「アルカナ」独奏版+門脇治/前田克治新作

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大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp



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【ポック(POC)#46】「ジョリヴェの蚕蝕」
2020年2月15日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)

●アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974):《マナ(咒)》(1935) 12分
  I. ボジョレーの木偶 - II. 鳥 - III. バリ島の王女 - IV. 藁の山羊 - V. 牛 - VI. 椰子の天馬
■門脇治(1964- ):《前奏曲》(2020、委嘱初演) 7分
●ジョリヴェ:《五式舞》(1939) 22分
  I. 緒舞 - II. 雄将舞 - III. 花燭舞 - IV. 劫掠舞 - V. 殯舞

 (休憩10分)

■前田克治(1970- ) :《クロマティック・スペース》(2020、委嘱初演) 8分
●ジョリヴェ:《ピアノソナタ第1番「ベラ・バルトークを偲んで」》(1945) 20分
 I. Allegro - II. Molto lento - III. Largo / Allegro ritmico

  (休憩10分)

●ジョリヴェ:《ピアノソナタ第2番》(1957)  20分
 I. Allegro molto - II. Largo - III. Finale
■エドガー・ヴァレーズ(1883-1965):《アルカナ(潅頂)》(1927/2018、米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演) 19分

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門脇治:《前奏曲》(2020)
 縁のあるピアニスト一人一人のために前奏曲集を編みたいと考えています。この作品は大井浩明氏に対してのものです。トータルセリエルやミュージックコンクレートの概念に私なりの音群を当てはめたものとなっています。(門脇治)

門脇治 Osamu KADOWAKI, composer
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 1964年、宮城県塩竃市に生まれる。宮城教育大学および同大学院で、作曲を故本間雅夫、吉川和夫の両氏に師事。平成10年度宮城県芸術選奨新人賞、平成15年度文化庁舞台芸術創作奨励賞入選。国内外で作品を発売している。日本作曲家協議会、日本現代音楽協会、日本電子音楽協会、宮城県芸術協会各会員。


前田克治:《クロマティック・スペース》(2020)
 タイトルは、この作品で用いられている半音階的(クロマティック)な音の連なりと、「色彩空間」という意味合いを掛け合わせてイメージした。数年来書き続けている私の他のピアノ作品と同様、音の身振りは極めて緩やか且つ限定的であり、推進力を持たない。むしろ、様々な強度や質感を伴うアタック、特殊なペダル用法を交えながら、瞬間々々に立ち現れる倍音や、響きの折り重なり、滲みによる色彩のヴァリエーションを探究することこそが、主眼となっている。音の余白に、浮かんでは消える仄かな感情を映し出すことを祈って。(前田克治)

前田克治  Katsuji MAEDA, composer
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 兵庫県神戸市生まれ。大阪音楽大学、同大学院修士課程において作曲を近藤圭に師事。大阪音楽大学、同志社女子大学、大阪成蹊短期大学等勤務を経て2007年秋、南国高知に赴く。これまでに、武満徹作曲賞第1位(東京オペラシティ)、A.ツェムリンスキー作曲賞第1位(米)、クラングフォーラム・ウィーン国際作曲コンペティション入選(墺)、他、受賞多数。最近は、「時之會」公演(京都、滋賀)におけるオーケストラ作品発表、「高知バリー・ウェッブMusic Project 2016」(東日本大震災5周年追悼公演含む)等企画運営、全国豊かな海作り大会記念式典、全国アマチュアオーケストラフェスティバル等における作編曲担当等、多岐にわたって活動している。現在、高知大学教育学部教授。





近現代フランスのエキゾティシズムについて(一応ジョリヴェもそこにいる)―――野々村 禎彦

 フランス近代音楽の祖ドビュッシーが「ジャワのガムランの精妙な対位法と比べたら、パレストリーナなど児戯に等しい」と述べるような近代人だったのだから、理知の国フランスはエキゾティシズムを超克していたはず、などと思い込んだら大違い。フランス近代音楽はエキゾティシズムの花園だった。ただし、第一次世界大戦を機に(民族対立などで国家として安定しないように仕組んだ上で)植民地を独立させ、経済的に支配する方針に切り換えた英国とは対照的に、第二次世界大戦を経てもなお植民地支配に拘り、ベトナムやアルジェリアの血塗られた独立戦争を招いた国だから、と決めつけるのも早計だ。ドイツに留学した韓国の作曲家は、陳銀淑(1961-) の世代に至ってようやく民俗音楽素材による作曲への圧力を跳ね除けたように、ヨーロッパ作曲界のエキゾティシズム志向は根深い。フランスが目立つのはアカデミズムが特に強固で、エキゾティシズムはカウンターとして有効だったからだろう。

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 ドビュッシーの音楽に深く影響され、フランス作曲界の保守性に絶望して自由の国米国に渡った(しかしそこにあるのは飢える自由だけで、アカデミズムはさらに保守的だった)エドガー・ヴァレーズ(1883-1965) も例外ではない。米国のエキゾティシズムの対象は東洋ではなくネイティヴ・アメリカンや中南米であり、民族楽器による音楽が模倣された。だがヴァレーズの場合は、神話的イメージと電子音響への夢想が結びついた。後年サン・ラーが具体化したヴィジョンを、彼は半世紀前に先取りしていた。それを呪術的合唱とテルミンという直接的な形でまとめたのが代表作《エクアトリアル》(1933-34) だが、伝統的なオーケストラ(ただし打楽器パートは大幅に増強)に想いを託したのが、彼のもうひとつの代表作《アルカナ》(1925-27) である。

 彼の歩みをもう少し詳しく眺めると、パリ音楽院に編入したものの数ヶ月で退学し、ベルリンに移ってブゾーニ、R.シュトラウスらと知り合うが音楽的成功には至らず、第一次世界大戦を避けて米国に渡った。当初は指揮者として演奏会企画や新団体設立を試みるが評価は得られず、巨大な打楽器パートを持つ《アメリカ》(1918-21/27) を演奏のあてもなく書き上げた年に、「国際作曲家ギルド」創設という賭けに出る。アメリカ大陸の作品の世界初演と、ヨーロッパの新作の米国初演を主目的とする団体であり、ラッグルス、シェーンベルクストラヴィンスキー、カゼッラらの作品を数多く取り上げた。彼の《捧げ物》(1921) から《アンテグラル》(1924) までの4作品もこの団体の演奏会のために書かれている。彼の作品は毎回酷評の嵐だったが、ストコフスキーが指揮を担当するようになって観客動員は安定し、《アメリカ》と《アルカナ》もストコフスキー/フィラデルフィア管によって初演された。渡米時の目標を果たした彼は「国際作曲家ギルド」の活動にも終止符を打ち、米国市民権を取得するとパリに戻って次のステップに踏み出す。

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 ヴァレーズが去った後のフランスで、アカデミズムに対抗したのは新古典主義だった。三大バレエから《ブリバウトキ》や《狐》を経て《結婚》まで、ロシアの民俗音楽からイマジネーションを得ていたストラヴィンスキーも、過渡的な《兵士の物語》を最後に、イマジネーションの対象を歴史的音楽(と今日の音楽の隙間にあるもの)に移した。その後を追ったフランス六人組の作曲家たちも、導師と仰いだサティのエキゾティシズムへの無関心にも倣って距離を取った。例外と言えるのは、初期ストラヴィンスキーに触発された《黒ん坊の子供》で作曲家デビューし、合唱曲やオペラに向かう以前の代表作である《2台ピアノのための協奏曲》でガムランを直接的に模倣したプーランク程度だが、後にエコール・ノルマル音楽院やパリ音楽院で作曲を教えることになるオネゲルやミヨーとは違い、プーランクは終生アカデミズムとは無縁だったことの反映とも言える。

 アカデミズムの一員になっていった六人組に反旗を翻したのがオリヴィエ・メシアン(1908-92) だった。パリ音楽院修了後、聖トリニテ教会のオルガニストを務めながら音楽院でも教鞭を執った彼はエリートにも見えるが、音楽院の中では傍系で和声や分析を担当し、正規に作曲を教えたのは1966年以降である。音楽院唯一の進歩派のもとに意欲的な学生が集まり、課外授業で新しい音楽を教えていたにすぎない。もっともそのような場だからこそ、音楽院では別宮貞雄に及ばなかった「凡才」シュトックハウゼンや、エコール・ノルマル音楽院でオネゲルに「全く才能がない」と門前払いされた劣等生クセナキスが音楽院の秀才たちと同じ場で学び、自らの真の才能に目覚めて20世紀を代表する作曲家へと成長してゆくことができたわけだが。

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 メシアンはインドの伝統音楽に魅了され、1940年代までの代表作の多くには、あらゆる音楽要素に強い影響が見られる。ただし彼はエキゾティシズムに留まることなく、その背後にある高度な数理秩序にも気付いて「逆行不能なリズム」「移高の制限された旋法」といった形に抽象化して抽出し、独自語法として確立した。この抽象化路線をさらに進めた作品が、複数の音楽要素をセリーで管理した、彼の創作歴では例外的な〈音価と強度のモード〉(1949) である。ブーレーズが《構造I》(1951) で全面的セリー技法に舵を切る契機を作ったのはこの曲であり(《構造I》のセリーはこの曲から借用したもの)、またシュトックハウゼンもこの曲に惹かれてダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加し、全面的セリー技法を知って自らの進むべき道を見出した。

 時計の針を巻き戻すと、そのような志向を持つメシアンはアカデミズムの片隅に地歩を得ると作曲家集団「若きフランス」を結成した。かつてシマノフスキらが音楽改革派集団「若きポーランド」を結成したのと同じスタンスだが、彼は在野の作曲家アンドレ・ジョリヴェ(1905-74) に白羽の矢を立てた。六人組がプーランクを仲間に加えたように、改革派を標榜するのであれば「在野の天才」は欠かせない。「若きフランス」結成当時のメシアンは、抽象化したインド音楽は既に作曲に応用していたが、六人組の美学への明確なカウンターになる無調書法はまだ見出していなかった。ヴァレーズが《アルカナ》を書き上げてパリに戻り、《イオニザシオン》(1929-31) に取り組んだ絶頂期に師事してその音楽美学と独自のセリー書法を学び、エキゾティシズムの先に広がる豊かな鉱脈への洞察も受け継いでいたジョリヴェこそが、進むべき方向を模索していたメシアンの指標となる先輩だった。

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 ピアノ独奏のための《マナ》(1935)、フルート独奏のための《5つの呪文》(1936)、管弦楽のための《呪術的舞踏》(1936) など、ジョリヴェの初期作品に溢れていた生気は徐々にメシアンに吸い取られてしまったように見えるが、それは「収奪」や「搾取」という言葉でまとめられるものではなく、時代背景に依るところが大きい。ジョリヴェは《兵士の3つの嘆き》(1940) で調性回帰し、以後の作品では無調的素材は新奇な効果という扱いに留まっているが、第二次世界大戦が始まってフランスがナチスドイツに占領されたことが、この変化の背景にある。日本でも二度の震災に際し、それまでは「前衛」を標榜していた音楽家が「民衆に寄り添った」音楽様式に乗り換えた例は枚挙に遑がない。「若きフランス」はメシアンが徴兵された時点で活動を停止し、翌1940年にはヴィシー傀儡政権下で文化再生を担った政治組織に名前だけ受け継がれた(そちらの音楽家の中核はシェフェール、コルトーら)。

 メシアンも同じ時代背景を共有しているが、彼の体験は全く異なっていた。彼は1940年にドイツ軍の捕虜になり、ポーランド国境ゲルリッツの収容所で《時の終わりのための四重奏曲》を作曲した。ドイツは捕虜収容所でも芸術家を優遇し、メシアンは作曲中は労役を免除され、完成後は翌年1月の初演に向けて毎日十分なリハーサル時間が与えられた。収容所で知り合った4人による、数百人の捕虜を前にした演奏を「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」とメシアンは回想している。彼はこの翌月に釈放されて教職に復帰したが、それまでの人生で最も挑戦的な作品が、最も真摯に受け止められた体験は作曲家の意識を変え、2台ピアノのための《アーメンの幻影》(1943)、ピアノ独奏のための《幼子イエスに注ぐ20の眼差し》(1944)、ソプラノとピアノのための《ハラウィ》(1945) と、終生の代表作が一気呵成に生み出されてゆく。

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 メシアンは決して小編成が得意な作曲家というわけではないが、第二次世界大戦中の代表作が軒並みそういう編成なのは、それが戦時中ということだ。管弦楽は余裕がある時代の文化である。ジョリヴェはピアノソナタ第1番(1945) で前衛の看板は下ろして伝統書法で生きると割り切り、同年から1959年までコメディ・フランセーズの音楽監督を務めた。一般的業務に加えて毎年新作の音楽を担当し、それと並行してオンドマルトノ協奏曲(1947) に始まる、エキゾティシズムで大衆にアピールする協奏曲を量産してゆく。《赤道協奏曲》として知られるピアノ協奏曲(1949/50) は良くも悪くもその意味の代表作になった。伝統的クラシックレパートリーにおけるグリーグのピアノ協奏曲に相当する位置付けで、今日でも演奏機会は多い。メシアンも戦後の祝祭的な世相に乗って、最初の数年は《トゥーランガリーラ交響曲》(1946-48) の作曲に専念した。「交響曲」とは名ばかりのピアノとオンドマルトノの二重協奏曲であり、性格の振れ幅が大きい小品を集めた組曲形式は戦中の代表作群を踏襲し、演奏水準が追いつくにつれて20世紀屈指の人気曲になった。

 メシアンの創作歴中では、この曲は《ハラウィ》・混声合唱のための《5つのルシャン》(1948) と並ぶ「トリスタンとイゾルデ」三部作の中心という位置付けになるが、《時の終わりのための四重奏曲》の内省が耽美に入れ替わった音楽でもあり、「売春宿の音楽」というブーレーズの辛辣な批判は本質を衝いている。その点は彼も自覚しており、〈音価と強度のモード〉を含む《4つのリズムの練習曲》(1949) では、一転して抽象化路線に向かった。戦中の代表作はいずれもキリスト教的テーマに基づいているが、その要素もすっぱり切り捨てた。この路線は《オルガンのための書》(1951) にも受け継がれ、ミュジック・コンクレート《音色-持続》(1952) も試作している(後に撤回)。ブーレーズはミュジック・コンクレートのセンスが欠けていることを技法として不純で不完全なためだと自己正当化したが、メシアンは自らの音楽性が戦後前衛と相容れないためではないか、とより深刻に捉えた。

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 そこでメシアンは鳥の歌に活路を求めた。鳥の歌はクラシックでもよく使われてきた素材で、彼も戦前から多くの作品で用いていたが、記憶やイメージでエキゾティックに譜面化するのではなく、まず録音して精緻に採譜する「科学的」方法論(ミュジック・コンクレートへのリベンジ?)を通じてセリーに代わる基本素材を得ようとした。《鳥たちの目覚め》(1952-53)、《異国の鳥たち》(1955-56)、ピアノ独奏曲《鳥のカタログ》(1956-58)、《クロノクロミー》(1959-60) と続く作品群は、過去からも未来からも隔絶した現代音楽史の暗黒大陸だが、ブーレーズはこれらに《6つの俳諧》(1962) を加えた一群の曲集に限って頻繁に取り上げており、モダニズムに立脚した「ひとり戦後前衛」だとは見做されている。

 《エクアトリアル》以降のヴァレーズの創作歴を眺めると、編成ゆえに演奏機会に恵まれたフルート独奏曲《密度21.5》(1936) と《空間のための練習曲》(1947) の間に長いブランクがあるが、この時期は筆を折っていたわけではなく、《空間》という作品の構想を練っていた。タイトル通り、音楽の空間性を電気的手段で実現するコンセプトである。そもそも彼が米国市民権取得直後にフランスに戻ったのも、《エクアトリアル》作曲中に再び米国に渡ったのも、電子音楽研究のスポンサーを探すためだった。《練習曲》は、この構想を諦めて生音用の素材だけを形にしたものだった。だが、この直後にシェフェール《5つのノイズの練習曲》(1948) が発表された。ヴァレーズの長年の夢がミュジック・コンクレートという形で実現したのである。シェフェールの考え方では、楽音を素材に使うことはあっても、生音とミュジック・コンクレートを組み合わせることはあり得ない。だが、ヴァレーズにはそのような拘りはなく、4部分の管弦楽パートの間にミュジック・コンクレートのパートを挟んだ《沙漠》(1950-54) の構成に到達した。

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 《沙漠》を彼の代表作と比べると音は薄く隙間が多いが、これは当初は音楽と映像を融合したマルチメディア作品として構想されたためだろう。ビル・ヴィオラが彼のメモに基づいて制作した映像作品(1994) との同時上演では、適切なバランスが実現されていた。シェルヘン/フランス国立放送管による初演は録音が残されており、ブーイングが拍手を圧倒する結果に終わったが、チャイコフスキー《悲愴》が目玉の放送収録用公開演奏会では致し方ない。彼はテープパートに満足できず、その後何度も改訂した(-1961) が、最終的には管弦楽のみの演奏も認めている。ル・コルビュジェ監修クセナキス設計のブリュッセル万博フィリップス館の音楽として委嘱されたミュジック・コンクレート《ポエム・エレクトロニク》(1958) がリベンジ作になったが、これは彼が完成した最後の曲でもある。エキゾティシズムと科学主義の絶妙なバランスから生まれたふたつの代表作と比べると、その後の作品では科学主義に寄り過ぎたのではないか。戦後前衛を先取りした後期ヴァレーズの選択は、必ずしも豊かな稔りには結びつかなかった。

 戦後前衛が最初の曲がり角を過ぎると、メシアンも抽象化路線から撤退した。《天国の都市の色彩》(1963) の書法はまだ従来の路線の延長線上にあるがキリスト教的テーマは復活し、《われ死者の復活を待ち望む》(1964) で書法もテーマも《時の終わり》と《交響曲》の中間地点に戻った。それ以降のオラトリオ《わが主イエス・キリストの変容》(1965-69)・《峡谷から星たちへ…》(1970-74)・オペラ《アッシジの聖フランチェスコ》(1975-83) でもこの路線は続き、作曲期間に見合った規模に演奏時間も拡大し続けた。《わが主…》以降の演奏には、もはやブーレーズは関わっていない。ジョリヴェの大衆化路線は終生変わらなかったが、ピアノソナタ第2番(1957) に聴かれるような一定の質は保ち続けた。メシアンも抽象化路線から撤退すると時代の第一線を降りて、エキゾティシズムが時代の最先端を導いた(鳥の歌路線もエキゾティシズムに含めるとして)流れは潰えたかに見えた。

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 だが、もうひとり重要な作曲家が残っている。モーリス・オアナ(1913-92) である。彼はモロッコでアンダルシア人の両親のもとに生まれた。音楽をまず仏領バスクのバイヨンヌ音楽院で学び、ピアノの才能を見出された。しかし父の希望で1932年にパリで受験準備を始め、1934年に高等師範学校に合格し建築を学び始めた。もちろんその陰でピアノも学び続け、1936年には高等師範学校を退学してピアニストとして活動を始めた。スカルラッティからフランス・スペイン近代まで広がるレパートリーを武器に活動は順調だったが、父が英領ジブラルタル生まれのため英国籍を持ち、第二次世界大戦が始まると英国軍に召集された。複雑な生い立ちのために語学が堪能なことを買われて情報部に配属され、ジブラルタルやケニアでの諜報活動を経て北アフリカ戦線に投入された。やがてイタリアに移った戦線にも同行し、ローマが解放されると同地での諜報活動を命じられた。戦闘の合間にはピアニストとして慰問に駆り出されていた彼は、この機会にアルフレード・カゼッラ(1883-1947) にピアノと作曲を学んだ。ふたりは友人となり、彼は追悼文も書いている。

 1946年に除隊されてパリに戻った時、戦争に翻弄された彼は前後の世代よりも大幅にスタートラインが遅れていたが、幼時からフラメンコ音楽に深く接し、モロッコやケニアで原住民から民俗音楽を学んだ経験を生かすべく、活動の中心を作曲に移して作曲家集団「黄道帯グループ」を立ち上げた。楽壇の教条主義に民俗音楽の力で対抗するというコンセプトだが、結成時点ではアカデミズム全般を指していた「教条主義」の対象は、戦後前衛の発展とともにセリー音楽に移ってゆく。新音楽への志向でも意気投合した師カゼッラと唯一趣味が合わなかったのが、新ウィーン楽派を受け継ぐセリー音楽だった。オアナの関心は、フラメンコの歌唱法カント・ホンドに向き合う中で微分音程の探求に向かい、またジャズへの興味から派生してキューバ音楽へと、果てしなく広がった。戦後前衛の勢いは曲がり角を迎えるたびに萎んでいったが、民俗音楽を創造的に用いる彼の意欲は、最晩年まで全く衰えなかった。

 彼の批判がセリー音楽に向かった頃には既に仲間はおらず、時代の潮流に民俗音楽の個人的な経験で立ち向かう姿勢はドン・キホーテ的にも見えるが、ベトナムからパリに移住したトン=タ・ティエ(1933-) や、GRMで電子音楽を研究しながら即興的な声の探求を模索していたギィ・リーベル(1936-) ら、アカデミズムにも戦後前衛にも馴染めなかった作曲家たちにとって、オアナの孤独な戦いは「第三の道」になった。パリ音楽院で彼に師事した女性作曲家エディト・カナ・デ=シジー(1950-) ら、さらに後の世代にも彼のスタンスは受け継がれた。あらゆる音楽がデジタルデータとして等価になった今日ではエキゾティシズムの意味も変わったが、現代音楽はまだこの問いに向き合う段階に達しておらず、その意味では依然可能性は残されている。


【関連リンク】
●平野貴俊 「《まなざし》をめぐるもうひとつの聖三位一体――メシアン、トエスカ、ドン・コルンバ・マルミオン」 その1その2
●平野貴俊 「五線譜という鳥籠――メシアン《鳥のカタログ》をめぐって」 その1その2その3

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by ooi_piano | 2020-02-03 15:00 | POC2019 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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