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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演 [2021/04/21 Update]


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大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って
Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
使用楽器:ハンブルク・スタインウェイ
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
後援  一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) 
チラシpdf 第3回

・開場時間は14時45分です。開場時間より前にご入場は頂けません。
・場内では、マスクの着用をお願い致します。
・客席は安全に考慮し、使用座席数を減らしております。
・演奏中の水分補給等はご自由にどうぞ。
・キャンセルの場合は、すみやかにご一報をお願い致します。



【第3回公演】2021年3月14日(日)15時開演(14時45分開場)
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●C.V.アルカン(1813-1888): 《全ての短調による12の練習曲 Op.39》(1857、関西初演)
Charles-Valentin Alkan : Douze études dans toutes les tons mineurs en deux suites Op.39


〈第一部〉 15分
I.風のように Comme le vent. Prestissimamente
II.モロッソス格で En rhythme molossique. Risoluto
III.悪魔的スケルツォ Scherzo diabolico. Prestissimo

〈第二部〉 27分
IV.~VII.ピアノ独奏による交響曲(全4楽章) Symphonie pour piano seul
  第1楽章 Allegro Moderato - 第2楽章 葬送行進曲 (Andantino) - 第3楽章 メヌエット - 第4楽章 Presto

〈第三部〉 55分
VIII.~X.ピアノ独奏による協奏曲(全3楽章) Concerto pour piano seul
  第1楽章 Allegro Assai - 第2楽章Adagio - 第3楽章 Allegretto alla barbaresca

〈第四部〉 22分
XI.序曲 Ouverture. Maestoso-Lentement-Allegro
XII.アイソーポスの饗宴(主題と25の変奏) Le Festin d’Ésope. Allegretto senza licenza quantunque

【アンコール】
②M.A.アムラン:《アルカンによる相似的無窮動》(「全ての短調による12の練習曲集」第4番)(2005)
③C.V.アルカン:《アレグロ・バルバロ》Op.35-5(「全ての長調による12の練習曲集」より) (1847)
④C.V.アルカン:《練習曲「鉄道」》Op.27 (1844)



Ch.-V.アルカン:人物と練習曲について――上田泰史(音楽学)

「アルカンは、ショパン、 ヘラー、リスト、タールベルクの華麗な流派のいずれにも関係してはいるものの、直接これらの模範を映し出してはいない。アルカンは彼自身で完結しており、その美点と 欠点によってのみ、ほかの誰でもない、彼なのだ。彼は固有の言語で考え、語りかける。」
"(Alkan) est lui-même et lui seul par ses qualités comme par ses défauts; il pense et parle une langue qui est sienne." (Antoine François Marmontel, 1887)

  この人物評は、パリ音楽院ピアノ科教授アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルが、後年に同窓生のアルカンを振り返って書いたものである。独創性は、ロマン主義に与する音楽家にとって不可欠の条件だった。それは、ロマン的精神が外的世界よりも内的世界を重視するからであり、また個々の内面的差異の現れによって作品の価値を測るという新しい基準が通用するようになったからである。
  ロマン主義運動は、伝統的に認められてきた公式の慣習に背を向け、想像力が創作の主導権を奪取したときに、花開いた。音楽におけるこの運動は1820年の後半から30年代というごく短い期間に爆発し、ヨーロッパ中へと波及した。ロマン主義の素地はフランス大革命(1789年)で作られ、七月革命(1830)が起爆剤となった。19世紀前半の自由主義を求める急進的な政治運動と連動しているだけに、ロマン主義の芸術運動も、理論的基盤の整備を待たずに、創作的表出が先行した。
  創作における変化はまず文学で起こり、音楽、絵画など他ジャンルへと拡がっていった。文学青年のベルリオーズやシューマンがそれぞれフランスとドイツでロマン主義の旗振り役となったのは、偶然ではない。ベルリオーズの10歳年下で、シューマンの3歳年下のシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813~1888)を育んだのは、ロマン主義のゆりかごとしてのパリだった。


ロマン主義×宗教

  だが、彼の芸術的素地の形成にはもう少し複雑な背景がある。一つは、モランジュ家(註1)が信仰していたユダヤ教である。ヤーウェ(ヤハウェ)に捧げられた謹厳な信仰とロマン主義は、アルカンの創作を加速させた二つの軸を成している。これらは一見相反するように見える。信仰は伝統や慣習を重んじるが、ロマン主義は旧い慣習の打破を目指すからである。しかし、宗教とロマン主義は往々にして個々の教義とは衝突するものの、永遠なるものを目指すという点で精神的な親和性がある(註2)。アルカンの場合、時に芸術(音楽)が信仰の領域を侵しているように見えることさえある。ユダヤ教徒でありながらプロテスタントの讃美歌に主題を求めたり(足鍵盤付ピアノのための《ルターのコラール〈我らの神は堅き砦〉に基づく即興曲》)、《大ソナタ》ではカトリックの聖体の祝日に歌われる聖歌を引用したりしている。アルカン伝の著者ブリジット・フランソワ=サペは、彼の創作にエキュメニズム(広義での宗教統一運動)の理想を見ている。いずれにせよ、アルカンはロマン主義×宗教という二つの内面的領域の交わる世界を生きた、典型的なロマン主義の音楽家である。

註1 アルカンという姓は、父の名アルカン・モランジュから採られている。彼の姉弟はみなアルカン姓を名乗った。姉弟全員が音楽家となったので、シャルル=ヴァランタンは終生「アルカン長男Alkan aîné」と署名した。
註2 若くして信仰篤いヴィオラ奏者・オルガン奏者のクレティアン・ユランやラムネー神父と交わり、長じてカトリックの下位聖職者となったリストの場合にも当てはまる。


パリ国立音楽院での学習時代

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  宗教とロマン主義という内なる熱源を具現するには、現実世界で駆動する機械が必要だった。その一つが、ピアノである。19世紀前半、産業革命はパリに蒸気機関車と鉄道をもたらし、ピアノには金属製のフレームをもたらした。エラール、プレイエル、パープといったピアノ製造者たちは気温や湿度変化から受ける影響を最小化する工夫を凝らし、また大きな会場での演奏に耐えるよう弦長と張力を増強するなど、楽器の改変に勤しんだ。
  ところで、アルカンの父はパリのマレ地区で私塾を営み、音楽や文法を教えていた。そこには後にパリ音楽院のピアノ教授のポストをめぐり争うこととなるマルモンテルなど、パリ音楽院の級友となる子どもたちが集まっていた。アルカンは当然、ここでピアノを始めたはずである。6歳でパリ音楽院のソルフェージュ科に登録し、翌年にはジョゼフ・ヅィメルマンの受け持つピアノ科に登録した(この年、人前でヴァイオリンも弾いている)。ピアノ科のレッスン室にはエラールがあり、週に数回、若い学生がピアノを囲んで代わる代わる演奏した。1824年の修了選抜試験で一等賞を得て、10代前半にして音楽界に華々しくデビューする。和声・伴奏科も修了したアルカンは作曲の勉強にも勤しんだ。ケルビーニの愛弟子で、かつて作曲教授資格試験に合格したことのあるヅィメルマン師には、ピアノのみならず作曲理論も師事し、学士院が主催する作曲コンクール(ローマ大賞コンクール)にも2度挑戦した。1832年に書いたカンタータ《エルマンとケティ》は選外佳作に選ばれた。さらにオルガン科では1834年に一等賞を得ている。この華々しい受賞歴は、アルカンに音楽家としての多方面での活躍を約束した。
  しかし、アルカンはピアノに専心した。それは、単にピアノの演奏やレッスンで収益が見込めたというだけではなく、ピアノこそが自らを突き動かす表出的欲求を引き受けてくれる手段だったからだろう。その内発的な力は、1828年に出会ったリストとのライバル関係によっても増幅された。
  アルカンのピアノ作品の出版は、1826年に遡る(《シュタイベルトの主題による変奏曲》作品1)。産業化が進むせわしい都会で、アルカンはスピードに対する嗜好を培った。1828年に出版されたロッシーニ風の《乗合馬車》作品2は、1844年に《鉄道》作品27へと「工業化」を遂げた。これは単なる外的事象の描写ではなく、ロマン主義的自己の表現である。技術革命がもたらした、人力をはるかに凌駕するテクノロジーは、超人たることを望んだファウストが己の魂と引き換えに手にした魔術の比喩であり、蒸気機関車のスピードと威容は、ピアニストの超越的願望に充分に応え得る主題だった。


ロマン的なものと古典的なもの

  ピアノを通して、若きアルカンは熱烈な信仰心も吐露している。《アレルヤ》作品25、《前奏曲集》作品31および《歌曲集》作品38/38bisの幾つかの曲には、ヘブライ聖書の詩編やソロモンの雅歌からの引用、あるいは「祈り」といった言葉が題名に用いられている。前述の通り、彼の宗教的関心は音楽的領域においてはキリスト教にも拡大されている。その一方で、古くから変わらぬ善きもの、真なるもの、美なるものの探究を通して、アルカンの眼差しはギリシャ古典文芸にも注がれていた(《大ソナタ》におけるアイスキュロスの悲劇、《全ての短調による12の練習曲》におけるアイソーポス[イソップ]の寓話)。
  古きものへの関心は、バッハ、ヘンデル、グルックといった音楽における古典への愛着にも通じている。1847年、アルカンは《音楽院の想い出》と題して、古典音楽の牙城として知られたパリ音楽院演奏協会のレパートリーから抜粋した6曲のトランスクリプションを刊行した。マルチェッロ、グルック、ハイドン、グレトリ、モーツァルトの作品を収めるこのトランスクリプション集の制作に当たり、アルカンは原曲の楽譜テクストを丹念に辿りながら、かつピアノの効果を損なわない「手ごろな難しさの」編曲を目指した。「全てを聴かせながらも、どのパートが際立たせられなくてはならないか、どのようにそのパートがあるべきか、さらに、それらがどのように伴われ、光が当てられ、あるは陰に残されるべきなのかということを知ること、こうしたことがこの[編曲の]技術(中略)なのである。」(楽譜序文より)出版はされなかったものの、この年にはベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第5番》の緩徐楽章やグルックのオペラ《アルセスト》より〈大司祭たちの行進〉のピアノ独奏用編曲も手がけている。
  これと対照を成すように、アルカンは33歳までのロマン主義的創作の総決算として《大ソナタ》作品33(1847刊)を発表した。20歳から50歳まで、人間の人生を10年毎に4つに区切り、これを次第に遅くなる第1楽章から第4楽章に割り当てた。第2楽章と第4楽章はそれぞれゲーテの『ファウスト』を、第4楽章はアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を題材にしている。前者はロマン主義の神話であり、後者は古代ギリシャの神話である。


練習曲

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  1848年、アルカンの旧師ヅィメルマンは、教育における影響力の低下と同僚からの敵意を受けて、院長オベールに辞表を提出した。ヅィメルマンの後任人事が始まると、アルカンを含むヅィメルマン門下の4名が院長の指名を受けた。アルカン、ラコンブ、プリューダン、マルモンテルのうち、マルモンテルは作曲の業績が殆ど無かった。だが教育実績とおそらく人柄から、院長オベールやヴィクトル・ユゴーの後ろ盾を得ていた。一方のアルカンは比類無い実績にも拘わらず、むしろその強烈なロマン的作風からか、院長の好意を得ていなかった。彼を育てたヅィメルマン師には指名権も任命権もなかった。アルカンはジョルジュ・サンドを介して任命権を持つ大臣に接触し直訴を試みたが、おそらくマルモンテルに対する攻撃的な文面が裏目に出たのだろう、教授のポストにはマルモンテルが任命された。この年に出版された意欲作《全ての長調による12の練習曲》作品35(1848)も、結局のところパリ音楽院での教授職獲得に貢献することはなかった。
  この一件は子ども時代から続くマルモンテルとの仲を決定的に引き裂いた。さらに翌年、親友ショパンの死の報も受けて、彼は表向きの音楽活動をほぼ中止した。1851年からは出版も中断し、以後6年間、作品45以外、ピアノ曲は出版しなかった。この沈黙は、社会に対する不信感の表示であったが、同時に作曲と出版準備に捧げられた雌伏でもあった。アルカンは、打ち砕かれた栄達への期待を創作へと差し向け、創作者としての才能を世に問うことを願ったのである。

  1857年、作品37から47(43, 44は欠番)に至る作品群が沈黙を破った。1846年から書き溜められた《全ての短調による12の練習曲》作品39はアルカンの創作史上のみならず、練習曲というジャンル史上超弩級の作品である。長調による作品35と同様、この練習曲集もアルカン作品に好意的な評を寄せてきた博識の音楽史家フランソワ=ジョゼフ・フェティスに献呈された。その規模は12曲からなる練習曲としては前例がなく、ロマン主義的な題材(風、悪魔)、ならびに古典的な形式(スケルツォ、交響曲、協奏曲、序曲、変奏曲)を包摂している。「ピアノのベルリオーズ」(ハンス・フォン・ビューロー)という形容に違わず、アルカンはこの練習曲で究極の技巧と管弦楽的な効果を徹底して追究した。演奏時間は通奏するとおよそ120分前後を要する。ショパンの作品10と25が各々約30分、リストの《超絶技巧練習曲集》が約65分であることを考えれば、これが如何に長大であるかが分かるだろう。この長さの理由は練習曲というジャンルの中に交響曲、協奏曲、序曲といった、大規模な規範的ジャンルを取り込んだことが一因である。12曲が形作る大伽藍は、19世紀に「シリアスな」と形容されたアカデミックな器楽ジャンルの一覧を成している。かくてアルカンは、社会的挫折からくる憂鬱を創作へと昇華したのだった。
  作中にはベートーヴェンとショパンの回想が垣間見られる。「ある善き人物の死に寄せる葬送行進曲」と銘打たれた〈交響曲〉の第二楽章(葬送行進曲)は、ベートーヴェンの《交響曲第3番「英雄」》の「ある偉人の思い出を記念して」という標示を喚起する。協奏曲はトゥッティ部分にも想定される楽器の指示が入念に書き込まれ、ピアノのカデンツァもすべて記譜されている(第一楽章だけで約30分を要する)。ポロネーズをフィナーレに配したこの協奏曲は、亡き友ショパンの回想とも見られるが、同時に「野蛮な(Alla barbaresca)」荒々しさが際立っている。終曲〈アイソーポス[イソップ]の饗宴〉は8小節の主題に25の変奏が続く。この主題は、アルカンが1842年に編曲したモーツァルトの《交響曲第40番》(K 550)のメヌエットに由来するとされるが(R. Smith)、近年では食事の前に歌われるユダヤ教の感謝の歌との関連も指摘されている(A. Kessous Dreyfuss)。「饗宴(festin)」は豪勢な食事のことでもあるから、これはありそうな説である。

  アルカンは1888年に74歳で没した。彼の音楽はその後、演奏と作曲の両領域に長い影を投じている。演奏の領域において、アルカン作品は第二次世界大戦まではパリ音楽院定期試験でも時折弾かれていた。父の夢を引き継いでパリ音楽院教授となった息子エリ=ミリアン・ドラボルドを中心として、イジドール・フィリップ、マルグリット・ロン、コルトーらのクラスの生徒がパリ音楽院の試験でアルカンの曲を弾いている。特にドラボルドとフィリップはコスタラ社から刊行されたアルカン作品集の校訂を担当した(もっとも、彼らの仕事は初版プレートに注釈なしに手を加えるという作業に留まっている)。同じ頃、フランス以外では、フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)が、アルカン作品をレパートリーとし、ベルリンで演奏した。彼はアルカンをショパン、シューマン、リスト、ブラームスと並ぶ、ベートーヴェン以降のピアノ音楽の大家として称揚している。ブゾーニを尊敬し、『ピアノ・ソナタ第二番』を彼に献呈した英国の作曲家兼ピアニスト、カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(1892-1988)もやはりアルカンの独自性を称揚した。
  創作の領域において、ソラブジが1940年代に作曲した100曲の《超越的練習曲》や《私一人で、オーケストラなしで演奏する、気晴らしのための協奏曲》(第3楽章はアルカンOp.39-3〈悪魔的スケルツォ〉と同表題)は、練習曲及び協奏曲というジャンルを独自の視点で捉えたアルカンの着想を継承している。やはり英国の作曲家で1946年生まれのマイケル・フィニッシーの作品にもアルカンの影が見える。《アルカン=パガニーニ》(1997)の冒頭の楽想記号「アッラ・バルバレスカ」は、アルカンの作品39-10のそれと同じである。

  第二次大戦後、アルカンの音楽が録音されラジオで流れ始めると、アルカンに熱中する音楽家や愛好家が各地に現れた。1977年には英国でアルカン協会(Alkan Society)が設立された。アルカンの祖国フランスでは8年遅れて1985年にアルカン協会(Société Alkan)が設立された。2010年以降、アテネでもアルカンとその師ヅィメルマンを記念してアルカン=ヅィメルマン国際音楽協会が設立され、アルカンとその時代への関心は拡がりを見せている。
  さてアルカンの作品39が通演されるこの貴重な機会に、一人の演奏家によるこの作品の通演記録(一回のコンサートで全12曲が演奏された記録)を整理しておきたい。

①中村攝(1959- ):1984年3月1日、石川県文教会館(金沢)
②中村攝:1984年3月12日、スタジオ・ルンデ(名古屋)
③中村攝:1984年4月6日、虎ノ門ホール(東京)
④ジャック・ギボンズ(1962- ):1995年1月18日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑤ジャック・ギボンズ:1996年2月15日、クイーン・エリザベス・ホール(ロンドン)
テッポ・コイヴィスト(1961- ):2007年(ヘルシンキ)
⑦ジャック・ギボンズ:2013年8月25日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑧ヴィンチェンツォ・マルテンポ(1985- ):2013年11月2日、横浜みなとみらいホール(横浜)
⑨ジャック・ギボンズ:2013年12月15日、マーキン・コンサート・ホール(ニューヨーク)
Performances of the complete op. 39 by a single performer in one day
(1) Osamu Nakamura (1959- ): 01/03/1984 Ishikawa Bunkyo Kaikan (Kanazawa)
(2) Osamu Nakamura: 12/03/1984 Studio Runde (Nagoya)
(3) Osamu Nakamura: 06/04/1984 Toranomon Hall (Tokyo)
(4) Jack Gibbons (1962- ): 18/01/1995 the Holywell Music Room (Oxford)
(5) Jack Gibbons: 15/02/1996 Queen Elizabeth Hall (London)
(6) Teppo Koivisto (1961- ): 03/02/2007 (Helsinki)
(7) Jack Gibbons: 25/08/2013 the Holywell Music Room (Oxford)
(8) Vincenzo Maltempo (1985- ): 02/11/2013 Minato Mirai Hall (Yokohama)
(9) Jack Gibbons: 15/12/2013 Merkin Concert Hall (New York)
  上記9公演のうち、4公演が日本で行われていることは特筆すべきだろう。金澤(中村)攝氏の全曲演奏は、中でも抜きん出て早い時期に行われている。1983年、当時25歳の金澤氏はM.ポンティが弾く抜粋盤LPを聴いて公開演奏を決意し、全曲暗譜で3公演に臨んだ。敬愛するブゾーニを介して、かねてよりアルカンやゴドフスキーにも関心を寄せていた故・園田高弘氏は東京公演に臨席し、「初めてアルカンの真価を知った」と激賞を惜しまなかった。金澤氏はその後ほどなくして名古屋(スタジオ・ルンデ)で姉妹作《全ての長調によるエチュード》Op.35 も通演している。



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2020年9月12日(土)/13日(日)15時開演(14時45分開場)
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22125131.jpg□F.F.ショパン(1810-1849)
●3つの新しい練習曲 B.130 (1839)  7分
< I. Andantino - II. Allegretto - III. Allegretto
●12の練習曲Op.10 (1829/32)  30分
  I. - II. - III.「別れの曲」 - IV. - V.「黒鍵」 - VI. - VII. - VIII. - IX. - X. - XI. - XII.「革命」
●12の練習曲Op.25 (1832/36)  30分
  I.「エオリアンハープ」 - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.「蝶々」 - X. - XI.「木枯らし」 - XII.「大洋」
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●ピアノソナタ第2番Op.35《葬送》(1837/39)  24分
 I. Grave /agitato - II. Scherzo - III. Marche, Lento - IV. Finale, Presto
●ピアノソナタ第3番Op.58 (1844)  25分
 I. Allegro maestoso - II. Scherzo, Molto vivace - III. Largo - IV. Finale, Presto non tanto

    [使用エディション:ポーランドナショナル版]



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2020年9月19日(土)/20日(日)15時開演(14時45分開場)
□F.リスト(1811-1886): 24のエチュード集
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22123211.jpg●3つの演奏会用練習曲 S.144 (1845/48)  20分
 I. 悲しみ - II. 軽やかさ - III. ため息
●2つの演奏会用練習曲 S.145 (1862/63)  7分
 I. 森の騒めき - II. ノーム(小人)の踊り
●アブ・イーラートー(怒りに駆られて) S.143 (1840/52)  3分
●パガニーニによる大練習曲 S.141 (1838/51)  25分
  I. - II. - III. 「ラ・カンパネラ」 - IV. - V. 「狩り」 - VI. 「主題と変奏」
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●12の超絶技巧練習曲(決定稿) S.139 (1851)  60分
I. 「前奏曲」 - II. - III. 「風景」 - IV. 「マゼッパ」 - V. 「鬼火」 - VI. 「幻影」 - VII. 「英雄」 - VIII. 「荒ぶる狩り」 - IX. 「回想」 - X. - XI. 「夕暮の諧調」 - XII. 「雪嵐」

    [使用エディション:新リスト全集版]

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22315897.jpg3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22321364.jpg


【cf.】
■シマノフスキ:ソナタ第2番ソナタ第3番+マズルカ全曲[2019/09/16 & 2020/01/18]

えてうどは かなしきかな────山村雅治

1

えてうどは かなしきかな
いとをはじく ゆびのちからの
ひといろにあらず なないろの
ひかりのいろを つむぎだす
わざは どこまで きわめれば

わざのわかれは てふてふの
はばたきのごと うたになる
ひととの わかれは せつなくも
こがらしのふく くろい いと
ひとのよをかえる ちからとは

うみにひろがる みなものしずけさ
くろも しろも 
くろだけさえも うたいだす
にじがかかれば やまいはとおのき
しょぱんも りすとも あるかんも


3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_04041585.gif ピアノの演奏を習得するには技巧の練習が必要だ。ピアノだけでなく楽器はすべて固有の音の出しかたがあり、直接楽器に触れる体の部位が楽器と一体になることが求められる。演奏者の音楽が楽器を通して十全に鳴り響かなければならない。ピアノの場合は指で鍵を打つ。単音だけでは音楽にならないから10本の指を使って和音を鳴らしたり、歌うように奏でたり、指を速く回したりする。ピアノ演奏の技術は多様にして多彩をきわめる。
 練習曲は演奏技巧を習得するための楽曲だ。一般には「技巧修得のための練習曲」は教育用の練習曲とされる。ハノンなどはそうだろう。またそれらとはちがい「演奏会用練習曲」があるとされる。ショパンやリストの練習曲は演奏会場で弾かれて聴衆の息を呑ませ感動させる。
 バッハはどうか。バルトークはどうか。純然たる技巧の練習曲とおぼしき楽曲が人を感動させる場合があり「教育用」と「演奏会用」の決然たる区別はできないだろう。リストが師事したカール・ツェルニーは偉大な音楽家だった。日本で初めて西洋音楽の列伝を書いた大田黒元雄は『バッハよりシェーンベルヒ』(音楽と文学社 1915/大正4年)でツェルニーに2頁を割いている。ベートーヴェン、ヴェーバー、ツェルニーと続く。次はシューベルト。


3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01083017.jpg<チェルニー Czerny

 世には多くの洋琴練習曲がある。けれどもチェルニー程此の方面に優れた作品を書いた人は居ない。同時に彼ぐらひ其の後進の洋琴家を悩ました人も居ない。
 此のカール、チェルニー(Karl Czerny)は千七百九十一年ウィンナに生れた。彼は先づ其の父から洋琴を習ひ、次いで千八百年から三年間ベートーヴェンに師事する幸福を得た。かうして練習につとめた彼はやがて、ウィンナで一流の洋琴教授として知られる様に成つた。
 彼は多くの練習曲の外に、多くの歌劇や聖楽を洋琴用にアレンジした。彼の作品の数は千にも及ぶが、其の中最も有名なものに、Die Schule der Gelaeufigkeit. Die Schule das Legato und Staccato 等がある。
 彼の練習曲は彼以後の殆どすべての名洋琴家に用ゐられ、リストやタルべャグ等の大家も皆喜んで此れを試みた。嘗てレシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答へたといふ話がある。
 チェルニーは其の一生をウィンナに過し、千八百五十七年其地に逝った。
 彼の偉業は華々しいものではなかつたが、最も有意義な充実したものであつたと云ふ事が出来るであらう。> (引用者注釈。洋琴はピアノ。タルべャグはジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812-1871)。ツェルニーを一流の作曲家と認めた日本人がいて、この文を書いた)。

 ツェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。ベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っていた。その願望は練習曲集や理論書の著者であるツェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになった。大田黒元雄の記述によればリストはもっとも忠実なツェルニーのピアノ奏法の継承者だった。


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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01093819.jpg リストは、ショパンが亡くなってから誰よりも早く彼の伝記を書いた。2年後の1851年のことだ。
<ショパン! 霊妙にして調和に満ちた天才! 優れた人々を追憶するだけで我々の心は深く感動する。彼を知っていたことは、何という幸福であろう!>という熱烈な讃辞にはじまる。リストとショパンは陽と陰、水と油ほどの芸術の個性をもっていた。惹かれあい、反発しあいの若い時代を共有した。リストのショパンへの讃辞は続く。

<ショパンはピアノ音楽の世界に閉じこもって一歩も出なかった。
一見不毛のピアノ音楽の原野に、かくも豊穣な花を咲かせたショパンは、何と熱烈な創造的天才であろう!>。

<彼の音楽が持つこの陰鬱な側面は、彼の優美に彩られた詩的半面ほどよく理解されず、人の注意も惹かなかった。彼は彼を苦しめる隠れた心の顫動を人に窺い知られることを、許そうとはしなかったのである>。

<ショパンは次のように語った。「私は演奏会には向いていない。大衆が恐ろしいのです。好奇心以外に何物もあらわしていない彼らの顔を見ると神経が麻痺してきます」。彼は公衆の賞讃を自ら拒否することによって、心の傷手に触れられないですむと考えていた。彼を理解する人はほとんどいなかったのである。ショパンは、楽壇の第一線に立っていながら、当時の音楽家の中で、一番演奏会を開かなかった人であった>。

 おそらくは同時代の音楽家のなかでリストひとりがショパンの音楽を理解していた。とくにマズルカやポロネーズについて。

<マズルカを踊っている時とか、また騎士が踊り終わっても婦人のそばを離れずにいる休憩時間とかに人々の心に生ずる、数々の変化にみちた情緒の織物に、ショパンは陰影や光にとんだ和音を織り込んだのである。マズルカのすべての節奏は、ポーランドの貴婦人の耳には失った恋情の木霊のように、また愛の告白の優しい囁きのように響くのである。群に交じって差し向かいに長い間踊っている間に、どんな思いがけぬ愛の絆が二人の間に結ばれたことだろうか>。


 リストはここではショパンの和声や音楽の心について書いた。ピアノ奏法の技法については一言も触れてはいない。批評は印象批評だけではもの足りない。和声についても「陰影や光にとんだ」だけではものたりない。構造にまで踏みこんだ作曲技法やショパン生前のピアノ奏法の技術批評をしてほしかった。リストはやがて社交界をむなしく思い、孤独な音楽家として生きることになる。技術が社交界を喜ばせていたのだとしたら、技術はむなしいと感じていたのだろうか。リストはやがて無調の音楽を生みだすのだが。



3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01105506.jpg ショパンはしかし、リストに出会ったとき、リストと同じようにピアノ奏法をより熟達させる技術のことも、音楽を深めていくことと同じく深く考えていた。天才の二人は強烈な親近感を覚えただろうし、個性がちがうのだから「ここは反発」ということもあっただろう。あたりまえのことであって、ひとりが大好きな音楽が、もうひとりが大嫌いということもある。彼らはまず社会に生きる人間としての性格がちがっていた。リストは、稀代のヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパじゅうをかけまわり、名声をほしいままにした。ショパンはあれほどの才能をもちながら、大衆を避け、小さなコミュニティの中だけで繊細な音楽を追求し続けた。

 ショパンにピアノ演奏を習った弟子のひとりはエチュード作品10-1についてこう言っている。「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンは私に勧めてくれました。『このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、音階や和音を弾くときもヴァイオリンの弓で弾くような効果が得られるでしょう。ただ残念なことに、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです』と彼は言うのです。このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合は、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすれば良かったのです」。(『弟子から見たショパン』ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米谷治郎/中島弘二訳 音楽之友社刊)。

 エチュードのみならず全作品にピアノ奏法の習熟への課題があった。ショパンは機会を通じて「技法の練習の種類」「楽器に要求される性能」「練習の仕方と時間」「姿勢と手の位置」「手首と手の柔軟性、指の自在な動き」「タッチの習熟、耳の訓練、アタックの多様性、レガート奏法の重要性」「指の個性と独立性」、そして「運指法の原理としての、音の均等性と手の静止」などについての技術をつねに考えていた。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01122285.jpg ショパンは生まれてからの20年をすごしたワルシャワから、もっと大きな音楽の世界を知ろうとした。ウィーンへ行ってみたがそこは彼が生きる場所ではなかった。パリこそが彼の音楽が大きく花開く都会だった。1830年11月2日にワルシャワを旅立ち、11月23日にウィーンに到着。11月29日にはワルシャワでロシアへの「11月蜂起」が起こる。前年の好評はポーランド人のショパンに掌をかえした。しかしウィーンでショパンは「ワルツ」を書きはじめた。1831年7月20日にショパンはパリへ向かった。途上のシュトゥットガルトで「ワルシャワ蜂起敗北」を知る。この慟哭がエチュード作品10-12「革命」を生みだす力にもなった。

 1830年はヨーロッパ文化の歴史において「ロマン主義」が大きく羽ばたいた年だった。とくにパリにおいて。ユゴーの演劇「エルナーニ」上演は守旧の古典派とあたらしい時代をこじあけようとするロマン派の戦いの一夜だった。2月25日のことだ。ユゴーは芸術の自由を主張した。そしてフランスに7月革命が起こる。7月27日から29日にかけてフランスで起こった市民革命である。これにより1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。栄光の三日間が芸術家たちに惹きおこした力は測り知れない。演劇、文学、音楽、美術などすべての分野に力は及び、古典の旧秩序をのりこえて「芸術の自由」はそれまで信じられていた「世界の秩序」からではなく「個人の心の自由」から創造された。



3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01144057.jpg リストの「ショパン伝」には、次のような美しい思いでも記されている。

<私たち3人だけだった。ショパンは長いあいだピアノを弾いた。そしてパリでもっとも卓越した女性のひとりだったサンドも、ますます敬虔な瞑想が忍び込んでくるのを感じていた・・・・・・。
 彼女は知らずしらずのうちに心を集中させる敬虔な感情が、どこからくるのかを彼にたずねた・・・・・・。そして、未知の灰を手の込んだ細工の雪花石膏アラバスタのすばらしい壷の中に閉じ込めるように、彼がその作品のなかに閉じ込めている常ならぬ感情を、なんと名づけたらよいのかをたずねた・・・・・・。

 麗しい瞼を濡らしているその美しい涙に負けたのか、ふだんは内心の遺骨はすべて作品という輝かしい遺骨箱に納めるだけにして、それについては語ることをせぬショパンだったが、この時ばかりは珍しく真剣な面持ちで、自分の心の憂愁の色濃い悲しみが、彼女にそのまま伝わったのだと答えた。

 と言うのは、たとえかりそめに明るさを装うことはあっても、彼は精神の土壌を形作っていると言ってよいある感情からけっして抜け出ることはなく、そしてその感情は、彼自身の母国語によってしか表現できず、他のどんな言葉も、耳がその音に渇いているとでもいうように彼がしばしば繰り返す 『ザル』というポーランド語と同じものを表すことはできない、この『ザル』という語はあらゆる感情の尺度を含んでいるのであり、あの厳しい根から実った、あるいは祝福されさるいは毒された果実ともいうべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである――と言った、 実際、『ザル』は、あるいは銀色に、あるいは熱っぽく、ショパンの作品の束全体を、つねに一つの反射光で彩っているのだ。>

『ザル』(ZAL/ジャル)は、運命を受けいれた諦めを含んだ悔恨、望郷の心をあらわすポーランド語。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01161253.jpg 「永遠に家を忘れるためにこの国を離れ、死ぬために出発するような気がする」―。
外国へ旅立とうとするショパンの不安は、侵略を受けつづける祖国ポーランドの苦悩とともにあった。花束のような華麗な音楽のかげに、祖国独立への情熱と亡命者の悲しみを忍ばせ、やり場のない怒りを大砲のように炸裂させた。死ぬために出発するような気がすると書いた手紙は、彼が祖国ポーランドを離れる直前の悩みを、親友にあてて書き綴ったものだ。

 僕は表面的にはあかるくしている。とくに僕の「仲間内」ではね(仲間というのは、ポーランド人のことだ)。でも、内面では、いつもなにかに苦しめられている。予感、不安、夢――あるいは不眠――、憂鬱、無関心――生への欲望、そしてつぎの瞬間には死への欲望。心地よい平和のような、麻痺してぼんやりするような、でもときどき、はっきりした思い出がよみがえって、不安になる。すっぱいような、苦いような、塩辛いような、気持ちが恐ろしくごちゃまぜになって、ひどく混乱する。 (1831年12月25日)

 ショパンは「エチュード ホ長調 作品10-3」を弾く弟子、グートマンに「私の一生で、これほど美しい歌を作ったことはありません」と語った。そしてある日、グートマンがこのエチュードを弾いていると、先生は両手を組んで上げ、「ああ、わが祖国よ!」と叫んだのである。






えてうどにみちびかれて――――山村雅治

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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21530903.jpg  リストは幼いころから音楽に才能を現し、10歳になる前に公開演奏会を行っていた。わずか11歳、1822年にウィーンに移りウィーン音楽院でツェルニーとサリエリに師事する。ベートーヴェンが教えたツェルニーとベートーヴェンが教えを受けたサリエリ。これ以上に幸運なことはなかった。1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこでベートーヴェンに会うことができた。そのときのベートーヴェンの耳の状態がどうだったのか。伝えられる話によれば少年リストは老ベートーヴェンから称賛をいただいたという。

  ベートーヴェンが没した1827年には父アーダムを亡くし、リストは15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。彼は貴族の生まれではなかった。ピアノを教えること、ピアノを弾いてみせることで人生を切りひらいていった。彼は作曲ができた。自作を自演して生活の糧を得た。ベルリオーズの「幻想交響曲」が初演された1830年はベートーヴェン没後わずか3年、ロマン派の芸術が音楽においても幕を開けた年。18歳のリストは感激の絶頂に達して27歳のベルリオーズにまじわり絶賛した。1831年、ポーランドから21歳のショパンがパリに来た。デビュー・コンサートは1832年に開かれ、以来リストはショパンと親交を深めていく。ロマン派の始まりにして絶頂だった時代の若者たちの音楽への情熱と個性がはげしく火花を散らしそれぞれの果実をむすんだ。同じ年、1831年にパガニーニのヴァイオリン演奏を聴いて感銘を受け、彼はピアノの超絶技巧をめざした。同時代を生きた作曲家にはシューマンもメンデルスゾーンもいた。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21532125.jpg  リストはショパン没(1849)後、まもなくショパン伝(1852)を書いたが、そのなかでこの時期を回想している。「1832年、すなわちショパンがパリに到着してまもなくのころ、文学と同じように音楽においても新しい流派がつくられていた。ロマン主義が当時の流行であり、その是非がさかんに論じられた」。ひとつは「永遠の形式――その完成が絶対美をあらわす」という古典的な考えかたであり、もうひとつは「美が固定された形式をもつことを否定し、自分の感情にあわせるために形式を選ぶ自由があることを願い」、「感情があらかじめ決定された形式では表現できない」ことを主張した。リストは後者の代表にベルリオーズとショパンを挙げている。
 
  リストはすでにパリのサロンの寵児だった。ベルリオーズやショパンの音楽に刺激された。1820年代までの彼の作品は伝統的な書法によるものだったが、1830年以降は劇的に変貌する。「超絶技巧練習曲」の初稿は「すべての長短調のための48の練習曲」。1826年、15歳のリストの作品である。じっさいには全12曲でフランスで作品6、ドイツで作品1として出版された。サリエリに作曲を習い、ツェルニーにピアノを習った少年の会心の作品だっただろう。その後、1839年に拡大とともに改訂されて「24の大練習曲」(じっさいは全12曲)になった。さらにショパン伝を書きつつあった1851年に改訂されて「超絶技巧練習曲」になった。前作と同じくツェルニーに捧げられた。イ短調とヘ短調の二曲をのぞいては曲名がつけられた。


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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21533382.jpg  シューマンが「超絶技巧練習曲」の前身、「すべての長短調のための48の練習曲」と「24の大練習曲」について書いた文章がある。『音楽と音楽家』吉田秀和訳(岩波文庫)から抜粋しよう。1839年に29歳のシューマンが28歳のリストについて書いた一文だ。

  「すべての長短調のための48の練習曲」と「24の大練習曲」を「今これらを比較してみると、第一にピアノの演奏法の今昔の相違がわかる。つまり、今日の演奏法は手段が豊富になり、華麗および充実という点で、昔の演奏法を全般的に凌駕しているけれども、昔の、青春の最初の噴出に内在していた素朴さが、今度の形の中ではすっかり抑圧されてしまったように思われる。つぎに新版をみると、この作家の見違えるほど進歩した思考と感情の現状の目安がわかる上に、内心の隠れた精神生活もうかがわれる。もっともその結果、僕らは、どうしても平和に到達できそうもない大人よりも、むしろ子供を羨む方が本当ではないだろうかと迷ってしまうけれども」。

  「とにもかくにも、相手は今も昔も相変わらず多彩な動きを見せている非凡な精神であることは、どこからみてもうかがわれる。リストの音楽のなかには、ほかならぬ彼自身の生活が生きている。はやくから祖国を離れて、騒々しい大都会に投げこまれ、幼少にしてすでに一世の驚異となった彼は、前にはよく、今祖国ドイツに寄せる切々たる憧憬のこめられた曲を書いたかと思うと、たちまち軽いフランス的精神を表した放恣を極めた曲を作ったりしていた。あるいは、彼にふさわしい師匠が見当たらなかったからかも知れないが、いずれにせよ、彼はおちついてじっくりと作曲を勉強する気にはならなかったらしい。元来、活発な音楽的素質を持ったものは、無味乾燥な紙の上の研究よりも、手っとりばやい音の方にひかれるものであるが、彼もまた作曲の勉強に落ちついていられなかっただけに、一層演奏の名人としての錬磨を怠らなかった。その結果、彼は演奏家として驚異的な高所に達したのに反して、作曲家としては取残されてしまった」。

  「思うに、ショパンの出現にあって初めて、彼は再び思慮をとり戻したらしい。しかしショパンには形式がある。彼の音楽の驚異的な構成の下には、旋律が薔薇色の糸のように貫いている。今となってはさすが非凡な名人といえども、作曲家としての遅れをとり戻すには遅すぎるかに見えた」。

  「彼の今後の活躍はただ推測にまつよりほかはないが、もし彼が祖国の好意をかち得ようと思ったならば、前にいった、古い練習曲にみられるような快い明朗さ、単純さに立戻らなければならない。彼は簡単にする代りに複雑化する道をとったけれど、本当は逆の道を進まなければならなかったのではあるまいか」。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21534749.jpg  そしてシューマンは若いリストの二つの練習曲集について、それぞれの「第1番」「第5番」「第9番」などの譜例を出し印象批評にとどまらない技術批評を展開する。書いた言葉の裏付けを譜面を掲げて論じている。「第6番」から「第8番」にかけての3曲については、「この三曲は、全く嵐の練習曲、恐怖の練習曲で、これを弾きこなす者は、世界中探しても十人か十二人くらいしかあるまい。へたな演奏家がひいたら、物笑いの種になるだろう。この三曲は、リストが最近ピアノ用に移そうとしているパガニーニのヴァイオリンのための練習曲の中にある曲に一番似ている」。

  シューマンはもう一度リストの演奏を聴くのを楽しみにしている。「しかし何はともあれ、来るべき冬の彼の到着は、心から待遠しい。彼は最近のヴィーン滞在の時にはこの練習曲で驚くべき効果を上げた。大なる効果は大なる原因を前提とする。公衆は決していたずらに熱狂するはずはない。だから諸君は、両方の練習曲に一通り眼を通しておいて、この芸術家を迎える準備をしたまえ。最上の批評は、リスト自身がピアノを通して与えるだろう」が文を結ぶ言葉だった。


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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21535868.jpg  1856年に狂気のうちに没したシューマンは、1851年に出されたリストの練習曲の最終稿「超絶技巧練習曲」を聴いていただろうか。新版の楽譜に目を通していただろうか。1848年に38歳のリストはヴァイマルの宮廷楽長に赴任して、それまでの自分を棄てる。一皮むけたリストの深化は神に近づこうとする音楽を生みだした。シューマンが望んだように、技巧そのものを追求することをやめた。現代の音盤に聴くならば、老いて最盛期の技巧を失ったヴィルヘルム・ケンプのリスト・アルバムに聴く音楽は美しい。ケンプの師カール・ハインリヒ・バルトはリストの高弟であったハンス・フォン・ビューローとカール・タウジヒに師事した。ケンプと同時代に生きたヴィルヘルム・バックハウスもリストに師事したオイゲン・ダルベールだったから、リストのピアノ演奏の教育者としての功績は測り知れない。

  シューマンは若いリストの練習曲「6」-「8」について「この三曲は、リストが最近ピアノ用に移そうとしているパガニーニのヴァイオリンのための練習曲の中にある曲に一番似ている」と書いた。そんなことはやめとけよ、という心が透けて見える。シューマンは猛練習で指を傷めてピアニストとして生きることを断念せざるを得なくなった。彼はピアニストの道をあきらめ、作曲の勉強を深めていった。そしてリストは当時はモーツァルト以来の「作曲家自作自演のピアニスト」として舞台に生き、その高名に惹かれてあつまる貴族子女にピアノを教えて生きていくことが誉れにみちてできた青年音楽家だった。シューマンの当時のリストへの批評は、二人の音楽家としての「そうとしか生きてこられなかった」生き方を反映して、鋭い。そしてリストは後年、その批評を超えて当時交流した作曲家の誰よりも長く生きて、束縛されるなにものからも自由な音楽を書いた。無調の音楽さえ書いたのだ。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21540883.jpg  若いリストが夢中になった作曲家は、まずベルリオーズだった。彼からは標題音楽をまなんだ。抽象的な構築体としての交響曲から脱した作品、人間の生活や感情を表現する交響曲はベートーヴェンの「第6交響曲・田園」に切りひらかれていた。ベートーヴェン没後3年の年にベルリオーズは青年の恋と破滅を描いた「幻想交響曲」を世に出した。リストがピアノを離れて管弦楽で「交響詩」を猛然と書きはじめたのは、ヴァイマルの宮廷楽長に赴任してからの時代だった。そして、ショパン。リストは性格がちがっていたショパンの音楽を理解し愛していた。「ショパンに私たちが負っているもの、それは和音の拡大であり、半音階や異名同音による紆余曲折だ」とリストはショパン伝で書いた。彼のショパンへの理解と愛はシューマンのショパンへの理解と愛ともちがう。これはあたりまえのことで、彼ら天才はそれぞれの宇宙を創造する人間だから、感じる角度がちがうし称賛をあらわす言葉もちがう。彼らが生きた時代は天才たちが熱く沸騰する坩堝のなかにいた。シューマンはショパンの「ピアノ・ソナタ第2番」の終楽章について「音楽ではない」と断じた。「不協和音をもって始まり、不協和音を通って、不協和音に終わる」音楽は1830年代のリストの音楽にも明らかだ。「詩的で宗教的な調べ」の初稿には調記号も拍子記号もなかった。当時の誰よりも先を進んだリストがそこにいた。楽式を破壊する力に関しては、リストはショパンを凌いでいた。

  パガニーニはリストの眼の前には1832年4月20日のリサイタルで現れた。そのときの感激を友人への書簡に書いている。「なんという人物! なんというヴァイオリン! なんという芸術家! 神よ! この四本の弦に、いったいどれほどの苦悩、苦痛、堪え難き苦しみが込められていることでしょうか!」。パガニーニが示したヴァイオリン演奏の技巧には度肝をぬかれた。そして、彼の技巧は芸術家パガニーニの内面に根差した自己主張をあらわしていた。技巧は技巧だけで独立するものにとどめてはならない。少年時代にツェルニーから教わったことが、パガニーニを聴いて爆発するかのように蘇ってきたのだろう。ほどなくリストは「パガニーニの鐘の主題に基づく華麗なる大幻想曲」を書いた。「パガニーニ練習曲」の「鐘」(ラ・カンパネラ)のピアノ版の原型だ。技術そのものの錬磨に励んだリストは、のちに「技術は機械的な練習からではなく、精神から生まれるべきである」と書いた。

  「パガニーニ練習曲」の作曲は1838年から1840年にかけてで、初版は1840年。シューマンのクララとの結婚を祝ってクララに捧げられた。改訂版は1851年に出された、現在知られている「パガニーニ大練習曲」。初版は13度の和音や、非常に早いパッセージで連続する10度の和音等、手の大きさそのものを要求する部分も多いが、改訂版ではそれらの大部分は削除された。
 







薄暮(くれがた)の曲―――シャルル・ボドレエル

時こそ今は水枝(みづえ)さす、こぬれに花の顫(ふる)ふころ。
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ。

花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ、
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ。

痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)。
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ、
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)。

闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)、
光の過去のあとかたを尋(と)めて集むる憐れさよ。
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)、
君が名残のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒(せいたいごう)。

(上田敏訳)




Harmonie du soir / Charles BAUDELAIRE (1821 - 1867)

Voici venir les temps où vibrant sur sa tige
Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !

Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir.

Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige,
Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir ;
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige.

Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir,
Du passé lumineux recueille tout vestige !
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige...
Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir !















Commented by 石川博一 at 2020-09-07 13:09
音楽学博士っぽいなぁと上記内容を読んで思いました.フランツ・リストのピアノソナタは確かに実質的に無調音楽.そして,21世紀の前衛的現代ピアノ曲より聴く側には難解かもしれません.(リストのピアノソナタロ短調は,実際の演奏を目の前で見聞きした小川典子さんのCDだけ持っているので聴き始める.)
by ooi_piano | 2021-03-09 10:20 | Pleyel2020 | Comments(1)

Blog | Hiroaki Ooi


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