【第2回】2020年11月13日(金)19時開演(18時半開場)
大井浩明(フォルテピアノ独奏)

松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) 渋谷駅徒歩10分、神泉駅徒歩2分
全自由席 5000円
お問い合わせ pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)〔要予約〕
使用楽器:プレイエル社1843年製80鍵フォルテピアノ(430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]

●3つの新しい練習曲 B.130 (1839) 7分
I. Andantino - II. Allegretto - III. Allegretto
●12の練習曲Op.10 (1829/32) 30分
I. - II. - III.「別れの曲」 - IV. - V.「黒鍵」 - VI. - VII. - VIII. - IX. - X. - XI. - XII.「革命」
●12の練習曲Op.25 (1832/36) 30分
I.「エオリアンハープ」 - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.「蝶々」 - X. - XI.「木枯らし」 - XII.「大洋」
(休憩10分)
●ピアノソナタ第2番 変ロ短調 Op.35《葬送》(1837/39) 24分
I. Grave /agitato - II. Scherzo - III. Marche, Lento - IV. Finale, Presto
□鈴木光介(1979- ):フォルテピアノ独奏のための《マズルカ》(2020、委嘱初演) 5分
●ピアノソナタ第3番 ロ短調 Op.58 (1844) 25分
I. Allegro maestoso - II. Scherzo, Molto vivace - III. Largo - IV. Finale, Presto non tanto
[使用エディション:ポーランドナショナル版]
鈴木光介:フォルテピアノ独奏のための《マズルカ》(2020)
遥か遠くの国、ポーランドでは、若者も、老人も、マズルカを踊りあかすという。いいなあ。そんなことをイメージしながら、それを直接的に音楽で表現するのではなく、音楽に写し取ることはできないだろうか?とアプローチした本作。12年前の《Even Be Hot ホットこともありえます》(2008)に続き2作目のフォルテピアノ作品。12年前の興味は音符そのものにあったが、最近は人間に興味がある。人間の声、肉体、感触。なお、今回の作曲法は僕が所属する劇団「時々自動」の『fffffffffffffffffffffff(フォルティッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシッシモ)』(2014)に強く影響を受けている。(鈴木光介)
鈴木光介 Kosuke SUZUKI, composer

1979年生まれ 茨城県出身。9歳よりピアノを習い始め、中学生で吹奏楽部に入部、トランペットを始める。1998年、茨城県立取手松陽高校音楽科トランペット専攻卒業。2000年より劇団「時々自動」に参加、独学で作曲を開始。以降の時々自動の全作品に出演。作曲、演奏、人形操演、ダンス、パフォーマンスなどを担当する。 2002年より時々自動主宰・朝比奈尚行の舞台音楽作曲助手を務める。2012年より舞台音楽作曲を手がける。トランペットの他に、キーボード、ホーミー、ウクレレ、パチカ、口琴などを演奏。ボイスワークショップ、歌唱指導、楽器演奏指導も行う。近年の主な舞台音楽に、流山児★事務所『コタン虐殺』(20)、ケムリ研究室『ベイジルタウンの女神』(20)、serial number『All My Sons』(20)など。第27回読売演劇大賞 優秀スタッフ賞を受賞。
ショパンがみたカルクブレンナーの「カルム(落ち着き)」───上田泰史

もし、「フランス的な」ピアノ演奏様式が存在したとすれば、それはどのような流儀だろうか?演奏文化がグローバル化した現代において、演奏を聴いて流儀の「国籍」を言い当てることは不可能である。だが、19世紀から20世紀中頃に至るまで、パリ国立音楽院のピアノ教育と演奏における「フランスらしさ」は演奏様式によって見分けられていた。たとえば、それを指す表現で「真珠飾りのような演奏(ジュ・ペルレ)」という言い回しがある。これは、奏でられた音符が真珠のネックレスのように音が粒立ち良く並んでフレーズを形作る様を、比喩的に言い表している。とはいえ、「ジュ・ペルレ」はパリ音楽院ピアノ科のドグマでは決してなかった。「ジュ・ペルレ」はあくまで詩的な批評用語であり、なんらかの教育的方法論を言い表したものではない。にもかかわらず、昨今、「ジュ・ペルレ」がメソッドであったかのように考える研究者は少なくない。というのも、パリ音楽院(1795年創立)の草創期から、名高いピアノ教師たちは著書や教本で――真珠の比喩を用いることはなかったにせよ――姿勢、明瞭な発音、フレージング等について、一貫したメソッドを保持していた。
系譜を遡る
「ジュ・ペルレ」の代表的人物として良く引き合いに出されるのはマルグリット・ロン女史(1874~1966)である。パリ国立音楽院の上級クラスでアレクシス=アンリ・フィッソ(1843~1896)に、そして個人的にはアントナン・マルモンテル(1850~1907)に師事しているが、この二人はショパン世代のパリ音楽院教授アントワーヌ=フランソワ・マルモンテル(1816~1898)の弟子である(後者は養子になったのでマルモンテル姓を名乗った)。マルモンテル父が師事したのはジョゼフ・ヅィメルマン教授(1785~1853)である。ヅィメルマンは学生時代、音楽院の修了選抜試験(コンクール)で同い年の名手、フレデリック・カルクブレンナーと競ったことがある。1800年のコンクールで一等賞を手にしたのはヅィメルマンだった。カルクブレンナーは翌年に一等賞を得るが、公的機関への就職には関心を持たず、ヨーロッパ中でヴィルトゥオーゾとして名を馳せた。
カルクブレンナーが受けた教育には、後に「フランス的」と呼ばれるようになる質が現れていたと思われる。彼の師匠はルイ・アダン教授(1758~1848)で、チェコの音楽家ルートヴィヒ・ヴェンツェル・ラクニッツ(1746~1820)とともにパリ音楽院最初期の公式ピアノ教本を書いた。この教本は、1804年にラクニッツの名を外して再編・出版された。カルクブレンナーはアダン自身から、そして修了後はこの教本から多くを学んだ。アダンの打鍵に関する美学はこうである。「美しい音を出すようになるには、(中略)そしてpのときと同じようにfのときも音を響かせるためには、指の力だけを用いるよう慣れなければならない。」カルクブレンナーは、手に前腕の重さをかけない感覚に身体を慣らすため、手導器(guide-mains)という練習器具を考案し、自著『ピアノフォルテを学ぶためのメソッド』の中で紹介した。カルクブレンナーは、カミーユ・プレイエルとともにピアノ会社の経営に参与しており、このメソッドもプレイエル社から刊行された。彼のメソッドの技術的基礎は五指を完全に独立させ、明瞭で粒立ちの良い(=「真珠のような」)音を自在に奏することにあった。たとえば下の譜例のように音を出さずに全音符を押さえ、各指を動かす練習である。この種の「指の独立」の練習法は、プレイエルとドゥシークの『ピアノフォルテのための教本』(1797刊)にすでに現れており、1959年に刊行されたマルグリット・ロンのメソッドまで継承されることになる。

カルクブレンナー『ピアノフォルテを学ぶためのメソッド』(1831)より、指の独立のための練習
ショパンから見たカルクブレンナー
カルクブレンナーによる《ピアノフォルテを学ぶためのメソッド》は、1831年12月にフランス国立図書館に法定納本された。カルクブレンナーに心酔していた若きポーランド人ヴィルトゥオーゾが、このメソッドを手にしなかったはずがない。ショパンは、同年の9月にパリに到着したばかりだった。彼が同月に語っているカルクブレンナーの演奏に対する敬意は、本心からのものだろう。「彼のカルム[=静けさ、落ち着き。フランス語からのショパンの独自の借用]、うっとりするようなタッチ――信じがたいほどの均一さ、そして音符一つ一つにあらわれる名人藝――この巨人を前にしたら、エルツだのチェルニーだのは、つまりはこの僕も、踏みにじられるだけの存在だ。」(1831年12月12日 『ショパン全書簡 1831~1835パリ時代[上]』)

Grevedon (Pierre-Louis dit Henri). Portrait de Frédéric Kalkbrenner, 1829, Paris,
Musée de la musique, E.995.6.42. Photo : Guy Vivien
カルクブレンナーはショパンに「クラーマー流」の弾き方、「フィールド流」の打鍵を見出したが、ショパンはどの流派(エコール)にも属していないと思ったらしい。これは誉め言葉ではなく、演奏様式に確固たる基盤がないということだった。だからカルクブレンナーは3年間、自身の門弟となりしっかり勉強することをショパンに提案した。だがショパンは自分自身の道があることを直覚し、旧師エルスネルの助言もあって入門を踏みとどまった。この一件で、多くのショパン伝はカルクブレンナーを天才ショパンに振られたベテランとして印象づけがちである。しかし、カルクブレンナーの演奏様式は逆に言えば当時の規範的「エコール」であり、孫弟子のサン=サーンスに至るまで受け継がれた美学を体現している。それゆえその詳細が分からなければ、ショパン独自の美学との差異も判明とはならないだろう。

Götzenberger, Jakob. Chopin au piano, 1838. Fryderyk Chopin Museum, MC/352
カルクブレンナーの「カルム(落ち着き)」
では、カルクブレンナーの「カルムcalme」な演奏とは何を意味するのか?まず、カルクブレンナーの師ルイ・アダンがメソッドの中で作品を引用しているC. P. E. バッハの身振りの原則について見てみよう。C. P. E. バッハは『正しいクラヴィーア奏法』(1753刊)第1部第3章でこう述べている。
《自身が無感動であるために、彫像のごとく楽器の前に座っていなければならないような人の存在を知れば、これらすべてのこと[奏者の感情を聴き手に伝えるということ]が、少しの身振りもなしに行われうるということは否定されるだろう。醜い身振りは無作法かつ有害であるが、良い身振りは有益である。なぜならそれが、われわれ奏者の意図を聴き手に伝える助けとなるからだ。》
C. P. E.バッハは、ここで聴き手/観者の視点を考慮に入れている。別の箇所で「弱々しく悲しい箇所では、自らが弱々しく、悲しくならねばならない。人はそれを観て、聴くのである」とも書いていることからも、それは明らかだ。演奏は情念表出にあり、という前提は、フランスにおいても広く受け入れられていた(前回記事参照)。身振りは、それを効果的に聴き手に伝える限りにおいて有効であった。しかし、18世紀の末から刊行され始めたピアノフォルテの教本は、身振りの雄弁さを締め出していった。例えば、前述のプレイエルとドゥシークの教本には、C. P. E. バッハの教本と同様に、聴者の視線について記されている。だが彼らにとって奏者の身体は、決して雄弁であるべきではなかった。彼らにとって「優美さ」を聴者=観者に伝える姿勢とは、俯かず、背筋を伸ばして「猫背」を避け、「格好と然るべき優美さを保つために」肩を張らず、「どんなに難しいように見える所でも」呼吸しやすい姿勢である。結果として、「前腕だけが動くべきであり、肩から肘にかけての部位、および頭は動くべきではない。」そして、「表現は顔の表情から来るのではなく、心が表現を指に伝え、指だけが、様々なタッチの変化によって、各々の音楽作品にふさわしい表現をもたらすのだ」。後に、カルクブレンナーは前述のメソッドで、そのようなドゥシークの演奏を「優美さの模範」と見なし、「指が動いている間、腕は全く動かない」と書いている(ここでの腕は上腕のことだろう)。
しかし、奏者の所作の抑制は、情念の表出を否定するものではなかった。カルクブレンナーの孫弟子にあたるサン=サーンスは、カルクブレンナーの流派が常に「エスプレッシーヴォ」を要求したと述懐している。しかし、それは大きな身振りによって表現されるべきではなかった。カルクブレンナーにとって、情念の表出は感情の赴くままに行われるべきではなく、冷静な計算によって制御されるべきものだった。彼は円熟期の俳優フランソワ=ジョゼフ・タルマ(1763~1826)の語りを引用している。「私の[演技の]効果が計算され考え抜かれ、私が自らの最高の主人になったときに、いつも最高の喝采を浴びた」。カルクブレンナーはこれを受けて、ピアノ演奏にも自制心を発揮することが重要だと力説する。
演奏する曲の美しさを表現するには、心意気と熱意がなければならない。だが、それは自身の受けるすべて霊感に危なげなく身を委ねる術を学んで初めて持つべきものだ。人前で演奏するときに熱意に身を委ねると、踏み越えてはいけない一線を定め難くなり、演奏に明瞭さが保てないほどに激高してしまう危険を冒しかねない。
「落ち着きある」身体は、知性によって「霊感」や「熱意」が統制されていることを表していた。
社交性と奏者の姿勢
次に、「カルムcalme」を社交性という視点から考えてみよう。「彫像」のような身体という理想は、18世紀における社交所作に一致している。舞踏教師シュヴァリエ・ド・ロンドーによる若年者向けのマナー教本『身のこなしの手引き、および自らを優美に見せる方法』(1760刊)には、「散歩、集会、隣人・友人・目上の人の家、公爵の館、および教会」で通用する作法が記されている。頭の動きについて書かれた第二章には、その動きを制限すべき理由が示されている。
《頭は常に堅苦しさを除き、張り子の人形のように頭が下がったりしないよう、高くも低くもなりすぎないように留めるべきである。つまり、頭をまっすぐに、胴体に対してバランスよく、右や左に回転させ、必要に応じて上げたり下げたりして、傾げたり、肩と胴を同時に回したりせず、決してゆすったりしないこと。話しているときは動かさず、もし時折「はい」というために二度うなずいたり、「いいえ」というために少し頭を振ったりする場合には、それらの動きはたいへん慎ましくあるべきで、「はい」または「いいえ」と発音するために言葉を発せられない場合にのみ生じるべきものである。その他の動きはすべて、話しているときによからぬ優美さ、つまりは不作法となるのであるから、慎むべきである。》
こうした社交所作は、旧体制下の宮廷に由来する。社会学者のノルベルト・エリアスが述べるように、権謀術数の渦巻く宮廷においては、わずかな所作によって、動作主の背景や目論見が読み取られかねないため、過度な感情表出という予見不可能な行動は回避された。「宮廷的合理性」と彼が呼んだこの行動規範は、必然的に強い感情を表現する身振りの抑制を要求した。宮廷における地位存続上の必要から様式化された身のこなしは、ロンドーの著作において、市民階層の行動様式規範として示されている。19世紀、自由主義が拡大するにつれ、市民は上流階級の行動規範に憧れ、これを採り入れるようになった。同時に、ピアノは、裕福な市民のステイタスシンボルになっていた。ショパンがわざわざフランス語でカルクブレンナーに「カルムcalme」な質を見出したのは、感情を統制しながら演奏する貴族的なエレガンスを見て取ったからだろう。
やがてショパンはパリで自身の道を確信し、固有の演奏法を体系的に理解するようになってからは、カルクブレンナーの流儀にきっぱりと反対的立場を示すようになる。それはとくに、均質な指よりも個々の指の個性を重んじるところから来る美学の相違に由来していた。ショパンの奏法は弟子たちによって伝承され、それ自体が一つの新しい流派を形成していった。その結果、フランスは、「フランスらしい」アカデミックな奏法(ジュ・ペルレ)とは別に、「ショパンらしい」奏法というもう一つの伝統を持つようになった。
〈補遺〉
昨今、ピリオド楽器による演奏実践が急速な広がりを見せ、演奏者、研究者、聴衆がそれぞれの視点から見解を述べている。楽譜だけではなく、身体や楽器、情念表出に関する理論的・美学的背景も追究されている。いくぶん混乱した状況も見られるが、とくに身体についての問題でいつも注意しなくてはならないのは、過去の教本等に記述された事柄と演奏者の体感に生じうる差異である。例えばカルクブレンナーが上腕の動きを禁じたからといって、指が動く間、実際に上腕筋や背筋が休んでいるわけではない。I. プレイエル、ドゥシークやカルクブレンナーたちが書いたことは、一方では知性を「どのように観せるか」という文化的な言表である。また他方では、彼らが示す奏法は、彼らの長年の経験から導かれた運動学的な帰結(合理的で自然な姿勢)でもありうる。ピアノ演奏史(特に身体)に関する議論は、文化的な側面と運動学的側面の両方から意味づけを行われなければならないが、そうした議論の場が形成されるには、もう少し時間がかかるだろう。