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12/11(金)1843年製プレイエルによるシューマン《謝肉祭》《クライスレリアーナ》《幻想曲》+中川真新作 (2020/11/28 Update)

【第3回】2020年12月11日(金)19時開演(18時半開場) 
大井浩明(フォルテピアノ独奏)

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松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) 渋谷駅徒歩10分、神泉駅徒歩2分
全自由席 5000円
お問い合わせ pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)〔要予約〕

使用楽器:プレイエル社1843年製80鍵フォルテピアノ(430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]



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□R.シューマン(1810-1856)
●《謝肉祭 - 4つの音符によるドタバタ劇 Op.9》 (1833/35)(全20曲) 28分
  [緒言 - ピエロ - アルレッキーノ - 高雅なワルツ - オイゼビウス - フロレスタン - 艶女 - その追記 - (スフィンクス) - 蝶々(パピヨン) - A.S.C.H.-S.C.H.A.(踊る文字) - キアリーナ(クララ) - ショパン - エストレラ(エルネスティーネ) - 再会 - パンタローネとコロンビーナ - ドイツ風円舞曲 - (間奏曲)パガニーニ - 告白 - そぞろ歩き - 幕間 - ペリシテ人に対するダビデ同盟の行進]

●《クライスレリアーナ - ピアノのための幻想曲集 Op.16》(1838)(全8曲) 30分
 I.Äußerst bewegt - II. Sehr innig und nicht zu rasch - III. Sehr aufgeregt - IV. Sehr langsam - V. Sehr lebhaft - VI. Sehr langsam - VII. Sehr rasch - VIII. Schnell und spielend


  (休憩)

□中川真(1951- ):フォルテピアノ独奏のための《非在の声》(2020、委嘱初演)  10分

●《幻想曲 Op.17(初稿)》(1836/39)(全3楽章) 30分
  I. (遺址)Durchaus phantastisch und leidenschaftlich vorzutragen - II. (凱旋門)Mäßig. Durchaus energisch - III. (星辰)Langsam getragen. Durchweg leise zu halten


   [使用エディション:新シューマン全集版(2016/2018)]




中川真:フォルテピアノ独奏のための《非在の声》(2020)
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  インドネシアのジャワ島のある街で、ガムラン音楽の新作のリハーサルをしているというので、現場に行った時のことだ。紙切れ1枚に数字譜が書かれ、それをもとに15人くらいのプレーヤーが演奏しているが、しばしば止まっては、あれこれ相談が始まる。作曲者らしき人はいるのだが、お構いなしだ。やがて皆が納得する作品ができあがる。ガムランには有名な曲が多くあるが、作曲者名が記されていることは、まずない。基本的には共同作品であり、匿名である。結果としてエッジの効いた曲は少なくなるが、個性よりも集合性を優先させる作品づくりに強い興味をそそられた。
  私は様々なコミュニティ(例えば過疎地の人々、障害のある人、元ホームレスなど)で協働的な作品づくりをしているが、「私」はできる限り消し去り、そこにいる人々の声を最大限に聴き取ろうと努めている。10人いれば10の声があるわけだが、その10人は孤立した10人ではなく様々なネットワークに紐づけされている。そこでネットワークからの声もまた山彦のように反響する。その曖昧模糊とした声の集合の彼方から、時折、雲間に射す一条の光のごとくクリアな声が聞こえてくるのである。それが聞こえた時、作品は生き始めると思っている。
  ガムラン音楽には「隠された旋律 lagu tersembunyi」という現象が存在する。ガムランはゆったりとした旋律が豊潤な装飾的音群によって覆われた彩色的な音楽であるが、コアな聴き手はその音響を手がかりに「隠された旋律」を聴くという。聴き手の中でそれは具体的な旋律の像を結ぶ。
  私には上記2つの話は繋がっているように思える。近年、コミュニティ・エンゲイジド・アートの実践が活発化してきているが、主に社会的価値が強調され美的価値への言及が少ない。その架橋を試みるのが私の仕事であると思っている。本作でも共同的な制作手法を用いたが、コロナ禍において私たちは集まることができなかったため、リモート制作を実施することとした。私からの投げかけに対して、様々な楽想やアイデアで応答していただいた今回のコミュニティの皆さん(下田展久、HIROS、西村彰洋、黒川岳、大井卓也、朝日山裕子、大畑和樹、和田悠花各氏)に深甚の謝意を表したい。(中川真)



  アジアの民族音楽、サウンドスケープ、アーツマネジメントを研究するかたわら、「現代アートの森」芸術監督(2000〜2008年)、楽舞劇『桃太郎』芸術監督(2001〜08年)、船場アートカフェディレクター(2004-2013年)を歴任。著書『平安京 音の宇宙』でサントリー学芸賞、京都音楽賞、小泉文夫音楽賞、現代音楽の活動で京都府文化賞、アーツマネジメントの成果で日本都市計画家協会賞特別賞、ゆめづくりまちづくり賞(共同)を受賞。他に『サウンドアートのトポス』、『アートの力』、小説『サワサワ』などの著作がある。ガムラン演奏家として国内外で活動し、インドネシア政府外務省文化交流表彰(2007)、総領事表彰(2017)を受ける。また環境騒音の取り組みに対して大阪府司法表彰を受ける(2019)。近年は社会包摂型アートの実践に注力する。大阪市立大学都市研究プラザ特任教授、インドネシア芸術大学、チュラロンコン大学(タイ)客員教授。1951年奈良県生まれ。




シューマンとフランス・ロマン主義───上田泰史

  19世紀初頭より、ピアノのヴィルトゥオーゾはこぞってパリを訪れた。かのベートーヴェンも、一時はパリ行きを計画して自身のヴァイオリン・ソナタをフランスの名手ロドルフ・クロイツェルに献呈した。結局断念したものの、作曲家にとってパリは大きな音楽市場であると同時に、なにより国際的人脈の築くのに適した文化圏だった。メンデルスゾーンは二度パリを訪れているし、ショパンは1831年から生涯パリに居を構え後半生をフランスで過ごした。その後輩エドゥアール・ヴォルフやペシュトからきたシュテファン・ヘラーも多かれ少なかれ同じ道を辿っている。だが、自由主義とコスモポリタニズムが浸透しても、ライン川を越えずに青春時代を過ごす音楽家もいた。シューマンはショパン世代のロマン主義音楽家の中でも、特異な例であろう。


エチュードへの憧憬

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 ヴィルトゥオーゾとして大成することを夢見ていた若きシューマンは、1832年、過度な練習から右手中指に変調をきたして以後も、ピアノ芸術に強い関心を向け続けた。カルクブレンナー、エルツ、そしてとりわけパガニーニから感化を受けて育まれた超越願望は、シューマンをピアノ音楽の更なる深みへと導いた。1830年にパガニーニを初めて聴いた日、彼は興奮した頭と手で日記にこう書きつけた。「夜にパガニーニを聴いた。芸術の理想への疑い。なぜなら、偉大で高貴で厳かな芸術の落ち着きが、彼には欠けていたから*。」藝術の静かなる美**という新古典主義的な価値観は、説明不可能な技巧と熱気によって根こそぎ覆され、シューマンに新たなピアノ音楽の地平を開いた。

*鄭理耀『ローベルト・シューマンとピアノ・テクニック――運指練習から多面的な音楽活動へ』より。
**ショパンは同じ頃、対照的にカルクブレンナーの「落ち着き」を称賛している(前回記事参照)。

  ピアニストの道を諦めながらも、大きく変化しつつあるピアノ奏法を作曲・分析的観点から追究し続けた。例えば1836年に自ら主幹を務める『音楽新報』で練習曲をテーマにした記事を投稿している。J. S. バッハ(おそらく《平均律クラヴィーア曲集》)を「練習曲」の嚆矢と見做しつつ、総勢22名の練習曲を分析対象とし、技巧別に29の視点からそれらに註釈を付けた。そこにはイングランドのクレメンティ、クラーマー及びポッター、チェコのモシェレス、ポーランドのシマノフスカおよびショパン、フランスのカルクブレンナー、エルツ、オーストリアのチェルニー、ドイツのフンメル、リース、ベルガー(メンデルスゾーンの師)、ケスラー、ヒラー、そして自身の作品3と10(パガニーニに基づく2巻の練習曲集)に至るまで、国際色豊かな音楽家の練習曲が含まれる。シューマンはザクセン王国に居ながらにして広く最新の情報を集め、ヨーロッパ的視点からの状況把握に余念がなかった。


アルカンへの批判

  ちょうどこの1830年代半ば、新しい世代の音楽家による「エチュード熱」がピアノ界を席巻し始める。ショパン、シューマン、ヒラーがそれ自体を表現の場とする「練習曲」の先陣を切り、リスト、タールベルク、アルカン、ヘンゼルトら同じ1810年世代の若者が続いた。同世代のヴィルトゥオーゾが一斉にエチュードを書き始めたことは、シューマンを喜ばせ、また苛立たせもした。とりわけ彼は、フランスの急進的な動向に我慢がならなかった。彼の批評の矛先は、アルカンに向けられた。
  1838年5月29日、シューマンは前年に出版されたアルカンの《悲愴的ジャンルの3つの断章》作品15に辛らつな批評を書いた。

 《この曲集にざっと目を通すだけで、この新フランス人の趣味に気づく。それはウジェーヌ・シューとジョルジュ・サンドの著作を感じさせる。藝術と自然さが同じように欠如しているのを前にして、唖然としてしまうのだ。リストは少なくとも知性を持って風刺する。ベルリオーズは錯乱だらけだが、あちこちで人間らしい心を見せている。彼は力強さと大胆さ溢れるリベルタンなのだ。だがこの曲集に見出されるものときたら、ほとんど精神的脆弱とあらゆる想像力なき凡庸さばかりである。これらの練習曲には次のようなタイトルが付いている。〈私を愛して〉、〈風〉、〈死せる女〉。そして50頁に亘って僅かばかりの演奏指示さえない音符の洪水が目を引く。気まぐれにさえ、その責任は負わせられないだろう。いずれにせよこの種の音楽をたいへんうまく演奏する方法については、知られているのだから。だがこの作品では、内面の虚しさが、目にも明らかな空虚さと相まって際立っている。あとは何が残るだろうか。(後略)》*

*仏訳(1994)からの和訳。アルカンの当該作品の初版には実際、強弱等の表現指示がない。献呈を受けたリストに対する挑戦心、ないしは敬意からだろうか?

  さらに翌年5月24日、フランスで《12ヶ月》と題して出版されたアルカン作品の抜粋版《6つの性格的小品》に対する批評ではアルカンとフランス・ロマン主義をこう位置づけた。「この作曲家はフランス・ロマン主義者たちのなかでも最右翼に属し、ベルリオーズを模倣している」。シューマンの見解は、全体として前年に打ちのめした作品15よりも好意的とはいえ、「心(âme)、この語はおそらくどのフランス語辞典にも載っていないし、この国で生まれた作品にも欠けている」と敵愾心を隣国文化全体に敷衍している。


シューマン作品の伝播

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  遡ること3ヶ月、シューマンの婚約者で19歳の若きクララ・ヴィークは小間使いをつれてパリを訪れていた。この旅行に父フリードリヒは伴わず、クララは国際的ヴィルトゥオーゾとしての自立心を確立していた。この旅の目的は、ピアニスト兼作曲家としての成功と首都の著名音楽家たちとの人脈作りだったことだろう。だがもう一つ、彼女には別の使命があったようだ。それは、シューマン作品をフランスに紹介することである。パリで、クララはマイアベーアやアレヴィ、オベールといったオペラ作曲家に加え、当然のことながら、多くのピアニストたちと交流した。カルクブレンナー、ヅィメルマン、オズボーン、アルカン、ショパン、デーラー、コンツキ・・・。彼女自身は3月、パリ・デビューとして出版人シュレザンジェのサロンでタールベルクの「カプリース」、ヘンゼルトの「変奏曲」、シューベルトの歌曲編曲(おそらくリスト編)、自作《4つの性格的小品》作品5から〈幻想的情景:亡霊の舞踏会〉と〈即興曲:サバト〉を弾いた。特にこの自作は「ファウスト熱」に取り憑かれていたパリの「ロマン主義的」な聴き手を意識した選曲である。プログラムからシューマン作品を除いたのは、おそらくパリの聴衆の趣味に合致しないと考えたためだろう。では、クララはどこでシューマンの作品を弾いたのか。
  1839年5月後半から6月初旬にかけて、彼女の書簡と日記にはシューマン作品をヅィメルマン(パリ音楽院ピアノ教授、アルカンの師)およびアルカンのサークルで演奏したことを示唆する記述が現れる。日を追って見てみよう。

-5月26日の日記:「ヅィメルマンとアルカンの来訪。私はシューマン作品[複数]と自作の練習曲を弾いた。アルカンも自作の幾つかを弾いたが、テクニックはとてもまずい。彼はたくさんの才能があり素晴らしい着想もあるが、どれも余りに遅く弾いた。」
-5月28日、シューマンへの手紙:(同じ機会について)「最近、ヅィメルマンがアルカン(他の数多の才能豊かな作曲家の一人)を伴って私を訪ねてきました。私は彼らに《謝肉祭》[作品9]と《交響的練習曲》[作品13]、それに《子どもの情景》[作品15]を弾いてあげました。アルカンはすっかり魅了されたけれど、彼らが完全に理解したとは思いません。(中略)アルカンが、あなたがどんな人か尋ねてきたけど、私ったら、とても困惑してしまって、エミールが代わりに話したわ。彼女はあんまり熱心に貴方のことを説明するものだから、皆さん、エミールが貴方のフィアンセだと思ったかもしれないわね(後略)」
-6月2日、シューマンへの手紙「アルカンの〈過越祭〉が貴方の一番気に入らない曲だというのは本当に不思議だわ*。私としては、ごく短い曲のなかでも、最良の曲と評価しようと思います。アルカンはピアニストとして興趣はないし、それどころか、潤がない。貴方は雑誌で熱心に書いているわね、まだ読んでないけれど、何か貴方が書いた記事がないか、受け取り次第いつも頁を繰っているわ。」
-6月8日、日記「アルカン来訪。彼のためにシューマンの《幻想曲》[作品17]**を弾く」
-6月11日、シューマンへの手紙(同じ機会について)「最近、アルカンにあなたの《幻想曲》を弾いてあげたの。すっかり魅了されていたけど、誰も私のようには、貴方の曲を理解できないわ――不可能よ、当然!」

* 〈過越祭〉は上述《12ヶ月》の第4番で、シューマンは5月24日の記事で「取るに足らない」曲と切り捨てている。
** クララはロベルトから5月23日に《幻想曲》の楽譜を受け取っている。つまり、彼女はアルカンを最初の聴き手に選んだ可能性が高い。


シューマン作品の出版拡大

  行間に垣間見られるクララの作曲家アルカンに対する好意的評価のせいで、前後して出版された《12ヶ月》についてのシューマンの批評は、かえって辛辣さを増したようだ。ともあれ、クララのパリ滞在はフランスにおけるシューマン受容の端緒となったことは間違いない。それまで、シューマン作品はフランスで全くといって良いほど知られていなかった。1839年以前にパリ刊行されていたのは、《クララ・ヴィークの主題による10の即興曲》作品5(1834)、《謝肉祭》作品9(1837)だけであった。しかし、1839年から40年にかけて、《パガニーニの奇想曲による6つの練習曲》作品3、《トッカータ》作品7、《パガニーニの奇想曲による6つの演奏会用練習曲》作品10、《交響的練習曲》作品13、《子どもの情景》作品15、《アラベスク》作品18、《花の曲》作品19、《フモレスケ》作品20が相次いで出版された。1840年、ヅィメルマンはパリ音楽院用に執筆したピアノ教則本『ピアニスト兼作曲家の百科事典』でシューマンが作品3の序で示した練習課題を採り上げ、シューマンに礼状とともにこの教本を贈った。この教本には、ヅィメルマンとその弟子アルカン、プリューダン、ラヴィーナが書き下ろした練習曲が含まれているが、ラヴィーナのエチュードはおそらくシューマンの《トッカータ》をモデルにしている。ヅィメルマンはクララだけでなく、ショパンからもシューマン作品を知ったことを礼状に記している。シューマンは1838年に上梓した《クライスレリアーナ》をショパンに献呈しているから、当然、クララのパリ滞在中にシューマン作品が話題となれば、ヅィメルマンにあれこれ感想を述べたことだろう。


パリ音楽院ピアノ科とシューマン作品

  シューマンを弾くフランス往年の巨匠といえば、アルフレッド・コルトーやイヴ・ナットの録音を思い浮かべる。二人ともパリ国立音楽院出身だが、それ以前にシューマン作品に熱心に取り組んだピアニストと言われると、あまりピンとこない。20世紀初期にアンリ・エルツの弟子ロジェ・ミクロスによる録音もあるが、そこに至るまでのシューマン作品受容の足取りはごくゆったりとしたものにすぎなかった。「コンクール」と呼ばれる公開修了選抜試験の課題曲となったのは、男子クラスで1877年と1900年、女子クラスで1882年と1895年の、4回に過ぎない。曲は《ピアノ・ソナタ 第2番》作品22と《謝肉祭》作品9、《幻想小曲集》作品12-7〈夢のもつれ〉である。1865年時点で、ピアノ教授たちのシューマンに対する見解は前向きではあるが、やや躊躇いの色が見える。フェリックス・ル・クーペ教授は、シューマン作品を「様式やしばしば奇妙な和声の点で全く古典的、ではない」と保留しつつも、「古典という言葉が、学ぶに値するものすべてを指し示すのなら、日ごと名声を高めているこの大家の諸作品を探究することは不可欠ということになろう」として《子どもの情景》を高く評価している。パリ音楽院の定期試験記録では、1868年にはじめてル・クーペの生徒が弾いた《アルバムの綴り》作品124の抜粋が最初である。「奇妙な和声」や錯綜した形式は、明晰判明性を尊重するフランス文化にはすぐに馴染まなかったのだ。そのため、音楽院はまず解毒剤としてシューマンとショパンを「中和」したシュテファン・ヘラー作品を広く受容した。そして漸く、1870年代以降、ピアノ科でシューマン作品が広く弾かれるようになっていった。
  その頃、晩年に差しかかっていたアルカンは、都会の隠遁生活を終えてエラール社屋で連続演奏会を行っていた。プログラムには、シューマンの足鍵盤付きピアノのための作品や、室内楽が組み込まれた。アルカンがシューマンのかつての批評を読んだり、その内容を伝え聞いたりしたのかついては、はっきりとしたことは判らない。だが仮に知っていたとしても、人生の秋に、彼は亡きシューマンの辛辣な批評さえ懐かしく思い出すことができたことだろう。











by ooi_piano | 2020-11-28 23:00 | Pleyel2020 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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