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2/27(土)1843年製プレイエルによるアルカン《12の短調エチュード(全曲)》+C.レンナース新作 (2022/02/13 Update)


アルカン関係ツイートまとめ

英国アルカン協会会報(2021年9月号、第102巻)の英文インタビュー(pp.12-15)


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【第5回】2021年2月27日(土)18時開演(17時半開場)
大井浩明(フォルテピアノ独奏)

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松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) 渋谷駅徒歩10分、神泉駅徒歩2分
全自由席 5000円
お問い合わせ pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)〔要予約〕

使用楽器:プレイエル社1843年製80鍵フォルテピアノ(430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]






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●C.V.アルカン(1813-1888): 《短調による12の練習曲 Op.39》(1857)
Charles-Valentin Alkan : Douze études dans toutes les tons mineurs Op.39

〈第一部〉 15分
I.風のように Comme le vent. Prestissimamente
II.モロッソス格で En rhythme molossique. Risoluto
III.悪魔的スケルツォ Scherzo diabolico. Prestissimo

〈第二部〉 27分
IV.~VII.ピアノ独奏による交響曲(全4楽章) Symphonie pour piano seul
  第1楽章 Allegro Moderato - 第2楽章 ある善き人物の死に寄せる葬送行進曲 (Andantino) - 第3楽章 メヌエット - 第4楽章 Presto

〈第三部〉 55分
VIII.~X.ピアノ独奏による協奏曲(全3楽章) Concerto pour piano seul
  第1楽章 Allegro Assai - 第2楽章Adagio - 第3楽章 Allegretto alla barbaresca

〈第四部〉 30分
◇クロード・レンナース(Claude Lenners)(1956- ):フォルテピアノ独奏のための《パエトーン Phaeton》(2020、委嘱新作初演)
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XI.序曲 Ouverture. Maestoso-Lentement-Allegro
XII.アイソーポスの饗宴(主題と25の変奏) Le Festin d’Ésope. Allegretto senza licenza quantunque




クロード・レンナース:フォルテピアノ独奏のための《パエトーン》(2020)
  アポロンの息子パエトーンは、父と彼の関係を証明するため、周囲の制止を振り切って太陽の馬車を駆り出した。ゼウスでさえ制御するのが難しい馬車は暴走し、まず馬が高く走り過ぎて地上は凍り、それから近付き過ぎて大火災となった。やむなくゼウスは雷でこれを撃ち落とし、パエトーンは絶命した。パエトーンは、分を弁えぬ人類の傲慢さの比喩であり、現代でも軍拡や環境破壊、原子力問題にその具体例を見出すことが出来る。(クロード・レンナース)

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クロード・レンナース Claude Lenners, composer
  ルクセンブルク大学人文科学学部で音楽学を、ルクセンブルク音楽院で作曲を学ぶ。ローマ・メディチ荘滞在(1989-91)、デュティユ作曲賞第1位(1991)、ダルムシュタット講習会奨学生賞(1992)、第14回入野賞(1993)等。作品は、ルクセンブルクフィル、トゥール歌劇場管、ザールブリュッケン放送響、アンテルコンタンポラン、ルシェルシュ、アクロシュノート、ASKO、アルテルエゴ(ローマ)等の団体や、多くのソリストによって演奏され、ルモワーヌ社、アルフォンス・ルデュック社他から出版されている。1992年以来、ルクセンブルク音楽院で作曲、楽曲分析、コンピュータ音楽の教授を務める。





Ch.-V.アルカン:人物と練習曲について――上田泰史(音楽学)

「アルカンは、ショパン、 ヘラー、リスト、タールベルクの華麗な流派のいずれにも関係してはいるものの、直接これらの模範を映し出してはいない。アルカンは彼自身で完結しており、その美点と 欠点によってのみ、ほかの誰でもない、彼なのだ。彼は固有の言語で考え、語りかける。」

  この人物評は、パリ音楽院ピアノ科教授アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルが、後年に同窓生のアルカンを振り返って書いたものである。独創性は、ロマン主義に与する音楽家にとって不可欠の条件だった。それは、ロマン的精神が外的世界よりも内的世界を重視するからであり、また個々の内面的差異の現れによって作品の価値を測るという新しい基準が通用するようになったからである。
  ロマン主義運動は、伝統的に認められてきた公式の慣習に背を向け、想像力が創作の主導権を奪取したときに、花開いた。音楽におけるこの運動は1820年の後半から30年代というごく短い期間に爆発し、ヨーロッパ中へと波及した。ロマン主義の素地はフランス大革命(1789年)で作られ、七月革命(1830)が起爆剤となった。19世紀前半の自由主義を求める急進的な政治運動と連動しているだけに、ロマン主義の芸術運動も、理論的基盤の整備を待たずに、創作的表出が先行した。
  創作における変化はまず文学で起こり、音楽、絵画など他ジャンルへと拡がっていった。文学青年のベルリオーズやシューマンがそれぞれフランスとドイツでロマン主義の旗振り役となったのは、偶然ではない。ベルリオーズの10歳年下で、シューマンの3歳年下のシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813~1888)を育んだのは、ロマン主義のゆりかごとしてのパリだった。


ロマン主義×宗教

  だが、彼の芸術的素地の形成にはもう少し複雑な背景がある。一つは、モランジュ家(註1)が信仰していたユダヤ教である。ヤーウェ(ヤハウェ)に捧げられた謹厳な信仰とロマン主義は、アルカンの創作を加速させた二つの軸を成している。これらは一見相反するように見える。信仰は伝統や慣習を重んじるが、ロマン主義は旧い慣習の打破を目指すからである。しかし、宗教とロマン主義は往々にして個々の教義とは衝突するものの、永遠なるものを目指すという点で精神的な親和性がある(註2)。アルカンの場合、時に芸術(音楽)が信仰の領域を侵しているように見えることさえある。ユダヤ教徒でありながらプロテスタントの讃美歌に主題を求めたり(足鍵盤付ピアノのための《ルターのコラール〈我らの神は堅き砦〉に基づく即興曲》)、《大ソナタ》ではカトリックの聖体の祝日に歌われる聖歌を引用したりしている。アルカン伝の著者ブリジット・フランソワ=サペは、彼の創作にエキュメニズム(広義での宗教統一運動)の理想を見ている。いずれにせよ、アルカンはロマン主義×宗教という二つの内面的領域の交わる世界を生きた、典型的なロマン主義の音楽家である。

註1 アルカンという姓は、父の名アルカン・モランジュから採られている。彼の姉弟はみなアルカン姓を名乗った。姉弟全員が音楽家となったので、シャルル=ヴァランタンは終生「アルカン長男Alkan aîné」と署名した。
註2 若くして信仰篤いヴィオラ奏者・オルガン奏者のクレティアン・ユランやラムネー神父と交わり、長じてカトリックの下位聖職者となったリストの場合にも当てはまる。


パリ国立音楽院での学習時代

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  宗教とロマン主義という内なる熱源を具現するには、現実世界で駆動する機械が必要だった。その一つが、ピアノである。19世紀前半、産業革命はパリに蒸気機関車と鉄道をもたらし、ピアノには金属製のフレームをもたらした。エラール、プレイエル、パープといったピアノ製造者たちは気温や湿度変化から受ける影響を最小化する工夫を凝らし、また大きな会場での演奏に耐えるよう弦長と張力を増強するなど、楽器の改変に勤しんだ。
  ところで、アルカンの父はパリのマレ地区で私塾を営み、音楽や文法を教えていた。そこには後にパリ音楽院のピアノ教授のポストをめぐり争うこととなるマルモンテルなど、パリ音楽院の級友となる子どもたちが集まっていた。アルカンは当然、ここでピアノを始めたはずである。6歳でパリ音楽院のソルフェージュ科に登録し、翌年にはジョゼフ・ヅィメルマンの受け持つピアノ科に登録した(この年、人前でヴァイオリンも弾いている)。ピアノ科のレッスン室にはエラールがあり、週に数回、若い学生がピアノを囲んで代わる代わる演奏した。1824年の修了選抜試験で一等賞を得て、10代前半にして音楽界に華々しくデビューする。和声・伴奏科も修了したアルカンは作曲の勉強にも勤しんだ。ケルビーニの愛弟子で、かつて作曲教授資格試験に合格したことのあるヅィメルマン師には、ピアノのみならず作曲理論も師事し、学士院が主催する作曲コンクール(ローマ大賞コンクール)にも2度挑戦した。1832年に書いたカンタータ《エルマンとケティ》は選外佳作に選ばれた。さらにオルガン科では1834年に一等賞を得ている。この華々しい受賞歴は、アルカンに音楽家としての多方面での活躍を約束した。
  しかし、アルカンはピアノに専心した。それは、単にピアノの演奏やレッスンで収益が見込めたというだけではなく、ピアノこそが自らを突き動かす表出的欲求を引き受けてくれる手段だったからだろう。その内発的な力は、1828年に出会ったリストとのライバル関係によっても増幅された。
  アルカンのピアノ作品の出版は、1826年に遡る(《シュタイベルトの主題による変奏曲》作品1)。産業化が進むせわしい都会で、アルカンはスピードに対する嗜好を培った。1828年に出版されたロッシーニ風の《乗合馬車》作品2は、1844年に《鉄道》作品27へと「工業化」を遂げた。これは単なる外的事象の描写ではなく、ロマン主義的自己の表現である。技術革命がもたらした、人力をはるかに凌駕するテクノロジーは、超人たることを望んだファウストが己の魂と引き換えに手にした魔術の比喩であり、蒸気機関車のスピードと威容は、ピアニストの超越的願望に充分に応え得る主題だった。


ロマン的なものと古典的なもの

  ピアノを通して、若きアルカンは熱烈な信仰心も吐露している。《アレルヤ》作品25、《前奏曲集》作品31および《歌曲集》作品38/38bisの幾つかの曲には、ヘブライ聖書の詩編やソロモンの雅歌からの引用、あるいは「祈り」といった言葉が題名に用いられている。前述の通り、彼の宗教的関心は音楽的領域においてはキリスト教にも拡大されている。その一方で、古くから変わらぬ善きもの、真なるもの、美なるものの探究を通して、アルカンの眼差しはギリシャ古典文芸にも注がれていた(《大ソナタ》におけるアイスキュロスの悲劇、《全ての短調による12の練習曲》におけるアイソーポス[イソップ]の寓話)。
  古きものへの関心は、バッハ、ヘンデル、グルックといった音楽における古典への愛着にも通じている。1847年、アルカンは《音楽院の想い出》と題して、古典音楽の牙城として知られたパリ音楽院演奏協会のレパートリーから抜粋した6曲のトランスクリプションを刊行した。マルチェッロ、グルック、ハイドン、グレトリ、モーツァルトの作品を収めるこのトランスクリプション集の制作に当たり、アルカンは原曲の楽譜テクストを丹念に辿りながら、かつピアノの効果を損なわない「手ごろな難しさの」編曲を目指した。「全てを聴かせながらも、どのパートが際立たせられなくてはならないか、どのようにそのパートがあるべきか、さらに、それらがどのように伴われ、光が当てられ、あるは陰に残されるべきなのかということを知ること、こうしたことがこの[編曲の]技術(中略)なのである。」(楽譜序文より)出版はされなかったものの、この年にはベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第5番》の緩徐楽章やグルックのオペラ《アルセスト》より〈大司祭たちの行進〉のピアノ独奏用編曲も手がけている。
  これと対照を成すように、アルカンは33歳までのロマン主義的創作の総決算として《大ソナタ》作品33(1847刊)を発表した。20歳から50歳まで、人間の人生を10年毎に4つに区切り、これを次第に遅くなる第1楽章から第4楽章に割り当てた。第2楽章と第4楽章はそれぞれゲーテの『ファウスト』を、第4楽章はアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を題材にしている。前者はロマン主義の神話であり、後者は古代ギリシャの神話である。


練習曲

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  1848年、アルカンの旧師ヅィメルマンは、教育における影響力の低下と同僚からの敵意を受けて、院長オベールに辞表を提出した。ヅィメルマンの後任人事が始まると、アルカンを含むヅィメルマン門下の4名が院長の指名を受けた。アルカン、ラコンブ、プリューダン、マルモンテルのうち、マルモンテルは作曲の業績が殆ど無かった。だが教育実績とおそらく人柄から、院長オベールやヴィクトル・ユゴーの後ろ盾を得ていた。一方のアルカンは比類無い実績にも拘わらず、むしろその強烈なロマン的作風からか、院長の好意を得ていなかった。彼を育てたヅィメルマン師には指名権も任命権もなかった。アルカンはジョルジュ・サンドを介して任命権を持つ大臣に接触し直訴を試みたが、おそらくマルモンテルに対する攻撃的な文面が裏目に出たのだろう、教授のポストにはマルモンテルが任命された。この年に出版された意欲作《全ての長調による12の練習曲》作品35(1848)も、結局のところパリ音楽院での教授職獲得に貢献することはなかった。
  この一件は子ども時代から続くマルモンテルとの仲を決定的に引き裂いた。さらに翌年、親友ショパンの死の報も受けて、彼は表向きの音楽活動をほぼ中止した。1851年からは出版も中断し、以後6年間、作品45以外、ピアノ曲は出版しなかった。この沈黙は、社会に対する不信感の表示であったが、同時に作曲と出版準備に捧げられた雌伏でもあった。アルカンは、打ち砕かれた栄達への期待を創作へと差し向け、創作者としての才能を世に問うことを願ったのである。

  1857年、作品37から47(43, 44は欠番)に至る作品群が沈黙を破った。1846年から書き溜められた《全ての短調による12の練習曲》作品39はアルカンの創作史上のみならず、練習曲というジャンル史上超弩級の作品である。長調による作品35と同様、この練習曲集もアルカン作品に好意的な評を寄せてきた博識の音楽史家フランソワ=ジョゼフ・フェティスに献呈された。その規模は12曲からなる練習曲としては前例がなく、ロマン主義的な題材(風、悪魔)、ならびに古典的な形式(スケルツォ、交響曲、協奏曲、序曲、変奏曲)を包摂している。「ピアノのベルリオーズ」(ハンス・フォン・ビューロー)という形容に違わず、アルカンはこの練習曲で究極の技巧と管弦楽的な効果を徹底して追究した。演奏時間は通奏するとおよそ120分前後を要する。ショパンの作品10と25が各々約30分、リストの《超絶技巧練習曲集》が約65分であることを考えれば、これが如何に長大であるかが分かるだろう。この長さの理由は練習曲というジャンルの中に交響曲、協奏曲、序曲といった、大規模な規範的ジャンルを取り込んだことが一因である。12曲が形作る大伽藍は、19世紀に「シリアスな」と形容されたアカデミックな器楽ジャンルの一覧を成している。かくてアルカンは、社会的挫折からくる憂鬱を創作へと昇華したのだった。
  作中にはベートーヴェンとショパンの回想が垣間見られる。「ある善き人物の死に寄せる葬送行進曲」と銘打たれた〈交響曲〉の第二楽章(葬送行進曲)は、ベートーヴェンの《交響曲第3番「英雄」》の「ある偉人の思い出を記念して」という標示を喚起する。協奏曲はトゥッティ部分にも想定される楽器の指示が入念に書き込まれ、ピアノのカデンツァもすべて記譜されている(第一楽章だけで約30分を要する)。ポロネーズをフィナーレに配したこの協奏曲は、亡き友ショパンの回想とも見られるが、同時に「野蛮な(Alla barbaresca)」荒々しさが際立っている。終曲〈アイソーポス[イソップ]の饗宴〉は8小節の主題に25の変奏が続く。この主題は、アルカンが1842年に編曲したモーツァルトの《交響曲第40番》(K 550)のメヌエットに由来するとされるが(R. Smith)、近年では食事の前に歌われるユダヤ教の感謝の歌との関連も指摘されている(A. Kessous Dreyfuss)。「饗宴(festin)」は豪勢な食事のことでもあるから、これはありそうな説である。

  アルカンは1888年に74歳で没した。彼の音楽はその後、演奏と作曲の両領域に長い影を投じている。演奏の領域において、アルカン作品は第二次世界大戦まではパリ音楽院定期試験でも時折弾かれていた。父の夢を引き継いでパリ音楽院教授となった息子エリ=ミリアン・ドラボルドを中心として、イジドール・フィリップ、マルグリット・ロン、コルトーらのクラスの生徒がパリ音楽院の試験でアルカンの曲を弾いている。特にドラボルドとフィリップはコスタラ社から刊行されたアルカン作品集の校訂を担当した(もっとも、彼らの仕事は初版プレートに注釈なしに手を加えるという作業に留まっている)。同じ頃、フランス以外では、フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)が、アルカン作品をレパートリーとし、ベルリンで演奏した。彼はアルカンをショパン、シューマン、リスト、ブラームスと並ぶ、ベートーヴェン以降のピアノ音楽の大家として称揚している。ブゾーニを尊敬し、『ピアノ・ソナタ第二番』を彼に献呈した英国の作曲家兼ピアニスト、カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(1892-1988)もやはりアルカンの独自性を称揚した。
  創作の領域において、ソラブジが1940年代に作曲した100曲の《超越的練習曲》や《私一人で、オーケストラなしで演奏する、気晴らしのための協奏曲》(第3楽章はアルカンOp.39-3〈悪魔的スケルツォ〉と同表題)は、練習曲及び協奏曲というジャンルを独自の視点で捉えたアルカンの着想を継承している。やはり英国の作曲家で1946年生まれのマイケル・フィニッシーの作品にもアルカンの影が見える。《アルカン=パガニーニ》(1997)の冒頭の楽想記号「アッラ・バルバレスカ」は、アルカンの作品39-10のそれと同じである。

  第二次大戦後、アルカンの音楽が録音されラジオで流れ始めると、アルカンに熱中する音楽家や愛好家が各地に現れた。1977年には英国でアルカン協会(Alkan Society)が設立された。アルカンの祖国フランスでは8年遅れて1985年にアルカン協会(Société Alkan)が設立された。2010年以降、アテネでもアルカンとその師ヅィメルマンを記念してアルカン=ヅィメルマン国際音楽協会が設立され、アルカンとその時代への関心は拡がりを見せている。
  さてアルカンの作品39が通演されるこの貴重な機会に、一人の演奏家によるこの作品の通演記録(一回のコンサートで全12曲が演奏された記録)を整理しておきたい。

①中村攝(1959- ):1984年3月1日、石川県文教会館(金沢)
②中村攝:1984年3月12日、スタジオ・ルンデ(名古屋)
③中村攝:1984年4月6日、虎ノ門ホール(東京)
④ジャック・ギボンズ(1962- ):1995年1月18日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑤ジャック・ギボンズ:1996年2月15日、クイーン・エリザベス・ホール(ロンドン)
テッポ・コイヴィスト(1961- ):2007年(ヘルシンキ)
⑦ジャック・ギボンズ:2013年8月25日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑧ヴィンチェンツォ・マルテンポ(1985- ):2013年11月2日、横浜みなとみらいホール(横浜)
⑨ジャック・ギボンズ:2013年12月15日、マーキン・コンサート・ホール(ニューヨーク)

  上記9公演のうち、4公演が日本で行われていることは特筆すべきだろう。金澤(中村)攝氏の全曲演奏は、中でも抜きん出て早い時期に行われている。1983年、当時25歳の金澤氏はM.ポンティが弾く抜粋盤LPを聴いて公開演奏を決意し、全曲暗譜で3公演に臨んだ。敬愛するブゾーニを介して、かねてよりアルカンやゴドフスキーにも関心を寄せていた故・園田高弘氏は東京公演に臨席し、「初めてアルカンの真価を知った」と激賞を惜しまなかった。金澤氏はその後ほどなくして名古屋(スタジオ・ルンデ)で姉妹作《全ての長調によるエチュード》Op.35 も通演している。
  チェンバロ・フォルテピアノ・オルガンといった歴史的鍵盤楽器にも通暁する大井氏による本日の公演は、1857年の作曲以来、おそらく当時のフォルテピアノで通演される世界初演」の可能性がある。ダブル・エスケープメント機構(註)を備えるエラールのピアノではなく、シングル・エスケープメントのプレイエルがどこまでアルカンの大作に応えてくれるだろうか、興味は尽きない。アルカンの衣鉢を継ぐ大作、ソラブジ《オプス・クラウィケンバリスティクム Opus Clavicembalisticum》(1930) の日本初演や、またフィニッシーの難曲《イングリッシュ・カントリー・チューンズ》、更には献呈初演を含むピアノ作品個展を開催した大井氏、また金澤攝氏への委嘱曲も初演(YouTubeで視聴可能)した大井氏の、2021年から逆照射されるアルカンへの眼差しにも注目したい。

 註:この機構は、打鍵されたハンマーが二段階で元の位置に下りる仕組みで、急速な連打において高い効果を発揮する。中期以降のアルカンは、エラールのピアノを好んで弾いた。




【関連リンク】

◎『ピティナピアノ曲事典』
・作曲家解説
・アルカン, シャルル=ヴァランタン :大ソナタ 第1番 Op.33
・アルカン, シャルル=ヴァランタン :片手ずつ、および両手のための3つの大練習曲 [Op.76]

◎ブログ
・金澤攝「ピアノ・エチュード大観」後編 第6景 シャルル・ヴァランタン・アルカン 1」
・金澤攝「ピアノ・エチュード大観」後編 第6景 シャルル・ヴァランタン・アルカン 2」

◎楽譜
・アルカン・ピアノ曲集 I(カワイ出版)
・アルカン・ピアノ曲集 II(カワイ出版)

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◎動画
ピアノ曲事典の歩き方 第2回 練習曲の「1830年とロマン主義」
上田泰史 × 実方康介

【目次/要約】
・導入
0:53​ 1830年をテーマにした理由
2:20​ ロマン主義/ロマン派とは「ここにはないものをありありと描く」芸術的態度
6:29​ 「ロマン」の原義はロマンス諸語で書かれた物語
8:11​ ブルクミュラー「貴婦人の乗馬」=中世の騎士道?!
・第1部:社会的背景
14:30​ ロマン主義を促進した背景(フランス大革命~七月王政)
18:22​ フランス大革命が音楽家のステイタスに変化をもたらした
19:30​ 恐怖政治の時代にピアノの即興で命拾いした名手エレーヌ・ド・モンジュルー
21:27​ パリ音楽院の学生は革命祭典で活躍
22:11​ 第一共和政⇒第一帝政(ナポレオン)⇒王政復古(揺り戻し)⇒七月王政
24:34​ 七月王政時代は自由主義と産業の発展がピアノ音楽文化に力を与えたーショパンやリストの世代のメンタリティ
・第2部:作曲家の内面的変化
29:50​ 1830年、ロマン主義の創作が表面化する(シューマン、ベルリオーズ)
32:03​ ピアニストたちの変化:リスト(19歳)のリアクション
35:22​ ショパン(20歳)のリアクションー「革命」エチュードのイメージを探る
38:38​ ポーランド11月蜂起の失敗に対する心情/援護してくれないフランス政府への怨恨
39:42​ ショパンの内面に巻き起こったロマン主義的イメージを読む
42:12​ ショパンが体験した「感情の死」と憂鬱(メランコリー)
47:42​ 「憂鬱」= ロマン主義のキーワード
48:24​ ロマン主義芸術家と「青白い肌」
51:13​ リストに献呈されたショパンの《練習曲集》作品10:献辞が「F. Liszt」ではなく「J. Liszt」の理由
52:53​ リストは「リッツ」と発音されていた?
・まとめ
53:27​ ロマン主義は、世界認識のモードの変化をもたらした―芸術家は、「ロマン主義的な自我」を意識し、振る舞うようになっていった。その画期が1830年だった。


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アルカン関係ツイートまとめ

英国アルカン協会会報(2021年9月号、第102巻)の英文インタビュー(pp.12-15)
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中村(金澤)攝:アルカン12の短調練習曲 作品39(通奏世界初演)

金沢 1984年3月1日(木)PM6:45 石川県文教会館
名古屋 1984年3月12日(月)PM6:45 スタジオ・ルンデ
東京 1984年4月6日(金)PM6:45 国立教育会館虎ノ門ホール

2/27(土)1843年製プレイエルによるアルカン《12の短調エチュード(全曲)》+C.レンナース新作 (2022/02/13 Update)_c0050810_22343255.png
 1974年8月、15才で単身パリに赴いた私は名目上のピアノ研修をそこそこに多くの作曲家の作品を片っぱしから調べていた。私に作曲家を決意せしめたのはベルント・アロイス・ツィンマーマン(1918~1970)の音楽だった。――いうまでもなくオペラ「兵士たち―Die Soldaten」の作曲者である。――同年秋、ニッコロ・カスティリオーニ(1932~)のオーケストラ作品「詩の中の冬――Inverno in ver」の初演に接し、深い感銘を受ける。私はこの二作家の作品を徹底的に研究することから始めて、大きな影響を受ける一方、ブルーノ・マデルナ(1920~1973)、フランコ・ドナトーニ(1927~)、リュック・フェラーリ(1929~)、マウリチオ・カーゲル(1931~)等の作品にも強い共感を持つようになっていった。そのような私にとってモーツァルトやベートーヴェン、シューベルト等のピアノ作品のレッスンなど、どうでも良いことであった。しかしその後、ツィンマーマンの師、フィリップ・ヤルナッハ(1892~)の作品に注目したことから、やがてフェルッチョ・ブゾーニ(1866~1924)を知り、ヒンデミット、ウェーベルン、ストラヴィンスキーへと興味の対象は次第に時代を遡り拡張されてゆく。その折、私が至高の芸術と目しているジャン・フランチェスコ・マリピエロ(1882~1973)の音楽にめぐり合う。この時点で自分の共鳴する作曲家たちの作品が演奏会やレコードで全く取り上げられないことへの不満に堪えかねて、こうした作品を紹介することを目的としたピアニスト、指揮者を志す。(作曲家としての姿勢は依然として変わりがない。) 私はただちに他者への師事をやめて1978年4月帰国し、以来独学で研鑽を積んだ。私にピアニストを決意させた直接の動機はフェルッチョ・ブゾーニとその弟子、エゴン・ペトリの演奏録音を聴いたことによる。特にブゾーニは作曲家としてだけでなく、ピアニストとしても私に古典の生き生きとした生命を説き示したのである。また、ブゾーニからの手づるをたぐって行くと、これもピアニストとして著名ながら作曲家としての実態は全く知られていないアントン・ルービンシュタインに繋がっている。この上さらに遡ったところに存在しているのが、今回のシャルル・ヴァランタン・アルカンなのである。
  彼は私が今後取り上げていこうと考えている19世紀以降の作曲家約60名のうち最古参にあたっている。今もって正当な評価を広く認識されていないこれらの作曲家たちの殆んど全作品に目を通し、その中から逸する事の出来ない名作を厳選してその作曲家にとって理想的な演奏と録音で後世に伝えようとすることは大変な作業である。(無論これはオーケストラ作品、劇作品を含んでいる。)その尨大な数を思うに、とても私の一生で手に負えるものではないことは明白である。この点、多くのよき協力者の出現を願うばかりである。たとえ少数でも真摯で意欲的な聴き手のために、私は最善を尽したいと考えている。
昭和59年1月24日  中村 攝


  ブゾーニの著作に於て既にアルカンの名は知らされていたものの、私が彼の音楽に着手したのはアントン・ルービンシュタインのピアノ協奏曲第5番の献呈者にその名を見い出した後のことである。これはまだ僅か一年たつかたたないかという最近のことであって、現在の所、編曲を含めて約100曲あると思われるアルカンの作品中まだ半数も私は目を通していない。しかし種々の文献から推察するに、この「12の短調練習曲」が彼の最大の代表傑作であることは論断してよいと思う。
  アルカン―シャルル・ヴァランタン・モランジュ―は1813年11月30日、ユダヤ人を両親としてパリに生れた。後に彼の友人となるショパンは3年、リストは2年先に生れている。(これはベートーヴェンの第七交響曲が初演された頃にあたる。)彼が亡くなったのは1888年で、同じくリストは2年先に亡くなっている。つまりこの両者は殆ど同時代を生きていたが、その生涯は明暗を分けるものであった。リストを恐れさせたという超人的な手腕を持ちながら世人とは隔絶した、閉鎖的な生涯を貫いたアルカン。まさに謎の隠者といえよう。近年、ヨーロッパで著しい注目を集めるようになったが、神秘のヴェールは永遠に剥がれることはないであろう。巨匠的趣向という点を除けば当代の風潮とは別世界の音楽である。彼は2曲のピアノ協奏曲、少数の歌曲、室内楽、オルガン曲のほかはピアノ曲しか作らなかった。この点、ショパンと非常に共通している。作品番号は76まで見られるが抜けている数字も多く、番号が前後したり、重複していたりして作曲年代を追う上では余り参考にならない。12の短調練習曲が出版されたのは1857年、即ち彼の40代半ばのことである。この年は10曲の作品が出版された。これは翌々年の1859年に14曲が出版されたのに次いで多い数である。まぎれもなく彼の創作活動の最盛期がこの時期であったことを示している。
  12の長調練習曲作品35(1848年出版)と好一対として書かれた短調練習曲は四楽章形式の「交響曲」と三楽章形式の「ピアノ協奏曲」を含む、ピアノ音楽史上屈指の超難曲、超大作である。また12の全調性で一曲ずつ書かれていて、このうち全体の中枢に位置する「協奏曲」はアルカン自身、演奏を行うことがなかった。全曲の演奏がかつて行われたかどうかは疑わしいところである。


略歴
1959 金沢市に生れる。
1962 神田俊子について、ピアノを学び始める。
1969 独学で作曲活動開始。作曲家を志望する。
1970-74 東京で宮沢明子に師事。
1974-78 パリでフローレンシア・ライツィンに師事。
1975 最初のLP録音(1977年オーディオ・ラボ制作。自作、プロコフィエフ他)
1978 無名作品の紹介を目的とした演奏家を決意し、帰国して独学を始る。東京でヒンデミットと自作によるリサイタル開催。 ヒンデミットピアノ曲全曲録音を行う。(1979年オーディオ・ラボ制作。四枚組)
1979 ラ・ロシェル現代音楽祭国際コンクール2位入賞。
1980-81 金沢で9回にわたる研究発表「ピアノによる研修シリーズ'80→'81」開催。
1982 名古屋の「スタジオ・ルンテ」にて毎月作曲家別にピアノ作品を紹介する「中村の世界」開始。
1978年以来毎年、研修、資料蒐集のため渡欧。


代表作品
1975 室内オーケストラのための夜曲「マデルナを讃えて」
1976 大オーケストラのためのマイクロシンフォニー
1976-78 語り手、児童合唱と11人の器楽奏者のための日本昔話「さるとおじぞうさま」
1977 プリペアドビアノ4手のための「寸志I」
1977-1978 11楽器のためのシンフォニエッタ
1977-78 室内オーケストラのための「寸志II」
1979 オーケストラのための供物「甘露」
1980-81 勇ましきチェロと13人の器楽親衛隊のための「英雄舞曲」
1982 ピアノのための「普陀洛音頭」
1983-84 バス独唱とオーケストラのための「大黒天和讃」他




by ooi_piano | 2021-02-19 01:12 | Pleyel2020 | Comments(0)