人気ブログランキング | 話題のタグを見る

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)


「スペインもまた東洋なのである。なぜなら、スペインは半分アフリカであり、アフリカは半分アジアだからである」
"l’Espagne c’est encore l’Orient ; l’Espagne est à demi africaine, l’Afrique est à demi asiatique."
ヴィクトル・ユーゴー《東方詩集》(1829)
2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_18144412.jpg

大井浩明ピアノリサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》
Recital de piano Hiroaki OOI "Cuando escuché la pandereta"

松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
チラシpdf(


【第1回】 2021年7月3日(土)15時開演(14時45分開場)
イサク・アルベニス(1860-1909):草原(ラ・ベガ)(1897)
■同:《イベリア》(1905/08、全12曲)
  I. 霊振(エボカシオン) - II. 港(カディス) - III. セビリアの聖体祭 - IV. ロンデニャ - V. アルメリア - VI. トゥリアナ - VII. エル・アルバイシン - VIII. エル・ポロ - IX. ラバピエス - X. マラガ - XI. ヘレス - XII. エリタニャ
  [使用エディション/Henle社新訂版(2007-2013)]
フランシスコ・ゲレロ(1528-1596):《聖母マリアのモテトゥス「愛でたし聖らけき処女」」》(1566)
フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、日本初演


----------------
エンリケ・グラナドス(1867-1916):組曲《ゴィエスカス(ゴヤ風に)》(1911)
  I. 愛のことば - II. 窓ごしの語らい - III. ともし火のファンダンゴ - IV. 嘆き、またはマハと夜うぐいす - V. 愛と死(バラード) - VI. エピローグ「幽霊のセレナード」 - (VII.) わら人形
  [使用エディション/Henle社新訂版(2015)]
マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946):《ファンタシア・ベティカ(アンダルシア幻想曲)》(1919)
エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959):《野生の詩(ルデポエマ)》(1921/26)
クリストバル・アルフテル(1930-2021):《カデンシア(ソロ第VIII)》(1983/93)

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_18190748.jpg

まぶしすぎるくらいのたいようのひかり。いきものがあらわれれば、まっくろなかげがうらがわにあらわれる。
いきることははげしいいとなみで、しぬことはいつもいとなみとともにある。
エスパーニャにはかすたねっとのりずむがひびく。かわいたろじょうに、ひとがひしめきあうせまいいしだたみのみちに。りずむはひとをそとへみちびく。ひとはそれぞれのがっきをもっている。りずむがっきだけではなく、げんをはじいてかきならすがっきも。それらだけではなく、てもあしもがっきになり、こえもでてくればうたになる。
そらははれわたり、ひとびとはたかいやまにむかう。よろこびにみちたひとたち。とめるものもまずしいものも、ちいさいひともおおきいひとも、のぼりきればおんちょうにみたされて。うたとおどりをくりひろげながらおりていく。
いきるときはみじかく、あまりにみじかく、またたけばおわる。しはぬすっとのようにはやくくる。われら、しをめざしてはしらん。それがいきること。いきることをよろこぶことだ。(山村雅治)



スペインのクラシック音楽素描(前)――野々村 禎彦

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_13150191.jpg
 イベリア半島には、8世紀初頭から15世紀末までイスラームが勢力を持ち(アル=アンダルス)、ヨーロッパでも特異な位置を占めている。民俗音楽や食文化をはじめ、イスラーム由来で北アフリカ文化の影響を受けており、ヨーロッパではエキゾティシズムの対象になった。元々はローマ属領ヒスパニアとしてキリスト教文化が土台にあり(イスラーム支配下でも税金を払えば信仰を許された)、キリスト教徒はイスラーム支配直後からレコンキスタ(再征服)運動を開始した。アル=アンダルスはイスラーム帝国ウマイヤ朝が領土を北アフリカに拡大する過程で成立したが、革命が起こりアッバース朝に交代しても、ウマイヤ朝の残党はアル=アンダルスを拠点に後ウマイヤ朝を再興して対抗した。イスラーム帝国西方の辺境ではなく、自称「正統王朝」の中心地となったことでアル=アンダルスは発展した。首都コルドバの人口は10世紀には50万人を超え、ヨーロッパ最大の都市になった。

 だが後ウマイヤ朝は1031年に内紛で消滅し、イスラーム支配地域は小国(タイファ)に分裂してレコンキスタが進んでゆく。新たに生まれたキリスト教諸国は統合に向かい、1143年にはポルトガル王国が成立した。残る国々もカスティーリャ王国とアラゴン連合王国に集約され、イスラーム支配地域は13世紀にはグラナダ王国のみになった。1469年、カスティーリャの女王とアラゴンの国王が結婚してスペイン王国が成立し、1492年のグラナダ陥落でレコンキスタは終結した。スペインがレコンキスタの仕上げに国力を割く間に、ポルトガルはイスラームの帆船と測量の技術を受け継いで遠洋航海に乗り出し、アフリカ西岸を南下する航路を開拓しながら1488年には希望峰に到達した。地中海貿易を独占するイタリア商人を出し抜いて直接インドを目指す、大航海時代の幕開けである。

 グラナダが陥落するとスペインも早速遠洋航海に乗り出し、同1492年にコロンブスは西廻り航路でアメリカ大陸を「発見」した。コロンブス艦隊が行ったのは西インド諸島における略奪と大虐殺に過ぎないが、この「成果」を受けてローマ教皇はアメリカ大陸の大半の地域でスペインに植民地化の優先権を与えた(トルデリシャス条約:経度による分割であり、南米大陸東端のブラジルのみポルトガルの勢力圏になった)。コンキスタドールたちはコロンブスの航路を辿って中米全域・南米カリブ海沿岸・メキシコ(現在の米国中西部を含む広大な地域)を順次征服し、海上交通の要衝として発展したパナマを経て南米太平洋沿岸も征服した。コンキスタドールたちの植民地経営は、コロンブスに倣った絶滅政策だった。アステカ・マヤ・インカの古代文明を滅ぼし、原住民はこれらの文明を支えた貴金属鉱山の奴隷として使い潰した。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の流行も相まって原住民は激減し、奴隷が不足するとアフリカから黒人を連行して補った。

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_13163762.jpg
 このような中世からルネサンスにかけてのスペインの歴史は、スペインのクラシック音楽を眺める上で背景として欠かせない。スペインがクラシック音楽の表舞台に現れたのは、中南米から収奪した金銀で海軍を増強し、イタリア諸都市やベネルクス三国(いずれもハプスブルク家領)からフィリピンまで広がる大帝国としてヨーロッパの覇権を握っていたルネサンス後期の百年(「黄金世紀」)と一致している。一般的なクラシック音楽史観ではルネサンス前期を代表するのはブルゴーニュ楽派、中期を代表するのはフランドル楽派であり、後期になってようやくイタリアが作曲でも中心になった(宗教音楽の演奏の中心は一貫してイタリアだった)。保守的なローマ楽派(パレストリーナ、アレグリら)、革新的なヴェネツィア楽派(ローレ、G.ガブリエーリら)、極度に半音階的で異端のジェズアルドらが代表的な作曲家であり、ヴェネツィア楽派を締め括ったモンテヴェルディがバロック音楽への扉を開いた(ベートーヴェンが古典派とロマン派を繋いだように)。

 だが、この時期のイタリアの作曲家たちは総じて、ひとつの時代の終わりの閉塞感が強すぎるように思われる。他方、この時期のスペインを代表する4人の作曲家――クリストバル・デ・モラーレス(ca.1500-53)、フランシスコ・ゲレーロ(1528-99)、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)、アロンソ・ロボ(1555-1617)――の音楽性は、ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派を代表する4人の作曲家――デュファイ、オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ラッソ――と対応している:時代の始まりにふさわしい大らかな魅力、時代様式の可能性を突き詰めた実験性、時代様式を俯瞰する円熟した表現、時代の終わりにふさわしいマニエリズム。ただしこの対応は、音楽性に関するもので作風の類縁性を意味するものではない。ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派はポリフォニーの可能性を探求したのに対し、スペインの作曲家は複雑なポリフォニーは避け、ホモフォニーの表現性を探求した。特に実験的なゲレーロの音楽には、バロック初期を先取りした機能調性の萌芽が見られる

 それ以降で目立つのは、バロック後期の鍵盤音楽の大家ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757) が後半生をスペインで過ごし、その弟子筋のアントニオ・ソレール(1729-83) が前期古典派の鍵盤音楽で異彩を放った。古典派ではルイジ・ボッケリーニ(1743-1805) が後半生をスペインで過ごした他、ホアン・クリソストモ・アリアーガ(1806-26) とギター音楽をクラシック音楽の1ジャンルに昇華した作曲家=ギター奏者フェルナンド・ソル(1778-1839) くらいだろうか。ルネサンス後期と比べると寂しい並びだが、ひとつの理由はサルスエラというスペイン独自の音楽劇が発展し、音楽的才能がそちらに流れた(イタリアにおけるオペラのように)ことが挙げられる。

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_13175905.jpg
 ただしより根本的な要因は、スペインの国力の衰えである。元々の地場産業は「メリノ羊」として知られる高品質の羊毛生産だが、大航海時代にはイスパノアメリカ植民地からの収奪が「主要産業」になった。だが、1588年のアルマダ海戦で無敵艦隊が英国海軍に敗れ、1648年には八十年戦争の末にオランダが独立し、これらの新興新教国が植民地支配のライバルになってゆく。植民地の貴金属鉱山が枯渇し始めても、植民地を結ぶネットワークに新たな可能性はあった(インドネシア香料諸島の領有を争う国々を尻目に、種子だけ持ち出して気候の近い植民地で大規模栽培した英国のように)が、コンキスタドールの後継者たちに植民地経営を任せてきたスペインではそれも難しかった。

 そして、19世紀初頭のナポレオンによるイベリア半島支配から決定的な凋落が始まった。「メリノ羊」の独占権を失い、強大な海軍力も失った宗主国に上前をはねさせるメリットはなく、イスパノアメリカ植民地では独立運動が始まった。植民地の白人(クリオーリョ)の一部の反乱に留まるうちは王党派とスペイン軍で抑えられたが、シモン・ボリバルらヨーロッパで自由主義を身につけたクリオーリョ出身のリベルタドールたちは、私財を投じて解放した奴隷たちを解放軍に組み込み、1825年までにイスパノアメリカほぼ全域の独立を勝ち取った。スペイン本国では、ナポレオンによる支配が終わると王政が復活して中産階級の形成は遅れ、産業革命も起こらなかった。例外はカタルーニャ地方の紡績業とバスク地方の鉄鋼業だが、地理的には北部の東西の辺境にあたり、むしろ今日に続く分離独立運動の火種を抱えることになった。1898年の米西戦争で残る植民地(キューバ・プエルトリコ・フィリピン)もすべて失い、工業化の遅れたヨーロッパ南端の小国のみが残された。

 だが、国力の凋落とともにクラシック音楽の伝統も衰退する一方だったわけではない。ヨーロッパの覇権を取り戻すことは不可能でも、キリスト教文化とイスラーム文化、ロマを含むヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がスペインには残っている。ロシアや東欧と同様の国民楽派運動から、スペインのクラシック音楽は再び活気を取り戻す。この動きは独奏楽器のヴィルトゥオーゾたちから始まった。ヴァイオリンではパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)、ギターではフランシスコ・タレガ(1852-1909) とその後継者たち、そしてピアノでは本公演の主役、イサーク・アルベニス(1860-1909) に他ならない。

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_13215740.jpg
 ただし、アルベニスの作風は先行するヴィルトゥオーゾたちとは一線を画している。その背景は、「スペイン国民楽派の父」として知られる音楽教師=作曲家のフェリペ・ペドレル(1841-1922) と1883年に出会って薫陶を受けたことにある。ペドレル自身の作風はさておき、彼が門人たちに求めたのはロマン派の伝統に民俗音楽の素材をまぶしたような音楽ではない。彼はローマ留学中に同地の古文書館で、当時は全く忘れられていたスペインのルネサンス音楽の伝統を知り、後にビクトリア作品全集を刊行している(1902-13)。彼が求めた「スペイン国民楽派」とは、同時代の音楽とは隔絶したルネサンス時代の高みに匹敵する音楽であり、ロマン派の伝統には収まらない民俗音楽の要素がヒントになるはずだという信念だった。彼の弟子には実際、エンリケ・グラナドス(1867-1916)マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)、ロベルト・ジェラール(1896-1970) という、「国民楽派」の枠を飛び越えて近代スペイン音楽を代表する作曲家たちが並んでいる。

 ジャンルを問わず、音楽は世代論で語られがちな傾向があるが、近代クラシック音楽では特に顕著だ。端的に言えば、ドビュッシー(1862-1918)、シェーンベルク(1874-1951)、アイヴズ(1874-1954)、ラヴェル(1875-1937)、バルトーク(1881-1945)、ストラヴィンスキー(1882-1971)、ヴァレーズ(1883-1965)、ヴェーベルン(1883-1945)、ベルク(1885-1935)、ヒンデミット(1895-1963) と、音楽史を代表するとされる作曲家はことごとく10年周期の前半に生まれている。この10年周期の要因は、内在的には作曲家が修行時代を終えて個性を確立し、次世代を導き始めるまでにほぼ10年かかること(シェーンベルクとヴェーベルン&ベルクの年齢関係がまさにそうなっている)、外在的にはマスメディアの強い影響下にある資本主義社会では、流行のサイクルは10年程度であること(トレンドを10年周期で総括する呪いが創作状況にもフィードバックしてしまう)が挙げられる。各々前半に集中しているのは偶然といえば偶然だが、パリとウィーンという当時のクラシック音楽の中心都市で、ドビュッシーとシェーンベルクという主導的な作曲家が偶々このサイクルに合わせて出現したことで、その後が定まってしまったのだろう。

 ここで問題なのは、スペイン近代を代表する上記作曲家たちは、ことごとく10年周期の後半に生まれていることだ。実は彼らは10年周期前半を代表する作曲家たちに匹敵しているとまでは言わないにしても、プーランク(1899-1963) がミヨー(1892-1974) やオネゲル(1892-1955) と比べて過小評価されているのと同程度には過小評価されている。また、ルネサンス後期のスペインを代表する作曲家たちが活動したのはローマだったように、彼らが活動したのはパリだった。

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_13230244.jpg
 ピアニスト=アルベニスは4歳から公開演奏を始め、1875年のプエルトリコとキューバでの演奏会は新聞記事になった。この間を繋ぐエピソードとして、「6歳でパリ音楽院入学を認められたがボール遊びで控室の鏡を割って取り消された」に始まる、世界を股にかけて家出と密航を繰り返す波乱万丈の物語が用意されているが、大半が作り話のようだ。むしろこれは、ヴィルトゥオーゾ=アルベニスの顧客がどのような物語を求めていたかを示している。「神童」の賞味期限が切れた1876年にブリュッセル王立音楽院に入学してピアノと作曲を正式に学び、首席修了後に憧れのリストに師事を願ったが叶わず、結婚してバルセロナに住み始めた時、同地歌劇場の音楽監督を務めるペドレルと出会った。

 ただしペドレルの影響は、ただちに現れたわけではない。アルベニスは1885年にマドリードに移住し、ヨーロッパ各地で演奏して「スペインのルビンシテイン」として知られるようになり、スペイン王家に出入りして作曲家や教師としても認められた。この時期の《スペイン組曲第1番》(1886) がペドレルの影響が見られる最初の作品とされるが、まだ民俗音楽の断片を用いたサロン音楽に過ぎない(彼の死後、後期作品も勝手に含めた版も出版されており紛らわしい)。とは言ってもモダニズム以前、ドビュッシーも《小組曲》(1986-89) や《2つのアラベスク》(1888-91) すら書き始めていない時期ではしかたない。1890年、銀行家マニー=カウツのお抱え作曲家としてロンドンに移住し、英語オペラを書きながら演奏活動も続けた。《スペインの歌》(1892/98) はその合間に書かれたが、その書法は後のドビュッシーの方向性を予言している。

 彼は1894年にパリに居を移すが、マニー=カウツは終生彼を援助し続けた。今回の移住の目的は、パリの優れた作曲家たちと交流して作曲の腕を磨くことであり、例えばアルハンブラ宮殿を描いた《ラ・ベガ》(1897) は《スペインの歌》からさらに踏み込んだ内容を持ち、この曲を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執っており、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。歌曲と管弦楽曲ではいち早く時代の先頭に立ったドビュッシーもピアノ曲ではなかなか壁を破れなかったが、ようやくブレイクスルーを果たした《版画》(1894-1903) の3曲は、そこでドビュッシーが参照したものを物語る。旧作リライトの〈雨の庭〉はフランス・バロック鍵盤音楽、〈塔〉はガムランなど東南アジアの民俗音楽、そして〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニスのピアノ曲に他ならない

2021/07/03 スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第1回公演 (2021/06/13 update)_c0050810_13235948.jpg
 1900年頃から腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、彼は教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復して療養に努めたが快方には向かわず、仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで49歳を迎える直前に亡くなった。本日のメイン曲目《イベリア》(1905-08) は、全12曲80分に及ぶ「12の新しい印象」であり、内容的にも規模的にもドビュッシー《前奏曲集》(1909-10/1911-13) が想起されるが、《前奏曲集》の作曲中(そしてその後も)、ドビュッシーのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。20世紀音楽の扉を開いたドビュッシーを、少なくともピアノ曲では生涯にわたって(個人的な関係ではなく、作品を通じて)導き続けた唯一の作曲家がアルベニスである




by ooi_piano | 2021-06-28 17:56 | コンサート情報 | Comments(0)

1/12(日)15時 《フランツ・リストの轍》第3回公演


by ooi_piano