大井浩明ピアノリサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》
Recital de piano Hiroaki OOI "Cuando escuché la pandereta"
松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
【第2回】 2021年8月9日(月・祝)15時開演(14時45分開場)
■エンリケ・グラナドス(1867-1916):組曲《ゴィエスカス(ゴヤ風に)》(1911)
I. 愛のことば(トナディーリャ) - II. 窓ごしの語らい(コプラ) - III. ともし火のファンダンゴ(ガヤルド) - IV. 嘆き、またはマハと夜うぐいす - V. 愛と死(バラード) - VI. エピローグ「幽霊のセレナード」 - (VII.) わら人形
[使用エディション/Henle社新訂版(2015)]
■マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946):《ファンタシア・ベティカ(アンダルシア幻想曲)》(1919)
■エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959):《野生の詩(ルデポエマ)》(1921/26)
■クリストバル・アルフテル(1930-2021):《カデンシア(ソロ第VIII)》(1983/93)
スペインのクラシック音楽素描(後)――野々村 禎彦
本稿の前半では、スペインのクラシック音楽の歴史を眺める際には、歴史が特に重要になることを示した。モラーレス、ゲレーロ、ビクトリア、ロボを輩出したルネサンス後期の最初の黄金時代は、スペインが中南米ほぼ全域(ポルトガル領のブラジル以外)を植民地化し、原住民から収奪した金銀で海軍を増強してヨーロッパの覇権を握っていた時代と一致する。それ以降は国力の衰えとともにクラシック音楽も停滞するが、19世紀後半に国民楽派運動とともに再び活性化する。そこで重要なのはスペイン王国成立以前、8世紀初頭から15世紀末までイベリア半島にイスラームが勢力を持っていた時期に、元々のローマ属領ヒスパニア時代のヨーロッパ人のキリスト教文化と北アフリカ人のイスラーム文化が交わって、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽の土壌が育まれたことである。
スペインの国民楽派運動は、ヴァイオリンのサラサーテやギターのタレガら、ロマン派の伝統に民俗音楽の素材を乗せたヴィルトゥオーゾたちから始まるが、「スペイン国民楽派の父」フェリペ・ペドレル(1841-1922) の門人たちの作品はその範疇には収まらない。ペドレルはローマ留学中に当時は全く忘れられていたスペインのルネサンス音楽の伝統を知り、その高みに匹敵する音楽に至るために民俗音楽の力を借りようとした。フランドル楽派からローマ楽派に受け継がれた精緻なポリフォニーの探求がルネサンス音楽の本流だが、スペインのルネサンス音楽ではホモフォニーの表現性の探求が重視されており、民俗音楽との食い合わせは悪くない。前回の主役イサーク・アルベニス(1860-1909) は、元「神童」のヴィルトゥオーゾ・ピアニスト=作曲家として活動を始めたが、ペドレルの薫陶を受けて徐々に深化し、作曲の腕を磨くためにパリに居を定めてからは、ピアノ曲においては終生ドビュッシーを導き続ける境地に達した。今回は彼に続くペドレルの3人の弟子:グラナドス、ファリャ、ジェラールから始めたい。
エンリケ・グラナドス(1867-1916) は、バルセロナのリセウ高等音楽院でペドレルに作曲を学び、1887年にパリ音楽院留学のためにパリに向かった。折悪しく腸チフスに罹患し音楽院入学は果たせなかったが、パリの2年間は同音楽院ピアノ科教授から個人指導を受け、帰国後は主に室内楽奏者として活動した。パリ繋がりでティボーやヌヴーを伴奏し、スペイン国内ではクリックボーム弦楽四重奏団(チェロはカザルス)との共演が多かった。リセウ高等音楽院でピアノを教え、ペドレルの弟弟子たちも彼に学んだ。1901年から始めたアカデミア・グラナドスは彼の死後はフランク・マーシャルが引き継ぎ、ラローチャらを輩出した。
彼には数曲の小オペラやサルスエラ、演奏仲間のために書いた数曲の室内楽もあるが、主な創作分野はピアノ曲であり、《12のスペイン舞曲集》(1892-1900) が出世作、大規模なプログラムを持つ組曲《ゴィエスカス》(1911) が代表作なのは衆目の一致するところである。ただし生前は作曲家の顔はピアニストとしての名声に隠れており、《ゴィエスカス》のオペラ化(1915) で勝負に出た。ヨーロッパ初演は第一次世界大戦勃発で流れたが、NYのメトロポリタン歌劇場から上演の申し出があり、翌1916年1月の初演は大成功を収めた。だが、夫婦で初演に立ち会った帰国の途にドイツ軍のUボートの攻撃を受け、アルベニスと同じく49歳の誕生日を待たずに亡くなった。彼の作品は初期から晩年まで、アカデミックな表街道を歩んできた素直さが特徴的であり、経歴も虚実織り交ぜて客商売の荒波を潜ってきた若き日のアルベニスとは対照的だ。最期も一度は救命ボートに引き上げられたが、波間を漂う妻を助けようと海に飛び込み、英仏海峡の底に消えた。素直な作風は実生活の反映でもあり、ペドレルの理念を最も体現していた。
マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946) は、コロンブス、ベラスケス、ノーベル賞作家ヒメネスらと並んでペセタ紙幣になった唯一の音楽家であり、複数のバレエ音楽や協奏曲が国際的に知られる、スペインでは最も著名なクラシック音楽の作曲家である。アンダルシアの港町カディスで生まれた彼がマドリードで育った時期は、音楽学者として知られ始めたペドレルがマドリード王立音楽院で教えていた時期でもあり、作曲を師事して故郷の音楽フラメンコの魅力を啓発された。1900年前後の彼は多作で、年に数作のサルスエラや劇付随音楽を書いたが、紛失したものも多い。この時期の最後を飾るオペラ《はかなき人生》(1904-05/13) は、王立サン・フェルナンド美術アカデミーのコンクールで優勝した出世作であり、元々の版は古式ゆかしい番号オペラだったが、パリ初演時にドビュッシーの助言で劇場オペラに改作され、オーケストレーションにも手が加えられた。
1907年からパリに移住し、まずデュカスと知り合って《はかなき人生》を高く評価され、上演の試みが続けられ1913年にようやく実現した。次にアルベニスにラヴェルらを紹介されて芸術家集団「アパッシュ」に加わる。メンバーは、作曲家は彼らの他にフローラン・シュミット、カプレ、セヴラックら、演奏家はドビュッシーとラヴェルの1900年代のピアノ曲の大半を初演したリカルド・ビニェスや指揮者のアンゲルブレシュトらであり、初演時には賛否が割れたドビュッシー《ペレアスとメリザンド》を天井桟敷から熱烈に支持した自称「ゴロツキ集団」である。パリ時代にはドビュッシーやストラヴィンスキーとも親交を結び、バレエ・リュスの主宰者ディアギレフとも知り合ったが、創作ペースは大きく落ちた。「本物」の作曲家たちを目の当たりにして、気楽に書き飛ばせなくなった。
第一次世界大戦勃発に際してマドリードに戻った時、彼の創作力は爆発した。パリ時代を通じて書き進めていた《スペインの庭の夜》(1909-15) は、「もし全盛期のドビュッシーがピアノ協奏曲を書いていたら」という夢想を形にしたような音楽であり、アルベニス由来の「スペイン風」の要素も自然に織り込まれる。元々はピアノ曲として構想されていたが、ビニェスの助言を受けてピアノ協奏曲に書き換えられた。《恋は魔術師》(1914-15/15-16/24) は、「もし原始主義期のストラヴィンスキーがフラメンコを素材にバレエ音楽を書いていたら」という、「美味しいに決まっている組み合わせ」だが、室内バレエ音楽《ヒタネリア》→演奏会用組曲《恋は魔術師》→バレエ音楽という曲折を経て現在の形になった。《三角帽子》(1916-17/18-19) は、《恋は魔術師》の世界をさらに発展させ、バレエ・リュスの第一次世界大戦後最初の新作バレエとして初演された、文字通りの代表作である。この作品も、まずパントマイム《代官と粉屋の女房》として発表された後、ディアギレフの助言で大編成化と大幅な改稿が行われている。
ファリャ作品における民俗音楽の要素は、アルベニスやグラナドスの作品ほど音楽の本質には根ざしておらず、多分に装飾的に使われている。一般的な「国民楽派」はロマン派の土台に民俗音楽の素材をまぶしたわけだが、ファリャの場合は土台がドビュッシーやストラヴィンスキーの最新様式に入れ替わっただけで、本質は似たようなものだと言えそうだ。実際、ストラヴィンスキーが新古典主義に転換すると(バレエ・リュスの《三角帽子》の次の新作が《プルチネルラ》に他ならない)早速追随し、人形劇《ペドロ親方の人形芝居》(1919-22) や《クラヴサン協奏曲》(1923-26) を書いたが、そこでは民俗音楽の要素は目立たない。第一次際大戦後のスペインでは左右の対立が激化し、彼は不安定な政情を避けてグラナダで隠遁生活を送っていた。1936年、スペイン内戦が始まり親友ロルカが殺されると彼は亡命を決意し、フランコ軍事独裁政権成立後の1939年にアルゼンチンに亡命し、そのまま同地で亡くなった。
ファリャより20歳年下のジェラールの世代になると、第二共和制からスペイン内戦に至る時期を隠遁生活でやり過ごすわけにはいかない。そこで、この時期に至るスペインの歴史を簡単に振り返る。英国との連合軍でナポレオン支配を打破して独立を回復したスペインでは、2年足らずの第一共和制(1863-64) を除いて王政が続いた。絶対王政と立憲君主制の間を行きつ戻りつしながらも、近代的な中央集権国家に近づいていった。ただし第一共和制後の立憲君主制は形骸化し、保守党と自由党の二大政党(各々が旧体制と新興ブルジョアジーの利益を代表)が談合し、地方支配層を巻き込んで選挙結果を操作し、両党が交互に政権を担当する体制が長らく続いた。この構造の恩恵を受けられない労働者やカタルーニャとバスクの民族主義者の不満は蓄積され、第一次世界大戦後の不況で爆発した。ストライキやテロが頻発する中で右派のプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし、議会制度が諸悪の根源だと主張して憲法を停止し、独裁権力を握った。政治的混乱を収めるショック療法として当初は支持されたが、政権が長期化すると限界が露呈し、最後はバラ撒き政策で政権維持を図ったところに世界大恐慌が直撃し、1930年1月に首相を解任された。右に振れた振り子が今度は左に振れてリベラ独裁を認めた国王の責任が問われ、1931年4月には亡命に追い込まれた。
こうして第二共和制が成立したが、第一共和制同様なかなか機能しなかった。左派はイデオロギーごとに小党に分かれ、またカトリック教会とは対立しているため民衆の広範な支持を得られず、左右は常に均衡していた。しかし1936年2月の選挙では、人民戦線戦術(左派が主義主張の違いを棚上げにして大同団結し、ひとまず政権を取る戦術)が功を奏し、人民戦線が政権を握った。教会領の没収など急進的な政策を続ける人民戦線政権を旧体制側は恐れ、陸軍右派グループが同年7月にモロッコで蜂起するとこぞって支持し、内戦が始まった。反乱軍を支持したのはドイツ、イタリア、ポルトガルと、ファシズムの仲間が増えることを期待した国々。対して人民戦線を支持したのはソ連とメキシコ、そして共産党の呼びかけで欧米諸国から義勇軍(国際旅団)が集まった。開戦当初はソ連製兵器の性能と士気の高さで人民戦線側が優勢な局面もあったが、1年を経て戦場にも慣れてくると、訓練と組織化のノウハウを持つ職業軍人からなる反乱軍の優位が明らかになり、この流れは最後まで覆らなかった。戦況が不利になると左派の宿痾たる内ゲバが始まり、ソ連に指揮された共産党一派は戦争は二の次で、トロツキストやアナーキストの粛清に勤しんだ。このあたりは国際旅団に参加したオーウェル『カタロニア讃歌』に詳しく、この時のソ連への失望が『動物農場』や『1984』に受け継がれた。内戦は1939年4月に終結し、フランコ独裁が始まった。
ロベルト・ジェラール(1896-1970) はピアノをグラナドス、作曲をペドレルに学んだ。グラナドスは1916年、ペドレルは1922年に亡くなっており、次の師匠を探したが、既に隠遁生活に入っていたファリャには断られ、パリでケックランに学ぼうとしたこともあったが、最終的にウィーンとベルリンでシェーンベルクに学んだ。ペドレルの兄弟子たちは文化的に近いフランスに迷わず留学したが、彼は別な道を歩んだのは、父はドイツ系スイス人、母はアルザス人という生まれながらのコスモポリタンだったことが大きい。シェーンベルクが12音技法を使い始めたのは1921年、確立して教え始めたのは1923年であり、彼は最初期の弟子のひとりである。彼は1928年にバルセロナに戻ると現代音楽普及活動に奔走し、ISCMバルセロナ大会(1936) の実行委員長を務めた。他方、音楽学者ペドレルの遺志も継いで、スペイン古楽の校訂やスペイン民謡の収集にも携わった。
このようなジェラールの経歴とスペイン時代の作品には齟齬があるように見えるが、それは「カタルーニャ政府芸術省音楽顧問」「共和国政府社会音楽委員」という肩書きと大いに関係がある。左派と密接に関わって音楽政策に関与するということは、既に社会主義リアリズムに転換していたソ連の音楽政策に従うということでもある。シェーンベルクやヴェーベルンをバルセロナに招いて現代音楽の現状を紹介する一方で、自作ではカタルーニャ民族主義を守るというスタンスは、彼なりの落とし所だったのだろう。多くの共和国政府関係者同様、1939年に内戦に敗れると彼もフランスに亡命したが、同年中に英国に移住したのは賢明な判断だった。ヴィシー政権下での共和国政府関係者への処遇は過酷だった。彼は英国移住後もカタルーニャ民族主義による創作を続けたが、スペインを離れたらすぐ止めたのでは渡世の手段だったと認めるようなものなので、意地でも続けたのだろう。この時期の代表作《ヴァイオリン協奏曲》(1942-43) にしても、カデンツァが無調に傾く時に音楽は俄然生気を帯び、彼が本当に書きたかったものは明白だが、オペラ《The Duenna》(1947-49) まではこの作風を貫いた。
大作オペラが放送初演されて彼もようやく踏ん切りがつき、ピアノ独奏のための《3つの即興曲》(1950) から本格的に12音技法を使い始めた。ここからが彼の本当のキャリアの始まりであり、4曲の交響曲(1952-53/57-59/60/67)、2曲の弦楽四重奏曲(1950-55/61-62)、カンタータ《ペスト》(1963-64)、管弦楽のための協奏曲(1965)、室内交響曲《Leo》(1969) は、同時期の戦後前衛のようなテクスチュアの目新しさこそないが、シェーンベルクがカーターのように長生きして作曲を続けていればきっとこんな曲を、と思わせる密度と強度を兼ね備えている。なお、交響曲第3番は全編にわたって電子音響と管弦楽の対話で構成されており、ジェラールの進取の姿勢を伝える(電子音のみの作品も多い)。この時期のジェラール作品に「スペインらしさ」を聴くことは、同時期のダラピッコラやペトラッシの12音作品に「イタリアらしさ」を聴くのと同様に建設的ではない。この時期にようやく、スペイン音楽は「スペインらしさ」から解放された。
ジェラールの次の世代にあたるのが、1930年にマドリードで結成された「スペイン8人組」の作曲家たちである。エルネスト・アルフテル(1905-89)、ロドルフォ・アルフテル(1900-87) 兄弟を中心に、ファリャにならって国民楽派に新古典主義美学をブレンドした(従って、名称も6人組にあやかった)グループであり、構成員の生年は1895-1906年に広がる。1930年代にはグループで活動していたが、スペイン内戦で空中分解した。アルフテル兄弟も、エルネストは戦火を逃れてリスボンで暮らしたが、政治的にはフランコを支持していた。他方ロドルフォは共和国政府に関わり、フランスを経てメキシコに亡命した。彼に限らず、共和国側に立った構成員には、メキシコやアルゼンチンなど中南米の旧植民地に亡命した者が少なくない。
戦後世代に移る前に、年長世代で拾い損ねた2人に簡単に触れたい。ホアキン・トゥリーナ(1882-1949) は1905-14年にパリに留学し、スコラ・カントゥルムでダンディに作曲を学んだ。同地でファリャと親交を結び、第一次世界大戦勃発時には一緒に帰国している。帰国後は民俗音楽の素材を伝統的で堅実な書法の上に乗せた「国民楽派」のサンプルのような作品を、オペラからギター独奏曲まで幅広く残した。フェデリコ・モンポウ(1893-1987) は1911-14年にパリ音楽院でピアノを学んだが、極度に内気な性格で公開演奏はできないと悟り、ドビュッシーとサティに強く影響されたピアノ曲の作曲に転じた。第一次世界大戦を避けてバルセロナに戻り、1921年に再びパリに向かうと、かつて師事したピアニストたちが積極的に取り上げたことも手伝って認知が進んだが、1930年代は私生活に困難が続いて精神の平衡を崩し、1941年にナチスのパリ占領を避けてバルセロナに戻るまで全く作曲できなかった。もっともこの空白のおかげで、スペイン内戦と無縁な平穏な生活を送ることができたわけだが。1920年生まれのピアニスト、カルメン・ブラーボと1957年に結婚すると創作に弾みがつき、代表作《ひそやかな音楽》(1959-67) が生まれた。《歌と踊り》(1921-79) のような数十年かけて書き溜めた曲集でも様式変化を殆ど感じさせない、時代を超えた独自の作風を持つ。1974年に自作の全曲録音を行い、今日でも参照されている。
さらにここで、フランコ独裁についても少々。フランコは非常に狡猾で、反乱が成功する確証がない内戦初期には軍の指揮はエミリオ・モラに任せ、枢軸国とのパイプ作りに専念した。優勢が固まった1937年7月に、モラは都合よく飛行機事故で亡くなり、反乱軍の全権を掌握した(反乱軍にはもうひとり、ホセ・サンジュルジョという有力な将軍がいたが、蜂起直後に飛行機事故で亡くなった)。反乱軍にとって独伊の支援は命綱で、艦船の提供がなければ初動で部隊を本国に動かすことすらできなかったが(海空軍は共和国側に立った)、第二次世界大戦が始まっても内戦による国力の消耗を理由にスペインは中立を守った。国内にも参戦を待望するナチス支持者は多かったが、独ソ戦が始まると彼らを義勇軍として送り込んで始末したのは極め付けで、大戦の推移を読み切っていたかのような立ち回りだった。戦後は非民主的な独裁体制が非難され、EECへの加盟も許されなかったが、冷戦が進めば南アフリカのアパルトヘイト体制同様、ソ連封じ込めを優先して黙認されることも見越していた(フランコを排除すれば、共和国亡命政府が復帰して親ソ国が生まれる公算が高い)。独裁はフランコ一代限り、死後は王政復帰と国民投票で可決して米国の支持を取り付け、「スペインの奇跡」と呼ばれる1960年代の高度経済成長で積年の課題だった経済も安定した。フランコは1975年に亡くなり、政権を引き継いだカルロス国王が立憲君主制を選んだことで共和国亡命政府も解散し、民主化を経て国際社会に復帰した。
かように狡猾なフランコは、ナチスドイツのように前衛芸術を抑圧することはなく、むしろ抑圧的なソ連との違いをアピールする意味も込めて前衛芸術を推進した(ただしカタルーニャ・バスク民族主義に連なる芸術は厳しく弾圧した)。すると戦後前衛音楽も興隆し、「51年世代」という20人近い大所帯のグループが生まれた。構成員の生年は1925-37年に広がり、現代詩の「27年世代」(ロルカやノーベル賞詩人アレイクサンドレを含む)にならった名称を持ち、結成時点では多くの作曲家がセリー主義を採用していた。なかでも傑出しているのがクリストバル・アルフテル(1930-2021) とルイス・デ・パブロ(1930-) である。C.アルフテルは「8人組」のアルフテル兄弟の甥であり、1951年にマドリード王立音楽院を修了して指揮者としてのキャリアを順調に重ね、作曲家としても評価されて1961年から母校の教授として作曲を教える、エリート中のエリートである。他方パブロは作曲はほぼ独学、マドリードの名門・コンプルテンセ大学法学部を卒業した後、映画音楽で生計を立てながら(ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』(1973) の音楽が特に知られる)演奏会企画などを通じて現代音楽の普及に勤しんだ。ふたりの経歴は対照的だが、各々の管弦楽作品を集めたLPがWERGOレーベルから1969年に発売され、スペインの作曲水準を世界に知らしめた。
60年代のふたりは徹底的に厳しいセリー音楽の書き手だったが、前衛の時代が終わると書法に柔軟性が加わってくる。C.アルフテルの場合は、70年代半ばから90年代にかけて多くの協奏曲を書き、調性的な旋律の扱いを手に入れた。ただし《スペインの7つの歌》(1992) は前衛の時代と変わらない厳しい書法で貫かれ、調性的旋律の導入は不可逆な変化ではなく、編成や演奏機会に応じたオプションと捉えるべきだろう。パブロの場合は自作台本の最初のオペラ《Kiu》(1979-82) を契機に、音色と音響の空間性により配慮するようになった。武満徹がパブロをサントリーホール国際作曲委嘱シリーズに選んだのは、独学で映画音楽で生計を立てていたという経歴への親近感に加えて、作風にも共感するものがあったのだろう。こうして生まれた《風の道》(1987) は、武満監修時代のシリーズ最高傑作となり、パブロの代表作のひとつでもある。C.アルフテルは《ドン・キホーテ》(2000)、パブロは《クリスティーナ》(1997-99) という集大成的なオペラを同時期に書き、ともに90歳を超える長寿を全うし、ふたりは最後まで並走していた。
「51年世代」には、ネオ・ダダを経てケージとインスタレーション作品《失われた沈黙》(1978) を共作したフアン・イダルゴ(1927-2018) のような作曲家も含まれ、全体像を知るスポークスマンを必要としていたが、その役割を担ったのは一世代下のトマス・マルコ(1942-) だった。彼の創作姿勢はヨーロッパ現代音楽のあらゆる潮流を模倣することだが、イダルゴ、ワルター・マルチェッティらが結成したネオ・ダダのグループZajにまで参加してしまうバイタリティは貴重である。彼は評論家・放送ディレクター・編集者・オーガナイザーなどの肩書きでスペイン現代音楽振興に尽力し、スペイン現代音楽を紹介した著作も多い。
フランシスコ・ゲレーロ(1951-97) は、音楽教師の父親や身の回りの音楽家に最初の手ほどきを受けた以外は、ほぼ独学で作曲を学んだ。1968年にパブロと知り合って強い影響を受け、翌年にあるパブロの曲を模して書いた作品でファリャ作曲賞を受賞している。1971年にマドリードに上京し、パブロが創設した電子音楽スタジオに参加した。1973年にはユネスコ国際作曲家会議・イタリア賞・ガウデアムス賞に入選している。1974年には図形楽譜研究グループを結成しており、この時期の主な関心は偶然性の探求だった。だが彼は1976年から、組み合わせ論を用いて大量の音群を操作する、新しい作曲法に取り組み始める。シェルシや裏スペクトル楽派(ラドゥレスク、ドゥミトレスクら)の研究で知られる音楽評論家ハリー・ハルブライヒやクセナキスに激賞され、彼の評価はヨーロッパで高まってゆく。1983年には代表作となる弦楽器のための連作《Zayin》シリーズ(1983-97) にも取り組み始めた。
しかし1985年から1988年にかけて、彼は作曲を止めた。それまでの方法論に限界を感じ、新しい方法論を模索していた。彼が作曲を再開したのは、組み合わせ論とフラクタル理論を結びつけ、内部構造を自律生成する方法論を編み出したことによる。この方法論は、当時作曲を教えていたアルベルト・ポサダス(1967-) と共同で開発したが、方法論を共有してはいても、ゲレーロとポサダスの作風はあまり似ていない(高橋悠治がクセナキスに師事し作曲技法を共有していた時期でも、作風はあまり似ていなかったように)。ゲレーロの作風の本質は大量の音群を詰め込む志向にあり、方法論自体ではないということだ。この方法論はコンピュータに乗せることが可能で、そうして作られた最初の作品《Sahara》(1991) は、彼の5曲の管弦楽曲の中でも特に演奏機会が多い。《Zayin》シリーズは彼の死の直前に完成し、アルディッティ弦楽四重奏団が初演して録音も行っている。早すぎた晩年に彼が最後に取り組んだのは、アルベニス《イベリア》全曲のオーケストレーション(1994-) だった。この仕事は未完に終わったが、数学的方法論を極めたゲレーロが最後に戻ってきたのが《イベリア》だったことは、この作品のスペイン音楽史における存在感の大きさを示している。