【公開録音コンサート】
《アルス・ガリカの精華 ~サンサーンス没後100周年記念》
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2021年9月2日(木)19:00開演(18:30開場)
東音ホール (JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
入場料: 3500円
〈予約/お問い合わせ〉 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL: 03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838
peatix(ウェブ申込ページ)https://pubrec210902.peatix.com
Poco allegro - Allegro - Allegretto quasi andante - Molto piu lento - Allegro non troppo - Un pochettino ritenuto - Tempo primo
●V.ダンディ(1851-1931):《フランスの山人の歌による交響曲 Op.25》(1886/2021、米沢典剛による2台ピアノ版/世界初演) 24分
I. Assez lent / Modérément animé - II. Assez modéré, mais sans lenteur - III. Animé
--(休憩)--
●高橋裕(1953- ):《シンフォニック・カルマ》(1990/2020、米沢典剛による2台ピアノ版/世界初演) 24分
●C.サン=サーンス(1835-1921):《交響曲第3番 ハ短調 Op.78 「オルガン付」 ~F.リストの追憶に》(1886、作曲者による2台ピアノ版)[米沢典剛校訂] 34分
I. Adagio / Allegro moderato / Poco adagio - II. Allegro moderato / Presto / Maestoso / Allegro
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高橋裕:《シンフォニック・カルマ Symphonic Karma》(1990/2020 米沢典剛による2台ピアノ版)
カルマとは、想いや言葉、人間の行為までの全てを表し、業(ごう)と訳す。
宇宙や自然界の法則でもあるカルマから、何人と言えども逃れる事は出来ない。
空(くう)を切り裂くような冒頭の響きを聴いた時、それは天から突き付けられた己のカルマと感じた。
この曲において、旋律は重要な位置を占めているが、それは重層に絡み合い、宇宙まで広がる音響空間を構成していく。
今回、2台ピアノ版の話しを頂いた時に、3管編成のオーケストラの15~16声部にも及ぶポリフォニックな部分を、どう編曲するのか非常に興味があった(私の能力では到底不可能に思えた)。米沢典剛氏は一つの楽器が奏でるメロディーを 1 Piano から 2 Pianos へと、又はその逆へと橋渡しをしながらも、徐々に増えていくこの至難のポリフォニーを物にしていった。4手、20本の指では到底無理な部分も存在しているが、想像を超えた《シンフォニック・カルマ》の2台ピアノ版がついに生まれた。言うに及ばず演奏は編曲のそれ以上に至難の極みに達している。どのような音宇宙が現れるのか思いも及ばない!二人のピアニストの人間業とも思えないお力にすがり、2台ピアノの神の降臨を願うばかりである。
オーケストラ版は1990年「時の会」管弦楽作品展において、岩城宏之指揮東京フィルハーモニー交響楽団によって初演され、第1回芥川作曲賞を受賞した。(高橋裕)
高橋裕 Yutaka Takahashi
1953年京都に生まれる。1980年東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学音楽学部作曲科を経て 同大学院作曲専攻修了。《シンフォニア・リトゥルジカ》が日本交響楽振興財団作曲賞入賞。1983年《般若理趣交響曲》が世界仏教音楽祭コンクール第1位受賞。1987年国際カール・マリア・フォン・ウェーバー室内楽コンクールにおいて《弦楽四重奏曲》が第1位受賞。藤堂音楽賞受賞。1991年《シンフォニック・カルマ》が 第1回芥川作曲賞受賞。オーケストラ・アンサンブル金沢より笙とオーケストラのための《風籟》に特別賞が与えられる。京都新人賞受賞。1997年CD「シンフォニック・カルマ/高橋裕管弦楽作品集」がDENONよりリリースされ、レコード芸術の特選盤に選ばれる。2003年、高橋裕室内楽作品展を開催する。2014年には自らの指揮により和楽とオーケストラ・アンサンブル金沢とのコラボレーションによる「和と洋の想を聴く」を開催する。CD「宇宙の相を聴く/高橋裕室内楽作品集」をCAMERATA Tokyoからリリース。また2015、2016年には、オペラ《双子の星》(東日本大震災復興応援公演)を仙台・東京・盛岡で開催する。
これまで東京藝術大学音楽学部ソルフェージュ科講師、同附属音楽高等学校教諭として長年後進の指導にあたった他、現在は名古屋音楽大学特任教授、大阪芸術大学客員教授として活動している。アプサラス会長を務める他、日本作曲家協議会会員、日ロ音楽家協会運営委員。
高橋裕:フォルテピアノ独奏のための《濫觴》(2020)
米沢典剛 Noritake Yonezawa
東京都出身。6歳よりピアノを始める。指揮法を増井信貴氏に師事。慶應義塾大学在学中、ホルン奏者としてオーケストラで活動するかたわら、横山淳(作曲家)、鈴木隆太(ピアニスト/オルガニスト)らと共に音楽集団「Meta Exhibition」を結成し邦人作曲家の現代作品の公演を企画・開催。近年は管弦楽曲や弦楽四重奏曲のピアノ用編曲を多数手掛けている。
主な編曲作品:バルトーク《弦楽四重奏曲(全6曲)》、ベルク《抒情組曲(全6楽章)》、ショパン《チェロ・ソナタ》、ヒンデミット《C.M.v.ウェーバーの主題による交響的変容》、ヤナーチェク《狂詩曲「タラス・ブーリバ」》、マーラー《葬礼》、ニールセン《交響曲第4番 「不滅」》、シェーンベルク《室内交響曲第2番》、シベリウス《交響詩「タピオラ」》、R.シュトラウス《皇紀2600年奉祝音楽》、ヴァレーズ《アルカナ》(以上ピアノ独奏版)、
アンタイル《バレエ・メカニック》、バルトーク《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》、R.シュトラウス《アルプス交響曲》、ストラヴィンスキー《結婚》、ヴァレーズ《アメリカ》(以上2台ピアノ4手版)
■サン=サーンス(L.ゴドフスキー編):《白鳥》(1886/1927)
■サン=サーンス(G.ファウル編):《白鳥》 (1886/2019) [米沢典剛によるピアノ版]
■サン=サーンス(W.リンゲンベルク編):歌劇「サムソンとダリラ」第2幕より ダリラのアリア《あなたの声に心は開く》(1877/2005)
■サン=サーンス(作曲者編):歌劇「サムソンとダリラ」第3幕より バレエ音楽《バッカナール》(1877)
■サン=サーンス:《フランス風軍隊行進曲》(作曲者編ピアノ独奏版)(1880)
■J.S.バッハ(サン=サーンス編):無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番BWV1005より「フーガ」「ラルゴ」
■R.シューマン(サン=サーンス編):《夕べの歌 Op.85-12》
国民音楽協会の精華―――中西充弥
今回のプログラムのテーマは19世紀フランスにおいて設立された「国民音楽協会」となっております。まずはその創設の経緯から振り返ってみましょう。
国民音楽協会はフランス語表記だとSociété nationale de musiqueとなり「ナショナル(国民)」との文字が入ることから、ナショナリズムにその一端を発しています。直接的な原因は、1870年7月に勃発した普仏戦争でした。外敵の存在により国内の結束を強めることになったのはもちろんですが、この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ヴィルヘルム一世(1797-1888)がヴェルサイユ宮殿の鏡の間で皇帝戴冠式を行うことでドイツ帝国が成立し、アルザス・ロレーヌ地方を割譲させられるといった屈辱的な出来事により、怨恨、復讐心がフランス人の愛国心をさらに刺激し、かき立てることとなりました。
社会的な背景を見た上で、当時のフランス楽壇はどのような状況であったか、見ていきましょう。20世紀前半に活躍した音楽学者、ポール・ランドルミー(1869-1943)はその著書『音楽史』において「1830年から1860年ごろまで、マイアベーアとオベールが劇場音楽の運命を牛耳っていた。[中略]劇場の外でさえ、ベルリオーズは聴衆に認められることができなかった。公衆を再教育し、音楽家に対し自分の芸術への敬意を引き戻させるには、長きにわたる努力が必要であった」と述べています。つまり、グラントペラ(グランド・オペラ)を頂点とする劇音楽が全盛で、交響楽、室内楽といった純音楽、器楽は顧みられることが無く、ドイツ音楽に対しウィーン古典派、ロマン派初期の期間、後れを取っていたのでした。実際、カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)によると「当時のフランスの作曲家が器楽の分野に挑戦しようものなら、自分で演奏会を主催して作品を演奏してもらうしかなく、友人と批評家を招待するだけで、一般の聴衆が来ることなど考えられない状態」でした。また、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)は「1870年以前、私はソナタや四重奏曲を作曲しようとは夢にも思いませんでした。当時は若い音楽家にそのような作品を聴衆に聴いてもらえる機会は全くなかったのです。1871年にサン=サーンスが国民音楽協会を創立して、その主な活動がまさに若い作曲家の作品を演奏することだったので、作品に取り掛かったのです」と回想しています。
サン=サーンスはバリトン歌手のロマン・ビュシーヌ(1830-1899)と共同発起人となり、サン=サーンスの音楽サロン、月曜会の常連であった友人たちの賛同を得て1871年2月25日に国民音楽協会が創設されました。アルス・ガリカ(ガリアの芸術)を標語にしましたが、ガリアとはローマ時代のフランスの呼名で、ラテン語です。このスローガンのもとに参集した音楽家は、アレクシス・ド・カスティヨン(1838-1873)、セザール・フランク(1822-1890)、エルネスト・ギロー(1837-1892)、ジュール・マスネ(1842-1912)、ジュール・ガルサン(1830-1896)、フォーレ、テオドール・デュボワ(1837-1924)、ポール・タファネル(1844-1908)、アンリ・デュパルク(1848-1933)等、錚々たるメンバーが挙げられます。入会資格はフランス国籍保持者で、存命の作曲家の作品の演奏に限定するという、作曲家の互助組織の側面も持ち合わせていました。作曲家一人でホールを借り、演奏家を雇って自作を公開するには、多くの資金と労力を要します。これ以降もフランスでは「六人組」(1920)や「若きフランス」(1936)といった作曲家グループ(運動)が起きますが、資金調達や広報戦略の面で、若手作曲家が世に出るための有効な手段であったと言えるでしょう。とはいえ、祖国が戦争に負け、将来の先行きも見えない混沌とした時期に芸術運動を興すというのは大変驚くべきことです。さらに、戦争という外患のおかげで、という言い方は不謹慎ですが、これほど多くの考え方を異にする作曲家たちが一つの旗の下に一致団結できたのは一種の奇跡でした。
さて、こうして華々しく活動を始めた国民音楽協会、15年も経過して今回のプログラムで取り上げる1886年前後になってくると「十年一昔」ではありませんが、世の中の潮流が変わってきます。時代の流れを順に追ってみましょう。
先ほど、国民音楽協会創設前夜がオペラ全盛の時代であったことはお伝えいたしましたが、全く器楽が演奏されなかったかというと、そうではありませんでした。ただし、一言でいうと「ベートーヴェン崇拝の時代」と言えましょう。フランスで歴史と権威のある演奏団体と言えば、まずパリ音楽院演奏協会(現パリ管弦楽団)が挙げられます。1828年、指揮者フランソワ・アントワーヌ・アブネック(1781-1849)により創立されました。その名の通り、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)の教授、卒業生、在校生からなる組織で、フランスの音楽学校の頂点である同校の水準を反映した質の高い演奏で評価を得、定期会員の席は一種のステータス・シンボルとなるほどでした。この演奏協会においてアブネックが熱心に取り上げ、パリの聴衆を啓蒙したのが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の作品で、この伝統は後継の指揮者にも引き継がれ、フランスにおいてベートーヴェンが神格化されたのでした。次いで1861年、指揮者ジュール・パドル―(1819-1887)によりコンセール・ポピュレール(現パドル―管弦楽団)が設立されます。ただし「ポピュレール」と名がつくように、広く大衆に交響音楽を聴く機会を提供することが目的でしたので、薄利多売方式を取りました。それは、このような器楽演奏団体が一般的でなかった時代の先駆けとして、採算を取っていくためには仕方のないことであったのかもしれません。よって、パドル―のプログラミングはドイツの管弦楽曲が主になり、ベートーヴェン、フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)、ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)、カール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)が基本となりました。パドル―は、同時代のフランス人作曲家に対しては「ベートーヴェンなみの交響曲を作れば演奏してあげるよ」と言うのを口癖にしていた、というエピソードが伝わるほどです。
そして国民音楽協会を境に、1873年、指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1838-1910)がコンセール・ナショナル(現コロンヌ管弦楽団)を創設します。同じく「ナショナル」とあるように、同時代のフランス人作曲家の作品を紹介することに力を注ぎ、コロンヌの後を継いだ作曲家・指揮者のガブリエル・ピエルネ(1863-1937)がクロード・ドビュッシー(1862-1918)やモーリス・ラヴェル(1875-1937)らの作品を擁護し、演奏会で取り上げたことは有名です。さらに、第4の演奏団体、新演奏会協会(現ラムルー管弦楽団)を指揮者シャルル・ラムルー(1834-1899)が1881年に立ち上げます。ラムルーも当時の前衛フランス音楽をプログラムに入れましたが、それだけでなく、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の作品のフランス初演によって差別化を図りました。
さて、当時のフランスを代表する四大演奏団体の成立の流れを俯瞰しただけでも、フランス楽壇の変化、特に興行形態と聴衆・支持者層の変化が見て取れます。演奏会の形態に関しては、限られた富裕な音楽愛好家による閉鎖的な集まりを脱し、より開かれた大衆化が図られました。プログラミングに関しては、ベートーヴェン一辺倒だったものが、ドイツへの反発によるナショナリズムからフランスの同時代音楽の優先的導入、今度はその反動でワーグナーの受容と流行という変遷をたどります。当然ながら、この時代の変化に国民音楽協会は対応を迫られることとなりました。その結果、1872年から86年まで会長を務めたサン=サーンスがビュシーヌと共に脱退することになります。
直接的な原因として知られるのが、ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)による演奏会プログラムへの外国作品の導入提案でした。1886年11月26日の総会におけるこの提案の可決によりサン=サーンスらが脱退し、フランクを会長に戴く新体制へと移行しました。プログラミングの変化はまさにフランス楽壇の潮流を反映したもので、創設後10年以上経過してフランス人作曲家の新作だけで質の高い演奏会プログラムを組むことが難しくなり、硬直化した国民音楽協会を立て直す結果となります。とはいえ、ダンディの本音としては、ワグネリアンの仲間と共にワーグナーの作品の演奏を意図したものであり、当時ワーグナーから距離を取りつつあったサン=サーンスとの感情的な溝が深まっていたのでした。当然ながら、この一件はサン=サーンスとダンディをはじめとするフランク派(フランキスト)との対立を決定的なものとしてしまいましたが、1919年、サン=サーンスがダンディの著作『作曲法講義』に対するパンフレット『ヴァンサン・ダンディの思想』を発表したことでようやく和解が図られました。
さらに、興行形態と聴衆・支持者層の変化も関わっていました。協会の硬直化の原因の一つが、その閉鎖性にあったのです。もともと、設立時の母体の一つとなったのが、サン=サーンスが開いていた音楽サロン、月曜会でした。サロンとは元は宮廷や貴族の邸宅で始まった社交界ですが、共和制の時代になると、元貴族や新興ブルジョワ、そして芸術家がサロンを開くようになります。上流階級の社交界ですから、当然ながら貴族趣味、エリート趣味の閉鎖的な世界となります。その延長線上にあった国民音楽協会も閉鎖的で、演奏会のチケットは一般売りされず、メンバーとその招待客に限られていたのです。フランス人作曲家の新作が演奏されるとヤジが飛んだ時代にあって、公衆やジャーナリズムとは隔絶したところで、前衛音楽に理解のある人だけで集まって新しい芸術とその聴衆を育てていこう、という組織でした。邸宅の一室で開催されていた音楽サロンが、ホールでの開催に拡大された、ということだったのです。現在の目から見ると、確かにスノビズムが鼻につくところはありますが、世の中の流れに沿った漸進的な変化という点では、合理的なシステムでした。しかし、10年以上も経過すると、先述した他の交響演奏団体も生まれてきて広く一般大衆にもフランスの前衛音楽の演奏が提供されるようになると、音楽サロン型システムでは時代遅れとなってしまいました。そこで、ダンディとエルネスト・ショーソン(1855-1899)らを中心とした新体制では、国やパリ市に対する公的助成の申請、有力紙への招待状の送付によるメディア露出の働きかけを行い、協会を「閉じられた」サロンから「開かれた」演奏会へと変化させます。このダンディの改革は時代の変化に対応したものであり、彼は中興の祖として必要なことを行ったと言えますが、サン=サーンスは残念ながら時代の変化についていくことができなかったのかもしれません。ただ、音楽サロンの文化はこの時代に全て無くなったわけではなく、20世紀前半に活躍したパトロン、ポリニャック大公妃(ウィナレッタ・シンガー、1865-1943)のサロンは有名で、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)やフランシス・プーランク(1899-1963)らの作曲家を支援しました。
サン=サーンスは長生きをし、新しいことにも興味を持ちましたが、根本のところでは古典的、伝統的なものを大事にしましたので、サン=サーンスが立ち止まる中、時代が横を通り過ぎて行った感があります。とはいえ、サン=サーンスが生まれたのはベートーヴェンが亡くなった8年後で、神童としてデビューした1846年にはまだフレデリック・ショパン(1810-1849)が活躍していた頃から、1918年のドビュッシーの死を見届けるという音楽史的にも激動の時代、自分を見失わずに居続けられ、その作品が現在においても演奏され続けているというのは、稀有なことではないでしょうか。そして、国民音楽協会の脱退自体はサン=サーンスに大きな変化をもたらさなかったと考えられます。というのも、サン=サーンスは独立独歩のいわば一匹狼で、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)での教職に就いたことがなく、一門を形成しなかったからです。また、1881年に音楽アカデミー(芸術院)会員となり、公的にもフランス楽壇の重鎮の仲間入りを果たしましたので、国民音楽協会にしがみつく必要もなく、自分の信念や考えに沿って行動したまで、と言えましょう。サン=サーンスの場合、もともとフランス国内よりも国外で評価され、逆輸入という形でフランス国内のキャリアを積んできました。その代表例が、1877年ドイツのヴァイマルで初演された歌劇《サムソンとダリラ》です。というわけで、サン=サーンスの場合、フランス国内で作品発表ができなければ国外に活路を見出す、という努力は若い時からずっと孤軍奮闘で行ってきたので、彼にとって国民音楽協会という存在は自分のためではなく、後輩に提供する活動の場であったのです。自分が若い時にした苦労を掛けさせたくない、という親心から発せられたものと考えられ、だからこそダンディの提案に対しては、今まで行ってきた努力を無にされたように感じ、怒って脱退ということになったと考えられます。とはいえ今回のプログラムにおいて、サン=サーンスの《交響曲 第3番 op.78》はロンドン・フィルハーモニック協会の委嘱で1886年ロンドン初演、フランクの《交響的変奏曲》は1886年国民音楽協会で初演、ダンディの《フランスの山人の歌による交響曲 op.25》は1887年コンセール・ラムルーによって初演、と多様な作品発表の場が存在したことは、それだけフランスに器楽、純粋音楽が定着したことを物語っており、サン=サーンスが設立当初目指した成果(精華)は十分に果たせたと言えるでしょう。
中西充弥 Mitsuya NAKANISHI, musicology
京都大学文学部フランス語学フランス文学専修卒業。京都市立芸術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了。フランス政府給費留学生として渡仏、パリ第四大学ソルボンヌ(現パリ=ソルボンヌ大学)大学院博士課程に留学。2016年、サン=サーンスとその日本趣味に関する論文で博士号(音楽学/パリ=ソルボンヌ大学)取得。日本音楽学会正会員。NHK Eテレ「クラシックTV」『再発見!サン=サーンス 真の魅力』(2021年6月17日放送)監修、出演。カワイ出版『サン=サーンス ピアノ曲集』(2021)校訂。ウェブ連載『旅するピアニスト、サン=サーンス』等。専門はサン=サーンスを中心とした19世紀/20世紀フランス音楽史。
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