
ジークフリート牧歌(G.グールド編独奏版)、ヴェーゼンドンク歌曲集(シュトラダル編独奏版)、パルジファル前奏曲、ローエングリン前奏曲、フォーレ「バイロイトの思い出」、G.ペッソン「水夫の歌」、米沢典剛「デビルマンの黄昏」他
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大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)

第1回公演〈ピアノで聴くワーグナー〉
2021年10月8日(金)19時開演(18時30分開場)
●R.ワーグナー(1813-1883):
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲(1867) [H.v.ビューロー編(1868)] 9分
『タンホイザー』序曲(1845) [F.リスト編(1849)] 15分
『ローエングリン』より「第3幕への前奏曲と結婚行進曲」(1848) [F.リスト編(1854)] 10分
『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」(1859) [E.シェリング編(1932)/F.リスト編(1868)] 16分
--休憩--
●落晃子:ピアノ独奏のための《八犬伝》(2021、委嘱新作初演) 4分
●R.ワーグナー/L.マゼール:《言葉のない指環》(1848-74/1987) [米沢典剛編(2021)、世界初演] 65分
楽劇『ニーベルングの指環/ラインの黄金』(1854)より 〈斯てラインの「緑色の黄昏」が始まる〉〈ヴァルハラ城への神々の入城〉〈地底の国ニーベルハイムの侏儒〉〈槌を打つ雷神ドンナー〉
『ワルキューレ』(1856)より 〈我らはジークムントの愛の眼差しを見る〉〈二人の逃走(第2幕前奏曲)〉〈ヴォータンの憤激〉〈ワルキューレの騎行〉〈ヴォータンの告別〉
『ジークフリート』(1871)より 〈ミーメの恐れ〉〈魔法の剣を鍛えるジークフリート〉〈森のささやき〉〈ドラゴン退治〉〈ファーフナーの嘆きの歌〉
『神々の黄昏』(1874)より 〈ジークフリートとブリュンヒルデを包む朝焼け〉〈ジークフリートのラインへの旅〉〈ハーゲンの呼びかけ〉〈ジークフリートとラインの娘たち〉〈ジークフリートの死と葬送行進曲〉〈ブリュンヒルデの自己犠牲 - 神々の滅亡〉
落晃子:ピアノ独奏のための《八犬伝》(2021、委嘱新作)

〈現代では小説は他人を交えずひとりで黙読するものと考えられているが、たまたま高齢の老人が一種異様な節廻しで新聞を音読する光景に接したりすると、この黙読による読書の習慣が一般化したのは、ごく近年、それも二世代か三世代の間に過ぎないのではないかと思われてくる。〉(前田愛『近代読者の成立』)
幼少期を思い返してみると、夜寝る前に幾度となく祖父母に昔話をせがみ、枕元で桃太郎や浦島太郎などを語ってもらいながら夢路についたものであった。子供といえども話の筋は全て覚えてしまっているのに、なぜあんなに何度も聞きたいと思ったのだろうか。祖父母の語りがことさら上手かったわけではなかったと思う。話の筋が完全にわかっている物語を、大好きな祖父母の語りにより聞くことで、安心して眠ることができたのだろう。
〈文字にされた作品が物語なのではない。すべて、物語られたその瞬間に、物語は存する。(中略)読み手たる女房によっていかに生命を吹き込まれ、享受者たる姫君の胸をいかに踊らしめたことであったろう。〉(玉上琢彌『源氏物語音読論』)
このように「物語」は、語りの上手い人によって時にはアレンジされながら、テンポよく演じられることで、その世界観やイメージを伝えられ受け継がれていった。YouTubeや電子書籍、音楽や動画のサブスクリプションサービスなどにより大量の情報にいくらでもアクセスできる今、わたしたちは音楽や物語からイメージを汲み取る想像力を失っているのではないか、とふと思うことがある。
今回は、曲亭馬琴原作「南総里見八犬伝」(1814-1842)のテキストから着想を得た。五七五調のテンポよい文体で書かれた冒険活劇であり、読み上げて音にすることにより登場人物に命が吹き込まれる、まさに音読にふさわしい物語と考えた。この原文テキストを音読したサウンドファイルをコンピュータにより音程に変換したデータを元に、ピアノ曲としての構築を試みた。語り手の口調や、八犬士が立ち回るさまを感じていただければ幸いである。(落晃子)
落晃子 Akiko OCHI, composer

広島大学教育学部卒業、同大学院学校教育研究科修了。長年に渡り専門学校や高等学校で教鞭をとる傍ら、活動名「RAKASU PROJECT.」として電子音響音楽から商業音楽制作まで、幅広い活動を行う。 2005年土佐正道、九十九清美とともにバンド「前明和電機社長土佐正道とThe広島グッドデザイン」(現『明和電機会長土佐正道とThe広島グッドデザイン』)を結成。06年、有馬純寿とラップトップデュオユニット「RPSA」を結成、全国各地でライブ活動を行う。そのほか、実験音楽、即興音楽アーティストとの共演、ダンスや伝統音楽とのコラボなど、ジャンルを超えた幅広い活動を展開している。
近年では、コンピュータに内蔵された各種センサーを使用したフィジカルコンピューティングパフォーマンスや、サウンドインスタレーション制作なども手がけており、国内外でのメディアアート関連フェスティバルでの出演・講演も多い。共著に「音楽が終わる時 産業/テクノロジー/言説 (日本記号学会 叢書セミオトポス)」(新曜社)、「教室がインターネットにつながる日」(北大路書房)、共訳に「ジャパノイズ サーキュレーション終端の音楽」(水声社)等。
現在、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部/メディア表現学部教授、同志社女子大学嘱託講師。日本音楽即興学会理事。
「毒親」フランツ・リストと「生まれながらの孤児」コジマ ――甲斐貴也
■フランツ・リストとマリー・ダグー
1833年、22歳のフランツ・リストは、マリー・ダグー伯爵夫人と知り合った。6歳上で独仏混血の彼女は、音楽と文学に精通した類まれな美女であり、パリの自宅は芸術家と貴族のサロンとなっていた。宮廷官吏の夫と、豪壮な邸宅で優雅に暮らしていた彼女は、美貌の天才ピアニストに魅了され、リストもまた彼女に夢中になった。だがフランス上流階級の一員としての彼女の高いプライドは情熱を制した。その平穏を覆したのが、1834年12月マリーの長女ルイーズの、わずか6歳での病死であった。
1833年、22歳のフランツ・リストは、マリー・ダグー伯爵夫人と知り合った。6歳上で独仏混血の彼女は、音楽と文学に精通した類まれな美女であり、パリの自宅は芸術家と貴族のサロンとなっていた。宮廷官吏の夫と、豪壮な邸宅で優雅に暮らしていた彼女は、美貌の天才ピアニストに魅了され、リストもまた彼女に夢中になった。だがフランス上流階級の一員としての彼女の高いプライドは情熱を制した。その平穏を覆したのが、1834年12月マリーの長女ルイーズの、わずか6歳での病死であった。

マリーがルイーズの喪に服す間、リストは別の既婚女性との恋の冒険に勤しんでいた。お相手はフェルディナント・ヒラーの元恋人にして元ベルリオーズの婚約者、当時は著名なピアノ製造業者カミーユ・プレイエルの夫人であり、かのクララ・シューマンの好敵手であった美貌の名ピアニスト、マリー・プレイエルである。逢引の場所は、なんとリストが親友として鍵をもらっていたフレデリック・ショパンのアパートで、もちろんショパンにも秘密であった。事後に知ったショパンは、自室に勝手に女性を引き入れたリストに、プレイエルへの恩義もあって、強い不快感を持ったという。
リストのマリー・プレイエルとの情事を知ってか知らずか、ルイーズの喪が明けてリストと再会したマリーは、愛のためにすべてを捨てる決心をした。1835年6月、リストの子をみごもった彼女は夫も子も上流社会も捨て、スイス、バーゼルのリストのもとに走った。二人はジュネーブに居を構え、リストはピアノと作曲に励んだ。二人の開いたサロンには当地やパリからの文化人が集まった。この年の12月に長女ブランディーネが生まれ、24歳の父親リストは初めての娘に夢中になったが、マリーは自らが育児に向いていないことを思い知らされるのであった。
翌年にジュネーブ音楽院が開校し、リストはピアノ科教授を無報酬で引き受けたが、天才ピアニスト、ジギスムント・タールベルクのパリ楽壇デビューと絶賛の報を知り、第一線への復帰の意欲は抑え難くなった。リストがパリに戻って開いたリサイタルは大成功を収め、ベルリオーズによる絶賛の批評もあり、リストの名声は更に高まることとなった。
その年の9月には、友人のジョルジュ・サンドことデュドバン伯爵夫人がリスト宅を訪れた。マリーとリストは、サンドとともにジュネーブを引き揚げパリに戻り、文化人と上流階級のサロンを開いた。そこに招待された一人がショパンで、後に同棲関係となるサンドとの初対面の場となった。

■コジマ・リスト
それから二人はイタリアのコモ湖畔、上流階級の保養地ベッラージョのアンジェロ・ホテルに居を置いた。ここでリストはソナタ風幻想曲『ダンテを読んで』、『ペトラルカのソネット』などを作曲しているが、1837年12月24日、クリスマスの夜にこの地で生まれたのが、次女フランチェスカ・ガエターナ・コジマ・リストである。その珍しい名は、当地の聖コズマとダミアーノ教会(コズマとダミアーノは中世の双子の殉教者)にちなんだものという。
だが父親似の大きな鼻のコジマにリストは愛情を持てなかったのか、まもなくミラノに演奏旅行にでかけた。1839年2月には一家はヴェニスに移り、5月には長男ダニエルが生まれたが、今やリストにとって嫉妬深く浪費家のマリー、子どもたちとの世俗的生活は苦痛になっていた。マリーもまた、サロンで文化人に持てはやされる喜びを取り戻したかった。二人は話し合いの末、それぞれの道を歩むことを決めた。こうなると宙に浮いてしまうのが子供たちである。
リストは子供たちを引き取る気はなかったが、マリーに預けるのも嫌だった。そこでパリに住むリストの母アンナに子供たちの面倒を見させることにした。リストは子供たちがマリーと会うことを禁じたが、かといって子供たちを大切にするどころか、母の家には全く顔を見せなかった。
この満たされないが表面的には穏やかな暮らしを急変させたのが、1847年にリストが出会った新しい恋人、カロリーネ・ヴィットゲンシュタイン伯爵夫人であった。彼女はリストの最大の理解者であったが、一方リストのすべてを管理しなければ気が済まない質で、その「すべて」には子供たちも含まれていた。躾が甘いアンナのもとに、カロリーネはかつて自らの家庭教師を務めた厳格な老婦人、パテルシ夫人を送り込んだ。

コジマはパテルシ夫人に、上流貴婦人としての立ち居振る舞いを叩きこまれた。夫人はまたコジマに歴史と文学を教え、フランス語を話す彼女にドイツ語、英語を習わせた。元々サンドを愛読する文学少女であったコジマはラシーヌ、シェイクスピアを読み、ラ・フォンテーヌの翻訳を試みるなど目覚ましい上達を見せた。また8歳で自ら進んでピアノを習い始め、父リスト編曲によるウェーバー作曲『舞踏への勧誘』を弾きこなしたという。
父リストの訪問を待ちくたびれた姉妹弟は、母ダグーの家を密かに訪れることが多くなった。これに危機感を持ったリストは1853年、ようやくパリの子供たちに会うことにした。実に9年ぶりのことである。子供たちの大きな期待に反し、子供たちに何の愛情も持っていない父との再会は実に気まずいものとなった。カロリーネが子供たちにやさしい言葉をかけたのと対照的に、父はほとんどまともに話すこともせず、型にはまった説教じみた事を言うばかりだった。
この会合に、リストが連れてきた、元ドレスデン宮廷楽長で作曲家、急進的左翼活動家のリヒャルト・ワーグナーがおり、『神々の黄昏』の一部を朗読した。自作の台本に作曲するオペラ作曲家というものを知り、コジマは強く感銘を受けたが、少女のはにかみからそれをワーグナーに伝えることもなく、ワーグナーも初対面の彼女に特別な印象を持つこともなかった。
後日コジマは父に礼状を書いたが、その返信も、音楽を勉強しなさいというだけの素っ気ないものであった。年頃のコジマは、大きな失望となった父との再会に思うところがあったようである。その後ベルリオーズの演奏会に出かけて偶然再会した母ダグーと楽しいひと時を過ごしたことについて、わざわざ事細かに報告する手紙を父に書いたのだ。
この手紙は予想以上に深刻な結果をもたらした。リストとカロリーネは、子供たちを母ダグーから距離的にも引き離すことを決めたのだった。しかし子供たちとの同居という面倒は引き受けたくないリストは、ある名案を思い付いた。母親と二人でベルリンに暮らす、愛弟子ハンス・フォン・ビューローの家に、子供たちを押し付けようというのである。
その計画はダグーがパリを離れている時を見計らって遂行され、激怒したダグーだが、父親の親権が優先される当時の世で抗うすべもなかった。長年孫たちを世話してきた祖母アンナの抗議にも耳を貸す息子ではなかった。もちろん最大の被害者は、親の勝手な都合で、見知らぬ土地の見知らぬ人物の家に追いやられる子供たちである。「表向きの理由がどうであれ、この計画はほとんど婦女誘拐にひとしいものだった」(マレック『ワーグナーの妻コジマ』)
■ハンス・フォン・ビューロー

ビューローはコジマより7歳上で1830年1月8日ドレスデン生まれ。12歳の時ワーグナーの『リエンツィ』に感激して音楽家を志し、16歳でワーグナーに音楽の才を認められ、チューリヒ歌劇場で指揮法を伝授された。1850年ワーグナーの推挙により弱冠20歳で同歌劇場の指揮者となるが、妥協を知らない完全主義者のビューローは、歌手たちの反発から年内に解任されてしまう。続いてチューリヒ近郊のザンクト・ガレンで音楽監督を翌年夏まで務める。ピアノ演奏の才にも恵まれていたビューローは、その後リストの本拠地ワイマールに移り、ピアノ演奏と指揮法を学んだ。
ビューローにとって、リストは師以上の父親代わりの存在でもあった。そのリストによく似た、文学と音楽の才あるコジマに、若きビューローはすぐに惚れ込んでしまった。神経質、情緒不安定気味の彼には安らぎを与えてくれる女性が必要であった。一方、自分を親に捨てられた孤児同然と感じていたコジマは、頼るべき拠り所を求めていた。コジマはビューローにユゴー、ミュッセ、サンドを読み聞かせ、ビューローは彼女にドイツロマン派の音楽、ワーグナーの諸作について語り、理解を深めた。二人の間が近づくのに時間はかからなかった。
同年9月、ビューローはベルリンで開いた演奏会のプログラムにワーグナーの『タンホイザー』序曲と「ヴェーヌスブルグの音楽」を組み入れた。リストも臨席したこの演奏会はしかし、ベルリンの聴衆に受け入れられず、会場は非難の声や口笛、ブーイングの嵐となった。ビューローは落胆のあまり楽屋で気を失った。リストは娘たちを先にビューロー宅に返し、深夜2時までビューローを慰めた後馬車で送り届けたが、コジマだけが彼を待って起きていた。打ちひしがれたビューローをコジマは抱きしめ、この夜二人は結婚の約束をしたという。
ビューローがリストに送った結婚の許しを願う手紙に対し、リストは気乗りしないようであった。娘はもっと格の高い貴族と結婚させたいなどと、勝手なことを考えていたようである。だが実の娘よりも、才能ある若い音楽家たちを愛したリストのこと、ビューローの熱意に負け、またこの結婚を打算的なものと睨んだ母ダグーの反対表明が、今や彼女を憎むリストには承諾への追い風となった。1857年8月、27歳のビューローと19歳のコジマは結婚した。リスト父娘はカトリックだったが、式はビューロー家の信仰するプロテスタント教会で行われた。母ダグーは来なかった。
■コジマ・ビューロー

新婚旅行はまず父リストの本拠地ワイマール、次にチューリヒの資産家ヴェーゼンドンク家に滞在するワーグナーを訪ねることとなった。ワーグナーはこの地で妻ミンナと共に庇護者の元で快適に暮らし、その妻マティルデ夫人との不義の愛を味わいながらも、作曲中の大作『ジークフリート』第2幕を理解する話し相手が欠けていた。そこでワーグナーは以前からビューローを当地に誘う手紙を書いていたのである。
やって来たビューローは『ジークフリート』の各部を易々とピアノで弾きこなし、その音楽を絶賛して、ワーグナーを大いに満足させたのであった。ワーグナーは同席する人々の感想を求めたが、コジマはビューローにもまして感激していたものの、巨匠を前に口ごもるばかりであった。
ワーグナーは新作『トリスタンとイゾルデ』の台本を得意の朗読で披露した。感激したビューローはその台本を筆写し、それを受け取ったコジマは夜遅くまで一人何度も読み返した。コジマは当地で過ごす間、情緒不安定気味にはしゃぐかと思えば、ワーグナーに対してはかたくなに言葉を交わさず、ワーグナーが不審に思うほどであった。
ベルリンでコジマは一流音楽家の妻としての役割を、パテルシ夫人仕込みで難なくこなし、夫ビューローの声望を高めた。ビューロー家はベルリン上流人士の集うサロンとなった。ドイツ文学者との交流によりその文学の才を更に磨いたコジマは、ドイツ文学の優れたフランス語訳をものし、匿名で出版するほどであった。だがコジマには飽き足らぬ思いがあった。彼女の願いは、ビューローがワーグナーのような偉大な創作家になることであった。作曲家としてもワーグナーにも認められていたビューローだが、演奏活動の多忙が創作の妨げとなっていた。
ビューローはアーサー王伝説の魔法使いマーリンに興味を持っていたが、コジマは内緒でその台本草案を書き上げ、クリスマスのプレゼントとしてビューローに贈った。ビューローは喜び、コジマに作曲を約束した。だがこの約束は果たされず、コジマはその草案を破棄してしまった。その次にコジマは、古代ギリシャのアイスキュロスによるトロイア戦争をめぐる悲劇『オレスティア』の台本も手掛けたが、これも作曲は実現しなかった。これはコジマを幻滅させたようである。

1858年、ビューロー夫妻はヴェーゼンドンク家に二度目の訪問をするが、この時は前回のように快適というわけにいかなかった。ワーグナーとマティルデ夫人との密通が露見し、妻ミンナとの三角関係の修羅場を見せつけられることになったのだ。それでも寛大なヴェーゼンドンク氏の計らいでワーグナーの滞在は続き、多くの文化人が出入りしたが、その中にはコジマの新郎に会いに来た母マリー・ダグーもいた。コジマと母は、その後名士と結婚してジュネーブに住む長女ブランディーヌに会うため、ビューローをヴェーゼンドンク家に残して旅だったが、コジマはその地で驚くような行動をとる。偶然再会したビューローの親友、カール・リッターと心中しかけたというのだ。
コジマはリッターと愛のない結婚による不幸で意気投合し、二人は湖にボートで漕ぎ出し、そこでコジマはリッターに、自分を湖に突き落としてくれと頼んだ。驚いたリッターは自分も後を追うならばと申し出たが、コジマはそれを断って思いとどまり、危うく死の危機を逃れたのであった。この事件はおそらくコジマにある決断をさせるきっかけとなった。
結局マティルデ夫人への嫉妬に狂ったミンナが起こした騒動がもとで、ワーグナーのヴェーゼンドンク家での暮らしは終止符を打たれた。ビューローと共にヴェーゼンドンク家を辞去する日、それまでワーグナーに対し不自然によそよそしい態度をとり続けていたコジマは、ひとりヴェネツィアに旅立つワーグナーの手を取り、涙を流して口づけして彼を驚かせたのである。
■コジマ・ワーグナー

その後紆余曲折を経て、夫ビューローを捨て、世間の非難と苦難を乗り越えワーグナーと結ばれたコジマの、音楽史上類を見ない内助の功により、偉大な創作の多くが生み出され、またワーグナー死後のバイロイト音楽祭の運営によりその名声をさらに高めたことは周知の通りである。偉大な音楽家の父に愛されずに育ったコジマは、父を上回る偉大な総合芸術家ワーグナーを愛し、自己犠牲と献身によりその才能と名声を死後までも育てあげたのであった。
ワーグナー没後の1886年7月31日、老リストは滞在していたバイロイトで肺炎のため急死した。父の健康悪化にかまわずコジマが連日楽劇や夜会に出席させ、床に臥してからも容態を心配する弟子達を近寄せずに放置したことが死期を早めたとも言われ、弟子たちはコジマの父への冷たさに驚かされた。カトリック聖職者を気取ったリストの遺体を祝福させるためコジマが呼んだのはプロテスタント牧師であった。そこがプロテスタントの地であるからというヴィトゲンシュタイン夫人の反対にもかかわらず、コジマの希望によりバイロイトの地に埋葬された。埋葬式では、リストの遺書に書かれた死者のためのミサとフランシスコ修道会式の埋葬もなされず、参列者は興味本位に集ったワーグナー信者ばかりであった。

コジマの要請で、当地に滞在していた作曲家アントン・ブルックナーが追悼のオルガン演奏をしている。ワーグナーに高く評価され、リストとも交友のあったブルックナーだが、即興演奏の主題に選んだのはなぜかリストの作品ではなく、ワーグナー『パルジファル』の「契約の言葉と信仰の主題」であった。その理由を弟子に問われて、いささか浮世離れした変わり者のブルックナーは、演奏前に誰もリストの主題を教えてくれなかったからだと答えた。コジマとワーグナーの結婚に、実の娘コジマより弟子ビューローを愛するがため、土壇場まで反対し続けたという父リストの葬儀に演奏されるワーグナーの音楽。それを聴くコジマの胸中はどのようなものであったろうか。
その後90歳まで永らえ、晩年認知症を患ったコジマが口にしつづけたのは、前夫ビューローへの詫びの言葉であったという。