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11/11(木)C.フランク主要ピアノ作品+塩見允枝子新作初演 (2021/11/10 update)



大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
チラシpdf 


【第2回公演】2021年11月11日(木)19時開演(18時30分開場)〈セザール・フランク ピアノ主要作品〉
使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」


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●塩見允枝子(1938- ): 《素描:A-214》(2021、委嘱初演) 4分

■セザール・フランク(1822-1890) :《前奏曲、フーガと変奏曲 Op.18》(1862/1910) [H.バウアー編] 10分

●塩見允枝子: 《素描:R-215》(2021、委嘱初演) 4分

■フランク:《前奏曲、コラールとフーガ》(1884) 17分

●塩見允枝子: 《素描:P-216》(2021、委嘱初演) 5分

■フランク:《前奏曲、アリアと終曲》(1887)  21分

  (休憩)

■フランク:《弦楽四重奏曲(全4楽章)》(1890/2018) [米沢典剛編ピアノ独奏版、世界初演]  40分
  I. Poco lento / Allegro - II. Scherzo, Vivace - III. Larghetto - IV. Final, Allegro molto




フランク:《交響的変奏曲》(1885/1932) [G.サマズイユによるピアノ独奏版]


塩見允枝子:《素描 A-214 / R-215 / P-216 (Dessin for a Moment Unknown)》(2021)
  楽譜とは、未来の或る特定の時に、演奏家が鳴り響く音として具体化するためのデッサン(構図)であるという意味で「素描」をタイトルとした。
  このシリーズでは、各作品が互いに関係の無い短いことばを含んでいるが、それらは曲のイメージから派生した光景であったり、曲の構造と原理を共にする出来事であったり、発想の源であったりする。
  演奏にあたってピアニストはそれらを呟いたり、はっきりと発音したり、無視したりというように、多様な対応をするよう指示されているが、その通りに行わなくても構わない。
 タイトル番号のA、R、Pなどは、それらの文中の主要な英単語の頭文字であり、数字、例えば214は2021年4月に完成したという意味である。(塩見允枝子)


塩見允枝子 Mieko SHIOMI, composer
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  1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成。即興演奏やテープ音楽の制作を試みる。グループ・インプロヴィゼーションは、次第にアクション・ミュージックやイヴェントへと移行し、それは図らずも世界的な傾向と一致していた。1964年ニューヨークへ渡り、フルクサスの活動に参加。同年10月ワシントン・スクエアー・ギャラリーでイヴェント作品によるソロ・リサイタルを開催。65年、郵便によって地球をステージとした遠隔共同パフォーマンス「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始。75年までに9つのイヴェントを行う。一方、イヴェントを舞台上のパフォーマンスとしても発展させ、インターメディア作品へと至る。70年に結婚して大阪へ移住。以後しばらくは、関西を中心に音と詞による室内楽作品を多数発表。
  90年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことを契機に、フルクサスの仲間たちとの交流が再開し、90年代は欧米の数々のフェスティヴァルやグループ展に参加。95年パリ、98年ケルンで個展。同時に国内では、電子テクノロジーに興味を持ち、藤枝守・佐近田展康氏らの協力の下、神戸ジーベックで「メディア・オペラ」、「フルクサス・メディア・オペラ」などのコンサートを企画・演奏。96年には、<東京の夏>音楽祭「世界の女性作曲家」に推薦され、高橋アキ氏の委嘱による「時の戯れ Part II」を自選作として再演。97年神戸国際現代音楽祭では、ブック・オブジェクトから平面作品やパフォーマンスを経て50分の室内楽として作曲した「日蝕の昼間の偶発的物語#1~#3」を初演。1999年北上市で開催された「日独ヴィジュアル・ポエトリー展」に参加。以後このジャンルの国内外の展覧会に出品。
  2001年5月国立国際美術館で裁判形式による複合パフォーマンス「フルクサス裁判」を構成・共演。同年11月「日本の作曲・21世紀へのあゆみ:前衛の時代1~ジョン・ケージ上陸」で過去のイヴェント作品を舞台音楽に作曲初演。2004年3月ジーベックにピアニスト井上郷子氏を招き、近藤譲氏との二人展「線の音楽・形の音楽」を企画。同年5月フルクサスの友人ベン・パターソンの来日公演をマネージメント・共演。2005年には、自伝的著書「フルクサスとは何か」をフィルムアート社から出版。一方、うらわ美術館でのフルクサス展を初め、大学などでフルクサスのレクチャーやワークショップを行う。2008年豊田市美術館でのグループ展「不協和音」には、音楽的コンセプトを持つ多数のヴィジュアルな作品を展示。
  2009年より再び作曲に戻り、ピアノ曲や、イヴェント性のあるチェロ、ハープのためのソロ作品を作曲。2012年舘野泉氏からの委嘱で書いた「アステリクスの肖像」や献呈曲「架空庭園」全3曲が「舘野泉--左手の音楽祭」で初演される。2013年4~7月国立国際美術館がコレクション展「塩見允枝子とフルクサス」を開催。2014年4月東京都現代美術館で行なわれた「Fluxus in Japan 2014」に参加。同年より京都市立芸術大学芸術資源研究センターの特別招聘研究員として、学内でワークショップや公開授業を行ない、現在に至る。なお、過去の出版物やオブジェクトなどは、ニューヨーク近代美術館を始め、国内外の多数の美術館やアーカイヴに収蔵されている。


【主要音楽作品】
「ファントーム」1978
「鳥の辞典」1979
「もし我々が五角形の記憶装置であったなら」1979
「午後に 又は 夢の構造」1979
「草原に夕陽は沈む」1981
「パラセリー二」1981
「時の戯れ」1984
「グロビュールの詩」1988
「時の戯れ Part Ⅱ」1989
「ジョージ・マチューナスへの鎮魂曲」1990
「ピアニストのための方向の音楽」1990
「グランド・ピアノのためのフォーリング・イヴェント」1991
「ピアノの上のビリヤード」1991
「そして夜鶯は翔んだ」1992
「時の思索」1992
「日食の昼間の偶発的物語」1997
「カスケード」1997
「アンコールの伝言」1998
「鏡の回廊」1998
「パラボリック」1998
「月食の夜の偶話 ・第一話」1999
「彩られた影」2002
「架空庭園No.1 – No.3」2009
「チェロのための6つの小品」2010
「ハーピストのための方向の音楽」2010
「アステリスクの肖像」2012
「ソリトン 薄明の大気の中で」2013
「ジュピターの環」2014
「カシオペアからの黙示」2017
「無限の箱から――京都版」2019
シリーズ「素描」2021


【cf.】
〈ポック[POC]第3回公演〉 2010年11月13日(土)
塩見允枝子(1938- ):《シャドウ・ピース》+《バウンダリー・ミュージック》(1963/2010、改訂版初演)
同:《午後に又は夢の構造~ピアノと朗読のための》(1979)
同:《フラクタル・フリーク》(1997/2002、全曲通奏による東京初演) [I. カスケード - II. 鏡の回廊 - III. パラボリック - IV. 彩どられた影]
【感想ツイート集】 https://togetter.com/li/69064


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■Art Week Tokyo Online Talk https://www.artweektokyo.com/
「時間と空間を越えて:塩見允枝子の世界」(2021年)
Interview - Beyong Time and Space : Inside the World of Mieko Shiomi
橋本梓(国立国際美術館 主任研究員)によるインタビュー https://www.youtube.com/watch?v=hj9kD5LJuBc

■塩見允枝子《フルクサスとは何か? - 日常とアートを結びつけた人々》(フィルムアート社、255頁、2005年)
■塩見允枝子《パフォーマンス作品集 フルクサスをめぐる50余年》(2017年、60頁)

■塩見允枝子エッセイ「フルクサスの回想」(2020年)
 第1回 マチューナスとマルチプル http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53437534.html
 第2回 閉ざされた楽園からスペイシャル・ポエムへ http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442084.html
 第3回 北イタリーのコレクター達 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442085.html
 第4回 90年代はフルクサス・ルネッサンス  http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442183.html
 第5回 日本でのプロジェクト http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442184.html
 第6回(最終回) フルクサスの美学と手法 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442185.html

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A FLUXATLAS (フルックスアトラス)(1992年)

ギャラリー「ときの忘れもの」取り扱い作品(写真付き) http://www.tokinowasuremono.com/artist-e47-shiomi/

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●京都市立芸術大学 芸術資源研究センター 塩見允枝子オーラル・ヒストリー (柿沼敏江、竹内直によるインタビュー、2014年) http://www.kcua.ac.jp/arc/ar/shiomi_jp_1/

●後藤美波によるインタビュー映像(2019年) https://creators.yahoo.co.jp/gotominami/0200058884
ジェンダー差別「考えたことがない」―― 世界的”女性アーティスト”が背負ってきたもの

●ルイジ・ボノット財団(イタリア)のコレクション (73点)
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フランクのことが羨ましいサン=サーンス――中西充弥

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  筆者はカミーユ・サン=サーンス(1835-1921)を専門に研究しているので、論点がどうしてもサン=サーンスから見える世界に偏りがちになりますが、特にサン=サーンスとフランク「派」(フランキスト)との対立が激しかっただけに、サン=サーンスから見たフランク像を提供することで、よりセザール・フランク(1822-1890)の人となりを浮き彫りにできるのではないかと思います。
  サン=サーンスから見たフランクの羨ましい点、それは「親離れができた」こと、「世俗的な成功に固執しなかった」こと、「シンフォニックなオルガン作品というジャンルを構築した」こと、そして何より「ワーグナーの影響を受け、それを支持する多くの熱狂的な弟子を持ち一派を成した」ことなど、様々です。そしてその一つ一つがサン=サーンスとは対照的で、つまりサン=サーンスにないものをフランクが持っていた、ということになります。有り体に書くと「ないものねだり」となりますが、この比較が両者の本質を表しており、フランクの音楽や人生を読み解く上でのヒントとなるでしょう。

  まず、「親離れができた」点、フランクもサン=サーンスもピアノの神童として「売り出された」のですが、フランクの場合は父親、サン=サーンスの場合はピアノの師、カミーユ・スタマティ(1811-1870)によるものでした。フランクの父親はステージ・パパとしてフランクを支配したのに対し、サン=サーンスの母親は拙速な成功には懐疑的で十分な教育を受けさせたいとして結果スタマティと決別しますが、教育方針は違えども束縛する親には違いありませんでした。フランクの場合、恋人となったデムソー嬢との結婚を父親に反対されたものの、1848年に強行することで父親との決別を果たし、自立への一歩を踏み出しました。一方、サン=サーンスの結婚に関しては謎が多く、特に恋仲と噂されたこともない相手と唐突に結婚し、おそらく母親の束縛を逃れるための方便として結婚を利用したと考えられるのですが、一人親を置いておくわけにもいかず、姑と新婚夫婦3人同居の生活となってしまいました。よって当初から上手くいく気配がなく、息子の相次ぐ死という悲劇によって夫婦仲は冷めて別居となり、結局サン=サーンスは親子二人暮らしに戻ってしまうのでした。特にサン=サーンスの場合、父親を生後間もなく失い、母親の庇護という名の束縛が彼女の死までずっと続くことになりますので、サン=サーンスの精神形成に多大な影響を与え、母親の死は作曲家に自由と自立をもたらす代わりに精神的危機を引き起こしました。

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  さて、フランクは父親の反対を押し切りましたが、それは結婚だけではありませんでした。聖書による牧歌《ルツ》の1846年の公開初演の失敗により、公的な活動から身を引き、プライヴェート教師や伴奏者としてキャリアを進めるという、華やかな成功を期待できない生活となります。サン=サーンスの場合もローマ大賞コンクールに失敗し、作曲家としては順風満帆な船出とはなりませんでしたが、それでも彼は自宅で「月曜会」という音楽サロンを開催するなど社交界の付き合いを大事にして人脈作りに励み、当時の作曲家のステータスであった劇場での成功を夢見てオペラ作品の売込みに奔走しました。ただし、フランクは結婚式を挙げたノートルダム・ド・ロレット教会を皮切りにオルガニストとしてのキャリアをスタートさせます。教会オルガニストとしての「勤め」は安定した収入を求めて始められたものではありましたが、そこでアリスティド・カヴァイエ=コル(1811-1899)と彼が製作したオルガンに出会い、1858年より亡くなるまで務めたサント・クロチルド聖堂のオルガニストとしての活動は、フランクの名声を高め、1873年のパリ音楽院(コンセルヴァトワール)のオルガン科教授の任用につながり、彼の作曲活動にも大きな影響を与えました。
  その影響の一つは当然ながら彼のオルガン作品に現れます。《大オルガンのための6つの作品集》の中の第2曲〈交響的大曲〉(1863)がその代表です。オルガンによってシンフォニックな世界を作り出す、ということはフランクの後任としてコンセルヴァトワールのオルガン科教授を引き継いだシャルル=マリー・ヴィドール(1844-1937)のオルガン交響曲の嚆矢とも言えるでしょう。そして、この鍵盤楽器による交響曲のアイディアは1857年に出版されたシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813-1888)の《全ての短調による12の練習曲 op.39》(1857)に含まれる〈ピアノ独奏のための交響曲〉や〈ピアノ独奏のための協奏曲〉に由来していると考えられます。実際、この〈交響曲的大曲〉はアルカンに献呈されており、フランクに対するアルカンの影響の大きさが窺われます。音楽的な部分だけでなく、アルカンの厭世的な生き方も、慎み深いフランクに共鳴するところがあったのでしょう。サン=サーンスもマドレーヌ教会のオルガニストとしてその即興演奏にて名声を轟かせますが、フランスの即興演奏の伝統に軸足を置くあまり、オルガン独奏曲として重厚な構成感のある作品を生み出す発想が出てこなかったのは、サン=サーンスの後任オルガニストとなったガブリエル・フォーレ(1845-1924)がオルガン独奏曲を作曲しなかったことと共通しています。
  このようにオルガンの大家となったフランクのもとには多くの弟子が集まりました。ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)、エルネスト・ショーソン(1855-1899)、アンリ・デュパルク(1848-1933)らなどがその代表で、フランク派(フランキスト)と呼ばれました。先述したように、フランスのオルガン演奏においては即興演奏が重視されるため、作曲理論の素養が必須となり、またフランク自身がそうであったように、教会での勤務が安定収入をもたらすことから、「オルガン科」と言っても作曲家の卵が多くまれます。よってフランクは惜しみなく作曲指導も行い、その慎み深い性格から多くの弟子に慕われ、「ペール(父)・フランク」と呼ばれたのですが、そのカリスマ的な人気にはサン=サーンスも内心嫉妬していたことでしょう。サン=サーンスは対照的に一匹狼を貫き、フォーレなどの弟子を育てたとはいえ、派閥を形成するほどには至りませんでした。それにはサン=サーンス自身の猜疑心や神経質な性格も関係していたでしょう。サン=サーンスはよく皮肉屋で性格が悪かったと伝えられ、多少誇張されている部分もありますが、確かに敵対する勢力に対しては辛辣でした。そしてその敵対する勢力というのが、何を隠そう「フランキスト」だったのです。

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  1871年、普仏戦争における降伏の後に「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」を標榜してサン=サーンスが発起人となり、フランクも賛同して「国民音楽協会」が創設されます。当然ナショナリズムの高まりとも関係があり、入会資格はフランス国籍保持者で、存命の作曲家の作品の演奏に限定するという、作曲家の互助組織の側面も持ち合わせていました。しかし、1872年から86年まで会長を務めたサン=サーンスが脱退する騒動が起きます。この直接的な原因として知られるのが、ダンディによる演奏会プログラムへの外国作品の導入提案でした。1886年11月26日の総会におけるこの提案の可決によりサン=サーンスが脱退し、フランクを会長に戴く新体制へと移行しました。プログラミングの変化はまさにフランス楽壇の潮流を反映したもので、創設後10年以上経過してフランス人作曲家の新作だけで質の高い演奏会プログラムを組むことが難しくなり、硬直化した国民音楽協会を立て直す結果となります。とはいえ、ダンディの本音としては、ワグネリアンの仲間と共にリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の作品の演奏を意図したものであり、当時ワーグナーから距離を取りつつあったサン=サーンスとの感情的な溝が深まっていたのでした。当然ながら、この一件はサン=サーンスとフランキストとの対立を決定的なものとしてしまいました。しかし、「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」であり、「嫌い」ということは実は「好き」と表裏一体で「気になってしょうがない」ことの表れでもあります。サン=サーンスも結局ワーグナーの呪縛からは逃れられなかったのでした。その点、ワーグナーの影響を素直に認め受け入れられるフランクとその一派が羨ましかったのでしょう。

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  さて、それではサン=サーンスとフランクの両人自身は仲が悪かったのでしょうか、というと、必ずしもそうではないと考えられます。なぜなら、国民音楽協会の演奏会において、サン=サーンスはしばしばフランクの作品の演奏者を務めており、1880年の《ピアノ五重奏曲 へ短調》の初演に参加し、献呈を受けています。ただし、サン=サーンスはこの演奏の終了時、献辞の入った自筆譜をそのままに退出してしまいました。この五重奏曲には当時フランクの弟子となっていたオーギュスタ・オルメス(1847-1903)への思いが込められているというゴシップ的な説もあり、もしそれが本当ならば、かつてオルメスに恋心を抱いていたサン=サーンスは不愉快であったでしょうし、フランクとオルメスに特別な関係が無くとも、オルメスが自分ではなくフランクに師事していること自体面白くなかったのかもしれません。とはいえ、私怨は公門に入らず、フォーレ宛の書簡においてサン=サーンスは率直にフランクのオルガン科教授としての業績を評価しており、フランクが亡くなった際、葬式に参列しないなど手のひらを返したように冷たい態度を取る人がいる中、サン=サーンスは葬列の柩の付添人の四人の内の一人を務めるなど義理堅かったのです。逆にフランクの方も、亡くなる直前、病床の中でサン=サーンスの歌劇《サムソンとダリラ》のパリ初演の様子を門人から聞かされると、非常に関心を示し、うれしそうに「すばらしい!すばらしい!」と言ったと伝えられています。方向性は異なれども、真摯に音楽に向き合う姿勢に対し、互いに敬意を払っていた二人の芸術家の姿がそこにはありました。



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  Chez C. Franck, c’est une dévotion constante à la musique, et c’est à prendre ou à laisser ; nulle puissance au monde ne pouvait lui commander d’interrompre une période qu’il croit juste et nécessaire ; si longue soit-elle, il faut en passer par là. Ceci est bien la marque d’une rêverie désintéressée qui s’interdit tout sanglot dont elle n’aurait pas éprouvé auparavant la véracité.
  En cela C. Franck s’apparente aux grands musiciens pour qui les sons ont un sens exact dans leur acception sonore ; ils en usent en leur précision sans jamais leur demander autre chose que ce qu’ils contiennent. Et c’est toute la différence entre l’art de Wagner, beau et singulier, impur et séduisant, et l’art de Franck qui sert la musique sans presque lui demander de gloire. Ce qu’il emprunte à la vie, il le restitue à l’art avec une modestie qui va jusqu’à l’anonymat. Quand Wagner emprunte à la vie, il la domine, met le pied dessus et la force à crier le nom de Wagner plus haut que les trompettes de la Renommée. — J’aurais voulu mieux fixer l’image de C. Franck afin que chaque lecteur en emportât dans sa mémoire un souvenir précis. Il est juste de songer, parmi de trop pressantes préoccupations, aux grands musiciens et surtout d’y faire songer. (Claude Debussy)

  セザール・フランクにあっては、不断の信仰が音楽に献げられる。そしてすべてをとるか、とらぬかだ。この世のどんな権力も、彼が正当で必要とみた楽節を中断するように命じることはできなかった。いかに長かろうと、耐えなければならない。これこそ、誠実さがあらかじめ感じられない一切のすすり泣きを禁じる、欲得をはなれた夢想の、しるしである。
  この点でC.フランクは、大音楽家たちの同類である。彼らにとっては音というものが、それらの音響的な意義のなかに、ひとつの正確な意味をもつ。彼らは音に、それらが含んでいる以外の何ものもけっして要求しないで、それらをきっちりと用いる。しかもここが、美しく奇矯であり、不純で気をそそるヴァーグナーの芸術と、ほとんど栄光をもとめずに音楽に奉仕するフランクの芸術の、まるで違うところである。フランクは、人生から借りうけるものを、ついには名をすてるまでにいたる謙遜な態度で、芸術にかえす。ヴァーグナーが人生から借りるときは、彼は人生を支配し、踏みしだき力をかけて、ファーマのトランペットよりなお高らかに、ヴァーグナーの名を呼号させる。――私は、諸者がそれぞれはっきりした印象を記憶のなかにくみいれてくださるよう、セザール・フランクの心象(イマージュ)をもっと確固としたものにしたいと、考えたのだった。あまりにも切実な気苦労が数あればこそ、ときには大音楽家たちにおもいを馳せ、とりわけそれをひとにすすめるのは、正当なことである。(クロード・ドビュッシー)


by ooi_piano | 2021-11-10 06:43 | Rosewood2021 | Comments(0)