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12/3(金)ブラームス後期全ピアノ曲+三宅榛名新作初演 (2021/11/26 update)

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大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
チラシpdf 


【第3回公演】2021年12月3日(金)19時開演(18時30分開場)〈ブラームス後期全ピアノ曲〉
使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」


■J.ブラームス:《7つの幻想曲 Op.116》(1892) 25分
  I. 奇想曲 - II. 間奏曲 - III. 奇想曲 - IV. 間奏曲 - V. 間奏曲 - VI. 間奏曲 - VII. 奇想曲

●三宅榛名:《捨て子エレジー》(1974)  7分

■ブラームス:《3つの間奏曲 Op.117》(1892)  16分

  (休憩 10分)

■ブラームス:《6つの小品 Op.118》(1893)  22分
  I. 間奏曲 - II. 間奏曲 - III. バラード - IV. 間奏曲 - V. ロマンス - VI. 間奏曲

●三宅榛名:《Come back to music 異聞》(2021、委嘱初演) 5分

■ブラームス:《4つの小品 Op.119》(1893)  14分
  I. 間奏曲 - II. 間奏曲 - III. 間奏曲 - IV. 狂詩曲



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三宅榛名:《捨て子エレジー》(1974)
  ピアノ弾き語り。現代音楽の語法と、演歌とが、互に相対物として存在している。演歌は現代音楽の中でパロディーであり、現代音楽もまた、その逆である。(三宅榛名)

  昔 桃太郎 今捨子
  流れ流れて 三途の川を
  渡りゃうらめし 親子石

  ピンクの産衣は 女の子
  白い産衣は 男の子
  お宮まいりの親子連れ
  見るも うらめし 親子石

  わびし三途の 川岸で
  一人積む石 親のため
  けむるメザシの かほりさえ
  嬉し恨めし 親子石


三宅榛名:《Come back to music 異聞》(2021)
  音のひびきが、次の音をつむぎ出し、その危ういひびきから繰り出される音楽が、次第に姿をあらわす。曲は、ただよいつつ揺れ動くテンポや微妙な音色の多様性が込められているため、演奏者には自発的なアプローチがより求められる。(三宅榛名)


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三宅榛名 Haruna Miyake, composer
  作曲家・ピアニスト。ジュリアード音楽院作曲科卒。リンカーン・センター<新ホール>こけら落しに作品を委嘱される。オーケストラから邦楽器におよぶ作品を書き、ピアニストとしてはクラシックから即興演奏に至る広分野で活動を続ける。作品に<弦楽オーケストラの詩曲>(ベンジャミン賞)、<滅びた世界から>(国立劇場委嘱)など。CDに<空気の音楽>(コジマ録音)など。



 
ブラームス:《クラリネット五重奏曲 Op.115》(1891/1904)[P.クレンゲルによるピアノ独奏版]

J.ブラームス:交響曲第2番 Op. 73 第2楽章(1877/1915) [レーガー編]、 《野の寂しさ Op.86-2》(1881/1907) [レーガー編] 、《セレナード Op.106-1》(1885/1907) [レーガー編]、交響曲第4番 Op. 98 第2楽章 (1886/1916) [レーガー編] 、《メロディのように Op.105-1》(1888/1912) [レーガー編] 、《我が眠りは一層浅くなり Op.105-2》(1888/1906) [レーガー編]、《弦楽五重奏曲第2番 ト長調 Op.111》(1890/1920) [クレンゲル編]、《クラリネット五重奏曲 Op.115》(1891/1904)[クレンゲル編]、クラリネットソナタ第2番(Op.120-2) 第1楽章 (1894/2021) [米沢典剛編]、《4つの厳粛な歌 Op.121》(1896/1912) [レーガー編]、《一輪のバラが咲いて Op.122-8》(1896/1902) [ブゾーニ編]


〇三宅榛名:《鉄道唱歌ビッグ変奏曲 大人用》(1981) https://youtu.be/dIHImi4yXZA
〇三宅榛名:《鳥の影》(1984)  https://www.youtube.com/watch?v=wEKrnq1sC7w
〇三宅榛名:《イェスタディ》(1990)  https://www.youtube.com/watch?v=3pab6MfFwas
〇三宅榛名:《御業を待ち望む》(2001)  https://www.youtube.com/watch?v=9YQJJFafEqs



ブラームスの場合――本郷健一

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  1908年にパリから日本へ帰国した永井荷風は、ヨーロッパの音楽事情を精力的にレポートした。中心はパリで見たオペラだった。ベルリオーズ、グノー、ドビュッシーと並べられたフランスの作曲家たちの中に、ドイツのワーグナーの名が頻りに登場するのが目につく。しかるに、反ワーグナーの代表格と見なされていたはずのブラームスは、なぜか、まったく登場しない。荷風の関心がほとんどオペラだったせいなのか。ブラームスにはオペラ作品がひとつもない。
  それならこちらはどうか、と、同時期に活発な評論活動をしていたドビュッシーの文章を覗いてみる。もちろん自国のフランク、サン=サーンス、ダンディらの作品がぞろぞろ登場する。そしてその狭間に、やはりワーグナーについて、少なからぬ言及がある。いっぽう、ブラームスには、こちらも一切触れていない。

  どうやらブラームスは、フランスではほとんど認知されていなかったらしい。すでに没後十年である。独仏の政治的関係も影響していたのだろうか。40年前の普仏戦争以来、二国間には常によそよそしい空気が流れていた。親ビスマルクだったブラームスが独仏交流の埒外にいても、何の不思議もない。しかし、それだけで説明がつくのだろうか。

  普仏戦争敗戦後の1870年代、フランスの国民意識の高揚の中で、象徴派の若い詩人たちが、かつて『タンホイザー』上演でパリに賛否両論の渦を巻き起こしボードレールやマラルメに称揚されたワーグナーを、敵国人であるにもかかわらず自派の巨匠とする。これが同年代の音楽家にも波及した。結果、1920年にパリ音楽院の聴講生だった日本人作曲家、小松耕輔の表現によれば、フランスの大多数の作曲家が、二度音程や半音階的進行、装飾音の組織立てた使用で、音調を霧で被うようになっていた(『現代フランス音楽』昭和25年)。おそらく、このような潮流に乗っていない音楽は、フランス人には用がなかったのだ。

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  音調を霧で被う志向は、フランツ・リストに遡る。かつ、リストは、詩的想念が形式を決定する、と主張もしていた。エドゥアルト・ハンスリックは、1854年に著した『音楽美論』で、このリストに代表されワーグナーが『未来の芸術』で展開した新ドイツ派的な思潮に激しく反発し、音楽作品の美は音楽以外の何物にも関係なく、音の結合に内在している、と主張した。つまり、音楽美に詩的想念など持ち込む余地はない、というわけだ。
  たまたま、ブラームスは1860年、ヨアヒムら友人と共に、新ドイツ派を糾弾する声明文を発表した。曰く、彼らは新奇で前代未聞の理論を打ち立てることに無理して努めていて、音楽の最も奥深い本質に逆らっている、と。
  声明の三年後、ブラームスはハンスリックと初めて交流をもった。以後ハンスリックは、ブラームスの音楽を、音楽そのものによる形式美の典型と喧伝する。ブラームスが反ワーグナーの代表格と見なされるようになったのは、このことによる。
  1892年には、珍しくフランスからブラームスへ「私は、私が反ブラームスだという謂われのない汚名に反駁しました」と書いた手紙がきた。サン=サーンスからだった。フランス古典の形式を復興した、と後に評価された彼は、ちょうど20年前、ブラームスとミュンヘンの同じ会場で『ワルキューレ』他を観ている。その際面識を持ったのかも知れない。


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  ブラームスは、しかし、反ワーグナーなのではなかった
  先の新ドイツ派糾弾声明にも拘らず、ワーグナーへの反感はなかった。1863年には友人タウジヒからワーグナーのウィーンでの演奏会に協力を求められ、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のパート譜作成に従事して心を躍らせている。そのうちタウジヒの仲介で、『タンホイザー』の自筆譜を、所有していた人物から入手さえした。これはのちに求められてワーグナーに返却し、代わりに感謝の金文字自筆献辞入り『ラインの黄金』の初版譜をせしめることになる。
  さらにブラームスは、ハンスリックは寄る年波でワーグナー作品に対する耳もセンスもない、とも言い放っている(1887年。後出の評論家ホイベルガーによる「ブラームスは語る」)。
  ワーグナーの作ったキャラクターの中で、ブラームスのいちばんのお気に入りは、『マイスタージンガー』のベックメッサーだったらしい。ブラームスはワーグナーと交流のあることをハンスリックには内緒にしていた(同)。

  オペラを書きたくなかった訳ではないが、ブラームス作品は結局カンタータ『リナルド』(1868年、作品50)だけがドラマ的で、これは男声独唱男声合唱ゆえに聴き映えがせず、こんにち殆んど忘れられている。主戦場は、「器楽ができないことについては音楽ができるとは断じていえない」(『美論』)とハンスリックが言っていたその器楽、加えて歌曲や合唱曲だった。
  創作方針は、唯一の作曲の弟子グスタフ・イェンナーへの教え、歌曲作曲のアドバイスを乞うたイギリスの歌手ジョージ・ヘンシェルへの示唆、いずれも同じで、旋律よりも低音が大事とし、ある程度出来上がったらしばらく放置する、だった。
  しかし、思いつき自体は旋律からだったようだ。晩年の『四つの厳粛な歌』の出来立て草稿を目の当たりにしたホイベルガーは、それが旋律から書かれ、他は後からたくさん手直しされているのを見てとった。掘り下げ型の作曲手法をとっていたブラームスには、旋律を楽劇に仕立てる方向性が持てなかったのだろう。

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  まずは旋律から、の作曲手順だったかと推測されるにもかかわらず、ブラームスの旋律は許容されにくかった。
  ほぼ毎年イギリスへ演奏旅行をしたクララ・シューマン、無二の友人ヨアヒムの盛んな紹介のお陰で、自身は渡ることがなかったにもかかわらず、ブラームスの音楽はドーバー海峡を越えた名声を得た。が、一方で酷評も免れなかった。
  バーナード・ショーは、こう書いた。「ブラームスは本質的に陳腐な主題を用い、それをかなり精巧にこじつけたハーモニーで飾ることによって一風変わった雰囲気を醸し出させている」(1890年)。ブラームスの作曲法の急所を突いた評言かも知れない。
  チャイコフスキーなどは、ブラームスの音楽を「混乱していて全くくだらない」(1886年の日記)と貶めた。このころブラームスへの弟子入りに迷っていたイェンナーは、しかし、翌年ハンブルクへ自作演奏会準備のために訪問したチャイコフスキーに紹介されて作品を見せに行き、その口数の多さと話す内容の曖昧さに戸惑い、同時にブラームスの思慮深さの魅力を認識し直した。

  作曲の師としてのブラームスは、容赦がなかった。イェンナーは「これからも褒められることはない」と宣言され、安易なアイディアや和声、対位法の不備を徹底的に突かれて、しばしば涙にくれた。
  これは、セザール・フランクが弟子の拙い作品にも「私はこういうの好きだよ」と誉めた逸話と正反対である。フランクが弟子からデュパルク、ショーソン、ダンディら多くの有名作曲家を輩出したのと、ブラームスの周囲にはそれがなかったこととの差は、弟子への接し方の違いから生まれたものだったのだろうか。

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  ブラームスにはイェンナー以外に直弟子はいなかった。
  ピアノ演奏ならば、クララ・シューマンの弟子を預かって教えることがあった。1871年に面倒を見たフローレンス・メイへの教授の様子は、メイ自身の書き残したものから少し分かる。それによると、ブラームスはメイの指の動きの悪いところを根気よく指摘し、自分の手の動きを見せて是正させた。すると、それまで固く出っ張っていたメイの指関節が、たった二週間で滑らかになり、出っ張りが消えた。これには、付き添っていた彼女の父も仰天した。曲はメイが弾けなければ「難しいから仕方ない、そのうちなんとかなる」として突き放さず、仕上がってくれば「それでよし」の他は余計なコメントをせずに次へと進ませた。
  ブラームス自身の演奏については、やはりクララの弟子で、それを間近に見たファニー・デイヴィスが、「書き表すことは作品を作っていく過程を論じるようなもの」で難しいと言いつつ、彼が「内声部のハーモニーを聴かせようとし」・「低音部をがっちり強調」していたと伝えている(1929年記)。

  厳しい細やかさの反動か、ふだんは「短く細切れにしゃべる」(イェンナー談)ブラームスが、パーティーでは甲高い声でジョークを放つことが多かった、と、何人もが報告している。声が高いのはコンプレックスだったようで、若い頃には、矯正のため、と、わざとガラガラ声で喋って耳障りだった、と、親友だったディートリッヒは述べている(『ヨハネス・ブラームスの思い出』)。
  そんなブラームスのセンスも、うまく活きるときがある。1889年、イェンナーと面会した二年後再び、第5交響曲初演への立ち会いでハンブルクに来たチャイコフスキーは、ブラームスと同宿になり、自作をブラームスと並んで聴く羽目に陥った。事後、「終楽章以外は気に入った」というブラームスに連れ出され、二人でしこたま飲み食いした。こちらもキンキン声だったチャイコフスキー、「実は私も終楽章だけは気に入らないので」と、すっかりブラームスと話が合ってしまった。周りは二人のキンキン声にさぞ迷惑を被っただろう。

  こんなエピソードで拙稿を締め括ろう。1876年7月、ブラームスは行動を共にしていたヘンシェルを誘って湿地帯を歩き、寂しい池にたどり着くと、ウシガエルの声に長いこと聴き入った。ウシガエルの低い声は、どうやらCesを根音とする減三和音で響いていたらしい。ブラームスは、つぶやいた。「この何とも言えない音楽よりも悲しくてメランコリックなものなんか、あると思うかい?」

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(1892)
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Dabei bemerkte Brahms, daß er von Saint-Saens einen Brief bekommen habe, worin dieser den Gerüchten, daß er Brahms nicht schätze, deutlich entgegentrat. „Ich erinnere mich doch eines vor Jahren in den Blättern veröffentlichten Ausspruches von Saint-Saens, daß er stets bereit sei, für Wagner gegen Brahms Stellung zu nehmen. Sie erinnern sich doch auch daran?" befragte mich Brahms. Er sagte ferner, daß er Saint-Saens höflich antworten werde, ohne das jedoch zu übersehen.

最近サンサーンスから「アンチ・ブラームスという、いわれのない汚名に反駁しました」という手紙を受け取ったそうだ。「サン=サーンスは数年前に、自分はワーグナー派で、反ブラームスだということを公にしていたはずだが君も覚えているだろう」。サン=サーンスには、そのことをちゃんと書きそえ、丁重に返事するそうだ。

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4. November. Abends mit Brahms im „Igel", wo wir über jüdische Originalgesänge sprachen. Jemand fragte Brahms: „Was halten Sie von Saint-Saens, Herr Doktor?" „O, sehr viel", war die Antwort. Wir alle, die Brahms besser kennen, mußten herzlich lachen über diese Naivität, Brahms so geradezu zu fragen.

夕方ブラームスと『はりねずみ』で、ユダヤ古謡について話していた。すると誰かが『先生、サン=サーンスのどの辺を評価なさいますか』とブラームスに話しかけた。『そりゃ、いっぱいありますよ』 ”こんなずけずけと質問して”と、ブラームスをよく知るわれわれは、その軽率さを笑ったものだ。


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(1905)
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11. 12. 05. Gestern nach dem Konzerte Max Regers mit ihm und einer Anzahl Herren und Damen bei Klomser zu abend ... — Brahms redete nie von seinen Sachen (oder doch nur höchst selten) — Reger spricht immer von seinen Sachen.



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In the afternoon we resolved to go on an expedition to find 'his' bullfrog pond, of which he had spoken to me for some days. His sense of locality not being very great, we walked on and on across long stretches of waste moorland. Often we heard the weird call of bullfrogs in the distance, but he would say: "No, that's not 'my' pond yet, " and on we walked. At last we found it, a tiny little pool in the midst of a wide plain grown with heather. We had not met a human being the whole way, and this solitary spot seemed out of the world altogether.
"Can you imagine, " Brahms began, "anything more sad and melancholy than this music, the undefinable sounds of which for ever and ever move within the pitiable compass of a diminished third?
"Here we can realize how fairy tales of enchanted princes and princesses have originated .... Listen! There he is again, the poor King's-son with his yearning, mournful C flat!"

  午後は、ここ数日聞かされていた「ブラームスのウシガエル池」探検に決まった。ブラームスの方向感覚はお世辞にも良いとはいえず、われわれはどこまでも続く湿地帯を横切り、延々と歩かされた。時折遠くから、へんてこなウシガエルの鳴き声が聞こえると、ブラームスは「ありゃ”僕の”池じゃないな」――さらに歩き続ける。そしてついに、ヒースの茂る広い平原の真ん中にある小さな水たまりを発見。ここに至る道中、人類に遭遇しておらず、この寂しい場所は世界から孤立しているように見えた。

  語り始めるブラームス。「哀れを誘う減三和音の音域の中で永遠にうごめく、このいわく言い難い音楽よりも、悲しくメランコリックなものがあると思うかい?」「魔法をかけられし王子と王女のおとぎ話、かくして誕生――哀れ、王の子は胸を焦がし、悲しみに暮れる。ほらまた――ド♭(ツェス)――どう、聞こえるだろう?」


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Die Erklärung gegen die Neudeutschen (1860)

"Die Unterzeichneten haben längst mit Bedauern das Treiben einer gewissen Partei verfolgt, deren Organ die Brendelsche Zeitschrift für Musik ist.
Die genannte Zeitschrift verbreitet fortwährend die Meinung, es stimmten im Grunde die ernster strebenden Musiker mit der von ihr vertretenen Richtung überein, erkennten in den Kompositionen der Führer eben dieser Richtung Werke von künstlerischem Wert, und es wäre überhaupt, namentlich in Norddeutschland, der Streit für und wider die sogenannte Zukunftsmusik, und zwar zu Gunsten derselben, ausgefochten.
Gegen eine solche Entstellung der Tatsachen zu protestieren halten die Unterzeichneten für ihre Pflicht und erklären wenigstens ihrerseits, daß sie die Grundsätze, welche die Brendelsche Zeitschrift ausspricht, nicht anerkennen, und daß sie die Produkte der Führer und Schüler der sogenannten ›Neudeutschen‹ Schule, welche teils jene Grundsätze praktisch zur Anwendung bringen und teils zur Aufstellung immer neuer, unerhörter Theorien zwingen, als dem innersten Wesen der Musik zuwider, nur beklagen oder verdammen können."

Johannes Brahms, Otto Grimm, Bernhard Scholz, Joseph Joachim


 次に署名する者たちは、ブレンデルの主筆をつとめる音楽雑誌をその機関誌とするある党派の活動を、かねがね遺憾の念をもって見守ってきた。上記の雑誌は、真摯につとめている音楽家たちはけっきょくはこの雑誌の主張する方向と意見をひとつにし、この方向の指導者たちの作品の中に芸術的な価値のある作品を認識し、あまねく、とくに北ドイツにおいていわゆる未来音楽の賛否をめぐる論争が、しかもこの未来音楽に利するかたちで戦わされるであろうという見解をたえず広めている
 こうした事実をゆがめた見解にたいして抗議するのは、署名者たちの義務と考え、少なくとも署名者の側としては、そのブレンデルの雑誌の述べている原則を認めない。しかも「新ドイツ派」の指導者たちや生徒たちの作品は、一部は件の原則を実際に応用したり、また一部はたえず新奇で前代未聞の理論を打ち立てることに無理してつとめており、彼らの作品は音楽のもっとも奥深い本質に逆らうものとして、非難もしくは批判されてしかるべきであると認識する。

 ヨハネス・ブラームス/ヨーゼフ・ヨアヒム/ユーリウス・グリム/ベルンハルト・ショルツ


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Gustav Jenner "Johannes Brahms als Mensch, Lehrer und Künstler" (1903)

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Brahms' Art zu sprechen hatte etwas kurzes, abgerissenes. Es war nicht seine Sache, sich breit und behaglich über eine Sache auszulassen. Im Gegensatz zu sogenannt beredten Leuten, die im Sprechen eine Freude an ihren eigenen Worten zu erkennen geben, hatte man bei ihm den Eindruck, dass er nur ungern spreche und nur das allernotwendigste. Seine Sätze stellte er präcise und scharf hin und traf hier jedesmal den nagel auf den Kopf: aber er verschwieg weit mehr, ja oft die Hauptsache, ohne die seine Worte gar nicht rightig verstanden werden konnten. Alles das steigerte sich, wenn er in die lage kam, von sich sebst sprechen zu müssen. Jeder, der Brahms näher gestanden hat, weiss, wie kurz wegwerfend, fast verletzend er von seinen eigenen Werken sprechen konnte: gerade auf diesem Gebiet war es schwerer als sonst, ihn richtig zu verstehen. Er war sich des Wertes seiner Werke durchaus bewusst, aber seine männlich-keische Natur machte es ihm unendlich schwer, von sich zu sprechen. Oft versuchte er, sich mit einem Witz zu helfen, der unmoglich immer richtig aufgefasst werden konnte, woraus sich dann wieder leicht eine unbehagliche Stimmung entwickelte. Meistens war er, wenn er im Ernste von sich sprach, in einer Art von Verlegenheit, zu der sich auch wohl ein Zorn gesellte, wenn jemand, dem er eine Berechtigung hierzu nicht einräumte, ihn drängte.

ブラームスは短く細切れにしゃべる。ひとつの話題を楽しく広げてゆくのはブラームス流ではない。雄弁な人は自分の言葉に酔うことがあるけれど、彼は正反対で、必要となったとき仕方なく口を開くといった印象だった。彼の言葉は鋭く正確でつねに核心を衝いていた。しかし肝心なことをぼかしてしまい、何を言っているのか見当がつかないことも多かった。とりわけ自分自身について語るはめになると、わかりにくさは極まった。ブラームスが自分の作品について話すとき、ぶっきらぼうに不機嫌になるのは有名で、話の真意を正しく理解するのは、まず不可能だった。巨匠が己の作品の価値を理解していたのは当然である。しかし男気のある純真な気質のため、それを他人にわからせることが億劫だったのだ。そんな事態におちいると、冗談で切りぬけようとする。ところが、そんなものがうまく伝わるなど土台無理な話で、さらに気まずくなってしまう。真剣に何かを話そうとするとなんだか戸惑った様子になり、周りが無理強いしようものなら、それが怒りの表情に変わるのであった。


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by ooi_piano | 2021-11-13 03:39 | Rosewood2021 | Comments(0)