【第4回公演】 2022年1月14日(金)19時開演(18時30分開場)〈フォーレ後期全ピアノ曲〉 L'intégrale des œuvres pour piano des dernières années de Gabriel Fauré (Opp. 96-119)
使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」
●G.フォーレ(1845-1924):《舟歌第8番 変ニ長調 Op.96》(1908) 3分
《夜想曲第9番 ロ短調 Op.97》(1908) 4分
《夜想曲第10番 ホ短調 Op.99》(1908) 4分
◇桒形亜樹子:《紅石(ルビー)》(2021、委嘱初演) 3分
●G.フォーレ:《舟歌第9番 イ短調 Op.101》(1908/09) 4分
《即興曲第5番 嬰へ短調 Op.102》(1909) 3分
《9つの前奏曲集 Op.103》(1909/10) 22分
I. Andante molto moderato - II. Allegro - III. Andante - IV. Allegretto moderato - V. Allegro - VI. Andante - VII. Andante moderato - VIII. Allegro - IX. Adagio
(休憩 10分)
●G.フォーレ:歌劇《ペネロペ》第2幕前奏曲(1912) [作曲者編独奏版] 3分
《夜想曲第11番 嬰へ短調 Op.104-1》(1913) 4分
《舟歌第10番 イ短調 Op.104-2》(1913) 3分
◇桒形亜樹子:《紫水晶(アメシスト)》(2021、委嘱初演) 3分
●G.フォーレ:《舟歌第11番 ト短調 Op.105》(1914) 4分
《舟歌第12番 変ホ長調 Op.106b》(1915) 3分
《夜想曲第12番 ホ短調 Op.107》(1915) 6分
◇桒形亜樹子:《黒尖晶石(ブラック・スピネル)》(2021、委嘱初演) 2分
●G.フォーレ:《天守夫人(塔の奥方) Op.110》(1918) 5分
《舟歌第13番 ハ長調 Op.116》(1921) 3分
《夜想曲第13番 ロ短調 Op.119》(1921) 7分
G.フォーレ:《弦楽四重奏曲 Op.121》(1924)(サマズイユ編独奏版)、《幻想曲 Op.111》(1918)(作曲者編2台ピアノ版)、《ピアノ三重奏曲 Op.120》(1923)(米沢典剛編独奏版)、組曲《マスクとベルガマスク Op.112》 (1919/2018) [米沢典剛編ピアノ独奏版]、歌劇《ペネロープ》第1幕への前奏曲 (1913、作曲者編)、《平和が来た Op.114》(1919/2021) [横島浩によるピアノ独奏版]、《ディアーヌよ、セレネよ Op.118-3》(1921) 、《チェロソナタ第1番 Op.109》(1917)、《チェロソナタ第2番 Op.117》(1921)他
【cf.】
●フォーレ:ヴァイオリン作品全曲(千々岩英一(vn)) ヴァイオリンソナタ第1番イ長調Op.13 (1875/76)、子守唄 Op.16 (1879)、ロマンス Op.28 (1883)、初見試奏曲(1903)、アンダンテ Op.75 (1897)、ヴァイオリンソナタ第2番ホ短調Op.108 (1916/17) [2013.11.2]
●フォーレ:チェロ作品全曲(上森祥平(vc)) 子守唄 Op.16 (1878/79)、エレジー Op.24 (1883)、蝶々 Op.77 (1885)、シシリエンヌ Op.78 (1893)、ロマンス Op.69 (1894)、セレナーデ Op.98 (1908)、チェロ・ソナタ第1番ニ短調 Op.109 (1917)、チェロ・ソナタ第2番ト短調 Op.117 (1921) [2014.12.23]
●フォーレ:ピアノ五重奏曲全2曲(長原幸太/佐久間聡一(vn)、中島悦子(va)、上森祥平(vc)) ピアノ五重奏曲 第1 番 ニ短調 Op.89 (1895)、ピアノ五重奏曲 第2 番 ハ短調 Op.115(1921) [2014.7.15]
●フォーレ:後期歌曲集他(鎌田直純(artiste lyrique)) リディア Op.4-2 (1870)、月の光 Op.46-2 (1887)、ひそやかに Op.58-2 (1891)、消え去らぬ香り Op.76-1 (1897)、アルペジオ Op.76-2 (1897)、歌曲集《蜃気楼(ミラージュ) Op.113》 (1919) 、歌曲集《幻想の水平線 Op.118》 (1921) [2015.04.03]
桒形亜樹子:《輝石 3 Stones》(2021)
I. 紅石 Ruby - II. 紫水晶 Amethyst - III. 黒尖晶石 Black Spinel
減衰の早い歴史的鍵盤楽器のために書き、曲の成立後に好きな石を選んで命名したところ、期せずして硬い石ばかりとなった。
第1曲「ルビー(紅石)」は硬度9とダイヤモンドの次に硬い。ラテン語のルフス(赤)から来た名前の通り、その赤い色(消えない火、などとも言われる)に秘められたパワーが古今信じられて来た。最古の記述としては2500年前、スリランカが原産地といわれている。
第2曲「アメシスト(紫水晶)」は硬度7、ギリシア神話に登場する娘の名前。ディオニュソスの蛮行を見た女神ダイアナが彼女の姿をクオーツに変え、自分の行いを恥じたワインの神の涙がその上に落ちて出来たという逸話が起源である。その紫色が高貴なものの象徴である他、アメシストには酩酊を防ぐ、禁欲、思考能力の増大など多くの効果があると伝えられており、今日でもカトリック司教の指輪に使われている。18世紀になってヨーロッパに輸出され大人気を博した。
第3曲「ブラック・スピネル(黒尖晶石)」は硬度8、魔除けとして特に有名だが、潜在能力を引き出す効果もあると言われている。八面体の結晶が尖っている事から、ラテン語のスピナ(とげ)が語源である。大きな原石がほとんどないこの貴重な天然の漆黒の石は、高い技術のカットの下で美しい反射光を放ち、ブラックダイヤモンドに匹敵する輝きを持つ。(桒形亜樹子)
桒形亜樹子 Akiko KUWAGATA, composer
東京藝術大学附属高校、同大学作曲科を経てDAAD給費留学生としてドイツへ留学。北西ドイツ・デトモルト音楽院、シュトゥットガルト芸術大学でチェンバロ専攻。国家ソリスト・ディプロム取得。1990年よりフランス、パリへ移りセルジー・ポントワーズ国立音楽院、ショーモン市立音楽院でチェンバロ、通奏低音の講師を務める。日本文化庁在外派遣研修員としてイタリア、スペインでも研鑽を積む。2000年に17年間の欧州滞在の後帰国、現在東京を中心に自由で多様な活動を行っている。
W.デューリンク、K.ギルバート、R.アレッサンドリーニにチェンバロを、O.バイユー、J.L.ゴンサレス=ウリオルにオルガンを師事。1986年ブリュージュ国際コンクール1位なし2位、その他パリ、ライプツィヒの国際チェンバロ・コンクールで上位入賞。
2018年フランソワ・クープラン『クラヴサン奏法』新訳を全音楽譜出版社より刊行。音律に関する論文も執筆。A.コレッリなどの通奏低音のレアリゼーション譜面なども出版している。東京藝術大学非常勤講師などを歴任し、現在松本市音楽文化ホール講師。
深田晃氏の自主レーベルDream Window Inc.よりフローベルガー、J.S.バッハ、ルイ・クープランのソロアルバムを2017年以降ハイレゾ世界配信開始、他にもコジマ録音、マイスターミュージックより室内楽で参加しているCDも発売されている。[photo/ (C)林喜代種]
《ペネロープ》とフォーレ晩年の様式――中西充弥
ガブリエル・フォーレ(1845-1924)の晩年の音楽は歌劇《ペネロープ》(1913年初演)に代表され、作品が作曲され始めた1907年以降を創作人生における区切りの一つとしてよいでしょう。フォーレの人生の多くの部分で音楽的にもキャリア的にもその師であり友人であったカミーユ・サン=サーンス(1835-1921)の影響を受けていますが、おそらく《ペネロープ》の企画を思い立ったのもサン=サーンスの《エレーヌ》(1904年初演)の後を受けたからと考えられます。
古代ギリシア・ローマの西洋古典古代への関心はサン=サーンスが以前から抱いていたものですが、時代的な背景と大きな関係があります。ハインリヒ・シュリーマン(1822-1890)のトロイア発掘による考古学熱の高まりは直接的な影響でしょう。現代の我々が古代の遺跡のロマンにかき立てられるように、19世紀の人々も興味を持つどころか、ちょうど発掘ブームの中で1873年のトロイアの「プリアモスの財宝」発見に続き、1922年のツタンカーメン王の墓の発見へと、まさに世紀の発見に現在進行形で立ち会い、固唾を呑んで見守っていたのです。そして、日本から見るとフランスとギリシャはヨーロッパの近い国々と一括りにしてしまいがちですが、交通機関の発達していない当時、フランス人から見てギリシャも「オリエント(東)」であり、異国情緒を抱く対象の国でした。
もちろんこの熱狂は芸術運動にも影響を与えます。かつて、ルネサンスにより西洋古典古代の文化が「復興」されましたが、爛熟した19世紀末から20世紀初頭の文化においては多様なベクトルの内の一つとして取り上げられます。フランス文学、特に詩においてはヴィクトル・ユゴー(1802-1885)らのロマン派とポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)らの象徴派の陰に隠れてあまり注目されませんが、この二つの世代をつなぐ高踏派という芸術様式がありました。この高踏派において重視された考えがテオフィル・ゴーティエ(1811-1872)の「芸術のための芸術」であり、象牙の塔に籠るかのように、いわば藤原定家が「紅旗征戎吾が事に非ず」としたためたように、社会問題や政治には関心を示さず、もっぱら芸術に身を捧げる活動でした。その中で理想とされたものの一つが、古代ギリシア・ローマの大理石の彫像の美、感情を超越した形式美だったのです。大理石の均整の取れた人物像は美しい半面、冷たい印象を受けることがありますが、まさにその世俗の塵芥から超然とした姿に高踏派の芸術家たちは憧れたのでした。サン=サーンスの音楽も形式的で感情がないと生前から非難され、現在においてもその評価が尾を引いていますが、ある意味それはサン=サーンスが目指した理想を具現化したものであったのです。フォーレはヴェルレーヌの詩に作曲した歌曲集《優しい歌》等が有名なため、象徴派の美学との関係に注目されがちですが、高踏派の代表的な詩人、ルコント・ド・リール(1818-1894)や先述のゴーティエの詩にも多く音楽を付しており、その思想に共鳴していたことが窺われます。
さて、「発掘」ブームは考古学だけにとどまりません。古代ギリシアの文化、すなわち当時の人々の生活が明らかになるにつれ、当然古代ギリシア人たちが奏でた音楽にも目が向けられるようになり、古代ギリシア音楽の研究が進められ「発掘・復興」が図られました。代表的なものが、ルイ=アルベール・ブルゴー=デュクドレー(1840-1910)によるギリシャ民謡の調査に基づく1878年パリ万博での講演「ギリシア音楽における旋法」です。ここから古今東西の旋法性の研究が進められ、20世紀音楽の扉を開く原動力の一つとなってクロード・ドビュッシー(1862-1918)やモーリス・ラヴェル(1875-1937)らの活躍を生み出したのです。もちろん、サン=サーンスやフォーレらはこの古代ギリシア旋法の研究と同時代に生きましたので、不十分とはいえ最新の研究成果に触れ、それに刺激を受けて創作活動を行い、後の世代を準備することとなりました。それが《エレーヌ》であり、《ペネロープ》であったのです。
また、サン=サーンスは南仏のベジエにおいて闘牛場を利用した音楽祭の企画に参加し、1898年の第一回目の公演においては演劇版《デジャニール》が初演されました。南仏の野外円形劇場というアイデアは、当然古代ギリシアやローマの劇場の復活が意図され、サン=サーンスにとってはまさに「ラテン精神」の発揚の場として、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)のバイロイト音楽祭に体現される「ゲルマン精神」に対抗する意識が明らかに感じられます。ただ、さすがに自作だけでは音楽祭を継続するのが難しく、1900年の公演に当たってはサン=サーンスの勧めによりフォーレに作品が委嘱され、《プロメテ》が初演されます。というわけで、サン=サーンスとフォーレはもちろん当時の潮流の影響もありますが、西洋古典古代への興味関心を共有していたのでした。
さらに、エレーヌ(ヘレネー)とペネロープ(ペーネロペー)には、どちらもトロイア戦争にまつわる美女という共通点があります。しかし非常に対照的で、方やトロイア戦争のきっかけとなった傾国の美女に対し、方や貞淑な妻の模範なのです。しかも、ヘレネーを取り上げたのが堅物のサン=サーンスで、ペーネロペーを取り上げたのが浮名を流したフォーレというのも大変興味深いところです。互いに「ないものねだり」と言ったところでしょうか。サン=サーンスの方は《エレーヌ》に対する思い入れが大変強く、小規模な作品であるものの、他人の台本では納得できないので、それでは自分で書けばよいということで台本まで執筆するほどでした。フォーレの方も忙しい公職の合間を縫って足掛け7年かけ作曲することになったのですが、なぜそこまで《ペネロープ》にこだわったのでしょうか。フォーレはその理由を「良い台本に中々巡り合えなかったから」と説明していますが、そこにフォーレの慎重で控えめな創作態度が見られます。ただ、1905年にフォーレはパリ音楽院の院長に就任しており、院長としての代表作、そして難聴の始まった60代の老いを迎えて未だに大作がないということへのプレッシャー、焦りがあったのかもしれません。フォーレが育てた生徒たちは器楽分野で活躍していきますが、フォーレを育てた世代の作曲家の成功モデルは劇場、それもオペラ座でのグランド・オペラ(グラントペラ)の成功でしたので、サン=サーンスもオペラを量産しました。フォーレは世間の評価にはどちらかというと無頓着で、自分の書きたいものを作曲するあまり、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲という小規模で親密な編成を好み、その結果世俗的な大きな成功とは無縁でしたが、もちろんこのままでよいのか、という葛藤があったのでしょう。また19世紀当時はフランス楽壇におけるワーグナーの影響が大変大きく、フォーレ自身バイロイト詣でをしたこともある程ですから、オペラに興味が無かったと言えば嘘になるでしょう。だからこそ、フォーレなりの「オペラ」という解答を提出するのに逡巡したのだと考えられます。それはベートーヴェンの壁に対する解答である《弦楽四重奏曲》が人生の最後まで後回しにされ、絶筆になったのと同じ理由でしょう。
さて、《ペネロープ》の様式はというと、オペラと思って聴くと肩透かしを食らうほど音数が少なく、盛り上がりに欠け、五線譜を音符で埋めるというより、音を削ってそぎ落としていく印象があります。なぜこのような語法になったかというと、当然老境の作曲家に共通する、淡白な志向、枯淡の境地というものがあり、ブラームスの後期作品などがその典型でしょう。ただ、フォーレの場合はそれだけではない、もっと切実な理由がありました。それが難聴でした。彼の難聴は1903年頃に既に始まっていたのですが、ただ聞こえなくなるのとは異なり、高い音が低めに、低い音が高めに、という風に音程が歪んで聞こえたため、音楽家にとっては非常に苦痛を伴う状態だったのです。そのため、フォーレは聞き取りやすい中音域や密集配置の和音を好んで用いるようになり、ダイナミクスの抑揚も小さくなります。当然、彼は職業作曲家ですから、頭の中では作品のイメージを作り、鳴らすことができたでしょうが、やはり実際の演奏を聴くことができないことは大きなダメージでした。それでも、この逆境にめげずに、逆手に取って晩年のフォーレ独自の語法を生み出したことは人生の皮肉というべきでしょうか。
そして、《ペネロープ》によって確立された語法によって、歌曲集《閉ざされた庭》、《幻影》や《幻想の水平線》、《ヴァイオリン・ソナタ 第2番》、2曲の《チェロ・ソナタ》、《ピアノ五重奏曲 第2番》、《ピアノ三重奏曲》、白鳥の歌の《弦楽四重奏曲》といった晩年の傑作群が生みだされ、今回演奏される後期ピアノ作品も含まれます。しかし、この表現を切り詰めていく語法は、《ペネロープ》初演の同年にパリでイゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)の《春の祭典》が初演された時代に、よく言えば斬新ですが、悪く言うと当時の聴衆は面食らってしまい、《春の祭典》とは違う意味での独創性についていけなかったと考えられます。確かに、この音をそぎ落とす語法は峻厳で人を寄せ付けない面がありますが、これは先述の大理石を彫琢する職人仕事を礼賛した高踏派に通じるものがあります。また老境の孤独な立場で内省的になり、難聴により頭の中の観念的な音楽に没頭するということは、象牙の塔という点でも高踏派らしいと言えますが、フォーレは子ども時代「物思いにふける口数の少ない」少年であったことから、ある意味で原点回帰と言えるかもしれません。さらに、大理石の彫像の冷たい美しさは、表現をそぎ落として作り出される日本の能面の美に通じるものがあり、見る角度によって表情を変えるその微妙な味わいがやはり共通しています。大理石のヴィーナスの顔と能面の小面を比較するとその純白で均整の取れた美しさに、時代と距離を超えた普遍的な美を感じ取れずにはいられません。このようにして、フォーレはその晩年において孤高の音楽性を確立したのでした。
中西充弥 Mitsuya NAKANISHI, musicology
京都大学文学部フランス語学フランス文学専修卒業。京都市立芸術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了。フランス政府給費留学生として渡仏、パリ第四大学ソルボンヌ(現パリ=ソルボンヌ大学)大学院博士課程に留学。2016年、サン=サーンスとその日本趣味に関する論文で博士号(音楽学/パリ=ソルボンヌ大学)取得。日本音楽学会正会員。NHK Eテレ「クラシックTV」『再発見!サン=サーンス 真の魅力』(2021年6月17日放送)監修、出演。カワイ出版『サン=サーンス ピアノ曲集』(2021)校訂。ウェブ連載『旅するピアニスト、サン=サーンス』等。専門はサン=サーンスを中心とした19世紀/20世紀フランス音楽史。
【著書/論考 リンク集】