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連続リサイタル《をろしや夢寤 Сны о России》 (2022/06/06 update)

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大井浩明ピアノリサイタル――をろしや夢寤 
Хироаки Ои Фортепианные концерты
Сны о России



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松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)

チラシpdf 





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【第1回】 2022年6月12日(日)15時開演(14時45分開場)

P.I.チャイコフスキー(1840-1893)

●ピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23冒頭(1875/1942) [P.グレインジャー編独奏版] 4分
交響曲第4番ヘ短調Op.36 (1878) 45分
 I. Andante sostenuto - Moderato con anima - II. Andantino in modo di Canzona - III. Scherzo. Pizzicato ostinato. Allegro - IV. Finale. Allegro con fuoco

  (休憩)

●《「ドゥムカ」 ハ短調 ~ロシアの農村風景 Op.59》(1886) 7分
交響曲第5番ホ短調Op.64 (1888) 50分
 I. Andante/Allegro con anima - II. Andante cantabile con alcuna licenza - III. Valse. Allegro moderato (#) - IV. Finale. Andante maestoso/Allegro vivace

  (休憩)

●バレエ音楽《胡桃割人形》より「花のワルツ」Op.71 (1892) [S.タネーエフ編独奏版] 7分
交響曲第6番ロ短調『悲愴』Op.74 (1893) 45分
 I. Adagio/Allegro non troppo - II. Allegro con grazia - III. Allegro molto vivace (#) - IV. Adagio lamentoso

[ヘンリク・パフルスキ(1859-1921)編曲によるピアノ独奏版(1897/1901)]
[(#)... サムイル・フェインベルク(1890-1962)によるピアノ独奏版(1942)]




〇チャイコフスキー編曲集プレイリスト https://www.youtube.com/playlist?list=PLiLOOaD1cYsPDuMWl-Ha9GM8K1QKuS913
《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版]、交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版]、歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版)、《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873)、《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876/全12曲)、《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版]、《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版]、《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]

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をりしもあれ、チャイコフスキー ――大塚健夫

  チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番、作品23の冒頭、あの誰もが知っている荘厳な旋律は、ドーピング事件以来ロシアの第二の国歌ともいえる曲になっている。当の協奏曲においてこの旋律は序奏部のみに使われ、その後一度も出てこない。何という贅沢な使われ方なのか。この旋律に魅了されていつまた出てくるか出てくるかと期待している聴衆は終楽章が終わってとてもがっかりとさせられる・・・といったようなことをかつて書いた。ところがこの序奏の最初に使われている「ファ・レb・ド・シb」という下降音型は、その後もいくつかの場所に繰り返して出てくる、という英国の音楽学者 デービット・ブラウン (1929-2014) の学説があることを筆者は最近知った。しかもこの変ニ長調の4音の階名(ミ・ド・シ・ラ)は作曲家の名と姓のラテン文字表記、〈pEtr CHAikovsky〉(E-C-H-A)を象徴している、いうのだ。ここまで来ると何か「謎解き、ピアノ協奏曲」みたいだが、このブラウンという人、兵役でロシア語を学び諜報部隊 (Intelligence Corps) に所属した経歴があり、暗号解読者としてさもありなんという気もしてくる。スパイでもあった文豪サマセット・モームの音楽評論家版といったところか。さらに言うと、一時期チャイコフスキーの婚約者であった(結婚には至らず)ベルギーの歌姫 Désirée Artôt (1835-1907) のイニシャルが、I楽章第2主題の最初の下降音型「レb-ラ♮」に表れているという。作曲家が本当にそう考えていたのかは確認のしようがないけれども、少なくとも「ファ・レb・ド・シb」という下降音型はチャイコフスキーのお気に入りだったのだろうと思う。第四交響曲のII楽章 アンダンテ(変ロ短調)の冒頭の3音の前にファの音を置くと「(ファ)・レb・ド・シb」になるのもその一例。

   第四交響曲はI楽章が続く三つの楽章に比べると抜きん出て長い。まだLPレコードの時代、ロマン派の交響曲の殆どはA面がI,II楽章、B面がIII, IV楽章という風に収まっていてII楽章が終わるとレコードをひっくり返していたのだけれども、「チャイコの4番」はA面はI楽章のみ、残りがB面に詰め込まれていたものである。I楽章のリズムについては、当時としては斬新な手法が取られている。展開部でブラス・セクションの咆哮にも負けじと、8分の9拍子(16分音符で18個/一小節)の中、弦楽器は16分音符 x 4 のフレーズを執拗に繰り返すところは、 4x3=12=6x2の「小ヘミオラ」が, 12x3 =36=9x4の「大ヘミオラ」に組み込まれていると言えるし、また8分の9拍子の中で延々と続くシンコペーションは、聴く人の耳を強拍と弱拍を入れ替えた感覚に誘導し、長いフレーズが終わるところで予期せぬ字余り(字足らず)感を味わう、というのもチャイコフスキーとしては一つの実験だったのではないかと思う。それだけ気合を入れて書かれた長いI楽章なのだ、と。
   第四交響曲は、作曲された時期(1877-78)が作曲家自身の束の間に終わった不幸な結婚とか、パトロンであったフォン・メック夫人との文通がたけなわだったことに重なることもあり、作曲家個人の精神状態から曲の解明を試みようとする文献は多くある。一方でこの時期は、オスマン・トルコがロシアの同胞国であるセルビア・モンテネグロに侵攻し、ロシアが「同じスラヴの仲間」(汎スラヴ主義)という建前からトルコに宣戦した露土戦争と重なる。本音は帝政ロシアが地中海への開かれた通路を求めたという考察もあるが、それはさておき第四交響曲初演(1878年2月、モスクワ、ニコライ・ルビンシュテイン指揮)の翌月にロシアは勝利する。友好国の領土を巡って戦争が行われ、国内は愛国心で高揚する一方で戦線では多くの死者が出る、という当時の国内の雰囲気がこの交響曲には反映されているのかもしれない。『アンナ・カレーニナ』の最終章には、アンナが鉄道自殺を遂げたあとヴロンスキーが露土戦争に参加すべく義勇兵としてセルビアに向かう場面がある。義勇兵、汎スラヴ主義・・・過去のものだと思っていた言葉が亡霊のごとく蘇ってきたのが2014年以降の現在のロシアだ。ちなみにヴロンスキーは「義勇兵 доброболец」としてロシアの帝国軍に入隊したが、ドンバス紛争で再び使われるようになった「国民義勇兵 ополченец」という言葉は国軍には所属しない民兵であって、政府はロシア軍による直接の軍事介入を否定した。
   III楽章からはヘ長調に転じ、IV楽章ではロシア民謡の主題が出てくる。1790年に音楽の知識のある啓蒙学者たちによって採集されたフォークロア・ソング、女性たちによる輪舞のうた、『白樺一本、野に立てり』。我らが日本人は誰だかわからないが「のはらに しらかば いっぽん・・」という原文に忠実な訳詞をつけた。さらにもう一つ替え歌がある。これはまだソ連時代、左翼の学生も多くいたであろう大学のオーケストラで流行った読み人知らずの歌詞で「おれたち共産党員・・きみたち共産党員・・みーんな共産党員・・」。「みーんな共産党員」のところがきちんと音価と合っており、見事だ。

  ピアノ独奏に使われる編曲譜は大部分がポーランド出身のヘンリク・パフルスキ(1859-1921) によるもの。父はフォン・メックの夫が所有していた鉄道会社の土地測量技師であり、ヘンリクはピアニストに、兄はヴァイオリニストになる。教育者としてのヘンリクは1886年から晩年までモスクワ音楽院で教鞭をとり、その作品は後年まで音楽院ピアノ科の教材として使われている。
  兄のヴラディスワフはフォン・メック家の子供たちの教師、その後フォン・メック夫人の秘書、そして彼女の娘婿となった。フォン・メック夫人は18人の子供を産み、うち7人は早世している。
  
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  今回唯一演奏されるオリジナルのチャイコフスキーのピアノ曲《ドゥームカ、ピアノのためのロシアの農村風景》作品59(1886年)は、フランスのピアニスト・教育家であったマルモンテル(1816–1898)に献呈され、フランスの出版社Makkarから発売された珍しい小品。チャイコフスキーの殆どの作品は、エストニア出身のピョートル・ユルゲンソンが起業したユルゲンソン出版社(1861–1918、革命後国に接収され国営『ムズィカ』となる)が版権とともに押さえていたが、《ドゥームカ》についてもユルゲンソンがその後に出版権を得ている。2004年、ユルゲンソン出版新社がモスクワで再登記された。
 「ドゥームカ думка」とは語源はウクライナ語で「思考」を意味する。メランコリックな緩徐部分と、速いテンポの中間部を持つ構成で、ドヴォルザークも《スラヴ舞曲》ほかでよく用いた音楽様式。

  第五交響曲は第四から十年を経た1888年に書かれている。第四のような「頭でっかち」ではなく、四つの楽章が均整の取れた構造であり、なにより『運命の動機』と言われる主題の一貫性はとてもわかり易い。一方で第四のような大胆な冒険はなりをひそめ、保守的なタッチを書かれたとも言われ、最終楽章のフィナーレについては虚しいハッピーエンドと辛口の批評をする人たちもいた。
   わたくし事で恐縮だが筆者は高校時代にこの第五交響曲に出逢い、ロシアの音楽、さらにはロシア語、ロシア語文化に惹かれてゆき今日に至っている。当時の自分がこの曲のどこに一番「シビれた」のかと言えば、やはりII楽章だろう。グレン・ミラーはII楽章の第一主題に魅せられてマック・デイヴィッドが書いた、というかコピーした《Moon Love》(1939)という曲をフォックストロットのリズムでレコード化したが、筆者がシビれたのは第二主題がクライマックスを迎えるところ、ベース・ラインがコントラバスとバストロンボーン、チユーバによってF#から半音も交えながら1オクターヴ下のF#まで下降して行くのに積み重なってゆくコードの多彩な変化のところだった。高校時代に千住明らとジャズ・バンドをやっていた筆者は、このPoco piu Mosso のところのベース・ラインとコードをコピーして「オータム・イン・レニングラード」という駄作を書いた。これはスタンダード・ジャズの定番、ヴァーノン・デューク作詞作曲《Autumn in New York》のパロディである。ちなみにデュークは本名をウラヂーミル・ドゥケーリスキーと言い、ロシア帝国ミンスク県(現在のベラルーシ)生まれのロシア人米国移民である。

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  《くるみ割り人形》からの「花のワルツ」は、タネーエフ編曲版で披露される。セルゲイ・タネーエフ(1856–1915) はモスクワ音楽院でニコライ・ルビンシュテインとチャイコフスキーに認められ、1885年からは音楽院長を務めた。作曲の師であるチャイコフスキーの多くの管弦楽作品をピアノ用に編曲したことに加え、未完に終わったオペラ《ロメオとジュリエット》(1869年に《幻想序曲 ロメオとジュリエット》として世にでた)からの二重唱の場面を師の没後にオーケストラ版に編曲している(ネーメ・ヤルヴィの録音あり)。一方で、第四交響曲の初演のあとでは「I楽章が長過ぎる。交響詩に三つの楽章をくっつけたようなものだ」と歯に衣着せぬコメントもしていて、7時間かけてこの交響曲の細かなコメントを書いて弟子のスクリャービンに送ったという逸話も語り継がれている。

   第五交響曲から5年を経て第六交響曲『悲愴』が発表され、その九日後にチャイコフスキーは53歳で死去する。このことから彼を悲劇の作曲家と捉える傾向があるけれども、すでに最後の数年はロシアのみならず欧米でもその名声は確立され、チャイコフスキーの膨大な書簡の研究者である伊藤恵子の言葉を借りれば「人間国宝」的な存在になっていた。葬儀に際してもロシア皇室は迷いなく国葬を命じた。生前にこのような高い評価を得ていたことはシャイであったとされるチャイコフスキー本人もその栄誉を認識していたと思う。また彼のホモセクシュアルについては多くの知人たちが認めているけれども、スクリャービン、ラフマニノフが学んだニコライ・ズヴェーレフ(1832–1893)のように知る人ぞ知る男色家であり、弟子の少年たちを家に住まわせて多くがその犠牲になったというような人と比べれば大人しい方ではなかったか。

  死去する年(1893年)のチャイコフスキーのロシア内外での活動を挙げてみる。
  1月 ブリュッセルで自作演奏会を指揮。そのあとオデッサ(現ウクライナ、オデーサ)で演奏会。
  3月 ハリコフ(現ウクライナ、ハリキウ)で第二交響曲と『1812年』序曲を指揮。(チャイコフスキーはウクライナの音楽アカデミーの発展に尽力した。キエフには1913年に音楽院が創設され、1940年に「チャイコフスキー記念」という名称になっている。)
  6月 英国ケンブリッジ大学に赴き名誉博士号授与式(ブラームス、ヴェルディは辞退し、チャイコフスキーの他にはブルッフ、グリーク、サン=サーンス、それにイタリアのボーイトに授与された。記念演奏会では『フランチェスカ・ダ・リミニ』を指揮して披露。)
  9月 ハンブルグの劇場でマーラーの指揮による自作《イオランタ》を観る。
  10月16日、第六交響曲初演。20日レストランで食事、25日死去。28日、カザン大聖堂で国葬。アレクサンドル・ネフスキー修道院墓地に埋葬。

  大作曲家の死因はコレラであったとされるが、自殺説、コレラではなかった説、主治医による不適切な治療説・・・いろいろある。「人間国宝チャイコフスキーが高名な医者の手当もむなしく、コレラで世を去った。当時のコレラは衛生設備にめぐまれない下層階級の病気だったから、さまざまな噂をよんだ」(伊藤恵子『チャイコフスキー』)というのが当時のロシアの受け止め方をよく表していると思う。

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〈公演予告〉

【第2回】2022年8月7日(日)15時開演(14時45分開場)
S.V.ラフマニノフ(1873-1943): 24の前奏曲集 Opp.3-2 / 23 / 32 (1892-1910)、 18の練習曲集《音の絵》Opp.33 / 39 (1911-1917)
山口雅敏(1976- ):《エピタフィア Эпитафия》(2022、委嘱初演)
[使用エディション:ラフマニノフ新全集版(2017)]

S.S.プロコフィエフ(1891-1953):ピアノソナタ第3番イ短調 Op.28「古い手帳から」(1917)、ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82 「戦争ソナタ」(1940)、ピアノソナタ第7番変ロ長調 Op.83「スターリングラード」(1942)、ピアノソナタ第8番変ロ長調 Op.84「戦争ソナタ」(1944)

【第4回】 2023年1月7日(土)15時開演(14時45分開演)
D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
[使用エディション:ショスタコーヴィチ新全集版(2015)]

【番外編】 2023年3月(東京) ロシア・アヴァンギャルド特集(N.A.ロスラヴェツ/A.V.スタンチンスキー/S.Y.フェインベルク/N.B.オブーホフ/A.-V.ルリエー/B.M.リャトシンスキー/A.V.モソロフ)+委嘱新作


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<cf.>
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by ooi_piano | 2022-06-07 02:03 | Сны о России 2022 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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