大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
【ポック(POC)#51】2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉
●ジョナサン・パウエル(1969- ):《茶トラ猫写本》(2023、委嘱新作初演)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]
●平野弦(1968- ):委嘱新作初演(2022)
●ルーク・ヴァース(1965- ):委嘱新作初演(2022)
●フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演)
■イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリアーー12の新しい「印象」》(1905/08、全12曲)
●永野英樹(1968- ):《瞬(めまじろき)》(委嘱初演、2022)
●ブルーノ・カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番(怒りの日?) 》(委嘱初演、2022)
■クロード・ドビュッシー(1862-1918):《映像 第1集》(1905)、《同 第2集》(1907)、《24の前奏曲集》(1909/13)
〔終了〕【関連公演】《時は脱ぎけりその衣を ~ドビュッシー生誕160周年》
2022年12月15日(木)19時開演(18時半開場) 東音ホール(「巣鴨駅」南口徒歩1分)
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
電話予約 03-3944-1538(全日本ピアノ指導者協会)、ウェブ予約
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《交響的素描「海」》(1905/09) [A.カプレによる2台ピアノ版]、《映像 第3集(ジーグ/イベリア/春のロンド)》 [A.カプレによる2台ピアノ版]、《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005) [J.E.バヴゼによる2台ピアノ版/日本初演]、《白と黒で》(1915)
●野平一郎(1953- ):《間奏曲第6番「ジャズの彼方へ》(2008/2023、改訂版初演)
●ベツィ・ジョラス(1926- ):《ソナタなB》(1973、日本初演)
■クロード・ドビュッシー(1862-1918):《版画》(1903)、《仮面》(1904)、《喜びの島》(1904)、《子供の領分》(1906/08)、《12のエテュード集》(1913/15)
〔終了〕【ポック(POC)#50】2023年2月18日(土)19時開演(18時半開場)〈ラヴェル傑作撰〉
●浦壁信二(1969- ):《断想 - 墓》(2023、委嘱新作初演)
●モーリス・ラヴェル(1875-1937):《水の戯れ》(1901)、《鏡》(1904/05)、《夜のガスパール》(1908)、《高雅で感傷的なワルツ》(1911)、《クープランの墓》(1914-17)、《スペイン狂詩曲》(1908/1923)[K.ソラブジ編独奏版、世界初演]
■POC [Portraits of Composers] 演奏曲目一覧
POC2022:戦後前衛の「源流の源流」と向き合う―――野々村禎彦
POCシリーズも今年度で12期目。直近2期はロマン派まで遡った選曲であり、もう20世紀以降で取り上げるべき曲はなくなったと思われた方もいるかもしれないが、もちろんそうではない。少なくとも20世紀初頭には最重要のゴッドファーザーがいる。ドビュッシーである。彼の音楽を要素に切り刻むと、19世紀までに音楽史に登場しなかったものは何ひとつなく、これが彼の位置付けを難しくしている。それに乗じて彼を「最後のロマン派」に祀り上げて、その後音楽史は誤った方向に進んだと称する言説すらある。このような皮相な見方を網羅的な作品演奏で打ち砕いてゆくのがPOCシリーズの基本スタンスであり、今期は彼がピアノ独奏曲の作曲家として自己を確立した《版画》以降の主要作品全曲に加えて、作品を通じて彼を生涯にわたって導き続けたアルベニスの《イベリア》全曲と、「印象主義」の作曲家として彼と並走していたラヴェルの主要作品を取り上げる。POC第6期で扱った「戦後前衛の源流」アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを導いた「源流の源流」に、いよいよ正面から挑む時が来た。また大井は、ウクライナ戦争以降ロシア音楽を忌避する風潮に抗して積極的に演奏会企画を行っており、その一環として今期の作品群と同時代のロシア・アヴァンギャルドも取り上げる。
まずは、イサーク・アルベニス(1860-1909) とドビュッシーの関係について。スペインの国力は、中南米の植民地からの貴金属の収奪が「主要産業」になった16世紀にピークに達し、強大な海軍力でヨーロッパの覇権を握ったが、この時期はモラーレス、ゲレーロ、ビクトリア、ロボという後期ルネサンスを代表する作曲家を輩出した最初のクラシック音楽黄金時代でもあった。その後、新興新教国との競争の中で国力が衰えてゆくにつれてクラシック音楽も下火になったが、キリスト教文化とイスラーム文化、ヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っていた。19世紀後半、スペインはこの資産を使って国民楽派運動の波に乗る。ヴァイオリンのサラサーテやギターのタレガら、ロマン派の伝統に民俗音楽のエキゾティックな衣を被せたヴィルトゥオーゾたちがこの運動を牽引したが、ピアノのアルベニスもそのひとりとして登場した。
しかしアルベニスは、先人たちの枠には収まらなかった。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家ペドレルと1883年に出会って薫陶を受けた。ホモフォニーの表現性を重視するスペインのルネサンス音楽と民俗音楽との相性は悪くない。ペドレルが求めた「国民楽派」は、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。アルベニスの作品に師の意図が反映されるまでには時間を要したが、作曲の腕を磨くためにウィーンと並ぶクラシック音楽の中心地パリに1894年に居を移すと成果が現れ始めた。アルハンブラ宮殿を描写した《ラ・ベガ》(1897) を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執っており、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。
ピアノ伴奏付き歌曲《抒情的散文》(1892-93)、《弦楽四重奏曲》(1893)、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) と、ドビュッシーは19世紀末には既にさまざまな編成で時代の先端を行っていたが、ピアノ独奏曲だけは進むべき道を見出せなかった。1901年になってもまだ、《ピアノのために》の水準に留まっていた。時代の中心にして最前衛だったショパンの影から抜け出せずにもがいていた時、ドビュッシーはアルベニスと出会った。その音楽の核心は「古楽と民俗音楽の融合」であり、ドビュッシーも「古楽」としてはクープランやラモーを研究し、「民俗音楽」としては1889年パリ万博でジャワのガムランと出会って音階を用いていたが、まだ本質を捉えていなかった。その後アルベニスの音楽を知り、1900年パリ万博で再びガムランを聴き、オペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) 初演を経てようやく、《版画》(1903) でピアノ独奏曲の新たな道に踏み出す。
《版画》の第1曲〈パゴダ〉はガムラン、第2曲〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニス、第3曲〈雨の庭〉(《忘れられた映像》(1894) の1曲のリライト)はフランスバロック鍵盤音楽と、各曲の参照点は明白だが、問題は何を参照しているかである。20世紀初頭にガムランを真摯に参照する時点で十分進歩的だが、参照点が音階に留まる限りは全音音階や教会旋法など、同時代にドビュッシーの特徴とみなされてきたリストに新たな1頁が加わったに過ぎない。だが1900年のドビュッシーはガムランに、「それと比べればパレストリーナすら児戯に過ぎない精妙な対位法」を聴き取った。この拡張された対位法の感覚こそが、ドビュッシーが見出したアルベニスの音楽の真髄であり、〈グラナダの夕暮れ〉では参照点を明示して敬意を表している。
その後のドビュッシーは、ラヴェルと競い合いながらピアノ独奏曲の書法を発展させてゆくが、アルベニスは腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復する療養生活の中で、アルベニスは《イベリア》(1905-08)を書き上げた。全12曲80分に及ぶ「12の新しい印象」は20世紀スペイン音楽の金字塔だが、ドビュッシーにも新たな啓示を与え、《前奏曲集》第1巻(1909-10)・第2巻(1911-13) が生まれた。《前奏曲集》の作曲中もその後も、ドビュッシーのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。アルベニスは仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで1909年に亡くなったが、ドビュッシーを生涯にわたって導き続けた「戦後前衛の源流の源流の源流」なのである。
続いて、モーリス・ラヴェル(1875-1937) とドビュッシーの関係について。ラヴェルは「旋律と伴奏」からなる伝統的な音楽様式を終生保ち続けたが、フランスでは長らく「進歩派代表」を務める巡り合わせになった。パリ音楽院でフォーレに師事したラヴェルは、1900年から1905年にかけて5回ローマ賞に応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリで活躍したスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニェスが「アパッシュ」と名付けた芸術家集団の中心人物としてドビュッシーを強く支持していたことも、審査員たちの心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査の方が誤っていたという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれてフォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現する。さらにそれまで「進歩派代表」だったドビュッシーは1904年に銀行家バルダックの妻エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした。拳銃自殺を図り一命を取り留めたリリーに世論は同情し、多くの友人を失ったドビュッシーは「進歩派代表」の座からも滑り落ちた。
当時のパリで「進歩的」なピアノ独奏曲が演奏される機会は、国民音楽協会で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《ピアノのために》ー《水の戯れ》ー《版画》・《喜びの島》(1903-04) ー《鏡》(1904-05) ー《映像》第1集(1901-05)・第2集(1907) ー《夜のガスパール》(1908) と、同じ会場で同じ演奏家が交互に初演する状況では意識しない方が難しい。《ピアノのために》の3ヶ月後に《水の戯れ》で先を行かれたことは、《版画》でドビュッシーが飛躍する契機になった。ラヴェルはさらに明確に意識している。内省的な曲が多い《鏡》に〈海原の小舟〉のようなコンサートピースが混じっているのは、この曲集で《喜びの島》も参照したからだし、《映像》で繰り返された3曲の性格対比を《夜のガスパール》は完全に踏襲している。ドビュッシーが愛娘クロード=エンマに捧げた《子供の領分》(1906-08) は、平易な書法の範囲でもピアノ独奏曲の本質は保たれると示した野心作だが、ラヴェルはこの方向性にも敏感に反応し、子供でも弾ける水準の書法のみを用いた連弾組曲《マ・メール・ロワ》(1908-10) で応えた。
《マ・メール・ロワ》は、ラヴェルが中心になって立ち上げた独立音楽協会の第1回演奏会で初演された。国民音楽協会はフランクが中心になって立ち上げた由緒ある団体だが、フランク没後はダンディら保守派が牛耳り、進歩派は冷遇されていた。ビニェスのリサイタルを後援していたのは、ピアノ独奏曲は当時の花形ジャンルではなく、費用もかからなかったからにすぎない。進歩派の管弦楽曲が取り上げられる機会は稀で、ドビュッシーの主要作品でも《牧神》だけだった。シェーンベルクが無調に向かい、ストラヴィンスキーが鮮烈にデビューした機を捉え、彼らも評議委員に名を連ねる進歩的な団体として出発した。《マ・メール・ロワ》も《高雅で感傷的なワルツ》(1911) も《クープランの墓》(1914-17) も、その後のラヴェルの主要ピアノ曲は専ら管弦楽編曲を前提に書かれており、ピアノでなければ表現し得ない領域を探求するドビュッシーとの距離は開いてゆくばかりだった。
最後に、あらためてクロード・ドビュッシー(1862-1918) について。彼とラヴェルの音楽は大雑把に「印象主義」と括られてきた。この分類は、商業音楽教程の最終段階に相当する、映画音楽の管弦楽法で特に重要になるが、その実体はラヴェルの管弦楽法に他ならない。これに限らず、ドビュッシーの音楽で様式化・標準化が可能な部分は、軒並みラヴェルが形にしてきた。だが、そこから零れ落ちたものは決して少なくない。アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、バルトークの「夜の音楽」も、ストラヴィンスキーの批評的な新古典主義も、みなドビュッシーに由来する。超一流の作曲家たちが彼の音楽に向き合った時、各々全く違うものを持ち帰っているのは驚くべきことだ。
しかもドビュッシーの影響は直下の世代に留まらない。《チェロソナタ》(1915) は彼が度々参照してきたミュージック・ホールの音楽の集大成だが、彼の想像力は遠く時代を飛び越えてビバップのアンサンブルを予見している。シュトックハウゼンの「モメンテ形式」の発想の源泉を、後期ドビュッシーの音楽の不連続性に見る向きは多い。調性的な旋律はホワイトノイズや正弦波発振音のような非和声的なテクスチュアの中で本領を発揮するという発見は90年代の「音響派」の核心だが、その起源を遡ると《前奏曲集》第2巻の〈霧〉に辿り着く。もちろんこれらは一例にすぎない。ドビュッシーの音楽は、その後の音楽の可能性をすべて含んだ混沌のスープだった。その可能性は、今日でもまだ汲み尽くされていないのかもしれない。