松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
【ポック(POC)#48】 2022年12月2日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その1〉
■クロード・ドビュッシー(1862-1918):《映像 第1集》(1905) 15分
I.水の反映 - II.ラモーを讃えて - III.運動
●永野英樹(1968- ):《瞬(めまじろき)》(2022、委嘱初演) 5分
■C.ドビュッシー:《前奏曲集》第1巻(1909/10) 44分
I.デルポイの舞姫たち - II.帆/ヴェール - III.野を渡る風 - IV.“音と香りは夕べの大気に漂う” - V.アナカプリの丘 - VI.雪の上の足跡 - VII.西風の見たもの - VIII.亜麻色の髪の乙女 - IX.遮られたセレナーデ - X.沈める寺 - XI.パックの踊り - XII.ミンストレルズ
(休憩10分)
■C.ドビュッシー:《映像 第2集》(1907) 14分
I.葉ずえを渡る鐘の音 - II.そして月は廃寺に落ちる - III.金色の魚
●ブルーノ・カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番「怒りの日?」》(2022、委嘱初演) 9分
■C.ドビュッシー:《前奏曲集》第2巻(1912/13) 42分
I.霧 - II.枯葉 - III.葡萄酒の門 - IV.“妖精たちは良い踊り手” - V.ヒースの茂る荒地 - VI.“ラヴィーヌ将軍”~奇人 - VII.月の光が降り注ぐテラス - VIII.水の精 - IX.サミュエル・ピクウィック殿下を讃えて - X.カノプス壷 - XI.交代する3度 - XII.花火
[使用エディション/デュラン社新全集版(2005/07年)]
永野英樹:《瞬(めまじろき)Un clin d’œil - Hommage à Debussy》(2022、委嘱初演)
曲はドビュッシーの24のプレリュードを、終曲の「花火」で現れるフランス国歌を軸に、終わりから遡りながら回想するような形で作られています。其々の曲に留まることなく続いていくため、即興的な趣きを持つ小品です。(永野英樹)
永野英樹 Hideki NAGANO, composer
1968年名古屋生まれ。東京藝大附属音楽高校卒、東京藝大ピアノ科入学後、渡仏。パリ国立高等音楽院に学び、'90年歌曲伴奏科を一等賞で、翌'91年には同ピアノ科を満場一致の首席で卒業した。'92年には同音楽院室内楽クラスも一等賞で卒業し、以後、パリを中心にヨーロッパで活動する。伊達純、播本枝未子、ジャンクロード・ペンティエ、ジャンフランソワ・エッセー、ジャック・ルヴィエ、アンジェイ・ヤシンスキーに師事。
モントリオール、オルレアン等の国際コンクール入賞を経て、95年、ピエール・ブーレーズが主宰するアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ・ピアニストとして迎えられ、現在まで活動を続けている。ブーレーズはもとより、新旧音楽監督及び客演指揮者、デイヴィッド・ロバートソン、ジョナサン・ノット、スザンナ・マルッキ、マチアス・ピンチャー等のもとでソリストを務め、カーネギーホール、ルツェルン音楽祭、ベルリン・フィルハーモニー等で演奏し、好評を博す。村松賞('98)・出光賞('98)・ショパン協会賞('99)を受賞。
録音は、「21世紀フランス音楽作品集」(Fontec)、「アンタイル作品集」(Pianovox)、「プロコフィエフ・メシアン・ミュライユ」及び、「ラヴェル・ピアノ作品集」をDENONより、「J.Harvey : Bird Concerto/ロンドンシンフォニエッタ」(NMC Recordings)、またアンサンブル・アンテルコンタンポランとの録音はドイツ・グラモフォン、カイロス等から発売され、最近ではリゲティのピアノ協奏曲 (Alpha classics) やブーレーズのピアノ作品「天体暦の1ページ」(ドイツ・グラモフォン) がリリースされている。
ブルーノ・カニーノ:《カターロゴ第2番「怒りの日?」 Catalogo n.2 (Dies Irae?) 》(2022、委嘱初演)
この《カターロゴ第2番》で私は、全音階的・半音階的な素材を結合・重層させ、ときには戦わせてみた。全音階素材は有名なミサ続唱「怒りの日(Dies iræ)」であり、常にではないがしばしば12音列を惹起する。この素材選択は、我々人類、そして我々の惑星が今向き合う困難な時代にも関わらず、千年紀の不吉な予言とならぬことを願っている。曲の構成は至ってシンプルで、様々な界層を累積しつつ、反転と逆行という古典的手順で主題が3回提示される。各セクションの間には、2つのトリオ部を配置した。最初のトリオ「死の舞踏?(“Danse Macabre?") 」では、サンサーンスの著名曲の引用が回想され、第2のトリオでは同じく有名なモーツァルト《レクイエム》の「奇しき喇叭」が挿入される。奏者は引用主題を声で強調しても良い。《カターロゴ第2番》は大井浩明に献呈するもので、彼がベルン音楽院の私のクラスにいたことは大いなる喜びであり、その才能と強靭な知性には感嘆の念を禁じ得なかった。(ブルーノ・カニーノ)
ブルーノ・カニーノ Bruno CANINO, composer
1935年ナポリ生まれ。ナポリ音楽院でヴィンチェンツォ・ヴィターレに師事した後、ミラノ・ヴェルディ音楽院にて作曲(ブルーノ・ベッティネッリ)とピアノ(エンツォ・カラーチェ)を学ぶ。1956年ブゾーニ国際ピアノコンクール入賞。自作「Concerto da Camera No.2」がパリのUNESCOのコンクールで第1位入賞(1962)するなど作曲家としても活躍。現代音楽演奏のエキスパートとして、ベリオ《ピアノ協奏曲》《セクエンツァⅣ》、クセナキス《ディフサス》、シュトックハウゼン《マントラ》《ピアノ曲第1番~第11番》、ブーレーズ《構造 第1巻・第2巻》、カーゲル《ピアノ・トリオ》等の初演・再演、ブゾーニ《ピアノ協奏曲》《対立法的幻想曲》やスカルコッタス・シェルシ・カセッラ作品等の蘇演に携わった。
ミラノ・ヴェルディ音楽院ピアノ科教授として24年間教鞭を執ったのち、ベルン芸大(スイス)ピアノ科マスタークラス教授を務めた。ベルリン・フィル、ニューヨーク・フィル、アムステルダム・コンセルトヘボウ、BBC響、バイエルン放送響、クリーヴランド管、フランス国立管、ロンドン響、イスラエル・フィル、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ケルン放送響等のオーケストラ、アバド、サヴァリッシュ、ブーレーズ、マズア、シャイー、ムーティ等の指揮者とソリストとして共演。同時に、パールマン、アッカルド、ムローヴァ、リン・ハレル、ニコレ、ガッゼローニ、グラーフ、バーベリアン、シフらの室内楽のパートナーとしても世界的名声を博している。ザルツブルグ、ウィーン、ベルリン、ルツェルン、マルボロ、エディンバラほかの国際音楽祭に定期的に出演。ドイチェ・グラモフォン、フィリップス、RCA、デッカ、CBS、オルフェオ、ヴェルゴ等のレーベルに、多数のCD録音がある。
[ List of compositions by Bruno Canino ]
Concerto da Camera n. 2 per 2 pf e strumenti (1961) - executed at the Festival di Venezia
“Tu n’as rien vu” - Cantata per soprano e trio d’archi (1962)
Piano Rage Music per 3 esecutori (1962-64)
Concerto da Camera n. 3 per oboe, vl e orchestra (1965) - conducted by Claudio Abbado in Milano
Labirinto n. 2 per pf (1966-67)
A Due per chitarra e pf (1967)
Impromptu n. 1 per fl, ob e pf (1969)
Labirinto n. 3 per quartetto d’archi (1970)
Impromptu n. 2 per pf (1970)
9 Esercizi per la Nuova Musica per pf (1971)
Black and White n. 2 di F. Donatoni per 2 pf (1972)
Labirinto n. 5 per vl, vcello e pf (1972)
Senza Titolo n. 2 per 2 vl e vla (1973)
Catalogo per pf (1977) - a Elena Canino
Tempo giusto per un Rag? per pf (1982)
3 Danze per vcello e contrabbasso (1982-84)
Piccolo Rondò Ostinato per vl e pf (1985) - per mia figlia Serena
Serenata - Concerto da Camera n. 4 per fl, vl, chitarra, vcello e pf (1988)
5 Momenti musicali per pf, oboe, cl, fagotto e corno (1989)
Cantilena e Rondò per vl e 11 strumenti (1989)
Ein kleines Pot-Pourri per orchestra (1990) - was used by Aterballetto for a ballet
Impromptu n. 4 per vcello e pf (1995)
Rondò n. 2 per pf (1995)
2 Studi di Ritmo per fl con accompagnamento ad libitum (1996)
Rondò n. 1 per pf (1997)
Due contro tre - Tre contro due per pf (1999)
Quattro Ritratti per quartetto d’archi (2008) - per il Quartetto Mantegna
Scherzo a capriccio per pf (2009)
Un Microritratto per pf (2010) - per Antonio Ballista
Almanacco - 12 pezzi per vl e pf (2020) - a Natascia e Raffaella Gazzana
Barcarola e Scherzo per vla e pf (2020)
Sestina per fl e pf (2020)
Catalogo n.2 (Dies Irae?) per pf (2022) - a Hiroaki Ooi
ドビュッシー《映像》と《前奏曲集》:アルベニスとの関係を中心に――野々村 禎彦
クロード・ドビュッシー(1862-1918) のピアノ曲の源流は、ショパン、J.S.バッハ、フランス・バロック鍵盤音楽だとしばしば言われる。それは確かにその通りだが、前二者の影響は《2つのアラベスク》(1888/91) や《ベルガマスク組曲》(1890) では既に明白、最後の要素も《忘れられた映像》(1894) で既に登場している。前者の時期には彼はまだ何者でもなかったが、後者に至るまでに歌曲集《抒情的散文》(1892-93)、《弦楽四重奏曲》(1893)、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) で作曲家として自己を確立し、《忘れられた映像》はその名の通り、死後まで封印されることになった。すなわち、ピアノ曲の作曲家として一本立ちするには、この3要素だけではまだ不十分だったのである。
オペラ専門学校だった時期のパリ音楽院で学び、カンタータ《放蕩息子》(1884) でローマ賞を受賞した彼が最初に頭角を現した分野は声楽曲だった。《忘れられたアリエッタ》(1985-87) と《ボードレールの5つの詩》(1887-89) は、交響組曲《春》(1887) やカンタータ《選ばれた乙女》(1887-88) と並ぶ、習作時代の佳品。そしてヴェルレーヌの詩による1880年代初頭の若書きを改作してまとめた《艶やかなる宴第1集》(1891-92) は、「19世紀末の作曲家」ドビュッシーの完成形。同時期の《ピアノと管弦楽のための幻想曲》(1889-92) やピアノ曲には依然残っている若書き臭は微塵もない。だが彼はそこに留まらず、《抒情的散文》で新たな一歩を踏み出した。そこでは歌はもはやオブリガートでピアノパートが主役。伴奏に留まるうちは縛られていた機能和声の制約からも自由になった。これは好きなように弄れる自作テキストだからできたことだが、一度縛りから解き放たれれば同じことは歌を大切にしても可能になり、《ビリティスの3つの歌》(1897-98) は完成度の高さに加え、「20世紀の作曲家」ドビュッシーが一足先に顔を見せている。この作品以降、歌曲は彼の主要創作ジャンルではなくなり、後々の器楽曲での新機軸をいち早く試行する実験ジャンルになった。
彼は最晩年まで室内楽曲を殆ど書かず、《弦楽四重奏曲》は例外的作品だが、この曲だけで「単色のアンサンブル」は極めてしまい、書き続ける意義を感じなかったのかもしれない。この作品は機能和声の枠内で書かれ、フランク流の循環主題で全曲が統一されている点は伝統的だが、堅牢な四声体が突然ユニゾンやピチカートに切り替わる落差がもたらす効果、反復する楽想を少しずつ急速に入れ替えることで得られるドライヴ感など、後世につながる要素も多い。むしろ素材を民俗音楽や無調的なものに置き換えて特殊奏法を加えれば、バルトークの弦楽四重奏曲における達成に直結する。この編成におけるバルトークは、大半の前衛音楽の源流にあたることをかつて論じたが、ここでもドビュッシーは「源流の源流」だった。ただし、この鉱脈は彼が総て独力で発掘したわけではなく、グリーグ《弦楽四重奏曲》(1877-78) という先例があった。そこではユニゾンやピチカートや急激な楽想の転換がロマン主義的な文脈で効果的に用いられていたが、ドビュッシーはそれを抽象化して拡張し、自身の語法に接続して未来につながる形に読み替えたのである。
他方、《牧神の午後への前奏曲》では、音色こそが本質だった。管弦楽曲をまずピアノ曲(大編成の近代管弦楽では2台ピアノ曲)として発想し、そこに「彩色」する形で管弦楽化する作曲家は少なくないが、少なくともこの作品以降のドビュッシーはそうではない。同じ旋律を楽器のみ替えて何度も繰り返し、一周して元の楽器に戻ってきてもアンティーク・シンバルを添えれば別物になる、という発想は音色が前提でなければ浮かばない。もちろん主題を吹く木管楽器を取り替えてゆくだけの曲ではなく、弦楽器群や倍音奏法を多用したハープの合いの手あってこそだが。このような音色操作をオーケストラの全楽器に拡張し、女声ヴォカリーズも加えた《夜想曲》(1897-99)、その音色世界に元々得意な声楽が加わったオペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) と、彼の音楽(というか「印象主義音楽」)は、専らオーケストラの柔らかく多彩な音色として認識されている。
これらの出世作群を特徴付ける要素を何ひとつ持たないのが、ピアノ曲というジャンルだった。歌曲における声のような特権的パートは存在せず、弦楽四重奏曲のような確固たるフォルムも存在せず、管弦楽曲のような音色のパレットも使えない。デュカス(1865-1935) の《ピアノソナタ》(1899-1901) のように、あえてベートーヴェンの高みを目指すのでなければ、ピアノ曲では時代の中心にして最前衛だったショパンの影響力は大きく、ドビュッシーもその影の中でもがいていた。当時のイタリアやフランスはオペラがクラシック音楽の花形で、ピアノ曲で参照できるのは一世代上のマスネ(1842-1912)、シャブリエ(1841-94)、フォーレ(1845-1924)くらいだった(なお、マスネは当時はオペラ作曲家として一世を風靡していた)。
そのような状況の中で、1894年からパリに居を移したスペインのピアニスト=作曲家アルベニス(1860-1909) の音楽は啓示になった。《ラ・ベガ》(1897) をアルベニス自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と感想を伝えたという。ただしこのエピソードが意味するのは、彼は当初は額面通り、この曲をアルハンブラ宮殿の描写音楽として受け取っていたということでもある。彼はアルベニスの真髄をたちどころに聴き取り、その時からピアノ曲は一変した…わけではない。《ピアノのために》(1894-1901) も、《忘れられた映像》とさほど代わり映えしない。実際、第2曲〈サラバンド〉は《忘れられた映像》第2曲そのものである。
《ピアノのために》は翌1902年1月、リカルド・ビニェス(1875-1943) の国民音楽協会でのリサイタルで初演され好評を博した。ドビュッシー自身もこの方向性に手応えを感じ、《映像第1集》初稿を1901年内に書き上げている。スペイン生まれのビニェスはパリ音楽院で学び、同い年の親友モーリス・ラヴェル(1875-1937) のピアノ曲を多数初演した。1902年4月のリサイタルでは《亡き王女のためのパヴァーヌ》(1899) と《水の戯れ》(1901) を初演し、《水の戯れ》の流動するフォルムは《ピアノのために》を過去のものにした。《映像第1集》初稿も第2曲〈ラモー讃〉以外は破棄されることになる。なお、ビニェスとラヴェルらは1902年に芸術家集団「アパッシュ」を結成し、《ペレアス》初演時は天井桟敷に陣取ってこの野心的なオペラを大いに擁護した。これ以降の数年間、ドビュッシーとラヴェルはビニェスを介してピアノ曲で競い合ってゆくことになる。当時のパリで「進歩的」なピアノ曲が演奏される機会はビニェスの国民音楽協会リサイタルだけで、同じ会場で同じ演奏家が交互に初演する状況では意識しない方が難しい。
《ペレアス》初演に際しては、配役への不満に端を発した原作者メーテルランクの執拗な妨害などもあったが、それが片付いてようやく、ドビュッシーはアルベニス作品に向き合ってその本質を掴んだ。彼が慣れ親しんできたJ.S.バッハの対位法は、均質な素材を多声的に組み合わせる技術だが、民俗音楽に由来する不均質な素材を、アルベニスは拡張された対位法の感覚で多層的に組み合わせていた。アルベニスが用いた素材は調性的なものに限られ、機能和声には従っているので効果は限定的だが、その制約を外せば可能性は一挙に広がる。この拡張された対位法の感覚でさまざまな手持ちの素材を処理したのが《版画》(1894-1903) に他ならない。この作品の詳細は演奏される次回に譲るが、グリーグ《弦楽四重奏曲》の場合と同じく、既存の曲を単に模倣するのではなく、最良の部分を聴き取ってその本質を抽出する眼力こそが、彼の作曲家として最も卓越した能力だと言えそうだ。《ペレアス》までの彼の創作の中心は管弦楽曲だったため、それ以降の創作歴も管弦楽曲を中心に語られることが多いが、《版画》以降はピアノ曲が彼の創作の中心で管弦楽曲はそこでの成果の応用に過ぎないことは強調しておきたい。なかでも中核になっているのが、本日演奏される《映像》《前奏曲集》各2集である。
アルベニス作品の助けを借りて《版画》を書き上げた彼は、《水の戯れ》に打ちのめされて塩漬けにしていた《映像》に立ち返って、デュラン社と出版契約を結んだ。《映像》は6曲2集、各々ピアノ独奏曲3曲と2台ピアノまたは管弦楽曲3曲からなるとされ、第2集のピアノ独奏曲3曲まではタイトルも内定した。結局、ピアノ独奏曲が現在の第1集(1901-05)・第2集(1907)、元々の第1集残り3曲が《管弦楽のための映像》(1905-11) となった。ただし《管弦楽のための映像》の〈イベリア〉(1905-08) はさらに3曲に分かれ、実質的には11曲を書き上げた。雲を掴むような契約にしてはよく履行した方だろう。この途中でアルベニスは《イベリア》(1905-08) を発表し、彼の関心もそちらに移った。《管弦楽のための映像》の残り2曲、〈春のロンド〉(1905-09) と〈ジーグ〉(1909-11) は多分に「お仕事」で、アルベニス《イベリア》に直結する《前奏曲集》(1909-10/11-13) が創作の中心になった。
《映像第1集》の作曲中には、私生活にも大きな変化があった。ピアノの家庭教師を引き受けた子供の母親である、銀行家バルダック夫人エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした。歌姫出身のエンマは社交界の花形として奔放な私生活を送り、ドビュッシーと出会う前はフォーレの愛人で、1890年代のフォーレのミューズだった。駆け落ち中はエンマの英国趣味に合わせて英国の沿岸部を転々とし、管弦楽のための《海》(1903-05) の主要部分はこの時期に書かれている。リリーは拳銃自殺を図ったが一命を取り留め、彼は大衆紙の格好のバッシング対象になって大半の友人を失った。《ペレアス》の成功で盤石になったかに見えた、「進歩派代表」の座からも滑り落ちた。バッシングの渦中の彼は再び英国に逃れ、ほとぼりが冷めるのをエンマと待つ間に、《映像第1集》の〈水の反映〉〈運動〉の全面改稿を済ませた。なかなかの人でなしぶりである。
こうして完成した《映像第1集》は、「シューマンの左あるいはショパンの右に位置する」と自認する自信作だとされるが、これは公的な発言ではなくデュラン社に宛てた私信である。《映像》シリーズで大型契約を結んでおきながら、その後完成したのは《仮面》(1904)・《喜びの島》(1904)・《海》という「趣味の作品」ばかりだったので、シリーズ最初の作品を送る際には大きく出たという面もあるだろう。実際、《版画》と《映像第1集》のどちらがより新しいかは微妙なところがある。《映像第1集》最終稿は《海》などを経た複雑な書法を持つ反面、美学的には多分に1901年の初稿に引きずられており、不均質な素材を異なったレイヤーに置いて組み合わせるというアルベニス由来の発想(先の説明で「多声的」「多層的」を区別したのはこの意味で、セルアニメや現代美術や描画ソフトを通じて「レイヤー」概念に親しんでいる我々には自然でも、そういうものが一切ない時代に発想したアルベニスも、それを見抜いたドビュッシーも凄い)がストレートに出ているのは《版画》の方である。
結局、両者を統合した完成形が《映像第2集》だった。管弦楽曲中心のドビュッシー観では、この時期の創作の中心は《海》であり、ラムルー管弦楽団による1905年10月の初演が大失敗に終わった後しばらく彼の創作は低調になったとされるが、ピアノ曲中心のドビュッシー観では、《海》は《版画》のひとつの応用以上のものではなく、《映像第2集》という完成形が得られるまでは創作の調子が出なかったということになる。いずれにせよ、エキゾティックな旋法で特徴付けられる第1曲/アルカイックで内省的な第2曲/名技的な反復運動で特徴付けられる第3曲という3曲セットが3回繰り返され、ピアノ曲のひとつの「様式」が確立したわけだが、このような様式化・標準化された世界はラヴェルの得意分野で、《夜のガスパール》(1908) という大輪の花を最後に咲かせた。《映像第2集》と《夜のガスパール》は目指すものが違うので単純な比較はできないが、古典派やロマン派の大曲を差し置いて演奏会のフィナーレを飾るにふさわしいスケール感を持っているのは、断然《夜のガスパール》であることだけは疑いない。
そもそもスケール感はドビュッシーの得意分野ではなく、それを持っているピアノ曲は《喜びの島》だけかもしれない。アルベニス《イベリア》に導かれて《前奏曲集》に向かった彼は、ますますその方向から離れてゆく。アルベニスはこの作品で、「形式」を素材から自律的に生成する境地に達したが、これはバラケやブーレーズのような分析者が、ドビュッシーの《海》に見出していた音楽のあり方に他ならない。ドビュッシーが《イベリア》に見出したのは、アルベニスも自分と同じ道を歩んでいた、自分は孤独ではなかったという安心感であり、《海》では循環主題などを併用していた彼は、この方向性をより純粋に探求することになる。《前奏曲集第1巻》(1909-10) では、〈パックの踊り〉や〈ミンストレルズ〉がその典型であり、機能和声から切り離された調性が変転する音楽を最短距離でまとめている。他方、名技的な〈西風の見たもの〉では、調性感の希薄さゆえにクライマックスのみを切り取ってつないだような構成が成立している。《イベリア》との関連で付け加えるならば、民俗音楽素材から想起される地名を各曲のタイトルにした《イベリア》が情景描写音楽として消費されている現実を目の当たりにして、彼はタイトルを楽譜末尾に付け足しのように記すスタイルを選んだのだろう。
《前奏曲集第2巻》(1911-13) と第1巻の比較にはさまざまな見方がある。ヨーロッパ各地の民俗音楽素材を収集して年末年始の2ヶ月で一気に書いた第1巻の方が、いや無調的な音組織の中に調性的な旋律断片を漂わせた〈霧〉や機能和声から切り離された連続する協和音の効果を探った〈交代する三度〉のような実験に2年かけて取り組んだ第2巻の方が、等々。少なくとも言えるのは、《イベリア》を強く意識した第1巻はやや「よそいき」で、第2巻の方が地が出ていることだろうか。エッセンスのみ凝縮した短い曲が大半で、スケール感で《イベリア》と比べ得るのは各巻1曲ずつだが、水没した寺院の伝説を倍音列に託して表現した〈沈める寺〉のドラマ性よりも、1種類の和音をさまざまな角度から眺めた〈月の光が降り注ぐテラス〉の静的な表現の方が彼らしく、逆にリスト的な名技性の表現では、ストイックな〈西風が見たもの〉よりも、革命記念日の情景を設定して最後にはフランス国歌が響く〈花火〉の方が彼らしい。何よりも、彼が偏愛したアルカイックな旋律を飾り気なく鳴らす〈カノープ〉は第2巻に含まれている。
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〈cf.〉
【フランソワ・クープラン「組曲(オルドゥル)」全27曲公演】(2012~2018)
●《王のコンセール》(クラヴサン曲集第3巻所収) 第1コンセール ト長調、 第2コンセール ニ長調、 第3コンセール イ長調、 第4コンセール ホ短調 [2012.06.20]
●第1組曲 ト短調/ト長調、 第2組曲 ニ短調/ニ長調、第3組曲 ハ短調/ハ長調 [2014.06.09] [closed]
●第4組曲 ヘ長調、 第5組曲 イ長調/イ短調、 第6組曲 変ロ長調 [2015.06.07] [closed]
●「クラヴサン奏法」から8つの前奏曲、 第11組曲 ハ短調/ハ長調、 第12組曲 ホ長調/ホ短調 [2017.07.08] [closed]
■第18組曲 ヘ短調/ヘ長調、第19組曲 ニ短調/ニ長調、第20組曲 ト長調/ト短調、第21組曲 ホ短調、第22組曲 ニ長調/ニ短調 + ジェルジ・リゲティ(1923-2006):《連続体(コンティヌウム)》(1968)/佐野敏幸(1972- ):《GRS(ガレサ)》(2009)/上野耕路(1960- ):《リベルタン組曲》(2018、委嘱新作初演) [前口上 - フランス風序曲 - アリオーソ - ディヴェルティスマン - サラバンド - メヌエット - バデイヌリ] [2018.08.19]
■第23組曲 ヘ長調、第24組曲 イ短調/イ長調、第25組曲 変ホ長調/ハ長調/ハ短調、第26組曲 嬰へ短調、第27組曲 ロ短調 + F.ドナトーニ(1927-2000):《ドゥエット》(1975、日本初演)/I.クセナキス(1922-2001):《二重平衡(ディプリ・ズィーア)》(米沢典剛によるチェンバロ独奏版、初演)(1952/2017)/S.ブッソッティ(1931- ):《啓示を受けた乙女》(1982、日本初演)/J.S.バッハ(1685-1750):《音楽の捧げ物 BWV1079》より「大王の主題によるトリオソナタ ハ短調」(米沢典剛によるチェンバロ独奏版、初演)(1747/2017) [2018.09.16]