
Хироаки Ои Фортепианные концерты
Сны о России

松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
【第4回】2023年1月7日(土)15時開演(14時45分開場)
●S.I.タネーエフ(1856-1915): 前奏曲とフーガ 嬰ト短調 Op.29 (1910) 7分
■D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
第1番 ハ長調 - 第2番 イ短調 - 第3番 ト長調 - 第4番 ホ短調 20分
第5番 ニ長調 - 第6番 ロ短調 - 第7番 イ長調 - 第8番 嬰ヘ短調 27分
第9番 ホ長調 - 第10番 嬰ハ短調 - 第11番 ロ長調 - 第12番 嬰ト短調 25分
(休憩 15分)
●M.ヴァインベルク(1919-1996): ピアノソナタ第6番 Op.73 (1960) 12分
I. Adagio - II. Allegro molto
■D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
第13番 嬰ヘ長調 - 第14番 変ホ短調 - 第15番 変ニ長調 - 第16番 変ロ短調 26分
第17番 変イ長調 - 第18番 ヘ短調 - 第19番 変ホ長調 - 第20番 ハ短調 24分
第21番 変ロ長調 - 第22番 ト短調 - 第23番 ヘ長調 - 第24番 ニ短調 27分
[使用エディション:ショスタコーヴィチ新全集版(2015)]
交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者による連弾版]、映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛編2台ピアノ版]、交響曲第13番《バビ・ヤール》第5楽章「出世」(1962/2022) [米沢典剛編独奏版]、オラトリオ《森の歌 Op.81》より第7曲「栄光」(1949/2021) [米沢典剛編独奏版)、オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Op.29》より~第2幕第4場から第5場への間奏曲「パッサカリア」 (1932) [作曲者編独奏版]、《ピアノ五重奏曲 Op.57》より第2楽章「フーガ」(1940/2022) [米沢典剛編独奏版]、《弦楽四重奏曲第15番 Op.144》より第1楽章「エレジー」(1974/2020) [米沢典剛編独奏版]、《革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲》(1918)
ショスタコーヴィチ《24の前奏曲とフーガ》とその辺縁――工藤庸介

2022年8月30日、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(1931~2022;任期は1985~91)が逝去した。彼がソヴィエト社会主義共和国連邦の最高指導者であった期間はニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(1894~1971;任期は1953~64)の半分ほどのわずか6年であったが、彼が世界史に刻んだ足跡は極めて大きなものである。彼の事績を辿るニュース映像の数々は、彼が書記長に就任した時にはまだ中学生だった団塊ジュニア世代の筆者にとって、青春時代の記憶を喚起するものであった。
ソ連を地理の教科書で習った世代にとっては、1991年のソ連崩壊がどれほどショッキングな事件であったのかをよく覚えていることだろう。なにしろ、生まれた時から当たり前のように地図に載っていた国が消滅したのだから。
それから、30年以上が経った。わが国では、歴史の教科書でしかソ連を知らない世代が約半数を占めている。それは、ソ連について語る際、そこに付き纏っていた秘密のベールの感覚を、もはや前提として共有できない、ということを意味する。
ソ連の作曲家、ショスタコーヴィチ

さて、ショスタコーヴィチである。彼の人生と創作活動を、ソ連の国家体制との軋轢を無視して理解することは困難だろう。「血の日曜日」の翌1906年に生まれ、レオニード・イリイチ・ブレジネフ(1906~82;任期は1964~82)体制下の1975年に亡くなったショスタコーヴィチは、ソ連の第一世代であった。彼の家系には、父方と母方の双方に急進的政治活動に荷担していた者がいた1)こともあり、ロシア革命の理念に対してシンパシーを抱く家庭環境の中で彼は育った。無神論者であったか否かはともかく、ショスタコーヴィチに信仰を窺わせるエピソードも皆無である。彼が敬愛したベンジャミン・ブリテン(1913~76)の「戦争レクイエム」作品66(1962)と、それに対する音楽の返答とも言われているショスタコーヴィチの交響曲第14番 作品135(1969)とを比較してみれば、少なくともショスタコーヴィチの思想の根底に信仰がなかったことは明らかであろう。
無論、だからといってショスタコーヴィチが模範的な心からの共産主義者であったということにはならない。しかしながら、1915年にイグナーツィ・アルベルトヴィチ・グリャスセル(1850~1925)が主宰する音楽学校へ入学してピアノのレッスンを始め、1919年からはペトログラード音楽院でピアノと作曲を学び、その集大成として発表した「交響曲第1番」作品10(1925)によって華々しく国際的なデビューを果たしたショスタコーヴィチは、紛れもなくソ連が誇る俊英であった。

そんな優等生だったからこそ、彼は全体主義国家の格好の餌食となった。イデオロギー統制を目的とした文化・芸術弾圧であるプラウダ批判(1936)とジダーノフ批判(1948)の槍玉として、ショスタコーヴィチの名が筆頭に挙げられたことはよく知られている。特に前者は、第1回モスクワ裁判の死刑判決がおりた、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(1878~1953)による大粛清が始まった年だったことを考えると、その意味は極めて深刻なものであった。翌1937年に逮捕、銃殺されたミハイル・ニコラーエヴィチ・トゥハチェフスキイ元帥(1893~1937)と親交があったことで、ショスタコーヴィチ自身もNKVD(内務人民委員部)で取り調べを受けている。この取り調べの担当者が逮捕されたことで、ショスタコーヴィチは最悪の結末を免れた2)が、明確に死を覚悟せざるを得なかったこの経験が、ショスタコーヴィチの精神に影響を及ぼさなかったわけがない。
その後、ショスタコーヴィチは体制に対して、少なくとも表向きは服従し、順応した。1961年には正式に共産党員にもなった。そんなショスタコーヴィチのことを、アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(1918~2008)は「呪縛された才能3)」と形容した。反体制の闘士であったソルジェニーツィンの生き様は、ソ連が遠い過去の記憶となりつつある現代でも共感を持って理解され得るに違いない。一方、ソ連が失敗に終わった壮大な実験国家であったと結論付けられている現代において、その体制に恭順したショスタコーヴィチの内面を推し量ることは困難である。
近年の研究で作曲家の私的な側面が解明されてくるにつれ、彼の「二重言語」が「体制=反体制」あるいは「公=私」だけではなく、彼自身の心性の表れとも考えられるようになってきたことは、間もなく没後50年となるショスタコーヴィチの評価に新たな地平を切り拓くものである。こうした作曲家像の変遷は、演奏者と聴き手の双方に対して、単なる意味解釈の修正を超えた「ショスタコーヴィチの音楽とは?」という根源的な命題を突きつけている。
ショスタコーヴィチにとっての社会主義リアリズム

ところで、2度に渡る批判では、ショスタコーヴィチの音楽の何が問題とされたのだろうか。キーワードは、「形式主義」と「社会主義リアリズム」の2つである。
一般に「形式主義」とは、「作曲は形式的な美的法則を追うもの4)」という音楽美学の用語であるのに対し、ソ連において用いられた「形式主義」は、文学におけるロシア・フォルマリズム(ロシア形式主義)を批判するマルクス主義文学理論で用いられた語を援用したものである。すなわち、技法を重視するあまりに大衆との繋がりを欠いた作品や創作行為に対する蔑称と理解してよい。
一方の「社会主義リアリズム」という概念もまた、文学の分野に端を発し、マクシム・ゴーリキイ(1868~1936)がその元祖的な存在とされている。1932年にスターリンによって与えられた定義は、以下のようなものである:「社会主義リアリズムは、ソヴェト文学と文学批評の基本的な方法である。それは、芸術家に、現実生活とその革命的発展を、真実に、歴史的に具体的に描写することを要求する。この真実と、歴史的な具体性とは、勤労大衆の中に新しい人生観を育て上げ、彼等を社会主義の精神において訓練するという問題とむすびつけられなければならぬ5)」。
文化問題担当の共産党中央委員会書記であったアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ジダーノフ(1896~1948)らの指導で、1934年の第1回全ソ作家同盟大会においてこれが作家同盟規約として採択され、文学に留まらず、ソ連芸術全般に関わる基本方針とされた。これは幾許かの議論を経て6)音楽にも適用され、「形式において民族的、内容において社会主義的」というスローガンの下で以降のソ連芸術が展開されていくことになった。

歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29(1932)とバレエ「清流(明るい小川)」(1935)でプラウダ批判を受けたショスタコーヴィチは、「交響曲第4番」作品43(1936)をお蔵入りさせて「交響曲第5番」作品47(1937)で形式主義者の汚名を雪いだ。ジダーノフ批判には、社会主義リアリズムの範たる大作、オラトリオ「森の歌」作品81(1949)で応えた。
社会主義リアリズムがソ連音楽に及ぼした影響について、フランシス・マース(1963~)は次のように述べている:「ソ連作品は何よりもまず『どのように』ではなく『何を』によって判断され、西側でなおも盛んであった様式的、技法的実験は、ソ連では不必要なものとして軽視された。代わりに、西側で伝統的な諸々の形式が放棄されていた一方で、ソ連音楽は19世紀の記念碑的な形式を人工的に蘇らせ続けた6)」。
ショスタコーヴィチは、宗教音楽を除く、いわゆるクラシック音楽のほぼ全分野に渡って作品を残している。とはいえ、彼の創作の中心が交響曲(と弦楽四重奏曲)にあったことに異論はないだろう。その発表の場がそれなりに大規模なイベントとなるが故に公的な注目度が高かった交響曲というジャンルに、ショスタコーヴィチがこだわり続けた理由は定かではないが、いずれにせよ、そこで「何を」表現しようとするかについて彼が無自覚であったはずはない。第5番以降の交響曲に限っていえば、具体的な副題の有無に関わらず、叙事的な物語性が明白である。それでいて、その物語は多義的である。リチャード・タラスキン(1945~2022)が言うように、ショスタコーヴィチの器楽作品は「緊張とカタルシスに満ち、象徴や前兆的な意味合いを豊かに備えていたが、解釈のための明示的な鍵を渡すことはなかった。それは国民の秘密の日記となった。しかしこの音楽をそうさせた原因は、作曲家が込めたものだけでなく、聴衆がそこから引き出したものに帰するべき7)」なのだろう。
バッハの標題性

社会主義リアリズムの立場から、音楽が「何を」描くべきかという問題について、1951年に発表されたショスタコーヴィチ名義の文章がある。「音楽の標題性は、(中略)わが国芸術の思想的内容の問題、芸術とわが国の社会主義的現実とのかかわりかたの問題である8)」。面白いのは、標題(的な)音楽の例として、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)の純器楽作品までも挙げている点である:「私にとって深く内容的、つまり標題的なのは以下の作品である。バッハのフーガ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲、ショパンの練習曲とマズルカ、グリンカの『カマリンスカヤ』、チャイコフスキー、ボロディン、グラズノフの交響曲、ミャスコフスキーのいくつかの交響曲など、ほかにも沢山ある。例えば、バッハの『平均律』第1巻嬰ハ短調のプレリュードとフーガの音楽にはっきりと感じられるのは、人間の悲しみを描いた、深く、ざわつかせる表現である。反対に、同巻嬰ハ長調のプレリュードとフーガには、個人的ではあるが、純真、素朴で楽しかった子供時代のイメージが浮かぶ8)」。
この背景には、バッハの純器楽曲に象徴的意味内容を読み込んだ音楽学者ボレスラフ・レオポルドヴィチ・ヤヴォルスキー(1877~1942)の影響が指摘されている9)。ゲンリヒ・グスタヴォヴィチ・ネイガウス(1888~1964)は、ヤヴォルスキーを「最も奥深くて、徹底してバッハに通暁していた研究家達10)」の一人として挙げている。ヤヴォルスキーとショスタコーヴィチは1925年にモスクワで知り合って以来親交を結び、交響曲第1番の初演などに際してヤヴォルスキーが支援を惜しまなかったような仲でもあった。

スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(1915~97)は次のように回想している:「古い伝統の源泉がロマン主義的なものだったせいで、ソ連ではバッハを弾くピアニストがほとんどいませんでした。《平均律クラヴィア曲集》はコンサートの演目にはけっして入りませんでした。オルガン曲をリストやブゾーニが編曲したものだけが市民権をもち、48の〈前奏曲〉と〈フーガ〉はただ音楽院の試験科目に適した曲とみなされていました。私以前に(のちにはマリア・ユージナがいますが)プログラムに入れたのは、サムイル・フェインベルクくらいしか思い当たりません。フェインベルクは(中略)バッハを我流に弾きました。バッハらしくなく、まるでスクリャービン晩年の作のように、おそろしく速く、正確に弾きました11)」。
リヒテルの師でもあったネイガウスは、ピアノ演奏の技術的要素の「最も大切で、ピアノ音楽では最もすばらしいもの」としてポリフォニーを挙げ、「私たちは決められたとおり、ポリフォニーの勉強をバッハの《アンナ・マグダレーナ》、《2声のインヴェンション》から始め、3声に移り、その後に《平均律クラヴィーア曲集》、《フーガの技法》へと移り、おそらくショスタコーヴィッチの《プレリュードとフーガ》で終わるでしょう」と述べている12)。後述するようにロシア・ピアニズムには4つの大きな流派があり、ネイガウスで全てを代表することはできないが、この伝統的な学習用教材の選択については、どの流派でも大きな差異はなかったものと思われる。ショスタコーヴィチも、グリャスセルの下で学び始めて2年後の1917年に「平均律クラヴィーア曲集」全曲を弾いたと伝えられている。
ソ連第一世代のピアニスト達が残した録音から、彼らがロシアの伝統的な音楽観に基づいてバッハの音楽にどのような標題性(ネイガウスに倣って「芸術的イメージ」と言い換えてもよいだろう)を見出していたのかについて思いを馳せるのも面白いだろう。
ピアニスト、ショスタコーヴィチ

ロシア・ピアニズムの系譜を辿ると、既に取り上げたネイガウスに加えて、アレクサンドル・ボリソヴィチ・ゴリデンヴェイゼル(1875~1961)、コンスタンチン・ニコラーエヴィチ・イグームノフ(1873~1948)、レオニード・ヴラディーミロヴィチ・ニコラーエフ(1878~1942)の4人に行き着く。ここにサムイル・エヴゲーニエヴィチ・フェインベルク(1890~1962)を入れることも少なくないが、フェインベルクはゴリデンヴェイゼル門下である。ニコラーエフだけがレニングラード音楽院教授で、他は皆モスクワ音楽院教授であった。ネイガウス以外の3人は、対位法の大家であったセルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ(1856~1915)に作曲を師事している。
ショスタコーヴィチは1919年にペトログラード音楽院のピアノ科に入学してアレクサンドラ・アレクサンドロヴナ・ローザノヴァ(1876~1942)のクラスで勉強を始めた。ローザノヴァはショスタコーヴィチの母ソフィア(1878~1955)の恩師でもあった。翌1920年からはニコラーエフのクラスに移った。後年、ショスタコーヴィチは当時のことを述懐している:「ピアノは、すぐれた教育家で立派な音楽家でもあったニコラーエフから教わった。彼はタネーエフの教え子だったのに、作曲法についても教えてくれないのが残念だった。けれども自分の作品を見せさえすれば、いつもきわめて貴重な注意と助言をしてくれた13)」。ショスタコーヴィチは「ピアノ・ソナタ第2番」作品61(1943)を、その前年に亡くなったニコラーエフの思い出に捧げている。
当時のニコラーエフのクラスには、ヴラディーミル・ヴラディーミロヴィチ・ソフロニツキー(1901~61)とマリヤ・ヴェニアミノヴナ・ユーディナ(1899~1970)という2人の天才が在籍していた。彼らは共に1921年の卒業試験でリストのピアノ・ソナタを演奏したが、それはショスタコーヴィチに強い印象を残したという14)。彼らの影響もあったのだろうが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」、第23番「熱情」、第29番「ハンマークラヴィーア」、リストの「巡礼の年」より「ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)」、バッハ=リストの「オルガンのための前奏曲とフーガ」第1番イ短調といった辺りが、当時のショスタコーヴィチのレパートリーだったようだ。1923年の卒業試験では、バッハの「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」第14番嬰ヘ短調 BWV 859を弾いている他、その前年辺りには「平均律クラヴィーア曲集 第2巻」第7番変ホ長調 BWV876のフーガをオーケストレイションしていることも併せると、ショスタコーヴィチ(あるいは師のニコラーエフ)のバッハに対する態度は、前述したリヒテルの言葉の通りだったように思われる。

ショスタコーヴィチのピアノ演奏は、技術よりも個性的な解釈によって特徴づけられたようだ。「生来の感情抑制だけでなく、堂々とした弾き方、人を惹き付けるリズム感あふれる力強い演奏15)」、「名演奏家が示すような表情の豊かさや芸術的な直観を欠く代わりに、オーケストラ音楽のピアノ・スコアを演奏するときのように、演奏自体よりも音楽そのものを提示するようであった16)」などといった評言は、現在聴くことのできる彼の録音から受ける印象に通じる。
1927年には、第1回ショパン・コンクールにソ連代表の1人として派遣されている。この選出にあたっては、ヤヴォルスキーの尽力があったらしい。結果は26人中7番目だったと伝えられており、入賞は逃したもののオノラブル・メンション・ディプロマ(選外佳作賞)を受けた。ここでも、「憂愁を湛えつつも堂々としており、サロン的気取りなどまったくなく、誠実そのもの、挑戦的ともいえるものだった」と評された17)。
リヒテルが、興味深い回想をしている:「彼(筆者注:ショスタコーヴィチ)の家で、手稿を見ながら第9交響曲も弾きました。彼との連弾は拷問でした。あるテンポで始めても、やがて加速したり減速したりしたからです。ペダルを踏むのは、低音部を弾く彼のほうでした。しかしペダルには何ら注意を払いませんでした。純然たる伴奏部分を含め、始終フォルティッシモで弾くので、主要動機を際立たせるためには、私のほうがいっそう強く弾く必要がありました18)」。
リヒテルがショスタコーヴィチと連弾をした1940年代後半には、ショスタコーヴィチは職業ピアニストとしての活動も訓練もしていなかったと言ってよい。技術的な精度の問題もさることながら、まさに「演奏自体よりも音楽そのものを提示するよう」な弾きぶりだったことがリヒテルを当惑させたのだろう。彼の頭の中で鳴っている音の全てが聴こえるように弾いた結果が、「始終フォルティッシモ」だったに違いない。
ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」作品87(1951)には、保続音が少なからず用いられている。これ自体は、たとえば「弦楽四重奏曲第4番」作品83(1949)の第1楽章などでも使われている手法で、特に珍しいわけではない。ただ、弦楽器やオルガンなどとは異なり、音が減衰するという性質を持つピアノという楽器にとって適した書法とは言い難い。たとえば、ショスタコーヴィチ自身の録音(1952年)が残されている第20番ハ短調の前奏曲について、自筆譜と出版譜、そして自作自演とを比較してみると、譜例のようなアーティキュレーションの揺れがある。これは、明らかに保続音を本来響いて欲しい強度で鳴らすための実際的な措置であろう(ちなみに、この曲集の全曲初演者であるタチアナ・ペトローヴナ・ニコラーエヴァ(1924~93)の録音(1962年)では、出版譜通りに弾かれている)。このような措置は、モイセイ・サムイロヴィチ・ヴァインベルク(1919~96)と2台ピアノで演奏した「交響曲第10番」作品93(1953)の録音(1954年)にも聴かれる。

「現代ピアノはディミヌエンドの楽器である」というセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873~1943)の定義をロシア・ピアニズムのポイント20)とするならば、ショスタコーヴィチはそのようなピアニズムの枠外でピアノ曲を作曲し、演奏したと言うことができるのかもしれない。
ショスタコーヴィチとフーガ

音楽院時代のショスタコーヴィチの有名なエピソードがある:「グラズノフは総じて演奏者の試験にはやさしく、しばしば5プラスをつけたが、作曲科の試験にはきびしく、気むずかしい、意地のわるいくらいのところがあった。(中略)忘れられないのは、フーガの試験のとき、ストレットのあるフーガをつくる出題のときのことだった。どう苦心してみてもうまくいかなかったので、とうとうストレットなしのフーガを出したが、点は5マイナスだった。ふつうそういうことは自分はしないのだが、それでも彼のところにいって話してみることにした。そしてわかったことは、わたしが清書のさい音符ひとつを書きちがったことだ。そのために全体が妙なぐあいになっていたのである。譜を書きちがえさえしなければ、グラズノフの問題から四度音程にも五度音程にも八度音程にも、じつにさまざまなストレットを書くことができ、また緩急、反進行などにもすることができるのだった。だがこの音符が正確に書かれていなければ、あらゆる可能性は失われてしまう。『この音符をまちがえたのなら、いいかね、その誤りに自分で気づいて、それを正さなければいけない』とグラズノフはいった21)」。
音楽院の作曲科でショスタコーヴィチは、対位法とフーガをニコライ・アレクサンドロヴィチ・ソコロフ(1859~1922)に師事した。作曲科の指導教官であったマクシミリアン・オセーエヴィチ・シテインベルク(1883~1946)、そして音楽院の院長であったアレクサンドル・コンスタンティノヴィチ・グラズノフ(1865~1936)は、いずれもニコライ・アンドレーエヴィチ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908)が牽引したベリャーエフ・グループの一員であった。「力強い一団(ロシア五人組)」のリムスキー=コルサコフはグラズノフの前任の院長、シテインベルクはリムスキー=コルサコフの娘婿(彼の結婚を祝い、イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882~1971)は管弦楽曲「花火」(1909)を書いた)である。このような系譜を背景に、アカデミックな伝統に固執22)して作曲技術・技能の向上23)を目指したベリャーエフ・グループの理念の下で、ショスタコーヴィチは作曲法を習得していった。ちなみに、ベリャーエフ・グループの成果の一つである弦楽四重奏曲集「金曜日の曲集(Les Vendredis)」には、グラズノフの「前奏曲とフーガ」、ソコロフの「カノン」が収められている。

ショスタコーヴィチの作品目録を眺めると、「フーガ」と題された作品は作品87以外に音楽院時代の1923年頃の作とされる「7つのフーガ」と1934年の「4つのフーガ」しかない。音楽院時代のフーガは課題として書かれたもので特に興味を惹かれる点はないが、1934年のフーガには注目すべき点がいくつかある。
まずは、作曲の動機である。当時の不倫相手であったエレーナ・エフセーエヴナ・コンスタンチノフスカヤ(1914~75)に送った1934年7月26日の手紙には、次のように記されている:「何も作曲できません。ほかに何も手につかないので、毎日、1曲ずつフーガを書いていくことにしました。すでに3つを書き上げました。とても悪い出来です。そんなわけで自分を不幸だと感じています。ともなく、何もしないで『休息』しているより、夢中になり、ぶっつづけに、息つくひまなく仕事をしていたほうがずっといい24)」。つまり、一種の手慰みで書き始めた、ということになる。
次に、各曲の調性である。第1曲ハ長調-第2曲イ短調-第3曲ト長調-第4曲ホ短調という配列は、明らかにフレデリック・ショパン(1810~49)の「24の前奏曲」作品28(1839)、そしてショスタコーヴィチ自身の「24の前奏曲」作品34(1933)、そして作品87と同様のシステマティックなものである。
結局、第4曲は未完に終わり、続きが書かれることはなかった。しかしながら第2曲の主題は交響曲第4番に流用され(第3楽章練習番号191)、さらには作品87の第2曲フーガでも主題として使われている。未完の第4曲を除く3曲は、DSCH社の新全集第109巻(2018)にて出版された。
「弦楽八重奏のための2つの小品」作品11(1925)では、第1曲の前奏曲に続く第2曲としてフーガが構想されていたものの「技巧に走った作品を作るのは私の領分ではありません」と言って、結局スケルツォとなった25)こともあったようだが、ショスタコーヴィチが必ずしもフーガの形式を忌避していたわけではない。「ピアノ五重奏曲」作品57(1940)の第2楽章をはじめとして、「交響曲第2番」作品14(1927)のウルトラ・ポリフォニー、「交響曲第4番」の第1楽章展開部、「交響曲第13番」作品113(1962)の第5楽章中間部、オラトリオ「森の歌」の第7楽章など、ショスタコーヴィチがフーガを駆使した例は枚挙に暇がない。
24の前奏曲とフーガ

その起源について筆者は寡聞にして知らないが、「前奏曲とフーガ」という組み合わせ自体はバッハ以前からあった。しかしながら、長調と短調の全てである24の調性で「前奏曲とフーガ」を書こうという企ては、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」が最初である。全ての調性を使った24曲の曲集は、その後カール・チェルニー(1791~1857)が「48の前奏曲とフーガ」作品856(1857)を作ってはいるものの、ネイガウスが「ポリフォニーをマスターするために、カール・チェルニーのフーガを弾くなんて、ほんとうに誰にも思いつかないでしょう12)」と揶揄しているように、それはとてもバッハに比肩し得る作品ではなかった。
形式的に自由度の高い前奏曲だけならば、ショパンの作品28以降、アレクサンドル・ニコラーエヴィチ・スクリャービン(1872~1915)の作品11(1888)や、ショスタコーヴィチの作品34、一つの曲集として構想・発表されたものではないがラフマニノフの作品群(「幻想的小品集」作品3第2曲(1892)、「10の前奏曲」作品23(1903)、「13の前奏曲」作品32(1910))などが全ての調性を網羅した曲集となっている(ドビュッシーの「前奏曲集」第1集(1910)および第2集(1913)も24曲ではあるが、全ての調性が割り振られているわけではない)。ちなみに、ショパン、スクリャービン、ショスタコーヴィチの曲集の配列は、全て同じである。
フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)(6曲;作品35(1827))、マックス・レーガー(1873~1916)(6曲;作品99(1906))、タネーエフ(1曲;作品29(1910))、グラズノフ(5曲;作品62(1895)、作品101(1923))といった辺りがロマン派以降のよく知られた「(ピアノのための)前奏曲とフーガ」であるが、いずれも24曲には遠く及ばないし、そもそも24曲を目指していたとも思われない。
「平均律クラヴィーア曲集」に続く体系的な作品としてよく知られているのは、パウル・ヒンデミット(1895~1963)の「ルードゥス・トナリス」(1942)である。この作品は、ヒンデミットの調性に関する理論に基づく12曲のフーガとその前後に置かれた前奏曲、間奏曲、後奏曲との計25曲で構成されている。
近年、フセヴォロド・ペトローヴィチ・ザデラツキー(1891~1953)が1937~9年にシベリアの強制労働収容所の獄中で電報用紙や方眼紙に書き付けた「24の前奏曲とフーガ」が発掘された(2015年初演)。時系列で言えば、この作品の方がヒンデミットに先んじていたことになるが、最近までその存在すら知られていなかったのだから、当然、後世への影響という点での音楽史的な意味合いは持ち得ない26)。なお、この曲集の配列もショパン式である。
ショスタコーヴィチの作品87

1950年7月、ショスタコーヴィチはライプツィヒで開催されたバッハ没後200年祭にソ連代表団長として参加した。一連の祝賀行事の一環として開催された第1回ヨハン・ゼバスティアン・バッハ国際コンクール(第2回は1964年で、以後、概ね4年ごとに開催されている)では、ゴリデンヴェイゼル門下のニコラーエヴァが優勝した。
この時にバッハの音楽から受けた強い印象が、ショスタコーヴィチを「前奏曲とフーガ」に向かわせたと考えられている。当初は1934年のフーガと同様、「自分の腕を落とさないよう」1日に前奏曲とフーガを1組作曲する27)計画だったようだ。1950年10月10日に第1番前奏曲を仕上げた後、およそ3日に1曲の割合で書き進め、1951年2月25日に第24番フーガを完成させた。音楽祭をきっかけに親交を結んだニコラーエヴァには、1曲仕上がる度に聴かせたと言われている。当初から24曲を目指していたとは言い難いものの、少なくとも、うまくいけば全24曲にしようという色気があったことは、ショパン式の調性配列を見れば明らかだ。
全曲の完成から間もない3月31日、ショスタコーヴィチは前半の12曲を作曲家同盟で公開演奏した。ショスタコーヴィチの演奏は褒められたものではなかったらしいが、それ以上にジダーノフ批判下のソ連音楽界では、こうした純器楽的な多声音楽は理想主義的傾向あるいは形式主義的傾向にあるとして厳しく批判され、出版は見送られた。
一方で演奏家からの評価は高く、同年12月にはエミール・グリゴリエヴィチ・ギレリス(1916~85)が第1、5、24番の3曲をコンサートで取り上げた。時を同じくして12月6日にはショスタコーヴィチ自身も抜粋(第1、3、5、23番)を録音している。翌1952年2月には第2、4、6、7、8、12、13、14、16、20、22、24番を録音し、全体の3分の2の初録音を自身の手で果たした。ショスタコーヴィチが1958年にパリで録音した際に第18番が新たに追加されたものの、残る7曲(第9、10、11、15、17、19、21番)については、ショスタコーヴィチ自身による録音は残されていない。
1952年夏に、ショスタコーヴィチには内緒でニコラーエヴァが芸術問題委員会において再演したことで、ようやく出版が許可された。これはニコラーエヴァの功績でもあるが、ショスタコーヴィチによる公開演奏から約1年半の間の音楽界における反応を見た上での追認という側面もあるだろう。そして第1番に着手してから2年の歳月が経った1952年12月23日と28日の2日間に渡って、ニコラーエヴァによる全曲初演が行われた。出版譜を手に入れたネイガウスはショスタコーヴィチに電話をかけ、第2集を期待していると伝えたらしいが、ショスタコーヴィチは笑いながら「絶対作らない」と答えた28)という。

ニコラーエヴァは全24曲を通して演奏されるべきだというのがショスタコーヴィチの考えだったと述べている28)ようだが、それはともかくとして、演奏家には全曲を弾いて欲しいという希望を持っていたことは確かなようだ。リヒテルはこうぼやいている:「彼は、私が24曲全曲を弾くことを希望していました。気を悪くする理由などないのです。私としては自分が好きなものを弾いていたのですから。気に入らないものを弾く必要などどこにありましょう。しかし彼はそれで気分を損ねました29)」。
作品87には、前述した1934年のフーガからの引用(第2番フーガ)の他に、オラトリオ「森の歌」からの引用(第1番フーガ=第1楽章バスの歌い出し、第7番フーガ=第7楽章フーガ主題)があるものの、叙事的な意味が込められているとは考えづらい。ただ、ショスタコーヴィチがバッハに聴いたのと同種の標題性を感じ取ることは、そう難しくないだろう。その意味で作品87は、敢えて形式主義と批判されそうな形式で社会主義リアリズム的な内容を表現しようとした、ショスタコーヴィチの野心作と言うことができるかもしれない。
ショスタコーヴィチ以降、旧ソ連の範囲に限ってもロディオン・コンスタンティノヴィチ・シチェドリン(1932~)の「24の前奏曲とフーガ」(第1巻(1964)、第2巻(1970))、ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・ポルトラツキー(1949~1985)の「12の前奏曲とフーガ」作品16・17(1967~71)、セルゲイ・ミハイロヴィチ・スロニムスキー(1932~2020)の「24の前奏曲とフーガ」(1994)、ニコライ・ギルシェヴィチ・カプースチン(1937~2020)の「24の前奏曲とフーガ」作品82(1997)など、「前奏曲とフーガ」は作られ続けている。ショスタコーヴィチが時代の制約の中で活用した伝統的な形式は、現代においても作曲家の創作意欲を刺激しているようだ。
引用文献
1) ファーイ,L. E.・藤岡啓介・佐々木千恵(訳):ショスタコーヴィチ ある生涯,アルファベータ,2002,p.29.
2) ファーイ,L. E.:前掲書,p.132.
3) ソルジェニーツィン,A.・染谷 茂・原 卓也(訳):仔牛が樫の木に角突いた ―ソルジェニーツイン自伝,新潮社,1976,p.232.
4) ハンスリック,E.・渡辺 護(訳):音楽美論,岩波文庫,青310,1960,p.185.
5) 古在由重・蔵原惟人(編):リアリズム研究,白楊社,1949,p.49.
6) マース,F.・森田 稔・梅津紀雄・中田朱美(訳):ロシア音楽史 《カマーリンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで,春秋社,2006,pp.410~417.
7) マース,F.:前掲書,p.568.
8) グリゴーリエフ,L.・プラテーク,Ja.(編)・ラドガ出版所(訳):ショスタコーヴィチ自伝 時代と自身を語る,ナウカ,1983,p.189.
10) ネイガウス,H.・森松皓子(訳):ピアノ演奏芸術 ある教育者の手記,音楽之友社,2003,p.183.
11) モンサンジョン,B.・中地義和・鈴木圭介(訳):リヒテル,筑摩書房,2000,p.90.
12) ネイガウス,H.:前掲書,p.179.
13) グリゴーリエフ,L.・プラテーク,Ja.:前掲書,p.349.
14) 千葉 潤:ショスタコーヴィチ,音楽之友社,2005,p.20.
15) ファーイ,L. E.:前掲書,p.35.
16) 千葉 潤:前掲書,p.21.
17) 佐藤泰一:ショパン・コンクール1927-2000 若きピアニストたちのドラマ,春秋社,2022,pp.23~24.
18) モンサンジョン,B.:前掲書,p.186.
19) Moshevich, S.:Dmitri Shostakovich: Pianist, McGill-Queen's University Press, Canada, 2004.
20) 一柳富美子:ラフマニノフは、本当に「時代遅れのロマン派」か? ロシア音楽史の視点から,ユリイカ,40(6),2008,pp.145~151.
21) グリゴーリエフ,L.・プラテーク,Ja.:前掲書,pp.349~350.
22) 千葉 潤:前掲書,p.21.
23) 日本・ロシア音楽家協会(編):ロシア音楽事典,河合楽器製作所・出版部,2006,p.315.
24) ヘーントワ,S.・亀山郁夫(訳):驚くべきショスタコーヴィチ,筑摩書房,1997,p.131.
25) ファーイ,L. E.:前掲書,p.223.
27) ファーイ,L. E.:前掲書,p.223.
28) ファーイ,L. E.:前掲書,p.226.
29) モンサンジョン,B.:前掲書,p.187.

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連続リサイタル《をろしや夢寤 Сны о России》
P.I.チャイコフスキー(1840-1893):
●ピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23冒頭(1875/1942) [P.グレインジャー編独奏版] 4分
●交響曲第4番ヘ短調Op.36 (1878) 45分
I. Andante sostenuto - Moderato con anima - II. Andantino in modo di Canzona - III. Scherzo. Pizzicato ostinato. Allegro - IV. Finale. Allegro con fuoco
●《「ドゥムカ」 ハ短調 ~ロシアの農村風景 Op.59》(1886) 7分
●交響曲第5番ホ短調Op.64 (1888) 50分
I. Andante/Allegro con anima - II. Andante cantabile con alcuna licenza - III. Valse. Allegro moderato (#) - IV. Finale. Andante maestoso/Allegro vivace
●バレエ音楽《胡桃割人形》より「花のワルツ」Op.71 (1892) [S.タネーエフ編独奏版] 7分
●交響曲第6番ロ短調『悲愴』Op.74 (1893) 45分
I. Adagio/Allegro non troppo - II. Allegro con grazia - III. Allegro molto vivace (#) - IV. Adagio lamentoso
[ヘンリク・パフルスキ(1859-1921)編曲によるピアノ独奏版(1897/1901)]
[(#)... サムイル・フェインベルク(1890-1962)によるピアノ独奏版(1942)]
S.V.ラフマニノフ(1873-1943):
●前奏曲ヘ長調 Op.2 (1891) 3分
●24の前奏曲集 Opp.3-2 / 23 / 32 (1892-1910) 70分
I. Largo /Agitato 嬰ハ短調 - II. Largo 嬰ヘ短調 - III. Maestoso 変ロ長調 - IV. Tempo di minuetto ニ短調 - V.Andante cantabile ニ長調 - VI. Alla marcia ト短調 - VII. Andante 変ホ長調 - VIII. Allegro ハ短調 - IX. Allegro vivace 変イ長調 - X. Presto 変ホ短調 - XI. Largo 変ト長調 - XII. Allegro vivace ハ長調 - XIII. Allegretto 変ロ短調 - XIV. Allegro vivace ホ長調 - XV. Allegro con brio ホ短調 - XVI. Moderato ト長調 - XVII. Allegro appassionato ヘ短調 - XVIII. Moderato ヘ長調 - XIX. Vivo イ短調 - XX. Allegro moderato イ長調 - XXi. Lento ロ短調 - XXII. Allegretto ロ長調 - XXIII. Allegro 嬰ト短調 - XXIV. Grave 変ニ長調
■山口雅敏(1976- ):《エピタフィア Эпитафия》(2022、委嘱初演) 7分
●9つの練習曲集《音の絵(第1輯) Op.33》(1911) 24分
I. Allegro non troppo ヘ短調 - II. Allegro ハ長調 - III. Grave ハ短調 - IV. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(初版)〉 - V. Moderato ニ短調 - VI. Non Allegro / Presto 変ホ短調 - VII. Allegro con fuoco 変ホ長調〈市場の情景〉- VIII. Moderato ト短調 - IX. Grave 嬰ハ短調
●前奏曲ニ短調(遺作) (1917) 2分
●9つの練習曲集《音の絵(第2輯) Op.39》(1917) 38分
I. Allegro agitato ハ短調 - II. Lento assai イ短調〈海とかもめ〉- III. Allegro molto 嬰へ短調 - IV. Allegro assai ロ短調 - V. Appassionato 変ホ短調 - VI. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(改訂版)〉- VII.Lento lugubre ハ短調〈葬送行進曲〉- VIII. Allegro moderato ニ短調 - IX. Allegro moderato, Tempo di marcia ニ長調〈東洋風行進曲〉
[使用エディション:ラフマニノフ新全集版(2017)]
S.S.プロコフィエフ(1891-1953):
●《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分
●ピアノ協奏曲第2番ト短調第1楽章 Op.16-1 (1913/23) [独奏版] 10分
●スキタイ組曲「アラとロリー」 Op.20 より〈邪神チュジボーグと魔界の瘧鬼の踊り〉(1915/2016) [米沢典剛による独奏版、初演] 3分
●ピアノソナタ第3番イ短調 Op.28「古い手帳から」(1907/1917) 8分
■ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82 「戦争ソナタ」(1940) 27分
I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Tempo di valzer, lentissimo - IV. Vivace
■ピアノソナタ第7番変ロ長調 Op.83「スターリングラード」(1942) 18分
I. Allegro inquieto - II. Andante caloroso - III. Precipitato
■ピアノソナタ第8番変ロ長調 Op.84「戦争ソナタ」(1944) 30分
I. Andante dolce - II. Andante sognando - III. Vivace
松涛サロン(東京都渋谷区)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]
●ジョナサン・パウエル(1969- ):委嘱新作初演(2023)
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《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版]、交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版]、歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版)、《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873)、《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876/全12曲)、《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版]、《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版]、《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]

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<cf.>
●《ピアノで弾くバッハ Bach, ripieno di Pianoforte》(全8回) 第1回(平均律第1巻)・第2回(平均律第2巻)・第3回(6つのパルティータ)・第4回(ゴルトベルク変奏曲、フランス序曲、イタリア協奏曲)・第5回(イギリス組曲)・第6回(フランス組曲)・第7回(インヴェンションとシンフォニア、4つのデュエット他)・第8回(音楽の捧げ物、フーガの技法) [2012.4.21~2015.01.17]
●ピアノでバッハをどう弾くか(その1) [2008.10]、(その2) [2014.7.19]、 (その3)[2015.01.17]
●クラヴィコード公演《平均律第1巻》プログラム・ノート [2005.02.01]
●クラヴィコード公演《平均律第2巻》プログラム・ノート 「平均律と吉本漫才の比較論」 [2006.08.20]
●バッハ:クラヴィア練習曲集全4巻連続演奏会 (その1・その2) (チェンバロ+オルガン)[2009.09.11]
●チェンバロ公演《イギリス組曲全曲》 [2010.03.03]
●チェンバロ公演《フランス組曲全曲》 [2010.03.01]
●ピアノでバッハをどう弾くか(その1) [2008.10]、(その2) [2014.7.19]、 (その3)[2015.01.17]
●クラヴィコード公演《平均律第1巻》プログラム・ノート [2005.02.01]
●クラヴィコード公演《平均律第2巻》プログラム・ノート 「平均律と吉本漫才の比較論」 [2006.08.20]
●バッハ:クラヴィア練習曲集全4巻連続演奏会 (その1・その2) (チェンバロ+オルガン)[2009.09.11]
●チェンバロ公演《イギリス組曲全曲》 [2010.03.03]
●チェンバロ公演《フランス組曲全曲》 [2010.03.01]
●G.フレスコバルディ(1583-1643):《音楽の花束》(3つのオルガン・ミサ)(中全音律バロック・オルガン)[2015.03.28]

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●A.N.スクリャービン:ソナタNo.2/3/4/5 + ラフマニノフ:ソナタNo.2 [2019/07/20]
●A.N.スクリャービン:後期全ピアノ曲(ソナタNo.6/7/8/9/10他) [2019/12/20]
●A.N.スクリャービン:交響曲第4番《法悦の詩》 + ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(2台ピアノ版) [2014/09/12]
●A.N.スクリャービン:交響曲第5番《プロメテウス》《ピアノ協奏曲》(2台ピアノ版) [2019/05/31]
●I.F.ストラヴィンスキー:《詩篇交響曲》《カプリッチョ》《ムーヴメンツ》他(2台ピアノ版) [2018/05/25]
●I.F.ストラヴィンスキー:《結婚》《春の祭典》《4つのエチュード》(2台ピアノ版) [2016/09/22]
●N.Y.ミャスコフスキー:《チェロソナタ第1番》《同第2番》 [2015/02/06]
●G.I.ウストヴォリスカヤ:ピアノソナタ全6曲 + ショスタコーヴィチ:ピアノソナタ第1番 [2017/11/04]
●G.I.ウストヴォリスカヤ:ピアノソナタ全6曲 + ショスタコーヴィチ:ピアノソナタ第1番 [2017/11/04]