松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
【ポック(POC)#50】 2023年2月18日(土)19時開演(18時半開場)〈ラヴェル傑作撰〉
■モーリス・ラヴェル(1875-1937):《鐘の鳴る中で》(1897/2023) [米沢典剛による独奏版、初演] 3分
■《水の戯れ》(1901) 6分
■《鏡》(1904/05) 27分
I.夜蛾 - II.悲しい鳥たち - III.海原の小舟 - IV.道化師の朝の歌 - V.鐘の谷
■《夜のガスパール - アロイジュス・ベルトランによるピアノのための三つの詩》(1908) 23分
I.水の精 - II.絞首台 - III.スカルボ
(休憩10分)
●浦壁信二(1969- ):《断想 - 墓》(2023、委嘱新作初演) 7分
■M.ラヴェル:《高雅で感傷的なワルツ》(1911) 15分
I.中庸に - II.かなり緩やかに - III.中庸に - IV.生き生きと - V.ほとんど緩やかに - VI.活発に - VII.やや落ち着いて - VIII.終曲
■《クープランの墓》(1914-17) 25分
I.前奏曲 - II.フーガ - III.フォルラーヌ - IV.リゴードン - V.メヌエット - VI.トッカータ
■《ドビュッシーの墓》(1920/2020) [米沢典剛による独奏版、初演] 4分
■《ロンサールの墓》(1924) 2分
■《スペイン狂詩曲》(1908/1923) [カイホスルー・ソラブジによる独奏版、初演] 17分
I. 夜への前奏曲 - II. マラゲーニャ - III. ハバネラ - IV. 祭り
〔使用エディション: ロジャー・ニコルス校訂による原典版(Edition Peters, 1991/2008)〕
浦壁信二:《断想 - 墓》(2023、委嘱初演)
大井浩明氏と2台ピアノをご一緒させて頂くようになって、もう10年近くになる。大井氏は常に膨大な情報を頭の中に携えていて私のような少ない情報を何とか回して目の前の予定を乗り切ろうとし続ける人間にはない発想があり、ここ数回のピアノ弾きに作曲の依頼をするというアイディアもその中の一つ。何故自分にお話しを頂いた時に99%の困惑の中で僅かばかり"面白がって"しまったのか…未だに自分でも分からない。高校生の頃は曲がりなりにも作曲科に在籍しながら、その後わずかな例外を除いて創作から身を退こうと決意した頃の記憶が新鮮味を持って蘇ってきた。時間の経過は苦い想い出も懐しさにすり替える…。(浦壁信二)
浦壁信二 Shinji URAKABE, composer
1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ'12年CD「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。
モーリス・ラヴェル素描――野々村 禎彦
モーリス・ラヴェル(1875-1937) の創作歴は、《マ・メール・ロワ》(1908-10/11-12) とオペラ《子供と魔法》(1917-25) で大きく3つに区切られる。どちらも子供の夢の世界を描いた作品なのは偶然ではないだろう。《マ・メール・ロワ》以前はクロード・ドビュッシー(1862-1918) と競い合って「印象主義」の語法を発展させた時期、《子供と魔法》以降はイゴーリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) が「スイスの時計職人」と評した管弦楽法の技術それ自体が音楽の主目的になる時期であり、彼らしさが最も表れているのは両者の中間の時期である。だが、彼の代表作と広く看做されている作品は専らその前後の時期に書かれており、このような受容のあり方が彼の素顔が見えにくくなっている大きな要因と言えるだろう。
彼はドビュッシー同様、まずパリ音楽院のピアノ科に入学した。ドビュッシーは一等賞は取れそうにないと早々に諦めて作曲科に移り、作風が固まる前の22歳でローマ賞を受賞したが、彼はなまじ一等賞を取ったため、同世代のリカルド・ビニェス(1875-1943) やアルフレッド・コルトー(1877-1962) に演奏では敵わないと見切りをつけるまでピアノを学び続けた。後に管弦楽化する《古風なメヌエット》(1895) や《ハバネラ》(1895) を書いた時点でも彼はまだピアノ科に在籍しており、結局1897年に作曲科に入り直してガブリエル・フォーレ(1845-1924) に師事した。2台ピアノのための《ハバネラ》と《鐘が鳴る中で》(1897)(組曲《耳で聴く風景》として出版)で作曲家デビュー、管弦楽のための《シェヘラザード序曲》(1898) を自ら指揮して国民音楽協会デビューと、滑り出しは順調。また、《ハバネラ》の書法に興味を示したドビュッシーに譜面を貸したのが、長い因縁の始まりになった。
しかし、1900年から応募し始めたローマ賞には縁がなかった。1905年まで5回応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリ音楽院入学以前から親交を結んでいたスペイン人ピアニスト、ビニェスが「アパッシュ(=ごろつき)」と名付けた芸術家集団の中心人物だったことも、審査員の心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェヘラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査体制が誤っている証拠だという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれた(ラヴェル事件)。フォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現した。彼にとっても受賞以上の「実績」になった。
当時のパリで「進歩的」なピアノ曲が演奏される機会は、国民音楽協会で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《水の戯れ》はドビュッシー《ピアノのために》(1901) の3ヶ月後に初演され、ドビュッシーが10年余り慣れ親しんできた書法を過去のものにした。《映像第1集》初稿(1901) の〈水の反映〉では《水の戯れ》の流動するフォルムに太刀打ちできないので撤回し、新たなピアノ書法を模索した結果が《版画》(1903) だった。アルベニス作品を中心に手持ちの素材を寄せ集めており、その中には彼から借りた《ハバネラ》の、このキューバ生まれの舞曲の本質は固定音の使用だと捉えた着想も含まれる。だが、彼はこれを参照ではなく盗用だと受け取り、ドビュッシーは仰ぎ見る先輩から乗り越えるべきライバルになった。
《水の戯れ》は《亡き王女のためのパヴァーヌ》(1899) と同じ演奏会で初演され、大半の批評家や聴衆は聴きやすい《パヴァーヌ》の方を支持した。この時《水の戯れ》を称賛した数少ない批評家が、ドビュッシーを熱烈に支持してきたピエール・ラロ(1866-1943, 《スペイン交響曲》のエドゥアール・ラロの息子) だった。しかし彼は、ラロが《版画》の書法の新しさを絶賛した時、「私は《水の戯れ》を1901年に書いたが、ドビュッシーが同年に書いた《ピアノのために》にはそのような新しさは何もなく、先駆者は私だ」という書簡を送って抗議した。この一件以来、ラロは彼を敵視して執拗に批判するようになる。なお、ここで問題になっている「新しさ」とはあくまで「印象主義的」な書法のことで、レイヤー書法のことではない。伝統的な対位法では処理できない不均質な素材も、複数のレイヤーに配置して時間軸上で重ね合わせれば処理できる、というアルベニスの民俗音楽素材の処理手法を拡張したこの書法が《版画》以降のドビュッシーの本質だが、あまりに斬新で同時代には理解されなかった(ラヴェルにも、その後の大半の演奏家にも)。
この後もビニェスがふたりの作品を交互に初演する状況は続き、彼はドビュッシーに粘着し続けた。《鏡》(1904-05) の5曲はそれぞれ「アパッシュ」のメンバーに捧げられているが、《ピアノのために》以降にドビュッシーが書いた《版画》・《仮面》(1904)・《喜びの島》(1904) の5曲に対応し、特に固定音を参照した〈グラナダの夕暮れ〉と〈道化師の朝の歌〉・この5曲中で最も華やかな《喜びの島》と〈海原の小舟〉の対応は明確で、この2曲は後に管弦楽化されている。また《版画》・《映像第1集》(1901-05)・《映像第2集》(1907) で繰り返された3曲セットの性格対比(エキゾティックな旋法で特徴付けられる第1曲・アルカイックで内省的な第2曲・名技的な反復運動で特徴付けられる第3曲)は《夜のガスパール》(1908) でも踏襲され、因縁の固定音の魅力を生かした〈絞首台〉をはじめ、コンサートピースとしてのポピュラリティではドビュッシーを乗り越えた。他方、この時期の彼のピアノ曲で最も彼らしいのは擬古典的な《ソナチネ》(1903-05) であり、ドビュッシーを強く意識した創作は彼のピアノ曲の質も大幅に引き上げた。
《夜のガスパール》の前年には初のオペラ《スペインの時》(1907) と初の本格的な管弦楽曲《スペイン狂詩曲》(1907, 因縁の《ハバネラ》の管弦楽版を含む) も書き上げており、彼は波に乗っていた。そんな時、バレエ・リュスを立ち上げたばかりのセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929) から委嘱が舞い込む。振付師ミハイル・フォーキン(1880-1942) の台本による《ダフニスとクロエ》である。バレエ・リュスの総力を注ぎ込み、1910年シーズン最大の呼び物になるはずだった。いよいよ管弦楽曲でもドビュッシーを乗り越える時が訪れたと見て、彼は《夜想曲》(1897-99) の2台ピアノ編曲を1909年、《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) の連弾編曲を1910年に行い、その管弦楽法を身に付けようとした。さらに彼は1910年に、設立者フランクの死後はダンディらが仕切って保守化した国民音楽協会に反旗を翻して独立音楽協会を設立し、フランスにおける「進歩派代表」の地歩を固めてゆく。
だが、《ダフニス》の作曲は予定通りには進まなかった。彼とフォーキンの思い入れを乗せて、4管編成に合唱も加わった編成で1時間近い大曲になり、完成は1912年シーズンにずれ込んだ。この2年は決定的で、《ダフニス》に代わってストラヴィンスキーの《火の鳥》(1909-10) が1910年シーズンの話題をさらい、翌シーズンも《ペトルーシュカ》(1910-11) が好評で、このロシアの新進作曲家はたちまち時代の寵児になった。ドビュッシーもストラヴィンスキーの才能に魅せられて親交を結び、バレエ・リュスとの距離も縮まった。《ダフニスとクロエ》(1909-12) がようやく初演された1912年シーズンにはディアギレフはこの作品に興味を失っており、公演の目玉はドビュッシーの旧作を用いた《牧神の午後》になっていた。ニジンスキーのスキャンダラスな振付で完売した《牧神》の追加公演のために《ダフニス》の上演回数は削られ、憤慨したフォーキンはこの公演を最後にバレエ・リュスを去った。
バレエ音楽としての《ダフニス》は幸福な運命を辿らなかったが、したたかなラヴェルは第1組曲(1911)・第2組曲(1912) という抜粋管弦楽曲もまとめており、特に第2組曲は今日でも演奏機会が多い。ともあれ、「旋律と伴奏」として理解できて古典的楽曲分析に収まる、様式化・標準化が可能な範囲の(すなわち、《海》(1903-05) 以前の)ドビュッシーの管弦楽法を集大成して乗り越えるという目論見は《ダフニス》で果たされ、今日の商業音楽教程の最終段階にあたる映画音楽の管弦楽法で「印象主義」とされるのは、この時に完成されたラヴェルの管弦楽法に他ならない。《ダフニス》の作曲の遅れのために時系列は前後しているが、彼にとって「ドビュッシーを乗り越えた」ことで因縁は一段落し、彼の創作歴は新しいフェーズに入る。
《マ・メール・ロワ》連弾版(1908-10) は、独立音楽協会第1回演奏会で初演された。ドビュッシー《子供の領分》(1906-08) は幼い娘に捧げたわかりやすいピアノ曲集というコンセプトだったが、さらに徹底して子供でも弾ける技術水準でまとめた曲集であり、実際に子供ふたりが初演した(当初の予定では幼児ふたりによる初演だったが、さすがに無理で急遽交替)。この曲には管弦楽版(1911)・バレエ音楽版(1911-12) もあり、極めてシンプルな原曲が管弦楽法の妙で味わいを増すところまでコンセプトになっている。チェリビダッケやブーレーズのようなうるさ方も好んで取り上げているのは、連弾版で素材を絞り込む過程で彼の音楽の核になる要素だけが抽出され、広大な余白が管弦楽法の技術の格好の展示場になった相乗効果の結果である。
《高雅で感傷的なワルツ》ピアノ版(1911) は、独立音楽協会の作曲者当てクイズ企画のために書かれた。企画意図に沿って個性を隠した書法は、玄人の多い客層の受けはいまひとつだったが、管弦楽版(1912) で個性が見えてくるあたりもコンセプトのうちだろう。《マ・メール・ロワ》同様、管弦楽化を前提にしたピアノ曲というあり方は、《前奏曲集》(1909-10/11-13) でピアノでなければ表現できない音世界に向かったドビュッシーとは対照的で、この後もふたりの距離はさらに開いてゆく。ただし《マラルメの3つの詩》(1913) は、シェーンベルク《月に憑かれたピエロ》(1912) の影響下に書かれたストラヴィンスキー《日本の3つの抒情詩》(1912-13) の影響下に書かれ、独自ルートでヴェーベルンを思わせる境地に達したドビュッシー《マラルメの3つの詩》(1913) の音世界と再び交錯した。全く独立に選んだ詩も3曲目以外は一致しており、実はふたりの芸術嗜好は近いことを窺わせる。
《ピアノ三重奏曲》(1914) は、古典的形式にモダンな和声を盛り込む彼らしさ全開の代表作。その路線で《ソナチネ》の水準に留まらなかったのは、ドビュッシーと競い合った数年間で彼の音楽が底上げされた賜物である。作曲中に第一次世界大戦が始まり、志願するために短期間で集中して書き上げたことも、作品の質に寄与しているかもしれない。空軍のパイロットに志願したが叶わず、翌1915年から陸軍のトラック輸送兵として従軍した。塹壕戦移行後の戦線は膠着し、主な攻撃対象は輸送部隊という状況下で心身は消耗し、アメーバ赤痢や凍傷にも苦しみ、従軍中は作曲は全くできなかった。健康を損ねた彼は手術を受けるために1916年秋にパリに移送されたが、術後療養中の1917年1月に母を亡くすと深い悲しみに沈み、春には除隊した。
同年末に、従軍前に書き溜めた素材をまとめたのが《クープランの墓》ピアノ版(1914-17) である。フランス・バロック鍵盤音楽に立ち返った方向性は新古典主義期のドビュッシーと共通する。「墓」なのは6曲それぞれが大戦で戦死した友人たちに捧げられているからである。管弦楽版(1919) が作られたのは4曲に留まり、この曲集は管弦楽化を前提に書かれたわけではなさそうだ。彼が母の死から立ち直るにはさらに数年を要した。本格的復帰作となったのは、「ウィンナ・ワルツによるバレエ音楽」という1917年のディアギレフの委嘱にようやく応えた《ラ・ヴァルス》(1919-20) である。だがディアギレフは「バレエ向きの音楽ではない」として受け取りを拒否し、ふたりは決裂した。以後は会っても握手も交わさない間柄になったという。
彼はこの頃から急速に半音階的書法に傾斜した。例えば2台ピアノ5手のための《口絵》(1918) は、調性感の希薄なカオスの提示に終始し、同時期のロシア・アヴァンギャルド作品と言われた方がしっくり来る(ただし新ウィーン楽派の影響を間接的に受けた《マラルメの3つの詩》という先行作がある)。彼のこの変化の由来は、師フォーレが《ヴァイオリンソナタ第2番》(1916-17) 以降、一貫して半音階的書法を用い続けたことである。師を終生リスペクトし続けた弟子が、70歳を過ぎて荒波に漕ぎ出した師の挑戦の影響を受けないはずがない。しかもこの方向性はモダニズムの時代様式とも合致している。《ラ・ヴァルス》冒頭、カオスの中からウィンナ・ワルツが生まれてくるような表現にもこの書法は応用されており、彼の音楽の幅は大きく広がった。
この半音階的書法は《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》(1920-22) で頂点に達した。元々《ドビュッシーの墓》(1920) として書かれた小品を第1楽章とし、残る3楽章を書き足した。この編成はコダーイ・ゾルターン(1882-1967)の《ヴァイオリンとチェロのためのデュオ》(1914) を意識しており、ハンガリー民謡を思わせる主題を持つが、コダーイ作品にはない半音階的な軋みがこの編成に適合し、古典的対位法にぎりぎり収まる綱渡りがスリリングである。当時の批評家には全く理解されなかった厳しい書法はこれ以降影を潜めるが、ジプシー・ヴァイオリンの妙技をフィーチャーした《ツィガーヌ》(1922-24)・名技的なパッセージが連続し中間楽章ではジャズ・ブルースをフィーチャーする《ヴァイオリンソナタ》(1923-27) と、平均律に収まらない旋律線が魅力になっているポピュラー音楽を参照する際に、その経験は活かされている。いずれもこの編成を代表する名作である。
この時期には管弦楽編曲にも、ムソルグスキー/ラヴェル《展覧会の絵》(1874/1922) という代表作がある。「ドビュッシーが歌曲を偏愛した、ロシア五人組の謎の素人作曲家」が19世紀後半を代表する作曲家のひとりまで上り詰めるのに、この編曲が果たした役割は大きい。ニジンスキーが企画したオペラ《ホヴァーンシチナ》(1872-80) の蘇演(1913) に際し、アイヴズ並みに上演までの距離があった未完の譜面をストラヴィンスキーと共同で整備した経験も生かされている。今日では、彼の編曲は性格付けが西欧的で原曲のロシア的魅力を生かしきれていないという批判もあり、さまざまな管弦楽編曲も行われているが、そのような議論を可能にする「標準的解釈」を提示したのも、原曲をクラシック音楽屈指の人気レパートリーまで引き上げたのも、みな彼の編曲である。実はアルベニス《イベリア》(1905-08) にも彼による管弦楽編曲が企画されたことがあり、実現しなかったのが惜しまれる。
そして、これらの要素をすべて詰め込んだこの時期の代表作が、オペラ《子供と魔法》(1917-25) である。与えられたミッションを素早くこなし、過去の仕事には拘らない職人肌の作曲を信条にしていた彼が、ひとつの作品にこれだけ長期間取り組んだ例は他になく、並々ならぬ拘りがまず窺える。《マ・メール・ロワ》は美しい夢の世界だけを描いていたが、この作品ではそこにも厳しい現実があることまで描かれ、半音階的書法がそのためのアクセントとして大いに活用されている。この時期を締め括るのが《マダガスカル島民の歌》(1925-26) である。フルート・チェロ・ピアノ伴奏歌曲という編成は委嘱者クーリッジ夫人(モダニズム作曲家への多くの委嘱で知られる米国のパトロン)の要望だが、それを島民の生活を想像したパルニーのエキゾティックな詩と合わせたのは彼の発想である。声を器楽と対等な一声部として扱う姿勢は《マラルメの3つの詩》を受け継ぎ、半音階的書法にふさわしい。
彼の作風はここで大きく変わる。《ボレロ》(1928) のコンセプトは周知の通り特殊なので措くとしても、《左手のためのピアノ協奏曲》(1929-30) と《ピアノ協奏曲》(1929-31) が問題だ。どちらも外面的効果に終始し、常套句と自己模倣の塊のような楽想を管弦楽法の技術だけで形にしている。時期的には、4ヶ月で25都市を巡演し記録的成功を収めた1928年の北米演奏旅行後の出来事であり、米国の物質文化に接して音楽性まで変わったという穿った見方もできる。だが明らかな影響は、本場のジャズやラグタイムを聴いてこれらの要素の扱いが格段に進歩したことだけで、本命なのは1927年頃から失語症の兆候が現れ始めたという脳機能障害の影響だろう。1932年に交通事故に遭ってから症状は急速に進行し、自分の名前すら書けなくなってしまうが、彼の場合は失語症に留まらず、脳内で音楽は鳴っているが音符にはできないという症状もあった。音楽性のような高度な部分には、さらに早くから影響が出ていてもおかしくない。むしろ問題なのは、この変化は一般的人気にはプラスに働き、これ以前の真の代表作を覆い隠してしまったことである。
Aloysius Bertrand (1807-1841): "Gaspard de la nuit" -- Fantaisies à la manière de Rembrandt et de Callot (1836)
夜のガスパール [1842年初版ファクシミリ]
《オンディーヌ》(p.143)、《絞首台》(p.307)、《スカルボ》(p.311)
夜のガスパアル (ベルトラン・詩)
I オンヂイヌ
・・・朧朧(おぼおぼ)しき調べ吾が仮寝(うたたね)を惑はし、
哀しく嫋(なよよ)かに途絶へし歌聲(うたごへ)と聞き紛ふ囁(さゝめ)き、
吾が枕邊に飄(たゞよ)ひたる心地こそせしか。
シアルル・ブリユノー ― 二人精(みたま)
―いで― ―聽かれてよ―
其(そ)は妾(わ)ぞ、 オンヂイヌぞ、
欝(いぶ)せき月影映す汝(なれ)が窓をしも
玉の水滴(しづく)もて音(ね)を鳴かしむるは。
瞻(み)よ、館宇(しろ)の御令室(おんかた)は波文様(なみあや)の裳裾曳き
星辰(ほしぼし)抱く麗はしの夜と
熟睡(うまゐ)する瀛湖(うみ)をぞ凝眸(まも)りおはしたる。
波てふ波は 流(せ)に游(およ)ぐオンヂイヌぞ、
流てふ流は 妾が幽宮(おくつき)へ迂(くね)り導(ゆ)く小径(みち)、
妾が幽宮こそは 火と土(ち)と氣(け)のなす三角(みすみ)なれ
水底(みなそこ)揺蕩(たゆた)ふ陽炎の如(ごと)。
―いで― ―聽かれてよ―
妾が御父(おんちゝ)は瑞枝(みづえ)もて擲(う)ち 飛沫(しぶき)揚げ給ふ。
妾が姉妹(はらから)は 若草萌え睡蓮(はちす)咲き 唐菖蒲(とうせうぶ)寓(やど)る島嶼(しまじま)を
泡沫(うたかた)の臀(かひな)もて愛撫(め)で 漁(いざ)り釣る髭長の絲柳をぞ戯(あざ)けたる。
妓(をんな)は囁(さゝめ)き歌ひつ。妓は指環を褒寶(かづけ)にて乞ふ、
吾が夫(せ)となりて
彼(か)の幽宮にて瀛湖の王(あるじ)たらんことを。
然(さ)るを吾が現身(うつそみ)の女(をんな)を愛するを聞きて
魍魎(あやかし)の妓 ―あな憂(う)たて― と、
暫時(つと) 涕(なんだ)垂れ
・・・忽焉(たちまち) 哄(わら)ひさざめき
蒼冴(あをざ)めし吾が窓邊に雨と流れて消えにけり。
II 絞縊架(くびつりだい)
彼(か)の絞縊架が邊(あた)りを蠕(うごめ)けるを何とぞ見る (フアウスト)
そも 何の音ぞも。
終夜(よただ) 咆吼(ほ)ゆる凩(こがらし)か、
将(は)た 吊られたる者の洩らす愁息(ためいき)か。
樹(たちき)の憫(あは)れを頼みて纏はりたる 石女(うまずめ)の蔦蘿(つたかづら)と
苔の中(うち)なる蟋蟀(こおろぎ)の挽歌(うたごえ)か。
聾(しひ)たる耳の邊(へ)を
勝鬨擧げ 獲物(さち)漁り飛ぶ羽蟲が角聲(つのぶえ)か。
あくがれ翔びて 禿頭(かむろ)より
血に塗(まみ)れし髪(くし)抜く甲蟲か。
将たは二尺なる毛氈(かも)を刺繍(かが)り
縊(くく)られたる首に飾らんとする土蜘蛛か。
其(そ)は 地の涯の都城(みやこ)の塁壁(ついぢ)より來たる
梵鐘(かね)の音なり。
夕さりて殷紅(あか)みゆく縊れたる者の骸(なきがら)。
III スカルボ
牀(とこ)の下、爐(ひをけ)の中(うち)、厨子の中にも、見えざりき―誰(たれ)も。
何處(いづこ)より入りて、何處よりか出(い)でたりつる。 (ホフマン―夜話)
嗟呼(あゝ)、吾(われ) 幾度(いくたび)か邂逅(まみ)えし、スカルボと。
月影鮮(さや)かなる 彼(か)の夜半(よは)ぞ、
黄金(こがね)の群蜂(むらばち)鏤(ちりば)めし碧(あを)き旛(はたもの)の上なる
白銀(しろがね)の貨(ぜに)の如(ごと)。
吾 幾度か聞きし、
吾が冥(をぐら)き閨房(ねや)に戰(そよ)ぎわたる 彼(か)の嗤(わら)ひを
吾が羅(きぬ)の几帳(とばり)を引き掻く 彼の爪を。
吾 幾度か見し、
彼の者 牀下(ゆか)に降り立ち片脚(かたし)にて
仙女(まこ)の紡錘(をだまき)さながら
吾が寝齋(むろ)に旋廻(くるめ)き渡るを。
彼(か)の時 吾 彼の者消ゆと思ひたりしか。
彼の侏儒(こびと) 月影浴び吾が眼前(まへ)に
巨(おほ)きに成り成りて
伽藍(みてら)の鐘楼(たかどの)と見ゆ、
其の尖帽(かうぶり)に黄金の鈴揺れて。
須臾(やがて) その體(からだ) かの貌(かほばせ) 倶(とも)に蒼冴め
燭(そく)の涙と透けゆき 色喪(う)せゆき、
然(さ)りて 彼の者 突如(うちつけ)に 見えずなりたりけり。
(安田 毅 ・ 譯)
ロンサアル 彼の魂に
魂緒(たまのお)や ロンサアルや
愛(め)ぐしきや 優なりや
斯くもいとほし我が身の宿主(あるじ)
汝(なれ)は降り往く、幽(かそ)けくも
蒼(あ)をく 窶(やつ)れて 亡骸(なきもの)の
凍てつく國へと 唯獨(ひと)り
まこと慎(つま)しく 殺生や
毒や 怨みの悔やみなく
ひとの羨望(うら)やむ世の覚え
また蓄えを侮(あなど)りて
身罷る我は告げたりし
汝の宿世(さだめ)に從へと
我が憩い禦(さまた)ぐなかれ
われこそ眠れ
[訳・安田毅]
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Ronsard à son âme
Amelette Ronsardelette,
Mignonnelette doucelette,
Treschere hostesse de mon corps,
Tu descens là bas foiblelette,
Pasle, maigrelette, seulette,
Dans le froid Royaume des mors :
Toutesfois simple, sans remors
De meurtre, poison, et rancune,
Mesprisant faveurs et tresors
Tant enviez par la commune.
Passant, j'ay dit, suy ta fortune
Ne trouble mon repos, je dors.
[Pierre de Ronsard (1524-1585)]