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3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]

松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
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【ポック(POC)#51】2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉

●G.リゲティ(1923-2006):《練習曲第15番「白の上の白」》(1995) 3分
N.A.ロスラヴェツ(1881-1944):《3つの練習曲》(1914) 14分
  I. Affettamente - II. Pianissimo. Con dolce maniera - III. Burlando
■同:《ピアノソナタ第2番》(1916) 12分
  Moderato con moto, Allegro moderato - Lento - Moderato - Lento - Allegro moderato
A.V.スタンチンスキー(1888-1914):《ピアノソナタ第2番》(1912) 14分
  I. Fuga. Lento expressivo - II. Presto
S.Y.フェインベルク(1890-1962):《ピアノソナタ第3番 Op.3》 (1917) 25分
  I. Prelude - II. Funeral March: Lugubre e maestoso - III. Sonata: Allegro appassionato
●J.パウエル(1969- ):《茶トラ猫写本》(2023、委嘱初演) 10分

  (休憩10分)

S.S.プロコフィエフ(1891-1953):《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分
N.B.オブーホフ(1892-1954):《2つの喚起》(1916) 12分
  I. - II.
A.-V.ルリエー(1892-1966):《2つの詩曲 Op.8》(1912) 10分
  I.「飛翔」- II. 「蹣跚」
■同:《統合 Op.16》(1914) 8分
  I. Lent - II. Modérément animé - III. Vite (aigu) - IV. Assez vite, mais toujours mesuré - V. Mesuré
■同:《架空のフォルム》(1915) 9分
  I. - II. - III.
B.M.リャトシンスキー(1895-1968):《ピアノソナタ第1番 Op.13》(1924) 13分
  Concentrato e sostenuto - Poco più tranquillo - Pesante (Meno mosso) - Tempestoso - Lugubre - Maestoso pesante
A.V.モソロフ(1900-1973):《2つの夜想曲 Op.15》(1926) 7分
  I. Elegiaco, poco stentato - II. Adagio
■同:《交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 》(1927/2021) [米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演] 4分

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(上段左から)ロスラヴェツ/スタンチンスキー/フェインベルク/オブーホフ
(下段左から)ルリエー/リャトシンスキー/モソロフ


ジョナサン・パウエル Jonathan POWELL, composer
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  20歳でパーセルホールにデビューしたパウエルは、その後10年間、主に作曲活動(アルディッティ弦楽四重奏団、ロンドン・シンフォニエッタ、ニコラス・ホッジスが彼の作品を演奏している)と音楽学に専念する。ケンブリッジ大学でスクリャービンの後続世代への影響についての学位論文を執筆。その後、スラミタ・アロノフスキーにピアノを師事し、演奏活動に重点を置くようになる。ニューグローヴ音楽・音楽家辞典第2版に、スクリャービンをはじめとする様々なソ連・ロシアの作曲家に関する記事を寄稿した。フィニッシー、デュフール、アンブロジーニ、シュタウト他の多数の新作を初演している。
  カイホスルー・ソラブジ作品の最も熱烈な演奏者であり、《オプス・クラウィケンバリスティクム》の現在までの全曲演奏・計22回のうち10回はパウエルによるものである。2020年5月、ソラブジ《 「怒りの日」によるセクエンツィア・シクリカ》の7枚組CD(8時間半)でドイツ・レコード批評家賞を受賞した。近年では、カトヴィツェ、ブルノ、オックスフォード、ロンドン、デンマーク、シアトル、ダルムシュタット等でマスタークラスを開催している。





ロシア・アヴァンギャルド音楽に関するメモ――野々村 禎彦

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 19世紀末の美学が一段落した20世紀初頭、世界各国(とは言ってもヨーロッパとその文化的影響下にある一部の国々だけだが)で同時多発的に芸術の前衛運動が起こった。ロシア・アヴァンギャルドはそのロシア版であるが、特殊な点がいくつかある。まず、運動の発展期にロシア革命が起こったこと。他国の前衛運動も第一次世界大戦に大きく阻害されたが、大戦は数年で終結し、その結果生じた政治体制の変化は総じて運動の追い風になったのに対し、ロシア革命から生まれたソ連は運動に干渉し続け、最終的には運動を葬った。次に、運動の前段階にあたる象徴主義・原始主義・未来派などの諸傾向が、他国では19世紀後半から数世代かけて進行したのに対し、ロシアではこれらが20世紀初頭の数年間に集約され、一世代で完結したこと。最後に、他国の前衛運動はインターナショナルな性格が強かったのに対し、ロシアではヨーロッパの動向は意識しつつも、自国の固有性への拘りが強かったこと。これらの特徴は、ロシア・アヴァンギャルドの各ジャンルの温度差に繋がった。本稿では、まずそのあたりを眺めてゆく。

 芸術の前衛運動は伝統を否定して新たな芸術を創造しようとするものであり、ロシア革命本来の理念との相性は悪くなさそうに思える。多くのジャンルの芸術家たちはそう考えて革命を歓迎し、レーニン時代のソ連共産党もこの運動を擁護した。その時期に国際的に目覚ましい成果を挙げたのが美術だが、これは人的交流にも現れている。モスクワで生まれたワシリー・カンディンスキー(1866-1944) は、1896年にドイツに移住して絵画を学んだ。当初は象徴主義的な作風だったが、年代とともに風景画の輪郭線が曖昧になる一方で色彩は華やかになってゆき、やがて地平線が消えてナメクジのような不定形の形象が現れ(この無意識下での変化を自覚して『即興』シリーズを開始)、1910年には抽象に移行した(創作の中心にあたる『構成』シリーズを開始)。1911年には芸術家集団「青騎士」を結成し、抽象絵画の創始者として国際的に認知された。第一次世界大戦を避けてモスクワに戻り、ソ連成立後は教育人民委員を務めた。マルク・シャガール(1887-1985) は、ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ・ヴィーチェブスク)で育って美術を学び、1910年にパリに移住して幻想的な作風で人気画家になった。第一次世界大戦を避けてヴィテブスクに戻り、ソ連成立後は同地で美術学校を始めた。作風的にはおよそ相性が良くなさそうなシャガールもソ連に残って運動に貢献しようとするほど、美術ではロシア・アヴァンギャルドは期待されていた。

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 近代芸術を特徴付ける諸傾向が一時期に圧縮されると、それに乗って爆発的に開花する才能が現れる。美術ではカジミール・マレーヴィチ(1879-1935) がそうだった。ロシア領キエフ(現ウクライナ・キーウ)に生まれ、モスクワで美術を学んだ彼は、ロシア・アヴァンギャルド以前の作品は全く知られていないが、1910年代初頭にまず農民を題材にした原始主義絵画で頭角を現し、次いでこの題材をキュビズムで処理し、さらにそこに未来派の題材を合流させた立体未来派を提唱し…とほぼ1年ごとに新たなコンセプトを打ち出し、しかし以前のコンセプトでも創作を続け、ロシア近代美術の諸潮流の結節点として自らを進化させてゆく。そして1915年に提唱した絶対主義(シュプレマティズム)では、抽象化を徹底させて『黒い正方形』(1915) や『白の上の白』(1918) に代表される、1960年代以降の色面抽象絵画の最も禁欲的な部分を半世紀近く前に先取りした境地に達した。20世紀前半の抽象絵画の大物としてはカンディンスキーの他にピート・モンドリアンやパウル・クレーが挙げられるが、この時期のマレーヴィチの徹底度には誰も及ばない。

 ヴィテブスクで美術学校を始めたシャガールは、ロシア・アヴァンギャルドの美術作家たちを講師として招き、その中にはマレーヴィチもいた。すると数ヶ月後には、シャガールに心酔していた学生たちもみなマレーヴィチ流の作風に宗旨替えしてしまった。シャガールは美術学校を1922年まで続けたが、もはやソ連では自分の作風は求められていないと見切りをつけ、1923年からはパリで活動を再開した。カンディンスキーが大戦終結後もソ連に残ったのは、抽象移行後の作風が飽和して新たな方向性を模索していたことに加え、「芸術先進国」の前衛運動を牽引してきた経験を祖国の後進に伝えたいという思いもあった。だがカンディンスキーは、少なくとも美術ではソ連の方が先を行っており、その最先端には自分も付いていけないことに気付いた。ただしマレーヴィチは、『シュプレマティズム』をタイトルに含むシリーズでは、カラフルな四角形・三角形・円・直線などをデザイン的に組み合わせ、シュプレマティズムの代表作よりは幾分親しみやすい方向性を打ち出していた。これは、工業製品のような単純な形象を組み合わせて創作を行う、「構成主義」と総称される傾向との相互浸透から派生したスタイルであり、バウハウスの教授に招聘されて1922年にドイツに戻ったカンディンスキーは、この方向性を自己流にアレンジして新たな創作を始め、講義でも最新の芸術動向として紹介したロシア構成主義は、その後のバウハウスの基盤になった。

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 ヴィテブスクに大勢現れたマレーヴィチのエピゴーネンたちは、結局誰も画家にはならず、その経験を工業デザインなどに生かした。カンディンスキーでも付いていけなかったものを一般人が身に付けられるはずもなく、同じことはキエフの美術学校やモスクワのヴフテマス(国立高等美術工芸工房)でも繰り返された。スターリンがソ連共産党の指導者になり、ロシア・アヴァンギャルドへの風当たりが強まると、ロシア構成主義の成果を工業デザインなどに応用する生産主義に向かう者が増えたが、マレーヴィチはこの方向性には向かわず、初期の農民画に回帰した。マレーヴィチの凄さは、この方向転換が生き残りのための妥協にはならず作品の強度は落ちなかったことで、一度覚醒した才能には様式は副次的なものなのだと感じさせられる。

 以上、ロシア・アヴァンギャルド美術の動向をマレーヴィチを中心に駆け足で振り返ったが、ロシア・アヴァンギャルド音楽では事情が異なる。まず、クラシック音楽の基盤は伝統的レパートリーの演奏による再現であり、それらは教会~王侯貴族~ブルジョアジーのために書かれた作品ばかりで、文学のように虐げられた民衆の苦悩に寄り添ってきたわけではない。新作では伝統を否定しているとはいっても言い訳でしかなく、ロシア革命との相性は最悪。ジャンルごと抹消されてもおかしくない。多くの演奏家たちはそう考え、海外でも生計を立てられる技術と実績を持っている者は我れ先に亡命した。実際にはロシア・アヴァンギャルド音楽すら美術と同じ理屈で擁護されたわけだが、それは砂上の楼閣に過ぎないと亡命し損ねた人々は考え、前衛運動を生贄にして安寧を図ろうとした。ブルジョアジーの断末魔の悲鳴を自ら葬るくらい、我々は革命精神を理解しているというわけだ。ニコライ・ロスラヴェツ(1881-1944) は前衛音楽振興のためにソ連現代音楽協会(ACM) を1923年に設立したが、ロシア・プロレタリア音楽家同盟(RAPM) も同年に設立され、ACMの「ブルジョア的」な「形式主義」の非難を活動の主目的とした。芸術家同士で足を引っ張る音楽に特有の構造には、このような背景がある。スターリン時代のソ連共産党はRAPMの主張を汲む形で1932年にすべての作曲家組織を解散させ、ソ連作曲家同盟に一元化した。

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 マレーヴィチのように爆発的に開花した才能は、同世代の音楽にも存在した。言うまでもなく、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) である。彼はロシア国内ではなくパリで才能を開花させ、第一次世界大戦に際してもスイスに逃れてロシアには戻らなかった。芸術は統計的には例外的な特異点に過ぎない突出した才能が総取りする分野であり、ロシア・アヴァンギャルド美術と音楽の最大の違いはこれに尽きるのかもしれない。この時期ではストラヴィンスキーに次ぐ才能であるセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953) も、活動初期にはロシア・アヴァンギャルドに関わったが、幅広いレパートリーを持つピアニストでもあったため、1918年には日本を経て米国に亡命した。ただし米国社会とは水が合わず、1920年にはパリに移っている。

 今回取り上げる作曲家にも、亡命組は少なくない。ニコライ・オブーホフ(1892-1954) はロシア革命直後の1918年にパリに、アルトゥール・ルリエー(1892-1966) も1921年にベルリンに亡命し、翌年からパリに定住した。彼らが亡命後も本領を発揮できていれば、ロシア・アヴァンギャルド音楽の成果であることに変わりはないが、ここで固有性への拘りが問題になってくる。彼らの霊感は自国の外では発揮されないのである。オブーホフの場合は作曲家として知名度が足らず、肉体労働で日銭を稼ぐ必要があったこともあるが、ルリエーはストラヴィンスキーとの交流を通じて新古典主義に転じてからは、ロシア時代の奔放さが影を潜めてしまった。プロコフィエフも亡命後は作曲ペースが落ち、1927年の一時帰国後は帰国を繰り返してソ連からの作品委嘱も受けるようになり(むしろソ連とヨーロッパの親善大使のような役割を果たし)、結局1936年以降はモスクワに定住することになる。亡命組で亡命後も一定の成果を挙げたのはイワン・ヴィシネグラツキー(1893-1979) だけかもしれない。後期スクリャービンの強い影響下にロシア・アヴァンギャルドに加わったが、微分音程の組織的探求を通じて固有性の問題を乗り越えた。ただし微分音に対応した楽器が必要なため、今回の選曲には含まれない。

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 このような背景もあり、今回の大井セレクションは、ロシア革命以前の作品が中心になっている。作風的には後期スクリャービンの延長線上にある作品が多く、「無調」的な音響をスクリャービンの神秘和音に代わるどのような音組織で得るかが個性のポイントになっている。以下は個々の作曲家への簡単なコメントである(プロコフィエフの知名度は飛び抜けているので省略)。

 ロスラヴェツは駅員などを経てモスクワ音楽院に1902年に入学し、1912年に修了した。苦学したため運動関係者の中では年長なこともあり、ACM代表や運動のスポークスマンを務めた。彼をシェーンベルクに喩えた紹介が多いのはこのような役回りに加え、後期スクリャービンに倣った作曲家たちの中では構築感が強いことも理由だろう。ACM設立後はRAPMによる批判の矢面に立たされて消耗し、作風は穏当なものになってゆく。1930年には公職を追放されて自己批判を強いられ、ACM解散後はソ連作曲家同盟加入も認められず、不遇なまま亡くなった。アレクセイ・スタンチンスキー(1888-1914) はモスクワ音楽院でタネーエフに作曲を学び、将来を嘱望されていたが、父の死に接して精神の平衡を崩し、若くして事故死した。良き理解者であるサムイル・フェインベルク(1890-1962) 同様、中期スクリャービン風の濃密な書法から出発したが、ムソルグスキーの影響で平明な全音階書法に移行して個性を確立した。フェインベルクはソ連を代表するピアニストのひとりで、J.S.バッハとスクリャービンを特に得意としていた。作曲家としての作風はピアニストとしての得意レパートリーに由来し、中期スクリャービンを伝統的な対位法で書き直したかのようである。

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 モスクワ音楽院とペテルブルク音楽院で作曲を学んだオブーホフは後期スクリャービンから出発し、スクリャービン以上の神秘主義者になった。オクターブの12音を均等に出現させる独自のシステム、「音響十字架」というテルミンのような電子楽器の制作、宗教的法悦を表現する非声楽的な発声(叫び、囁き、呻き、口笛等)の探求…そして作曲家人生の大半の時間は《人生の書》という2000ページを超える大作(個人的信仰の対象であり、演奏可能性は副次的と割り切っている)に費やされた。ペテルブルク音楽院でグラズノフに作曲を学んだルリエーも後期スクリャービンから出発し、ロシア時代はさまざまな書法を試みた。今回の選曲では《2つの詩曲》(1912) が原型・《統合》(1914) がオクターブの12音を均等に出現させるシステムの試み・《架空のフォルム》(1915) が小節線も拍節も持たない多くの断片から奏者が音楽を組み立てる試みである。アカデミックな評価を受けて民衆教育省音楽部門人民委員を務めたが、公務に従事するうちにソ連の実態に失望し、ベルリン出張の機会に亡命した。

 ボリス・リャトシンスキー(1895-1968) はキエフ(現キーウ)音楽院でグリエールに作曲を学び、ロシア国民楽派の伝統から出発したが、ヨーロッパ前衛の語法を取り入れてロシア・アヴァンギャルドに加わった。社会主義リアリズムの時代を生き延びてソ連国家賞も3回受賞できたのは、初期スクリャービンの無調化という迂遠なスタイルを採用した分、後期スクリャービンから出発した先人たちとは違って巻き戻しが容易だったのだろう。弟子にはヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-) がおり、ある意味師と同じ道を歩んでいる。アレクサンドル・モソロフ(1900-73) はロシア革命に従軍し、モスクワ音楽院に入学してグリエールとミャスコフスキーに作曲を学んだ。徹底したオスティナートに彩られた《鉄工場》(1928) は、同年から始まる第一次五カ年計画で重工業推進に舵を切ったソ連を象徴する音楽として国際的に広く知られるが、ソ連当局はこの暴力的な作風には否定的で、濡れ衣の罪状で白海運河建設の強制労働に送り込まれた。社会主義リアリズムの時代を代表する師ふたりの奔走で辛うじて生還できたが、その後は不遇なまま亡くなった。

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 ロシア・アヴァンギャルド音楽の作曲家たちの運命を眺めていると鬱々としてくるが、他ジャンルには生前から脚光を浴びた芸術家も少なくない。ロシア未来派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930) は1923年に芸術左翼戦線(LEF) を結成し、詩・文学・美術・映画にまたがる交流を生んだ。若くして自殺したが、葬儀にはレーニンに匹敵する15万人が参列し、モスクワの凱旋広場はマヤコフスキー広場と改称された。ただし生前の彼は秘密警察に常時監視されており、自殺の背景にはロシア・プロレタリア作家協会(RAPP) の激しい中傷があった。RAPPは1925年に結成されたが、このような対抗組織を作る手法はACMに対するRAPMが悪しき先例となっている。LEFにはセルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948) も参加しており、彼への生前からの国際的評価は周知の通り。また映画界からはジガ・ヴェルトフ(1896-1954) も参加しており、『カメラを持った男』(1929) のような尖鋭的な作品がロシア・アヴァンギャルド末期にも作られていた。おそらく、ロシア・アヴァンギャルドは音楽には早すぎたのだろう。その精神が十分な形で音楽に反映されるには、ロシア・フォルマリズム~構造主義~《構造》(ブーレーズ)、ロシア構成主義~バウハウス~『形式化された音楽』(クセナキス)という壮大な迂回路を経る必要があったのかもしれない。


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[cf.] 連続リサイタル《をろしや夢寤 Сны о России》
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【演奏動画】
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〇チャイコフスキー:《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版]  交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版]  歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版) 《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873) 《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876) 《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版] 《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版] 《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]
〇A.アレクサンドロフ:《ボリシェヴィキ党歌》(1938)
〇ショスタコーヴィチ:《革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲》(1918)  オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Op.29》より第2幕間奏曲「パッサカリア」 (1932) [作曲者編独奏版]  《ピアノ五重奏曲 Op.57》より第2楽章「フーガ」(1940/2022) [米沢典剛編独奏版]  オラトリオ《森の歌 Op.81》より第7曲「栄光」(1949/2021) [米沢典剛編独奏版)  映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛編2台ピアノ版] [+浦壁信二(pf)]  交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者による連弾版] [浦壁信二(pf)]  交響曲第13番《バビ・ヤール》第5楽章「出世」(1962/2022) [米沢典剛編独奏版] 《弦楽四重奏曲第15番 Op.144》より第1楽章「エレジー」(1974/2020) [米沢典剛編独奏版]
〇P. ドゥゲートゥル(A.ゴリデンヴェイゼル編):《インターナショナル Op.15-1》(1933)
〇P. ドゥゲートゥル(武満徹編):《インターナショナル》(1974)
〇M.スコリク:《メロディ》(1981)
〇V.シルヴェストロフ:《ウクライナへの祈り》(2014)

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by ooi_piano | 2023-03-07 13:14 | POC2022 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


by ooi_piano