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《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)[2023/07/05 update]

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大井浩明リサイタル 《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)
Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ

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【第1回】2023年6月4日(日)15時開演(14時45分開場)

F.F.ショパン(1810-1849)
前奏曲 変イ長調 Op.Posth. (1834) 1分
ロンド ハ短調 Op.1 (1825) 8分
--
前奏曲 変ホ短調 Op.Posth. (1838/2002、J.カルバーグ補筆) 1分
即興曲第1番 変イ長調 Op.29 (1837) 4分
即興曲第2番 嬰ヘ長調 Op.36 (1839) 6分
即興曲第3番 変ト長調 Op.51 (1842) 4分
--
前奏曲 嬰ハ短調 Op.45 (1841) 5分
幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66 (最終稿、1835) 5分
幻想曲 ヘ短調 Op.49 (1841) 13分

  (休憩15分)

24の前奏曲集 Op.28 (1839)  38分
 I. ハ長調 - II. イ短調 - III. ト長調 - IV. ホ短調
- V. ニ長調 - VI. ロ短調 - VII. イ長調 - VIII. 嬰へ短調
- IX. ホ長調 - X. 嬰ハ短調 - XI. ロ長調 - XII. 嬰ト短調
- XIII. 嬰ヘ長調 - XIV. 変ホ短調 - XV. 変ニ長調「霤」 - XVI. 変ロ短調
- XVII. 変イ長調 - XVIII. ヘ短調 - XIX. 変ホ長調 - XX. ハ短調
- XXI. 変ロ長調 - XXII. ト短調 - XXIII. ヘ長調 - XXIV. ニ短調

[使用エディション:ポーランドナショナル版]


〔アンコール〕
A.スクリャービン(1872-1915):《幻想曲 ロ短調 Op.28》(1900)

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ポーランド・アラベスク――山村雅治

1.

 SPレコードが発明されて、音楽が刻まれた音盤が発売された1900年代初頭には、パデレフスキはピアノの帝王だった。イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860- 1941)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家。当時の偉大なピアニストであり、第1次大戦後に独立を果たしたポーランドの初代首相を務めた。
 20世紀初頭に「パリのショパン」から「ポーランドのショパン」に奪還したのがパデレフスキだった。その時代にはショパンはフランス音楽だったし、ドイツ音楽を至上のものとする人たちからは歯牙にもかけられていなかった。

 ショパンの音楽に秘められていた天才が世界に広まったのは、パデレフスキとパハマンらが録音したSPレコードの功績が大きい。ドイツ・グラモフォンが1898年、イギリス・コロンビアが1897年、アメリカ・ビクターが1901年に設立されたころからの録音が鑑賞にたえる音源として残された。SPレコードは片面盤が最初期に売りだされた。片面には4分半ほどしか音を刻むことができない。メルバやカルーソーらの声楽とクライスラーやカザルスらの弦楽器の小品、そしてパデレフスキやパハマン、コルトーらのピアノ演奏の音盤はそれらの片面盤にショパンの作品をたくさん刻んだ。パデレフスキのは1920年代の録音から手元にある。

 パデレフスキはポーランドの独立のために力を尽くした闘士でもあった。ポーランドは17世紀なかばからすでにロシア、オーストリア、プロイセンに分割統治されていた。1795年に独立を求めての戦いに敗れてワルシャワはプロイセン領になった。ところが1807年にフランス軍がプロイセン軍をしりぞけて、ナポレオンはワルシャワ公国をつくる。しかし1812年にフランス軍はロシア軍に粉砕される。ワルシャワもロシア軍が占領した。ウィーン会議が開かれたのは1815年。ワルシャワ公国が「ポーランド立憲王国」として再建されることが決まった。王はロシア皇帝アレクサンドル一世だった。ワルシャワの中心部の建物はロシア軍が駐留した。多くのポーランド人がフランスへ亡命した。

 このときすでにフリデリク・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin 1810-1849)は5歳。彼は1810年、ワルシャワから西に46kmはなれたジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにしてミコワイとなのった。彼は自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった。フランス語が堪能だったミコワイは貴族の家庭教師をするようになった。そのつながりでユスティナ・クシジャノフスカと出会った。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、家が没落して貴族の家で住み込みの侍女をしていた。ミコワイとユスティナは1806年に結ばれた。 
 ショパンは6歳でピアノを習いはじめた。そして一年半後には演奏会を開いている。はじめからピアノが弾けた。7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。ポロネーズはフランス語で「ポーランド風」の意味をもち、マズルカと並んでポーランド起源の舞曲である。4分の3拍子で、もとはポーランドの民族舞踊だった。幼いショパンにはからだに浸み込むほどに親しい音楽だった。
 
 ポーランドはその後、独立運動の時代をむかえる。1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こった。青年に成長したショパンは「ピアノ協奏曲第2番」、「同第1番」を自ら初演し成功をおさめ、西ヨーロッパに活動の場を広げようとして到着したばかりのウィーンに滞在していたときだった。旅の仲間だった親友は蜂起に加わるために帰国したが、ショパンはウィーンにとどまった。蜂起はつぶされた。ショパンはウィーンに冷遇された。
 ポーランドは、最後の作品がマズルカだったショパンの没後にもくりかえし蜂起する。1856年の「一月蜂起」またしても敗れ、数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアに流刑になった。

 プロイセン王国内の旧ポーランド王国領では、1871年からはビスマルクにより、ポーランド人に対する抑圧政策が敷かれた。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあともドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年まで続けられた。1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。翌1919年1月、イグナツィ・パデレフスキ首相/外務相による内閣発足。1920年のポーランド・ソビエト戦争ではフランス軍の協力により勝利をおさめた。

 パデレフスキは1922年に政界を引退してカーネギーホールで復帰リサイタルを開いた。大成功をおさめてアメリカ・ビクター社と契約を結び、たくさんの音盤を世に出すことになった。そして1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割され、ポーランドは消滅することになる。この年の「ポーランド祖国防衛戦争」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年にはロンドンにおけるポーランド亡命政府「ポーランド国家評議会」の指導者になった。80歳のピアニストがポーランド回復基金を発足させ財源確保のために何度も演奏活動を行なった。この演奏旅行の中でパデレフスキは1941年6月29日の午後11時にニューヨーク市で客死した。
 彼こそがポーランドだ。ショパンこそがポーランドだったように。
 
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2.

 パデレフスキが没したとき、ポーランドはナチス・ドイツ、スロバキア、ソビエト連邦、リトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな反独闘争を展開した。ユダヤ人収容所で何が行われていたかは当時の誰もが知らなかった。ドイツ人さえも。苛烈をきわめた独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていく。1944年8月、レジスタンス・ポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起きた。それはパデレフスキの後をつぐ亡命政府の武装蜂起であったためにソ連軍が加勢せず約20万人が命を落として失敗に終わった。1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。

 1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。ナチス・ドイツの悪夢からは解放されたものの戦後はスターリンの圧政と、それを継ぐ後継者たちのソビエト連邦に圧しつぶされていくままになる。1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。レフ・ワレサが第三共和国初代大統領だった。1989年は雪崩を打ってヨーロッパの共産主義政権国家が崩壊した年だった。

 ナチス・ドイツとソビエト連邦に圧しひしがれていた時代にもポーランドにはショパンがいた。パデレフスキはショパン生誕100年の1910年、彼の政治演説のはじめにショパンの天才をポーランドの象徴として語った。1918年に独立をかちえるとワジェンキ公園にショパン像を建て、ショパンが生まれたジェラゾヴァ・ヴォラに庭園モニュメントをつくった。そしてピアニストたちが競いあう「ショパン国際ピアノコンクール」と「フリデリク・ショパン研究所」(のちの「フリデリク・ショパン協会」)設立への動きを起こした。

 ショパンコンクールは1927年に第1回が開催された。8か国26名が参加した。優勝は19歳のレフ・オボーリン。20歳のドミトリー・ショスタコーヴィチが本選入選名誉ディプロマを得た。コンクールは5年ごとに開くということで第2回は1932年、第3回は1937年に開かれた。1939年から終戦の1945年にワルシャワは戦闘と空爆により焦土に瓦礫が散乱する街になった。その期間には第2次大戦の当事国は国際大会を断念せざるを得なかった。再開されたのは1949年の第4回。その後、第5回を1955年に開いて、以後は5年に一度の催しとして世界の若者が腕を競っている。


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3.

 ポーランドの人びとは長く続いた苦難の時間を生きてきた。ポーランドには多民族の人びとが暮らす。西スラブ人系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人、リトアニア人、ロシア人、ルーシ人・ルーシ族(ヴァリャーグ、ルシン人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、サルマタイ人、タタール人、ラトビア人、バルト人、スウェーデン人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ハンガリー人、ロマ人、アルメニア人、モンゴル系民族やトルコ系民族などの人びとが生きてきた。言語はポーランド語。文学はポーランド語だけではなくイディッシュ語で書かれたり英語で書かれたりした。ザメンホフが創造した人工言語のエスペラント語はワルシャワで発祥した。世界共通語をつくりたかったのだろう。

 文化は民族をひとつに結いあげる。民族の文化の表現が他民族にも訴えるものがあるとき、文化は国境をこえて世界の人のものになる。文学ではシェンキェヴィチが日本では戦前から知られていた。太宰治はシェンキェヴィチの長編小説『クオ・ヴァディス』をほめていた。だからそれを読んだ。おもしろかった。息をつかせずに一気に読んだ。人を楽しませる「おはなし」の書き手として太宰治ほどの作家はいない。『ろまん燈篭』がその面での白眉であり『斜陽』『人間失格』は別の文脈での大傑作だ。ポーランドには太宰治がほめたヘンリク・シェンキェヴィチ、『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモント、詩人のチェスワフ・ミウォシュと、そして同じく詩人でヴィスワヴァ・シンボルスカのノーベル文学賞受賞者がいる。そういえばスタニスワフ・レムもポーランド人だった。『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって映画化されたことで世界に知られている。ポーランド文学は英訳や独訳からではなく原語からの翻訳書がたくさん出てほしい。

 地動説を唱えた天文学者コペルニクスや、物理学者のキュリー夫人、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はいずれも世界の誰もが知っているポーランド人だ。そしてフリデリク・ショパン。彼がいなければ日本ではポーランドの音楽は民謡「森へ行きましょう」と「ポーレチケ」にとどまっていたかもしれない。彼の前にはポーランド固有のリズムと旋律を書いて人々の心に訴える音楽を創造する作曲家はいなかった。だからこそショパンが12歳から師事した作曲の先生、エルスネル自身は古典音楽を目指していたが若いショパンの古典から自由にはばたく独創性を認めていた。1829年、音楽院の卒業試験に与えたエルスネエルの評価は「稀有な才能―音楽の天才」という言葉だった。

 エルスネルは若いショパンに将来は宗教曲や歌劇を書くことを求めていた。しかしショパンの才能はそうした大曲を書くことには向いていなかった。少年時代から病弱だったこともあるかもしれない。音楽を創造することができる時間のかぎりを直感していたかもしれない。ショパンはモーツァルトに似た神童とされたけれども、モーツァルトは生来の歌劇作家だったが、ショパンは生来の叙情詩人だった。劇の作家は他者を書くことが得意だ。シェイクスピアもモーツァルトもその作品に端役はなく、どんなに出番が少なくてもどの役も生きていた。ヴェルディも彼らの劇を継いだ天才だった。ヴァーグナーは知らない。あれは劇だろうか。ヴァーグナーの音楽は大好きだけれども。歌劇としては「主人公歌劇」はつまらない。ヴァーグナーは歌劇を模して自分自身を表現する偉大な音楽を書いた。歌劇を書くには魅力ある主人公を立たせるとともに、その周りの人間のすべてを生かさなければならない。ショパンがそうした仕事をするには健康も生きる時間も足りなかった。宗教曲にしても同じようなことが言える。生涯の多くの時間に咳きこみ喀血を繰り返したショパンは、一度ならず「深き淵より、主よ」と祈りを捧げたことがあったにちがいないと思うけれども。彼が切実に作品に生かしたいのはイエス・キリストではなく自分自身だった。

 音楽が流れ、爆発する一瞬にショパンはすべてをかけた。少ない音符にきりつめられた短い時間に語りつくす音楽に彼の天才は輝く。1829年、ベートーヴェンの死後わずか2年の年にショパンは「ピアノ協奏曲第2番」作品21を書きはじめ翌1930年に初演した。同年夏には「ピアノ協奏曲第1番」作品11を仕上げて自宅で試演会をして10月にウィーンへ旅立つ前の告別演奏会で公開初演した。曲そのものは絶讃された。しかしピアノ演奏については「音が小さい」と難癖をつけられた。当時の聴衆にはショパンの音楽も演奏技術もそれまでに聴いたことがなかったものだったけれども、この批評には応えることができない。以後、ショパンは大きなホールでの演奏が苦手なものになり、サロンでの少人数の集まりで作品を聴いてもらうことに音楽家としての喜びを見出していくことになった。かつてウィーンで冷遇され、晩年にロンドンで無視されても、彼はパリへ戻った。サロンでの演奏では<つぶやき>や<ささやき>をピアノで歌うことが少ない聴衆の底にまで届いた。人間はほんとうのことを洩らすときにはそうした声になる。自分の内密を明かすときには、ことに。

 ジョルジュ・サンドとの出会いと喜びと失望と別れについては、ここでは触れない。書いていけば一冊の本になる分量になるだろう。彼女がいたからショパンの創作は豊かになった。作品はピアノ独奏曲がほとんどを占める。曲集といえるのはエチュード。プレリュード。バラード。スケルツォ。ワルツ。ノクターン。即興曲。ノクターン。そしてポロネーズとマズルカだ。ショパンの傑作はマズルカに多い。外に向けての飾りつけは作品を表に出すときには、芸術家は誰もそれをすることはわかりきったことだが、マズルカには飾りを排した曲がある。裸のショパン。ポーランドについて語るつもりだった。しかし、それはショパンを語ることにほかならなかった。

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【公演予告】

〈第2回公演〉2023年8月5日(土)15時開演(14時45分開場)
ロンド ハ長調 Op.73 (1826、独奏版)
ソナタ第1番 Op.4 (1828)
バラード第1番 ト短調 Op.23 (1835)
バラード第2番 ヘ長調 Op.38 (1839)
バラード第3番 変イ長調 Op.47 (1841)
バラード第4番 ヘ短調 Op.52 (1842)
スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20 (1832)
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31 (1837)
スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39 (1839)
スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54 (1842)

〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
3つのエコセーズ Op.72-3 (1826)
序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833)
ボレロ Op.19 (1833)
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834)
2つのポロネーズ Op.26 (1835)
2つのポロネーズ Op.40 (1838)
ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841)
ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842)
ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846)

〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)
華麗なる変奏曲 Op.12 (1833)
タランテラ Op.43 (1841)
演奏会用アレグロ Op.46 (1841)
舟歌 Op.60 (1846)
ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831)
3つの華麗なるワルツ Op.34 (1838)
ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840)
3つのワルツ Op.64 (1847)
2つのワルツOp.69 (1829/35)
3つのワルツOp.70 (1829/41)
ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. (1830)

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by ooi_piano | 2023-07-06 04:54 | ショパンの轍 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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