Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
〈第2回公演〉2023年8月5日(土)15時開演(14時45分開場)
F.F.ショパン(1810-1849):
ソナタ第1番 Op.4 (1828) 23分
I. Allegro maestoso - II. Minuetto / Allegretto
- III. Larghetto - IV. Finale / Presto
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スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20 (1832) 9分
バラード第1番 ト短調 Op.23 (1835) 9分
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31 (1837) 10分
バラード第2番 ヘ長調 Op.38 (1839) 7分
(休憩15分)
ロンド ハ長調 Op.73 (1826、作曲者編独奏版) 9分
歌曲《私のいとしい人 Op.74-12》(1837/1860、リスト編独奏版) 4分
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スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39 (1839) 7分
バラード第3番 変イ長調 Op.47 (1841) 8分
バラード第4番 ヘ短調 Op.52 (1842) 11分
スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54 (1842) 11分
[使用エディション:ポーランドナショナル版]
〔アンコール〕A.N.スクリャービン(1872-1915):《ソナタ第1番 ヘ短調 Op.6》(1892)[全4楽章]、
A.G.ルビンシテイン(1829-1894):《9つの雑曲集 Op.93》より
「ヤンキー・ドゥードゥル(アルプス一万尺)の主題による42の変奏曲」(1872/73)
アダム・ミツキェーヴィチがいた――山村雅治
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ポーランド共和国(Rzeczpospolita Polsk)は、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国であり、ロシアからの侵略戦争を仕掛けられて応戦するウクライナからの避難民を受け入れている。
ポーランドの歴史は「分割と統合」を幾度も繰り返されてきた。10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけポーランド・リトアニア共和国を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。18世紀、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割)、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。
ショパン(1810-1849)が生まれる少し前、ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。これはフランス帝国の衛星国にすぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体されることになる。その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。
そしてショパンが20歳を迎える1830年、「十一月蜂起」が起きる。
ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こった。しかし翌年には鎮圧されてしまった。
ショパンが没した1849年以降にもポーランド人はその後にも抑圧に対してポーランド文化をもって抵抗した。ロシアに鎮圧された一月蜂起やビスマルクによるポーランド人抑圧政策に苦しめられた。強大な力をもって押しかぶさってきた大国の抑圧政策によって、反発する力はより強靭に鍛え上げられてポーランド人の連帯とカトリック信仰は確固たるものになった。抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあとも続けられたが、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了する。共和制のポーランド国家が再生した。
その後、ポーランドが舐めさせられた辛酸はスターリンとヒトラーがもたらした。1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、ポーランドの国土はドイツとソ連の2か国に東西分割され、ポーランドは消滅することになる。独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。ソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。
ポーランドの人びとの耳には、心の底にはショパンの音楽があった。
言葉があれば切れ端をとりあげられて反権力の重罪に問われて粛清されることもある。直接的な政治イデオロギーがわからない音楽は、かえって直接に人びとを励ました。勇ましいポロネーズのほかにもショパンには華やかなワルツも慰めの夜想曲もあった。
フレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクールは第一次世界大戦の終結を経てポーランドが一国家として独立してから9年後にあたる1927年に第1回大会を開催。ワルシャワ音楽院のイェジ・ジュラヴレフ教授は、第一次世界大戦で荒廃した人々の心を癒し、当時フランス音楽と考えられていたショパンの音楽をポーランドに取り戻して愛国心を鼓舞しようと考え、コンクールの創設を思い立った。
そしてショパンとともにポーランドの人々の心には、ミツキェーヴィチの文学が奥底に滾る炎の波としてあった。
アダム・ベルナルト・ミツキェーヴィチ(1798-1855)は、ポーランドの国民的ロマン派詩人であり、政治活動家だった。
彼はスラブ、ヨーロッパのもっとも偉大な詩人のひとりとされ、ポーランドや西ヨーロッパではゲーテ、バイロンに比肩する詩人とみなされている。『コンラット・ヴァレンロット』『祖霊祭』『パン・タデウシュ』などの劇詩、「バラードとロマンス」などの詩など文学作品のすべてがポーランド・リトアニア共和国を壊滅させた大国に対する蜂起の狼煙になった。
「霊感と感情の爆発のおもむくままに生き、風俗的、美学的規律を越え、同時に孤独で不幸で周囲に背き、世界に自分の場所を見つけられない、そうした己の独自性を意識した、非凡な個人としてのロマン主義詩人」。
『祖霊祭』『パン・タデウシュ』が執筆された1832年から34年までの2年間は創造力は最高潮に達した。政治パンフレット『ポーランド民族とその亡命の書』を匿名で刊行し、それは即座に各国語に翻訳された。「豪然たる評判を呼んだ扇動と祈祷の書である」。
アンジェイ・ワイダ監督が映画化した『パン・タデウシュ物語』はソビエト連邦崩壊の1991年から7年を経た1998年に公開された。
ナポレオンのモスクワ遠征を目前に控えた1811年から1812年のリトアニアの農村を舞台に、対立する小貴族(シュラフタ)ソプリツァ家とホレシュコ家に生まれた若い男女の愛が、ロシア帝国の支配下にあった当時のリトアニアの歴史を背景に描かれる。原作者であるミツキェーヴィチがパリでポーランド人亡命者らを前に原作を朗読する形式で物語が構成されている。
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ロベルト・シューマンは、ショパンは「バラードはミツキェーヴィチのいくつかの詩に刺激されたものだとも言った」と1841年の『音楽新報』に書いている。
彼らがライプチィヒで会ったのは5年も前の1836年9月のことだった。そのときにショパンは「バラード2番」を引いて聴かせ、献呈している。この日のことをシューマンは「ショパンが自分の作品について語るのを好まない」と日記に書いている。
シューマンの『音楽と音楽家』が出版された1854年以来、ショパンのバラードを引くピアニストにはもちろんのこと、研究者にも重い課題がのしかかった。
日本で「バラード」全曲のSPレコードが発売されたのは1933年録音のアルフレッド・コルトーが演奏したものだった。日本ビクターは野村光一による解説冊子をつけていた。野村光一は「ショパンは4曲の物語の筋を彼と同郷の詩人ミッキーヴィッツに拠ったと謂われている。そのことは、ロバート・シューマンが作曲者自身から聞いたといって確認している。けれども、これらの楽曲を創作する場合、彼はミッキーヴィッツの詩のプログラムを写実的に描写しただろうか。左様なことは絶対にあり得ない。第一、表題にこれらのプログラムは少しも規定されていないし、また、ショパンの音楽それ自体がかくの如き客観的描写を行うには甚だ縁が遠い素質のものだからである」と断じている。コルトー自身が校訂した楽譜には、冒頭にミツキェーヴィチの詩が掲げられているにもかかわらず。
『アルフレッド・コルトー版 ショパン バラード』の前書きにコルトーは書いた。「ショパンがミツキェーヴィチの悲劇的な詩句から引き出したものは物語やイメージというよりも、むしろその詩を生き生きさせている強烈な愛国的な精神である」「私が1924年に行った一連のコンサートの解説の中で、ローラン・セイリエが書いてくれた解釈に従って4つの詩の要約をここに載せることによって、演奏者の貴重な助けになると考える」
バラード第1番 “コンラット・ヴァレンロット”
この作品の発想の源となっている散文のバラードは、リトアニアやプロシャ(1828年)の年代記による歴史上の伝説であるコンラット・ヴァレンロットの第4部の中の最後のエピソードとなっている。その中のエピソードでヴァレンロットは宴会が終わった時、酔いのために非常に興奮して、ムーア人の制圧者であるスペイン人に、前もってわざとペストやハンセン病など最も恐るべき病気に罹って、見せかけの善意で接触して復讐をしたムーア人の偉業を誉めそやしている。そしてあきれて驚いているお客さんに、ポーランド人である彼自身も死に至る抱擁で敵に死を吹き込むであろうと話して聞かせた。
バラード第2番 “シフィテジ湖”(即ちヴィリの湖)
“夜には星の光を映す鏡を張って広がっているような波一つ立たない”この湖は、嘗てロシア人の一団によって包囲された村の跡である。若いポーランドの娘達は彼女らを脅かす恥辱から逃れるために神に祈って、征服者達の手にかからずに、彼女らの足元に突然わずかに裂けた地の中に身を投げた。
神秘的な花に変わった娘達はその後、湖の岸辺を飾っている。その花に触れる者に禍あれ!
バラード第3番 “水の精”(ヴィリ湖)
この曲は女性が誘惑する描写である。若い青年が湖の岸辺で出会った少女に愛を誓った。男の変わらない愛なんか信じていない少女は、青年の愛の誓いにもかかわらず離れていき、そして人を魅了する“水の精”の姿になって再び現れてきた。彼女がその青年を誘惑するとたちまち、彼は水の精に魔法をかけられたように虜になってしまった。そこで罰を受けた彼は水の底深く引きずり込まれ、そして苦しげに呻きながら、決してつかまえることのできない滑りやすい水の精を追いかけるように運命づけられた。
バラード第4番 “ブドゥリ家の3人”(リトアニアの物語)
ブドゥリ家の3人-すなわち3人の兄弟-は彼らの父の命を受けて、最も素晴らしい財宝を見つけるために、はるばる遠征に出かけた。秋が過ぎて、そして冬になった。父は息子たちが戦争で死んだと考えた…。ところが吹雪の中をめいめいが順次戻ってきた。しかも3人とも唯一の戦利品として許嫁を連れて…。
コルトーの示唆を受けて、まじめに受け取ったピアニストはもちろんいる。コルトーは世紀の大ピアニストであり、エコール・ノルマルを創設した教授にして校長。ヴァーグナーを勉強しにバイロイトへ泊まり込み、「神々の黄昏」のフランス初演を果たした彼はピアニストを超えた大音楽家だった。
園田高弘はマルグリット・ロンらに師事した国際的な活動をしたピアニストだった。「園田高弘 諸井誠 往復書簡 ロマン派のピアノ曲 分析と演奏」(音楽之友社)には、バラードを演奏するにさいして「幸いなことに、ショパンのコルトー版にはミッケヴィッチの詩の大意が記述してあるので、それを参考にすることは、暗中模索で音符だけをたどることに較べて、どれほど有益でしょうか」と書き、「コルトー自身は、ショパンの作品の中に一つの、具体的な反映を探すことは意味がないことだし、空しい努力である、としています。しかし、われわれ演奏家が、とくに遠く離れた日本の状態を考えれば、それについて全く無知であるということは、もっと危険なことではないかと思います」と結んでいる。続けて詩句と楽想を並べて挙げている。
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ミツキェーヴィチ『バラードとロマンス』(未知谷)には以下の諸編が収められている。「プリムラ」「浪漫性 バラード」「シフィテシ バラード」「シフィテジャンカ バラード」「魚 バラード」「父さんのお帰り バラード」「マリラの小塚 ロマンス」「友たちに」「こいつは気に入った バラード」「手袋」「トファルドフスキの奥方 バラード」「トゥカイ、あるいは信義の試練 バラード」「百合の花 バラード」「ドゥダシュ ロマンス」「アダム・ミツキェーヴィチ詩集 第一巻 序」。
1822年はミツキェーヴィチがこれらの詩を「アダム・ミツキェーヴィチ詩集」として発表した年だ。「バラードとロマンス」が収録された本は年内には売り切れて、翌年版は重ねられた。彼は古典主義を打倒し「ロマン主義」を高く掲げた。人びとにはその民衆性が衝撃だった。俗謡を芸術としての詩に昇華させた作品は同時代のポーランド詩人の中でも群を抜いたものだった。その年、フレデリク・ショパンは12歳。少年時代から「バラード」はポーランドじゅうに広まっていた。「詩こそが最高の芸術と考えられ、音楽はより低いランクに甘んじていた」ロマン主義の時代がはじまっていた。
ショパンは作品にジャンル以外の題をつけなかった。ダンテやゲーテにインスピレーションを受けて作品を書いたリストとシューマンとちがって、ショパンは文学には関心がなく「標題」がついた音楽を書かなかった。「バラード」はほかの作曲家は歌詞がついた「歌曲」として書いたが、ショパンはピアノ一台で「バラード」を4曲書いた。
1832年、22歳のショパンははじめてパーティの席で12歳上のミツキェーヴィチに会った。その後も親交をかさねていた。1839年3月27日の書簡で、ジョルジュ・サンドが「ゲーテ、バイロン、ミツキェーヴィチ」を高く評価する記事を書いたから読むべきだ、とグジマワに書いた。また1839年4月15-16日のグジマワ宛の書簡には『祖霊祭』への言及がある。ショパンは1836年26歳から1847年37歳まで同伴したサンドから話を聞き、その作品も読んではいた。没後の1857年にユリアン・フォンタナにより出版された(遺作)「17のポーランドの歌 作品74」はショパンが作曲したポーランド語の歌曲集である。
第1曲 - 願い Życzenie (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第2曲 - 春 Wiosna (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第3曲 - 悲しみの川 Smutna rzeka (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第4曲 - 酒宴 Hulanka (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第5曲 - 彼女の好きな Gdzie lubi (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第6曲 - 私の目の前から消えてPrecz z moich oczu (アダム・ミツキェーヴィチ)
第7曲 - 使者 Poseł (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第8曲 - かわいい若者 Śliczny Chłopiec (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第9曲 - メロディ Melodia(ジグムント・クラシンスキ)
第10曲 - 闘士 Wojak (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第11曲 - 二人の死 Dwojaki koniec (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第12曲 -僕の愛しい人 Moja pieszczotka (アダム・ミツキェーヴィチ)
第13曲 - 望みはない Nie ma czego trzeba (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第14曲 - 指環 Pierścień (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第15曲 - 花婿 Narzeczony (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第16曲 - リトアニアの歌 Piosenka litewska (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第17曲 - 舞い落ちる木の葉 Śpiew z mogiłky (ヴィンチェンティ・ポル)
ここにミツキェーヴィチの詩を歌曲にした作品が2曲ある。「私の目の前から消えて」と「僕の愛しい人」。
松尾梨沙『ショパンの詩学』には「私の目の前から消えて」の全文が訳されている。4行が10連に並ぶ長い詩だ。
私の目の前から消えて!…すぐに聞くよ、
私の心から消えて!…心が聞くよ、
私の記憶から消えて!…いや、その命には
僕ときみの記憶は従わない。(以下略)
「僕の愛しい人」として。6行が2連。
僕の愛しい人は、陽気な一時には
チュンチュン、ツピツピ、クークーさえずり始める、
こんなにも愛らしくクークー、ツピツピ、チュンチュン鳴くので、
どんな一言も漏らしたくなくて、
僕は敢えて止めず、敢えて返事もせず、
そしてただ聴いて、聴いて、聴いていられたら。(以下略)
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<ミツキェーヴィチ小伝>
ミツキェーヴィチは旧ポーランド東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ、ナヴァフルダク)で、弁護士の子として生まれる。学生時代には、ポーランド立憲王国としてポーランドを支配するロシア帝国からの独立を目指す若者による政治・教育地下組織の共同設立者の一人となった。
1823年にロシアによって逮捕され、1824年にロシア領内への追放刑を受けたが、首都サンクトペテルブルクで文芸サークルに所属し詩作の才能を伸ばした。1828年には14世紀のリトアニア大公国で活躍したドイツ騎士団、コンラード・フォン・ヴァレンロットについての叙事詩を発表し、その後にポーランドで続いた民族蜂起に思想的な影響を与えた。
1829年にロシア出国を認められ、ドイツのヴァイマルでゲーテに会った後にイタリアに向かい、最終的にはローマで創作活動を行った。ここでミツキェーヴィチの代表作ともされる叙事詩「パン・タデウシュ」を執筆。
1832年にはフランス(七月王政期)のパリに移り、1834年6月に「パン・タデウシュ」の初版を発行。1840年にはコレージュ・ド・フランスに新設されたスラヴ語・スラヴ文学のトップとなったが、1844年に辞任した。1848年から1849年にかけての冬にはフレデリック・ショパンが病気だったミツキェーヴィチを訪れ、ピアノ演奏によって彼の心を癒した。ショパンは12年前にミツキェーヴィチの詩2編に旋律を付けた事があった。
1855年、妻のセリナが亡くなると、ミツキェーヴィチはクリミア戦争にポーランド人部隊を派遣してロシアと戦うため、パリに未成年の子ども達を残してオスマン帝国のコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)に移動して準備を進めたが、その最中に同地で病没。死因はコレラと推測される。
死後、彼の遺体はコンスタンティノープルで仮埋葬された後にフランスに移されたが、1890年にポーランドに移され、クラクフのヴァヴェル大聖堂の地下室に安置された。
1998年にはアンジェイ・ワイダによって「パン・タデウシュ」が映画化(邦題『パン・タデウシュ物語』)された。
ミツキェーヴィチの母語はポーランド語だった。基本的にポーランド語で創作活動を行ったが、血筋はリトアニア人の家系で、住んでいたのはベラルーシだった。彼はポーランド・リトアニア共和国として一体性を持っていたこの地域の複雑で豊かな文化的土壌によって育まれた。ポーランドでは「国民的詩人」としての評価が与えられ、クラクフのヴェヴァル大聖堂に埋葬された。首都ワルシャワにあるポーランド大統領府の北側にはミツキェーヴィチの銅像が建てられ、ポズナニではアダム・ミツキェーヴィチ大学が設置されている。
一方、リトアニアでも敬意が捧げられている。首都ヴィリニュスに博物館が置かれ、1998年には生誕200周年の記念硬貨が発行された。この他、ベラルーシの首都ミンスクやグロドノ、ウクライナのリヴィウなど、かつてのポーランド・リトアニア領の各地に銅像が残っている。また、ミツキェーヴィチが長年居住したパリや死没地のイスタンブールでも博物館があり、現在でも彼は多くの国の人々に慕われている。
【公演予告】
〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
3つのエコセーズ Op.72-3 (1826)
序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833)
ボレロ Op.19 (1833)
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834)
2つのポロネーズ Op.26 (1835)
2つのポロネーズ Op.40 (1838)
ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841)
ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842)
ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846)
〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)
華麗なる変奏曲 Op.12 (1833)
タランテラ Op.43 (1841)
演奏会用アレグロ Op.46 (1841)
舟歌 Op.60 (1846)
ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831)
3つの華麗なるワルツ Op.34 (1838)
ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840)
3つのワルツ Op.64 (1847)
2つのワルツOp.69 (1829/35)
3つのワルツOp.70 (1829/41)
ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. (1830)