Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
F.F.ショパン(1810-1849):
●3つのエコセーズ Op.72-3 (1826) 2分
第1番 ニ長調 - 第2番 ト長調 - 第3番 変ニ長調
■アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834) 13分
■2つのポロネーズ Op.26 (1835) 13分
第1番 嬰ハ短調 - 第2番 変ホ短調
■2つのポロネーズ Op.40 (1838) 14分
第1番 イ長調「軍隊」 - 第2番 ハ短調
(休憩15分)
●序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833) 10分
●ボレロ Op.19 (1833) 7分
■ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841) 10分
■ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842) 7分
■ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846) 12分
[使用エディション:ポーランドナショナル版]
《アッラ・ポラッカ――ショパンの肉と皮膚》(山村雅治)
――生きているうち一度でも天国に足を踏み入れし者は、死んで後、すぐには天国へ行けるものではないと。(アダム・ミツキェーヴィチ)
1
ショパンの人間像は「ロマンス」のなかの人間が、血が通った現実の人間にとってかわってしまっていた。現実をゆがめるレンズを通して彼とその芸術を眺める過程は、ほとんど彼の直後からはじまった。19世紀後半のあいだに速度を速め、20世紀の前半には絶頂に達していた。リストが語るショパン像は歴史の上では重要な史料だし、コルトーが自ら校訂した楽譜につけた解説も同じだが、あまりにもロマンティックなショパン解釈だった。彼の生涯と性格は夢と想像にあふれた伝記になり、作品にも本人がつけていない呼び名をつけられたものがある。ショパンを語ろうとする人間はショパンの音楽に酔った体験から言葉をあふれさせる。かくして個人の気まぐれと幻想のなかをさまよってしまう。
たしかにショパンは謎めいた人物だった。サロンという小さな空間で少数の人たちだけに知られ、作品も演奏も少数の人たちだけが聴いた。彼らにはショパンの全体を語るには、あまりに言葉が足りなかった。残ったのは感傷的な逸話と不正確な総論が事実にとってかわった。ショパンが短命だったことも肖像をロマンティックにゆがめてしまった。それに加えて、迫害された国からの亡命者であるフランス系ポーランド人として、彼はきまって関心の対象になっていた。彼はパリの音楽界に特色ある奇才として登場した。
彼の作品とピアノ演奏は、それまでには聴いたことがない新しいものだ。社交界が求める情緒的欲求をみたしていたことも確かだろう。彼が存在するという衝撃は、彼自身が私生活を覆い隠したヴェールによって、むしろ強められた。ジョルジュ・サンドとの恋愛と同居と39歳のときに訪れた肺病による死とは、ショパンが「ロマンスの人物」であることを裏書きするものだった。
自作に対する彼の態度はまさに「閉じた本」のように知られざるものだった。親友は数少なく、しかも音楽家ではなかったが、彼らにたいしても心の奥底にあるもの、音楽の動機になるものを明かしたことがなかった。自分の作品が文学や絵画を背景にもっていることを、彼は憤然として否定した。シューマンの評言を嘲笑ったように。曲に後から他人につけられた「標題」にも同じ態度をとっただろう。若かったワルシャワ時代から国外に出ると、心の扉をおずおずと開いて見せることはやめてしまった。
外の世界へのショパンの極度に控えめな態度は「書簡」に見られる言葉の表現に見られる顕著な特徴だ。しかし時が経つにつれて、これを病的なまでに育てあげていったことは彼の「音楽」には聴くことができる。ショパンが自己の魂を覗いて、そこに見出されるものを肯定していたことは、ポーランドの親友だったフォンタナへの書簡には暗示されている。自己を語っている。あるいは自作について語っている。
「もしもぼくが、見たところは食べられそうなので、ほかのものと間違えて摘み取り、食べてみたら中毒を起こしてしまう茸のようであっても、それはぼくが悪いのではないのだ」(1839年3月2日)。
またショパンは自分を「おそらくぼくよりも魂のなかに激しい焔を燃やしながら、それを無理にもみ消して消滅させてしまった修道士」(1938年12月14日)に喩えている。
生涯の終わり近くには「われわれはある有名な製作者の創造物、まあ一種のストラディヴァリウスのような存在で、もはや修理してくれる人はいないのだ。不器用な手にかかっては新しい音を出すこともできず、だれもわれわれから引き出してくれることのないすべてのものを、自分の内部で窒息させてしまうことになる――しかもこれはすべて、われわれを修理する者がいないために起こることなのだ」(1848年8月18日)。
これらの書簡に見られる「もみ消して」や「窒息させて」は、感情の「抑圧」を意味している。情緒のあらわな表現を抑える自制が必要だというショパンの言葉は、ショパンの音楽をとりわけ感傷的な気分を誇示するだけの音楽とみなす人たちにとっては、奇妙な言葉に響くだろう。
ひとつのことは明らかだ。彼の音楽はやさしさと親しみやすさとともに、かくも激しい情熱と獣の獰猛さを含んでいる。伝説によって語り伝えられた温厚で悪気がない病気がちの人間が生みだした作品ではなかった。時代の音楽のしきたりに反抗し、その反抗は傲慢でさえあり、パリのサロンの貴族たちのしきたりに対する大げさな敬意とは相反するものがあった。ショパンは矛盾に満ちた不可解な複雑な人間であり、異国に出てからはいつも仮面をかぶっていた。
2
ショパンの体内にはふたつの国の血が混ざりあって流れていた。父ニコラ・ショパンは純粋に農夫のフランス人の家系をつぎ、16歳のときにポーランド人の領主の家令にやとわれてから立身出世をとげ高校のフランス語教師になった。父からは秩序と正確さへの好みを受け継いだ。母ユスティナはポーランド人でピアノを弾いた。温和で信心深く控えめで夢見がちな性格は、男らしい積極的な父親と均衡がとれていたようだ。
フレデリック・ショパンが生まれたポーランドは強烈な国民意識があった。ポーランド人は愛国心と独立心と文化の自由という主題にたえず心を奪われていた。それらが近隣の大国によって奪われていたからだ。ショパンの少年時代にはポーランドの社会はヨーロッパの時代の思潮には目覚めきっていた。ワルシャワは独立への気概があふれる街だった。
国家消滅という危機に襲われた時代、ポーランド文化史上もっとも重要なロマン主義が開花する。それは国家が存在しない時代だったからこそ、民族の伝統と深く結びついて誕生し、燦然と輝いた。ポーランド・ロマン主義は、ミツキェーヴィチの最初ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民楽派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」。その詩集「バラードとロマンス」が出された1822年に幕を開けた。この時代には詩が異常なまでの力をもってあらゆる芸術を支配した。
早熟な少年ショパンは音楽の才能がなかったら上流階級に知られることはなかった。幼年期を過ぎて社交界の寵児になってからは困難ではあったが、ときに若いリストの身の上に起こったような冷遇の寂しさは経験しなくてすんだ。若いリストはときに冷遇され、劣等感の重荷に苦しまされたが、少年のショパンは慎み深い家族の出である神童が過ごしていた社会の欲求と、根強い生まれつきの傾向を両立させていた。
18歳になった1828年、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。フェリクス・ヤロツキに同行して、ベルリンに赴く。ベルリンでは、ガスパーレ・スポンティーニの指揮する馴染みのないオペラを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、またカール・フリードリヒ・ツェルターやメンデルスゾーンなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。また、彼はその2週間ほどの滞在中にウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴いた。
その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれた。ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダもピアノの腕に覚えがあった。そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』を二人のために作曲した 。7歳のときにト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキの印刷工房で刷られ出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。「ポロネーズ」は小さなころからからだにしみ込んだリズムだったのだ。
1829年、ワルシャワに戻ったショパンはパガニーニの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のフンメルに出会った。同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ウィーンで華やかなデビューを果たす。彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった。続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『ピアノ協奏曲第2番 Op.21』を初演した。また1830年3月17日にはワルシャワの国立劇場で『ピアノ協奏曲第1番 Op.11』を初演した。この頃には『練習曲集』の作曲に着手していた。
演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。1830年11月2日、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った。ヤヒメツキはこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない」。ショパンはオーストリアに向かったが、その次にはイタリア行きを希望していた。
その後、1830年11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。
その後、1830年11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。
1831年9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。
〈彼は母語のポーランド語で「コンラッド」の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した。彼は家族と市民の安全が脅かされることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか」。こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番』『革命のエチュード』などにぶつけられた〉。
という通説も「ものがたり」ではなかったかと疑ってしまう。周りに起きる具体的な事件や読んだ文学を「そのまま」音楽にうつしたことなどショパンになかったからだ。
また、こういう「はやわかり」のものがたりもある。
〈ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民楽派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」〉。
それにしても祖国へは帰れなくなったショパンは、少年のころにはむしろ偽古典的な曲を書いていたのが「裸のポーランド」をむきだしにするようになった。
3
ショパンのむきだしのポーランド語で書かれた書簡には、彼の不死身の外面と並行して存在し続けた力強い内面の力と激しい気質が露出しているものがある。うっかりしたはずみに、彼は激しい高まりをみせる怒りや軽蔑の感情に押し流されることがあったが、これを口に出したときの言葉は、彼がワルシャワやパリの優雅なサロンで用いていた言葉とはひどく縁遠いものだった。荒々しい激情は抑制されず解き放たれていた。
広範囲にわたるショパンの作品の背後にひそむ国民主義・愛国主義的動機には異論を挟むつもりはない。しかし、彼はこの無類の霊感の泉から湧き出したものでなければ、たったひとつの音符も書けなかったとするのは暴論だろう。フランス人の名前を持っていた事実のために、ポーランドを永久に去ってから、より生まれた国を意識することになった。彼は生誕の地に対して熱烈な態度で、しかし盲目的にではなく、心をささげていた。実在の国としてかどうかは判らない。二度と帰れない浄化された概念としての「ポーランド」であればそれは確かなことだろう。彼の本質はワルシャワにあった。フランス人を「自国民」として見なすようになったというのは嘘だ。作品についてもポーランドの人たちがどう思うかを気にしたし、彼が最も親密な関係を結んだのはフランスにいる亡命ポーランド人たちだった。
ショパンは子どものころから体の奥深くにまで沁みこんだポーランドの舞曲に耳を澄ます。7歳のときにポロネーズを2曲書いたことから、ポロネーズは幼いころから親しんでいたものだ。ショパンのポロネーズ第1番嬰ハ短調と同第2番は1836年作曲、翌年出版された。1938-39年には第3番(軍隊)と第4番。1840年に第5番。1842-43年に第6番(英雄)。1846年に第7番「幻想ポロネーズ」。第8番から10番までの3曲は1827-29年に作っていた作品を遺作として出版された。ショパン自身が作品番号をつけて出したのは7曲だが、少年時代の習作を含めれば16曲にも及ぶ。
ポーランドの舞曲にはマズルカもある。ショパンは1830-32年に書きはじめて1849年、死の年まで50曲以上を書きつづけた。
またクラコヴィアクは、クラクフやマウォポルスカ県の民族舞曲で、ポロネーズやマズルカ、オベレクと並んでポーランドの主要な舞曲となっている。ショパンは、非常に華麗な演奏会用クラコヴィアク(ピアノと管弦楽のための《クラコヴィアク風ロンドヘ長調》作品14)を1828年に作曲した。同年の作品に「ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調」がある。ここではポーランド民謡「もう月は沈み」や同郷の作曲家カロル・クルピニスキの主題が扱われ、フィナーレはクラコヴィアク(ヴィヴァーチェ イ長調 3/4拍子)で結ばれる。
1810年にポーランドに生まれたフレデリック・ショパンは、1832年(22歳)でパリに出た。1838年、ジョルジュ・サンドに出会いマヨルカ島に滞在。その後も冬はパリで暮らし、1847年(37歳)サンドと別れる。1848年(38歳)2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。1849年 (39歳)10月17日、永眠した。ショパンが奏で続けた音楽はいまも人びととともにある。
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ちなみにポロネーズ(仏: polonaise、波: polonez、伊: polacca)は、フランス語で「ポーランド風」の意。「もとは民俗的なものでなく貴族の行進から始まったといわれ、16世紀後半にポーランド王国の宮廷で行われたという」という解説がどの本を読んでも現われる。伝聞であって物証はない。ポーランドの音楽学者クシシュトフ・ピェガンスキによれば「王宮内の実用舞踊についてはごくわずかなことが分かっているだけである。年代記作者たちは、舞踊会の始まりを飾った凱旋行進のようなものに言及している。ことによると、それはポロネーズの原型であったかもしれないが、しかしこの仮説を裏付ける十分な史料はない」(Muzyka Polska)。
「フランス宮廷からポロネーズの名が広まった」のは、その名がフランス語だから確かだろう。バロック時代に至ってテレマンが「ポーランド・ソナタ」を書き、ポーランドのフォークロアを書いた。ポロネーズはその名の曲をバッハがブランデンブルク協奏曲、フランス組曲、管弦楽組曲などに書いた。ヘンデルの合奏協奏曲集作品6の3の第4曲も魅力ある音楽だ。