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《ウィーン体制のシューベルト Schubert im Metternichschen System》
2023年10月19日(木)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明 [4手連弾]
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
入場料: 3500円
FBイベントページ https://fb.me/e/8GE9tpBUK
F.シューベルト(1797-1828):
《F.エロルドの歌劇「マリー」(1826)の主題による8つの変奏曲 ハ長調 D 908》 (1827) 12分
Thema (Allegretto) - Var.I - Var.II - Var.III - Var.IV - Var.V (Un poco più lento) - Var.VI (Tempo I) - Var.VII (Andantino) - Var.VIII (Allegro vivace ma non più)
《ピアノ五重奏曲 イ長調 D 667「鱒」》 (1819/1870、全5楽章) [H.ウルリッヒ編連弾版] 35分
I. Allegro vivace - II. Andante - III. Scherzo / Presto - IV. Tema con variazione / Andantino - V. Finale / Allegro giusto
(休憩)
《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] 50分
I. Adagio / Allegro / Più allegro - II. Adagio - III. Scherzo / Allegro vivace - IV. Andante / Un poco più mosso / Più lento - V. Menuetto / Allegretto - VI. Andante molto / Allegro / Andante molto / Allegro molto
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《総て燐火の戯れゆゑに Alles eines Irrlichts Spiel》――本郷健一
フランツ・シューベルトが死んだとき、遺品は衣類・雑貨55点と古い楽譜(誰の作品かは分からない)2,3点、総額63フローリン(1フローリン5,000円とみても31万5千円)分で全部だった。これは、彼が最期を迎えた次兄フェルディナントの家の一室へ、死後13日目に管財人が立ち入って見積もったものだ。この遺品目録には、検閲局に届けるべき書籍があったか・・・なかった、との報告が含まれている。検閲局云々がされているところ、メッテルニヒ体制のもと、革命思想の浸透防止に厳しい目線がウィーンの市井隅々にまで向けられていたことがうかがわれる。
シューベルトの創作活動期間は、ビーダーマイヤー文化の時代(1815~1848)の前半に、ほぼ包含される。
1814年9月、ナポレオンの敗北をうけてヨーロッパの秩序回復を目的にウィーン会議が開催されたが、おもに各国の領土をめぐり10か月にもわたって紛糾し、それに伴い、主催したオーストリア外相メッテルニヒは秘密警察による諜報活動を大幅に増強した。この諜報活動はウィーン会議終了後も緩められることがなかった。
これにより、張り巡らされた監視網は市井の隅々までを覆い、文化活動も委縮の度を強めることとなった。
ビーダー(実直な)マイヤー(マイヤーさん~ドイツでもっともありふれた姓)なる語は、1853年になって、とある裁判官兼詩人が友人のエッセイ中の架空人物をこの名前で前時代的な滑稽詩の作者に擬したところから普及し、「お上のご政道に対しては口を閉ざして背を向け、お勤めでは黙々と義務を果たすが、あとは我が家とせいぜい隣近所との交際という小さな世界に閉じ籠って文学や芸術の世界に遊」ぶ、ウィーン会議後のドイツ圏の人々を、後付けで象徴することとなったものだ。
シューベルティアーデの絵画で友人に囲まれたシューベルトの像は、このような象徴によく当てはまる。生前および死の直後に出版された作品も、作曲者と出版社の直接の合意で付された作品番号108までのうち、購入者の享受しやすいリートを集めたものが、半数超の58を占めている。その死後10年ほどを経て、シューマンはシューベルトのイ短調ピアノソナタD845につき書いた記事で、この作曲家のことを「いまだにただ歌曲しか作らなかったと思っている人が多い」と述べている。
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1828年11月19日に腸チフスで死んだシューベルトは、遺言書を書かなかった。ほんの一週間前には、兄の家に来る直前まで居候させてくれていた友人ショーバー宛に読み物をいくつか送ってくれるよう催促の手紙を送っている。同じく17日には、見舞いに訪ねた指揮者ラハナーに、自分が作曲する新しいオペラの台本を要求したほどだから、死への予感はまったくなかったのだろう。
31歳での死が、シューベルトの悲劇的なイメージをもたらすものとなったようだ。
9歳年下のシューベルトの庇護者的存在だったシュパウンが、歌曲集『冬の旅』(D911、1827年)について述べた回想も、このことに一役かっている。
「『今日ショーバーのところへ来てくれ。僕は君たちに一組の恐ろしいリートを歌って聞かせたいんだ。・・・これには、他のどんなリートよりも苦しめられたんだ。』彼は我々に感動した声で『冬の旅』全曲[このときは最初に完成した前半12曲]を通して歌って聞かせてくれた。私たちはこのリート集の暗い気分に全く当惑してしまい・・・シューベルトはただ「(略)君たちもいずれは気に入ってくれるだろう」と言っただけであった。」
ベートーヴェンと縁の深かったシュパンツィヒの四重奏団が、全曲短調という異例の弦楽四重奏曲『死と乙女』(D810、1824年)の公開を拒んだというエピソードも、それに重なる。1826年初のリハーサルでこの曲の第一楽章をさんざんミスしながら弾いたシュパンツィヒは、途中でやめると、こう言った。
「兄弟、これは駄目だね、もう止めたほうがいい。君は君のリートだけに専念しなさい。」
日本で最近書かれたクラシック音楽入門書は述べている。
「シューベルトはそれまでになく暗い音楽を書いた人です。/こんな音楽を書く人が30歳を超えたあたりで世を去るのもあまりにも当然でしょう。」
この本があげてるシューベルトの代表作は、『未完成』交響曲、バラード『魔王』、そして上の『冬の旅』、四重奏曲『死と乙女』である。
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とりあえず、しかし付き合いのあった人々からは、シューベルトはあくまでその突然の早逝によって惜しまれたのであって、生きていたシューベルトを悲劇的にとらえる向きはほとんどなかった。シュパウンの、上の回想の続き。
「シューベルトは何事にも苦しむことのない鈍感な男だと信じていた者は大勢いたし、あるいはいまだにいるかも知れない。」
こう述べたシュパウン自身は、シューベルトは苦しんで創作活動をしていた、そのため内面に閉じこもることを愛していた、と続けてはいる。それでも多くの人たちにとって、シューベルトは明るい思い出の中の存在だった。
「[シューベルトを含む]数人の愉快な仲間が(略)夜パーティーから帰宅するところだった。彼らは、ようやく建物の外壁が出来上がったかどうかの段階にある建築工事現場に差しかかった。すると彼らはそこに並んで立ち、出来かけの建物の未来の住人に向かって、情のこもったセレナーデを歌いだしたのである。」
シューベルトは友人と共にピアノ四手で演奏していたとの回想も見受けられる。
他の人によってシューベルトがいつも彼と一緒でなければ四手用の作品を弾かなかったとまで報告されているヨゼフ・フォン・ガヒーの回想。
「私がシューベルトと一緒に演奏をして過ごした時間は、私の生涯の一番の楽しさにあふれた時間のひとつに数えられるものです。」
『未完成』交響曲を長いこと引き出しにしまいっぱなしにしていたアンゼルム・ヒュッテンブルンナーの回想。こちらは弦楽器で演奏を楽しんだのかも知れない。
「ある日シューベルトが私のところへ来て、モーツァルトのヘ長調の『坑夫音楽』(「音楽の冗談」K.522のこと)の自筆楽譜を見せてくれました。・・・彼はこの作品を、当時まだ生きていたあるモーツァルトの友人から贈られたのです。私たちはヴァイオリン二挺、ヴィオラ、この交響曲を全部通して弾いてみて、モーツァルトがそこで意識的に犯した作曲上の間違いの混乱状態を大いに楽しみました。」
ヒュッテンブルンナーは後年これをピアノ四手用に編曲したという。
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そもそもシューベルトの最初の作品は四手ピアノのための幻想曲D1(1810年)だった。富裕層を中心に急速に家庭内へピアノが普及したことを背景に、四手用の曲は18世紀後半から、師匠が手本を示し弟子が真似る(例:ハイドン Hob.XVII a:1)・師匠が弟子を支えて演奏するものとして流行しはじめ、19世紀には演奏会用に作られるようになった。シューベルトはその時流に乗って、モーツァルトやベートーヴェンを大きく超える数の四手用作品を作った。
世間を見渡すと、ピアノの普及と反比例するように、ピアノ・ソナタの楽譜には需要が薄れた。1818年のウィーンのピアノ楽譜出版はまだ35%がソナタだったが、1823年には15%にまで落ち込む。代わりに台頭したのは出版の50%を占めるようになった変奏曲だったという。
シューベルトにはピアノの変奏曲作品も若干あるが、同時期の出版リストに見られだす幻想曲ジャンルにも代表作の一つとなる『さすらい人幻想曲』D760など数作がみとめられ、2年後の四手用作品D940も優れた幻想曲である。
アルフレート・アインシュタインは、シューベルトは四手用の作品を「本来はオーケストラ用に構想した作品の代用として利用」したと見ており、エステルハージ伯爵家で音楽教師をした1818年と1824年に高い集中度で作られたものは、伯爵令嬢たちの教育のためだったかとも考えている。上流家庭に浸透したピアノによるサロンでの効果的な演奏もシューベルトは想定していたかも知れない。24年の大二重奏曲(四手用作品である)D812はジェリズ(エステルハージ家の所在地)で客人たちの前で披露されている。加えて、最後の年に書かれた四手用作品には「社交的なもの」が多く現れる、とアインシュタインは言っている。通称「子供の行進曲」D928は、1827年にグラーツのバハラー夫人が夫の命名祝日に7歳の息子と連弾するため注文したものだ。同じ年の「『マリー』の主題による変奏曲」D908は、詳しい経緯は不明だが、リンツ大学の哲学教授ノイハウスに献呈されている。モーツァルト(6作+断片2)やベートーヴェン(4作)にはほとんどなかった四手用ピアノ曲ジャンルに、より立ち入ったシューベルトの場合、独奏用ピアノ曲が生前あまり出版へと結実しなかったのに対し、四手用は33作中17作と、半数が出版されている。
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シューベルトと交流のあった人々の回想は、それでもリートを含む声楽作品にまつわっているものが圧倒的に多い。
創作の数が突然に減り、器楽曲が中途で放棄された稿ばかり残された、研究者の間で「クリーゼ(危機 Krise)」と呼ばれている1818年から1823年ごろには、「器楽は当時のシューベルトにとってまったく関心の中心にはなかった」。
だが、それはシューベルトがこのとき器楽を諦めたことを示すのではない、と、近年の研究が明らかにしている。この期間は「音楽劇への取り組みが頂点を迎える。たいへんな時間を必要とするこのジャンルは、部分的には大いなる実りをもたらすものでもあった」(し、この期間にシューベルトは3作ものオペラを完成させている)。そうしたうちにあって、実は断片だとされている器楽曲も、ピアノソナタ数曲は再現部の開始直前で中断されていて完成のめどが立っている点が共通しており、変ホ長調の交響曲D729の場合はシューベルトが最終部分に「Fin」と書き込んでおり、一応できたと思ったものの浄書するに至らなかっただけだと考えられる。
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オペラは、残念ながら、書いても書いても水の泡だった。1823年に成った『陰謀者たち Die Verschworenen』D787は、検閲局の意向に沿うようタイトルを『家庭争議 Der häusliche Kreig』と改めたにもかかわらず、検閲で時間をとられているうちにベルリンで別の作曲者による同台本のオペラが好評を博してしまい、上演に至らなかった。
同じ年に出来た『フィエラブラス』D796は、台本作者クーペルヴィーザーが色恋沙汰で劇場秘書の地位を降りてしまったため、結局上演されずじまいとなった。
生涯に10作を完成させたオペラも、運と台本に恵まれず、1820年に2作が劇場にかかりながら短期間で打ち切られたのが関の山だった。この1823年の『フィエラブラス』上演不可をもって、オペラへの邁進を、シューベルトはいったん断念する。寿命が許せばまたこちらを向いただろうことは、彼が死の数日前に訪ねてきたラハナーに頼んだことを思い出せばうなずけよう。
『フィエラブラス』台本作者の弟宛、1824年3月31日に出した手紙から。
「君の兄さんのオペラは(舞台を離れてしまったのがよくなかった)、使い物にならないと宣告されて、そのおかげで、僕の音楽は不採用となってしまった。・・・僕はまたしても、オペラを二つ無駄に作曲したことになる。」
こうして、シューベルトは器楽への注力を決心する。
同じ手紙から。
「リートのほうではあまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲を2曲、八重奏曲を1曲、それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きなシンフォニーへの道を切拓いていこうと思っている。」
![2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09243279.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202309/21/10/c0050810_09243279.jpg)
その後、シューベルト自身がブライトコップフ&ヘルテル社とライプツィヒのプロースト社に送った、日付も同じ1826年8月12日で内容もほぼ同じ書簡がある。
「私はドイツ全土で、できるかぎり名を知られたく思っておりますので、下記のうちより貴殿のご選択にお任せ致し[て出版したいと思い]ます。ピアノ伴奏つきのリート・弦楽四重奏曲とピアノソナタ・四手用ピアノ曲等々、そのほか八重奏曲も一曲作りました。」
最初こそ自費出版(実態は友人たちの出資)だったシューベルトの楽譜だが、クリーゼの時期までには、そのリート集が出版社にとって収益の上がるものとなっていたようだ。
58に上る歌曲群(ドイッチュ番号が与えられた600弱の完成作のうち136作、22%)が出版され世に問われているのは、彼がビーダーマイヤー的に親しい隣近所ばかりを念頭に作曲をしていたのではないことを意味している。完成作品総数の5分の1程度しか出版できていないことは、そんな状況にもかかわらず、主要ジャンル次位であるピアノ曲が完成300作弱に対する37作出版(出版単位としては32)、12%程度であることも勘案すると、決して低い数字ではない。
友人たちの助力による『魔王』Op.1、『糸をつむぐグレートヒェン』Op.2と単独歌曲の自費出版で出発したシューベルトの楽譜出版は、24歳になった1821年から軌道に乗り始める。自信を得たシューベルトは、それまで出版を担っていたカッピ&ディアベリ社が自分の作品を安く買いたたいているのではないか、との疑念を発し、他の幾つかの出版社に販路を拡げていった。1823年にはザイアー&ライデスドルフ社、25年にペナウアー、26年にアルタリア、以後ヴァイグル、ハスリンガー等々と、シューベルト作品を続々と引き受けている。
歌曲に限らず、多様な器楽曲をアピールしたシューベルトは、器楽でも着々と成功を収めていく。
1823年2月に出版した器楽、ハ長調の大幻想曲D760(「さすらい人幻想曲」)はウィーン新聞の出版広告で「最上の作曲家による似たような作品と同列にならべるにふさわしい」と紹介された。
シューベルトは、出版に関してまた別に、1828年2月ショット社から打診を受けて返信をしている。このときは手元にある作品としてピアノ三重奏曲・弦楽四重奏曲(ト長調とニ短調)・ピアノ独奏のための四つの即興曲・ピアノ連弾の幻想曲(エステルハージ伯令嬢カロリーネに献呈したもの)・ピアノとヴァイオリンのための幻想曲・声楽曲数作を列挙し、
「このほかにまだ3曲のオペラ、1曲のミサ、1曲のシンフォニーがあります」
とわざわざ付記した。付記に関しては、なお
「これらの最後の作曲群に言及したのは、貴殿に私が芸術における最高のジャンルを目指す努力の一端を知っていただきたい、という気持ちだけで、他意はありません。」
とことわっていて、自分がこの年のうちに死んでしまうことなど思いもよらなかったシューベルトの、胸に描いていた音楽人生プランを垣間見させてくれる。
![2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09244859.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202309/21/10/c0050810_09244859.jpg)
ミサ曲は、シューベルトが最初に公的な成功を得たジャンルだった。17歳のとき作曲したヘ長調ミサ曲は、その年のうちに2つの教会で演奏され、生涯で6作書かれることになるラテン語通常文ミサ曲のうち4作までは演奏の記録ないし形跡がある。ただ、上のリストにある、おそらく最後の変ホ長調ミサ曲は、そこまでたどりつけなかった。
シューベルトのミサ曲は、グローリアとクレドに一貫した詞句省略があり、とくにクレドにおいて「一にして聖かつ公の使途継承の教会を[我は信ず] Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam」に付曲されていないことは、他の詞句の省略とあいまって、シューベルトの信仰における非カトリック性を示すのではないか、と、研究者の間で議論され続けている。シューベルトの教会への皮肉な見方は、1818年10月29日にジェリズから家族宛に送った手紙で窺える。
「兄さんには想像もつかないだろうな。ここの坊さんときた日には、老いぼれた駄馬みたいに偽善者で、ロバの親方みたいにバカで、水牛みたいにガサツな連中ばかりなのだ。お説教を聞いていると、あの悪徳に骨まで染まったネポムツェーネ神父でもまったく顔色なしというくらいひどいものだ。祭壇の上には道楽者や非行少年どもがわんさかとひしめいていて、この連中に思い知らせてやろうとするなら、死人の頭蓋骨を持ってきて祭壇の上に突き出して、こう言ってやるしかない。この罰当たりのチンピラめ、おまえたちもいつかはこういう風になるんだよってネ。」(ネポムツェーネ神父については具体的なことは分からない。)
ショット社への手紙で言っているシンフォニーが「グレイト」を指すことはいうまでもないが、弦楽四重奏曲は少年期のシューベルトにとって家庭で父や兄と一緒に演奏するために作るジャンルだったことに目を向けておかなくてはならない。
次兄フェルディナントの回想には、幼少のフランツ・シューベルトと一緒に弦楽四重奏を演奏するのは父と兄たちにとってこの上ない楽しみだった、とあり、家族にとってはその思いが持続していたようだが、ジェリズへ二度目の赴任をしていた1824年7月16~18日の手紙で、フランツは
「[兄さんたちの四重奏演奏会は、兄さんの手元に残っている昔の]僕の作った曲より誰かほかの人の曲でやればよかったのに。僕のはそんなにたいした曲じゃない。」
と、子供時代の自作にマイナス評価を下している。実際には、長く中断していた弦楽四重奏曲創作はこの年から再開、内容も精巧となって、産まれた名作、通称「ロザムンデ」D804は上の手紙を書いたよりも前の3月に公開演奏され、「死と乙女」D810は2年後に試演されているのである。
作曲や出版をめぐって、シューベルトは相当にプロフェッショナルな意識を持って臨んでいたことが、以上のような行動や発言から明確に窺われる。シューベルト作品の評価の際には、この点が今後いっそう注意されるべきだろう。
![2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09193516.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202309/21/10/c0050810_09193516.jpg)
ところで、シューベルトの作品自体は、暗いものが主流なのか。
内面的なもの云々は措いて、さしあたり短調が暗いものと前提し、前後の世代と比較しよう。誰もがわりと数を作っている弦楽四重奏曲・ピアノソナタの総数で、長調との作品比率を見てみよう。ハイドンは、総数121に対して短調作品19、約16%。モーツァルトは同じく40に対し4で10%。ベートーヴェンは48に対し14で29%。シューマンは絶対数が少なく総数8だが半分の4が短調である。シューベルトは、35の総数に対し短調は11。31%であって、ベートーヴェンに近い。このことから見る限り、シューベルトが暗い作品でとびぬけた作曲家であるとは言えないだろう。
ともあれ、『死と乙女』は拒んだシュパンツィヒだが、それ以前の1824年3月にイ短調の弦楽四重奏曲D804(「ロザムンデ」)は公開演奏に応じており、八重奏曲D803も1827年4月のコンサートシリーズにとりあげている。
五重奏曲『ます』は作曲年次(1819? 23?)、公開演奏の有無が不明ながら、こちらも早くに知られたものと推測される。
「彼はこの曲を、この珠玉のリート[歌曲「ます」D550 1816-17または20]に心から魅せられていた私[回想者アルベルト・シュタードラー]の友人ジルヴェスター・パウムガルトナーの特別の要望によって書いたのでした。」
このほか、弦楽五重奏曲、ヴァイオリンのための幻想曲なども出来上がり、とくにピアノ三重奏曲変ホ長調D929はライプツィヒの出版社プローストから出されることになった。1828年7月、プローストからの照会に対し、シューベルトは
「拝啓! トリオの作品番号は100です。(略)この作品は誰に献呈したものでもなく、気に入ってくれる人なら誰にでも捧げます。」
と陽気に返事している。
期待に胸を膨らませて待っていただろうこの三重奏曲の印刷譜を、しかしシューベルトは生きて目にすることが叶わなかった。届いたのは、死の数日後だったという。
自分でも予期しなかった死を迎えなかったなら、シューベルトのその後は順風満帆だったかも知れない。
彼を病弱にし、その短命を導いたのは、1822年と思われる梅毒への感染との推測が確実視されている。その感染の原因をつくったのは、作曲家から最も親近感を抱かれ、最初のシューベルティアーデを開催もし、シューベルトにオペラ『アルフォンソとエストレッラ』D732(1822)の台本も提供したショーバーが、シューベルトを悪所に入り込ませたことだと疑われている。最も親しい間柄だったとみなされていたにも関わらず、ショーバーはシューベルトについての回想を書き残さず、人にもあまり語らなかった。
「どんなにその気になろうとしても果たすことが出来ないのだ」
と、ショーバーは言っている。
「誰一人知らないだろうと思うシューベルトの一種の恋物語があって、これを・・・どんな風に、またそのどこまでを公表していいか・・・いまではもう遅すぎる。」
ショーバーと1858年から短期間夫婦だったテークラ・フォン・グンベルトは、元夫がシューベルトの臨終に立ち会ったときの様子を伝えている。「ショーバーは、いつもよく知っていた目が彼をよそよそしく狂ったように見つめたときに」痛ましい印象を受けたのだ、と、それだけなのだが。
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