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1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]

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Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》


松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ(

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〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)


■エロルドとアレヴィの歌劇《リュドヴィク》の「私は聖衣を売る」
の主題による華麗なる変奏曲 Op. 12 (1833) 8分

●ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831) 5分

●3つの華麗なるワルツ Op.34 (1835/38) 12分
第1番 変イ長調 - 第2番 イ短調 - 第3番 ヘ長調

■タランテラ Op.43 (1841) 3分

●ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840) 4分

●3つのワルツ Op.64 (1846/47) 8分
第1番 変ニ長調「仔犬」 - 第2番 嬰ハ短調 - 第3番 変イ長調

  (休憩15分)

●2つのワルツOp.69 [WN47/WN19] (1835/29) 8分
第1番 変イ長調「別れ」 - 第2番 ロ短調

■演奏会用アレグロ Op.46 (1841) 12分

●3つのワルツOp.70 [WN42/WN55/WN20] (1832/42/29) 8分
第1番 変ト長調 - 第2番 ヘ短調 - 第3番 変ニ長調

●ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. [WN29] (1830) 3分

■舟歌 Op.60 (1846) 8分

■ピアノ協奏曲第1番ホ短調 Op.11 第2楽章〈ロマンス〉+第3楽章〈ロンド〉
(1830/1873/2023) [C.ライネッケ/米沢典剛による独奏版] 20分


[使用エディション:ポーランドナショナル版]

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サロン――あるいはワルツのアポテオーズ
山村雅治

1

 ショパンの音楽は三つの歴史的背景がある。その第一の背景は国家ではなく国際的な広がりに求められた。若いショパンは彼の「ピアノ協奏曲 第一番」を演奏することによって、ワルシャワ、ドレスデン、ウィーン、ミュンヘン、パリの音楽家と聴衆に認められようと望んだ。しかし彼の弾くピアノの音は小さく、大きな会場を満たすことはできなかった。この国際的な背景からショパンが退いたのはきわめて若いころのことであり、彼が名声を得た時期には、ほとんど完全にそこから身を引いていた。
 彼がサロンで名士を相手に、あるいはまれではあるが公開の席で名士を相手にするとき、そのスタイルは音楽会場で人気があるヴィルトゥオーゾたちのそれとは似ても似つかぬものだった。ときには小編成の伴奏アンサンブルか第二ピアノ奏者を伴って「協奏曲」の中間楽章が演奏されたものの、それは他のヴィルトゥオーゾたちの「協奏曲」に迫力において匹敵しうるものではなかった。

 第二の背景はポーランドだ。とりわけワルシャワの教養ある、国家意識の強い上流社会にかぎられていた。この背景からポロネーズとマズルカが、そしてバラードとポーランド語の詩をうたった歌曲がうまれた。彼の父親が教職を得て、一家がワルシャワに移ったころにはショパンはまだ幼かった。ショパンの父親はフランス人であり、ロシアやポーランドでの上流社会の会話はフランス語で交わされた。そしてショパンは、ポーランドがその苦闘の絶頂と領土併合の苦悶のさなかにあったとき、フランスに滞在したままだった。
 国民主義的と呼ばれてきたショパンの音楽には「英雄」を気取ったところは微塵もない。郷土舞踊家が身に着ける派手な衣装もみつけることができない。花も実も葉も落とし去った裸木の姿があり、そのたくましさに感嘆するだけだ。ショパンにおけるポーランドの要素は、リストの場合のハンガリーの要素と同じく「ヨーロッパ風」(もしくはパリ風)に洗練されていている。ショパンのポーランド的背景は必ずしも「最も重要な」ものではない。ポーランドに対する同情、共感と、意識しての国民楽派的な作風は、ロマンティックといえるにしても、それとは裏腹な誠実さをもつ。

 第三の背景はパリとそのサロンが現れる。彼と彼の友人の優雅な部屋であり、それに加えてジョルジュ・サンドと二人で過ごしたノアンの夏。この背景をもつ作品がノクターンとワルツになる。これらを「愛玩犬ショパン」と評されたこともある。これらが移り気な独創的な和声を含み、しかもそれらがロマン派の詩―華麗であるとともに内省的な詩にぴったりと対応するものとして、ショパンのさらに感銘深い曲と肩を並べているからだ。
 この同じ背景をもつ作品には練習曲、スケルツォと前奏曲がある。これらは単に「国際的演奏会の産物」「ポーランドの産物」、また「フランスの産物」であるだけでなく、高度に独創的な精神の産物であり、それでもこれらの曲は主としてパリと関連のある時代と社会の産物でもある。

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 1831年にショパンはパリにやってきて、すぐさま音楽活動をはじめた。オペラを楽しみ、ロッシーニやケルビーニ、宮廷指揮者のパエルらに会った。パエルの紹介でパリ随一のピアノの名教師カルクブレンナーにめぐりあった。弟子入りはしなかったが、カルクブレンナーはショパンのために演奏会を開いてくれた。
 「ワルシャワから来たフレデリック・ショパン氏による大演奏会」は何度か延期されたのち、1832年2月26日にプレイエルの小ホールで開かれた。亡命ポーランド貴族が喝さいを送り、メンデルスゾーンやリストも来場し、音楽雑誌にも好評が載ったが、入りは3分の1程度で収入は少なかった。
 5月にはパリ音楽院ホールで慈善演奏会に出演し、「協奏曲第1番」を弾いたがまたもや「ピアノの音量が小さくてよく聞こえず」、しかも「管弦楽書法も不十分だ」と批判された。ショパンは次第に、自分はロッシーニのようなオペラ作曲家としても、リストのようなコンサート・ピアニストとしてもやっていけないことを悟るようになる。

 彼が訪れたパリは、革命時代のまったく古いパリとはちがっていた。21歳の彼がパリに引きつけられたのは、ウィーン会議後にほとんどの上流・中級階級のポーランド人たちが亡命した都市だったからだろうか。それが第一の理由ではないにしても、彼がフランスに到着するや、ただちに交際を求めた最初の人びとは彼らだった。
 ショパンがフランス人の裕福な家庭にはじめて紹介され、そのサロンで自分の作品を弾いたり、その子女に最高の謝礼で教えることになったのは、ロッシーニやカルクブレンナーといった音楽家よりも、亡命したポーランド上流階級の人びとのおかげだっただろう。ヴァレンティン・ラージヴィル公爵は、彼をパリのロスチャイルド家に紹介することで社交界と財政面での成功を確保してやり、フランスからさらに他国へ移住するという考えを一掃してしまった。パリに住むショパンの同胞のなかで彼ほどに裕福な暮らしをしているものは少なかった。

 ロスチャイルド家はドイツ系ユダヤ人の銀行家一族で、ドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、フランス各国で事業を展開している。パリのロスチャイルド男爵のサロンで演奏したショパンは、男爵夫人から弟子入りを志願された。噂はまたたく間に社交界に広がり、多くの上流階級の貴婦人たちがショパンの個人レッスンを受けることになった。リストはパリ時代のショパンを「貴族のご落胤のよう」と評した。ワルシャワ時代のショパンは、アマチュア劇団に属する役者志望の少年だった。パントマイムや物真似の名人で、戯画を描くのもうまかった。パリの上流階級に出入りするショパンは、もしかすればかなり計算された彼なりの見せ方だったかもしれない。退路を断たれたショパンは、なんとしてもこの花の都で生きていかなければならなかった。

 ロンドンやウィーンでは、音楽はまだ貴族の掌中にあったが、たびかさなる革命で貴族による音楽活動が停滞していたパリでは、中産階級が貴族のようなサロンを開くなかで文化面の社会的進出を果たしていった。サロンが文化を生みだす時代はここに始まった。
 サロンには必ずグランド・ピアノが置かれ、うまくピアノが弾けるヴィルトゥオーゾが大いにもてはやされる。ショパンやリストのような優れたピアニストはパリの最上級の貴族たちが住むフォーブル・サンジェルマン界隈のサロンにも招かれたため、1840年代にはいると彼らのコンサートに貴族たちも来るということになった。かつてはあり得なかったふたつの階級がここで顔を合わせて、新しい文化を創造する基地になった。

 こうした状況はショパンにとっては都合がよかった。彼は公開演奏会の大きなホールでは大音量を出せないために、自己評価するほどの成果はあげられなかった。彼のピアノ演奏の美点は、繊細なニュアンスの変化、軽やかにして、ときに地底をも貫く重さをもつタッチの妙は、洗練された感覚をそなえる人々がつどう社交の場「サロン」でこそ真価を輝かせた。ショパンは、自分のことを知らない人々に向かって演奏すれば、ひどく気後れがして自分を満足に表現できなかったという。その意味でも、サロンの少人数の親密な空間がもっともショパンにふさわしい演奏の場だったといえるだろう。パリに滞在していた18年の間、彼がホールと名がつく場で演奏したのはいくつほどか。

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3

 ショパンの主要作品の多くはパリ時代にはいってから書かれている。ワルシャワ時代との大きな違いは作品の規模だろう。ウィーンでの成功を夢見ていたころは、協奏曲をはじめとしてオーケストラを伴う大規模な作品を5曲も書いている。パリに来てからもしばらくは新しい協奏曲を構想していたかもしれない「演奏会用アレグロ」が名残としてあるけれども、サロンの規模になじみ、より規模の小さなピアノ一台の曲に集中していった。

 それはショパンが公開演奏会で多くの聴衆を圧倒しうならせる「ヴィルトゥオーゾ」から、よい趣味をもつサロンに集まる人びとに音楽を届けるピアニストへと昇華した証だった。
 ノクターンはささやきかけるような旋律に沿って精緻な和声を聴かせる。それはサロンでのピアノ演奏の大きな武器になっただろう。ワルツもまた、ウィーンで流行していたような「踊るためのワルツ」ではなく、優雅で洗練された芸術作品として創造された。



 ショパンのワルツの作曲は生涯の全般にわたっている。しかし生前に出版されたものはわずか8曲。最初のワルツの出版は、パリの生活をはじめた3年後の1834年まで待たなければならない。
 ワルツ出版を遅らせたのは、成功を夢見て挫折したウィーンでの体験があったからだろう。20歳で訪れた2度目のウィーンでは演奏の機会は容易には手にはいらなかった。「自分の音楽が望まれないのは、人びとの趣味がシュトラウス・ファミリーのワルツだからだ」と手紙に書いている。

 しかし、パリではじまったサロンでの音楽生活のなかでショパンはワルツを発表しはじめる。彼は「踊らないワルツ」を書いた。それらは気品と洗練を愛するサロンにつどう人たちの耳を奪った。
 ノクターン、マズルカ、練習曲を集中して作曲した1831年から1833年にかけて完成させたのが「華麗なる大円舞曲」作品18だ。
 ワルツは全19曲あり、その順番は作曲された順番に番号がつけられていない。
 ショパンが生前に出版したのは作品18につづいて、作品34の3曲は1835年と1838年につくられて1838年に出版された。作品42は1840年に作曲、出版。作品64の3曲は1846年から1848年にかけての作品。第8番にあたるワルツが生前に出版された最後の作品になる。
 フォンタナによってまとめられた未発表のワルツは5曲ある。作品69の2曲。69-1は「別れのワルツ」として名高い作品で、1835年、マリア・ヴォジンスカとドレスデンで楽しいときを過ごしたあと、別れるときにこの楽譜を渡した。 69-2はワルシャワ時代の1829年の作品で、パリ時代の華やかさはまだない。作品70の3曲は1832年、1842年、1829年の作品。これら5曲はそれぞれ1853年と1855年に出版された。ここまでで13曲だ。14番は1830年に作曲したワルツである。 いまだ郷里ジェラゾヴァ・ヴォラにいて、華やかな演奏技巧で名をあげようとしていた時期の作品で、出版は死後の1868年だった。


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by ooi_piano | 2023-12-12 07:52 | ショパンの轍 | Comments(0)

12月7日(土)〈暴(あら)ぶるアルバン・ベルク〉


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