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(以下再アップ)
■三宅榛名:オルランド・ディ・ラッソのモテットに基づく《御業を待ち望む》 (2台ピアノ版、2001) 世界初演・ライヴ録音 [2001/11/08] 共演:ブルーノ・カニーノ ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (4分13秒)
■三宅榛名:西脇順三郎の詩による《薔薇物語》 [2005/10/14、リハーサル録音] 共演:柴田暦(ヴォーカル) ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (5分41秒)
■杉山洋一:2台ピアノのための《嬉遊曲II》(2001) 委嘱作品・世界初演 ライヴ録音 [2001/11/08] 共演:ブルーノ・カニーノ ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (11分07秒)
■河合拓始:オルガン独奏のための《オーガンザ》(2005) 委嘱作品・世界初演 ライヴ録音 [2005/06/16] ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (30分27秒)
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ピアノ雑誌「ムジカノーヴァ」1月号に、歴史的鍵盤奏法について寄稿しました。 これは昨年初夏に全文拙訳をウェブ発表した、グリーペンケルル伝の「バッハによるクラヴィコード教授法」を、同誌読者を想定しつつ、全く別の方法で記述し直したものです(タイトル、章立ては編集部による)。
本日(1月6日)やっと同号実物を落掌し、「同誌読者の想定」が不十分だったらしいことに今頃気付きました(笑)。結構頑張って書いたんだけどなあ。この「お腹いっぱい」感は、3年前にCDリリース・インタビューが掲載された《レコード芸術》誌を受け取った時以来かも。
ガチガチの手首・肘で《木枯らし》を弾くのはコールタールのプールを力泳するようなものであり、一方ベートーヴェンの緩徐楽章をフニャフニャの指先で安定して弾くのも至難の業です。独学状態であった私の場合、こういった盤根錯節に遭って初めて、利器(脱力法)を考え始めるに到りました。石壁のスタインウェイ付き練習室でもあれば、ひょっとしたら耳が指と音色を導いてくれたかもしれませんが、どのみち日本の住宅事情ではそうもいかないでしょう。
同様に、グリーペンケルル=シュパーニ方式の鍵盤奏法が威力を発揮するのは、様々に異なるチェンバロのタッチを適確に制御したり、就中トゥルネイやポトフリーヘなどによる繊細な歴史的クラヴィコードで《平均律》のような複雑な作品を弾くケースですので、いくら依頼原稿だと言ってもピアノ雑誌では場違いな印象は拭えません。そこで少々牽強付会ながら、薬指と中指によるトリルやらショパンOp.10-1練習法やらを引き合いに出しました。薬指・小指が「弱い」のは「叩いて」いるからで、「握る」or「引っ掻く」モーションを利用すればその差は最小限になります。古楽器にくらべるとピアノのタッチは、マットレスごしにマッサージを受けているような隔靴痛痒感があるものの、グリーペンケルル式打鍵法を応用すれば、鍵盤の機構や重さによる差異を縮め、特にノン・レガート時に「指先だけ」で弾く悪弊を無くすことが出来るでしょう。もちろん、充分に強靭な指をもった奏者では、「指だけ」で美しいピアノの音を出せるのも一面の真理です(後述)。
昨年は昨年で「指パッチン」「雲梯」「ケンケンパ」など色々言ってみましたが、今回は、「ドとレの鍵盤上で奥から手前に動いて来るルームランナーの上を、両手の人差指が競歩している」、という喩えを思い付きました。これはあくまで指の「動かし方」の訓練であって、指を形作る「筋肉」のトレーニングには直結しません。「指パッチン」のように反動と初速度を利用するよりも、最小限の音量、最小限の動きで、筋肉の動きを顕微鏡でチェックしていくようなトレーニングがベストでしょう。ただ、弟子筋の井上直幸氏でさえ仰るように、ランゲンハーン式トレーニングは「気が狂いそうになる」ので、結果がただちに目に見えるグリーペンケルル/クラヴィコードによる訓練は、やはり今後注目されても良いかと思います。
医師で武道家でもある知人によると、右利きの人が左手で文字を書く練習をすると、左手のパンチが強くなるそうです。また、病気で一週間寝込んだ際、病み上がりでは80kgしか持ち上げられなかったダンベルが、1週間もすると元通りに100kg上げられるようになった。1週間で筋肉がつくわけがないので、これは筋肉への「意識の通し方」の問題である、と。
「手の中にエネルギーの火球があって、それに乗っかる感じ」とは、最適な手の甲と手首のポジションを指し、「意識が手の甲の内側に集中している」というのは、手の甲の内側の一点、エネルギーの火球の中心へ向かって、指がストンと「落ちて」ゆく感覚を意味しています。手を丸め指を立てさえすれば、板割りが可能なのは、知人に実演を御願いして確認致しました。(指を伸ばした「平手打ち」(パー)では難しいようです。)丸めた手の中の空間が、いわばショック・アブソーバーにもなっています。
「歩い」ているとき、我々の足は傍目には地面に「吸い付いて」いるように見えます。しかしこれは見かけに過ぎなくて、重力以上の重みを「押し付けて」いるわけではありません。同様に、「エネルギーの火球」を手の内側に保ったままで、鍵盤に指が「吸い付いて」いる状態を持続させるためには、指・手首・腕の角度や伸縮度のコーディネイトが必要です。
このコーディネートの指針は、「2音以上の音符をまとめて考える」のが基本です。(要するにヴァイオリンやチェロのポジション移動の考え方と同じです。)アルペジオにしろスケールにしろ、各々のポジションを「和音」で弾いてみると、指/手首の最も適切な体勢が分かりやすい。例えばハ長調の音階では、まず「C-D-E」(=白鍵のトーン・クラスター)を同時に弾ける手の甲の位置があって、そこから「F-G-A-H-c」を同時に弾ける手の甲の位置へ滑らかに移動します。それぞれの手の甲の位置をキープしたまま、その手の「内側」でハ長調の音階が弾けるようにすること。一音一音弾いたときに手の甲や手首がグラグラするようであれば、ポジション毎に弾いた音全てをそのまま押さえ続けるのもプロセスとして可能でしょう(これも弦楽器と同様)。ソルミゼーションと体の安定/脱力を、最初の第一歩から結びつけた初期教育というのはどこかにあるのでしょうか(そこから通奏低音でもジャズでもひとっ飛びだろうし)。相撲の「四股」は、足の指先で地面を「掴む」のが基本ですが、某格闘家に倣って、指先で鍵盤を「喰う」、という心法も有効かもしれません。
上記のコーディネートはそのまま、ショパンop.10-1の練習にも応用出来ます。(i)まず親指と人差指でC-Gの完全5度を、均等に美しくラクに弾ける手首・手の甲のポジションを見つけます。手首は低くはならず、指先は第1関節だけでも「丸く」して、伸ばしっぱなしにはしません。次に、(ii)人差指と薬指でG-cの完全4度を、そして(iii)薬指と小指でc-eの長3度を、それから(iv)親指と小指で同じくc-eの長3度を、順々に和音で弾き、最適ポジションを確認していきます。各々のポジションでの手の甲の高さが不変であれば話は早いのですが、なかなかそれは難しく、よって「鍵盤のどの部分(奥or手前)に各々の指をあてれば、総計した移動距離が最短になるか」を考えつつ、ポジション連結を計るのが次のプロセスとなります。
(i)では手の甲は右側に傾き、(iii)では左側に傾いています。(ii)ではその中間のポジションです。手首が硬くなっていると、このポジションの連結をブロック(阻害)してしまいます。これは「手首の回転」というよりは、「手の甲の回転」と言ったほうが良いようです(手の甲の面は常に鍵盤に平行です)。「手首」と言うと、なぜか不用意に下腕/肘までグラグラ動いてしまいがちです。(同様にオルガン足鍵盤でも、「足首の回転」というよりは「足の甲の回転」をイメージしたほうが良いでしょう。)肘のポジションももちろん連動していますが、まずは手の甲のポジションに意識を置くべきだと考えます。
(i)のポジションから(ii)へ移る際、Cの音を弾き終わった親指はすみやかにリラックスし、決して突っ張った状態にしておかないこと。手の甲の回転に慣れるまでは、(i)から(ii)へのポジション移動は、「親指の位置がCからFへ完全4度ぶん、右へ移動する」、(ii)から(iii)へのポジション移動は、「人差指の位置がGからAへ長2度、親指の位置がFからGへ長2度移動する」、と考えます。脱力の説明をする際、「打鍵の瞬間だけは力を入れ、あとは力を抜く」という言い方は誤解を招くでしょう。「つねに脱力、ただし指の形は崩さない」というイメージのほうが近道だと思います。
Op.10-1の理想的な演奏というと、M.アルゲリッチのショパン・コンクール第1次予選ライヴや、M.ポリーニのグラモフォン録音が思い浮かびます。テーブルの上に手を置き、小指の下に胡桃をはさんで、そのまま胡桃をバキンと割れるほど、ポリーニ氏の小指は強靭であり、(=「ピアニストは小指で人を殺せなければならない」というゲンリヒ・ネイガウスの言葉を地で行っている)、また、B-Es-G-b-esという変ホ長調の11度の和音を、鍵盤の上からラクに美しいフォルテで弾けるほどの手の拡がりを持っているらしいので、op.10-1など何ほどのことでも無いのでしょう。 見かけ上では椅子から腰を浮かせてフォルテシモを弾いていたとしてもあれは「気分」であって、実際にはほとんど指だけで弾いているようです。 残念ながら彼の素晴らしい指はピアノ独奏用にカスタマイズされているようで、ザルツブルクのプロジェット・ポリーニではチェンバロを3台破壊したと仄聞しました。指先が肩からの重みを機敏に察知して加減出来るのなら、そうはならない筈です。
ぐだぐだと前述致しましたような、瑣末な練習法の言語化というのは、「初めから弾けてしまって」いる演奏家の場合、特に億劫がるようです。よって「盗む」しか無い。一方、現代音楽の演奏法がメソッド化されていないのは、「秘すれば花」を実践しているわけではなく、まともなリアライズを初めから丸投げしているからでしょう。低レベルの話で恐縮ですけれども、クセナキスの10段譜を、2段あるいは3段に書き直さないと演奏出来ないと公に「断言」したのは、知る限り私が最初です。初演者のフランス人にお伺いを立てたら、「リハーサル毎に弾く段を一段ずつ増やして行くんだ。」などとお花畑な能書きを垂れていたそうですから、話になりません。これは一般大学出身の演奏家にある程度共通しているようですが、自分が享受出来なかった早期音楽教育への羨望・コンプレックスから、逆に、「どんな難曲・難題でも練習法が存在し、言語化出来るはずだ」と思い込んだ結果、虚仮(こけ)の一念岩をも通したり通さなかったりするわけです。音楽学校で上下左右を見回していると、「みんな出来ているから私も頑張ろう」と思える反面、「みんな出来てないなら私も出来なくて良い」、と思ってしまう罠が待ち構えています。隣の練習室から聞こえてくるバッハがそうだからと言って、いつまでもグールドかリヒテルの劣化コピーを続けていて良いわけがありません。
昨年9月に東京で、チェンバリスト・上尾直毅氏の演奏に接する機会がありました。彼は東京芸大ピアノ科を経て、オランダでG.レオンハルトにチェンバロを、S.ホーホランドにフォルテピアノを師事された方です。チェンバロやクラヴィコードを演奏する氏のタッチが、肩からの重みを指先でコントロールするM.シュパーニ方式にかなり似ているように見受けられたので、色々御質問申し上げたら、「誰が教えてくれたわけでもない」、との由。上記全訳序文でも触れましたけれども、要するに「やっている人はやっている」タッチなわけです。
場合によっては(Eventuellement......)、どのような結論に達するでしょうか? 思いがけないことを断言しましょう。つまり、この歴史的鍵盤奏法の必要性を感じたことのない――理解したことのないということではなく、まさしく感じたことのないということです――音楽家は、すべて「無用」である、と。 なぜなら、その音楽家の創作行為はすべて、彼の時代の諸要求の手前に位置づけられるからです。
・・・とまで言い切ると荒唐無稽ですけど(前段はブーレーズ《偶々・・・》のパロディでした)、ヴェンゲーロフやムローヴァがバロックヴァイオリンやバロック弓を試してみるようなことがピアノ界でもこれから起こるのならば、そろそろマニュアル化作業を始めても良い頃合では無いでしょうか。 モダンに関しては、「そこまでしてピアノという楽器に興味を持ってもらう必要があるのか」と思われるほど、懇切丁寧なメソッドが《ムジカノーヴァ》誌をはじめ容易に入手出来ます。 古楽演奏の現場では、先人の試行錯誤によりある程度のコンセンサスは確立していますし、「秘伝のタレ」化することなくレシピを共有出来れば、自然と順々に良い流れが生まれる筈です。 何よりルネッサンス・バロック音楽というのは、手を伸ばせばそこにある、百花繚乱の秘密の花園なわけですから。
――――――――――――――
おまけ:
●クラヴィコード(=タッピング奏法)つながり、ということで、ジャスティン・キングの映像など。
(i)アコースティック・ダブルネックギター独奏 (ミラー) 両手タッピング。スラップ&ポップ、フラメンコ的セコやゴルペも散見。 (ii) 、 (iii) (間奏部など) 、 (iv)その他のビデオ等
両手タッピングの何に惹かれるかと言えば、音色の陰陽とタイミングのずれによってフレーズが立体的(対位的)になり、またハーモニーも豊かになる点でしょう。リュートのトリルでは、第1音と後打音は右手、真中は左手のハンマリング/プリングによって演奏することが多いですが、この両手による役割分担によって、左手が不規則かつのんびりした5連符などで「アンコ」を入れたのちに、まったく独立したタイミングで後打音をスポンと入れることが出来、そこに玄妙な味わいが生まれます。その音響的な模倣は、もちろんチェンバロやピアノでも可能な筈です。
プリング・オフも、実は重力成分mgを主に用いているからには「フォーリング・オフ」とでも言うべきモーションであり、これを鍵盤楽器に当て嵌めて考えるならば、手/指がある方向へ「落ちてゆく」感覚を会得するためには、鍵盤が(床に平行ではなく)壁にベターっと垂直にある場合、あるいは天井に逆さ吊りになっている場合などを想定してみるのも良いかもしれません。
●鉛筆回し動画(1・2・3・4)、●指のブレークダンス、●ムーンウォーク、●スプーン曲げのコツ(1・2・3・4・5)
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■三宅榛名:西脇順三郎の詩による《薔薇物語》 [2005/10/14、リハーサル録音] 共演:柴田暦(ヴォーカル) ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (5分41秒)
■杉山洋一:2台ピアノのための《嬉遊曲II》(2001) 委嘱作品・世界初演 ライヴ録音 [2001/11/08] 共演:ブルーノ・カニーノ ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (11分07秒)
■河合拓始:オルガン独奏のための《オーガンザ》(2005) 委嘱作品・世界初演 ライヴ録音 [2005/06/16] ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (30分27秒)
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本日(1月6日)やっと同号実物を落掌し、「同誌読者の想定」が不十分だったらしいことに今頃気付きました(笑)。結構頑張って書いたんだけどなあ。この「お腹いっぱい」感は、3年前にCDリリース・インタビューが掲載された《レコード芸術》誌を受け取った時以来かも。
ガチガチの手首・肘で《木枯らし》を弾くのはコールタールのプールを力泳するようなものであり、一方ベートーヴェンの緩徐楽章をフニャフニャの指先で安定して弾くのも至難の業です。独学状態であった私の場合、こういった盤根錯節に遭って初めて、利器(脱力法)を考え始めるに到りました。石壁のスタインウェイ付き練習室でもあれば、ひょっとしたら耳が指と音色を導いてくれたかもしれませんが、どのみち日本の住宅事情ではそうもいかないでしょう。
同様に、グリーペンケルル=シュパーニ方式の鍵盤奏法が威力を発揮するのは、様々に異なるチェンバロのタッチを適確に制御したり、就中トゥルネイやポトフリーヘなどによる繊細な歴史的クラヴィコードで《平均律》のような複雑な作品を弾くケースですので、いくら依頼原稿だと言ってもピアノ雑誌では場違いな印象は拭えません。そこで少々牽強付会ながら、薬指と中指によるトリルやらショパンOp.10-1練習法やらを引き合いに出しました。薬指・小指が「弱い」のは「叩いて」いるからで、「握る」or「引っ掻く」モーションを利用すればその差は最小限になります。古楽器にくらべるとピアノのタッチは、マットレスごしにマッサージを受けているような隔靴痛痒感があるものの、グリーペンケルル式打鍵法を応用すれば、鍵盤の機構や重さによる差異を縮め、特にノン・レガート時に「指先だけ」で弾く悪弊を無くすことが出来るでしょう。もちろん、充分に強靭な指をもった奏者では、「指だけ」で美しいピアノの音を出せるのも一面の真理です(後述)。

医師で武道家でもある知人によると、右利きの人が左手で文字を書く練習をすると、左手のパンチが強くなるそうです。また、病気で一週間寝込んだ際、病み上がりでは80kgしか持ち上げられなかったダンベルが、1週間もすると元通りに100kg上げられるようになった。1週間で筋肉がつくわけがないので、これは筋肉への「意識の通し方」の問題である、と。

「歩い」ているとき、我々の足は傍目には地面に「吸い付いて」いるように見えます。しかしこれは見かけに過ぎなくて、重力以上の重みを「押し付けて」いるわけではありません。同様に、「エネルギーの火球」を手の内側に保ったままで、鍵盤に指が「吸い付いて」いる状態を持続させるためには、指・手首・腕の角度や伸縮度のコーディネイトが必要です。


(i)では手の甲は右側に傾き、(iii)では左側に傾いています。(ii)ではその中間のポジションです。手首が硬くなっていると、このポジションの連結をブロック(阻害)してしまいます。これは「手首の回転」というよりは、「手の甲の回転」と言ったほうが良いようです(手の甲の面は常に鍵盤に平行です)。「手首」と言うと、なぜか不用意に下腕/肘までグラグラ動いてしまいがちです。(同様にオルガン足鍵盤でも、「足首の回転」というよりは「足の甲の回転」をイメージしたほうが良いでしょう。)肘のポジションももちろん連動していますが、まずは手の甲のポジションに意識を置くべきだと考えます。
(i)のポジションから(ii)へ移る際、Cの音を弾き終わった親指はすみやかにリラックスし、決して突っ張った状態にしておかないこと。手の甲の回転に慣れるまでは、(i)から(ii)へのポジション移動は、「親指の位置がCからFへ完全4度ぶん、右へ移動する」、(ii)から(iii)へのポジション移動は、「人差指の位置がGからAへ長2度、親指の位置がFからGへ長2度移動する」、と考えます。脱力の説明をする際、「打鍵の瞬間だけは力を入れ、あとは力を抜く」という言い方は誤解を招くでしょう。「つねに脱力、ただし指の形は崩さない」というイメージのほうが近道だと思います。

ぐだぐだと前述致しましたような、瑣末な練習法の言語化というのは、「初めから弾けてしまって」いる演奏家の場合、特に億劫がるようです。よって「盗む」しか無い。一方、現代音楽の演奏法がメソッド化されていないのは、「秘すれば花」を実践しているわけではなく、まともなリアライズを初めから丸投げしているからでしょう。低レベルの話で恐縮ですけれども、クセナキスの10段譜を、2段あるいは3段に書き直さないと演奏出来ないと公に「断言」したのは、知る限り私が最初です。初演者のフランス人にお伺いを立てたら、「リハーサル毎に弾く段を一段ずつ増やして行くんだ。」などとお花畑な能書きを垂れていたそうですから、話になりません。これは一般大学出身の演奏家にある程度共通しているようですが、自分が享受出来なかった早期音楽教育への羨望・コンプレックスから、逆に、「どんな難曲・難題でも練習法が存在し、言語化出来るはずだ」と思い込んだ結果、虚仮(こけ)の一念岩をも通したり通さなかったりするわけです。音楽学校で上下左右を見回していると、「みんな出来ているから私も頑張ろう」と思える反面、「みんな出来てないなら私も出来なくて良い」、と思ってしまう罠が待ち構えています。隣の練習室から聞こえてくるバッハがそうだからと言って、いつまでもグールドかリヒテルの劣化コピーを続けていて良いわけがありません。

場合によっては(Eventuellement......)、どのような結論に達するでしょうか? 思いがけないことを断言しましょう。つまり、この歴史的鍵盤奏法の必要性を感じたことのない――理解したことのないということではなく、まさしく感じたことのないということです――音楽家は、すべて「無用」である、と。 なぜなら、その音楽家の創作行為はすべて、彼の時代の諸要求の手前に位置づけられるからです。
・・・とまで言い切ると荒唐無稽ですけど(前段はブーレーズ《偶々・・・》のパロディでした)、ヴェンゲーロフやムローヴァがバロックヴァイオリンやバロック弓を試してみるようなことがピアノ界でもこれから起こるのならば、そろそろマニュアル化作業を始めても良い頃合では無いでしょうか。 モダンに関しては、「そこまでしてピアノという楽器に興味を持ってもらう必要があるのか」と思われるほど、懇切丁寧なメソッドが《ムジカノーヴァ》誌をはじめ容易に入手出来ます。 古楽演奏の現場では、先人の試行錯誤によりある程度のコンセンサスは確立していますし、「秘伝のタレ」化することなくレシピを共有出来れば、自然と順々に良い流れが生まれる筈です。 何よりルネッサンス・バロック音楽というのは、手を伸ばせばそこにある、百花繚乱の秘密の花園なわけですから。
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おまけ:

(i)アコースティック・ダブルネックギター独奏 (ミラー) 両手タッピング。スラップ&ポップ、フラメンコ的セコやゴルペも散見。 (ii) 、 (iii) (間奏部など) 、 (iv)その他のビデオ等
両手タッピングの何に惹かれるかと言えば、音色の陰陽とタイミングのずれによってフレーズが立体的(対位的)になり、またハーモニーも豊かになる点でしょう。リュートのトリルでは、第1音と後打音は右手、真中は左手のハンマリング/プリングによって演奏することが多いですが、この両手による役割分担によって、左手が不規則かつのんびりした5連符などで「アンコ」を入れたのちに、まったく独立したタイミングで後打音をスポンと入れることが出来、そこに玄妙な味わいが生まれます。その音響的な模倣は、もちろんチェンバロやピアノでも可能な筈です。
プリング・オフも、実は重力成分mgを主に用いているからには「フォーリング・オフ」とでも言うべきモーションであり、これを鍵盤楽器に当て嵌めて考えるならば、手/指がある方向へ「落ちてゆく」感覚を会得するためには、鍵盤が(床に平行ではなく)壁にベターっと垂直にある場合、あるいは天井に逆さ吊りになっている場合などを想定してみるのも良いかもしれません。
●鉛筆回し動画(1・2・3・4)、●指のブレークダンス、●ムーンウォーク、●スプーン曲げのコツ(1・2・3・4・5)