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11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]



Hiroaki Ooi Matinékoncertek
Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)

後援 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) []

チラシ 



【第2回公演】2024年11月10日(日) 15時開演(14時45分開場)

演奏会用大独奏曲 S.176 (1849) 18分
 Allegro energico / Grandioso - Andante sostenuto - Allegro agitato assai - Andante, quasi marziale funebre / Allegro con bravura

ハンガリー狂詩曲第2番 S.244-2 (1847) 10分
 Lento e capriccio - Lassan, Andante mesto - Friska, Vivace

マイアベーア《ユグノー教徒》の主題による大幻想曲 S.412 (1836/1842、第2版) 16分
  ラウルとヴァランティーヌの二重唱「ああ!どこへ行かれるのですか? Ô ciel! où courez-vous ?」(第4幕) - コラール「神は我がやぐら Ein feste Burg ist unser Gott」

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スペインの歌による演奏会用大幻想曲 S.253 (1845) 14分
  ファンダンゴ - カチューチャ(19世紀アンダルシア地方のボレロ) - アラゴンのホタ

バラード第2番 S.170a (1853、初稿) 14分

死の舞踏 S.525 (1853/65) [作曲者編独奏版] 16分
  序奏 - グレゴリオ聖歌「怒りの日」主題 - 変奏1 Allegro moderato - 変奏2 L'istesso tempo - 変奏3 Molto vivace - 変奏4 (Canonique) Lento - 変奏5 (Fugato) Vivace - Cadenza - 変奏6 Sempre allegro, ma non troppo

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ドニゼッティ《ルクレツィア・ボルジア》の回想 S.400 (1840) 23分
  I. アルフォンソ公、ルクレツィア、ジェンナーロの三重唱「侯爵夫人の嘆願により Della Duchessa ai prieghi」(第1幕終曲) - II. オルシーニ「幸せになる秘訣は(乾杯の歌) Il segreto per esser fellici」 / ルクレツィアとジェンナーロの二重唱「ああ、あなたのお母様を愛して Ama tua madre」 / 終結部

半音階的大ギャロップ S.219 (1838) 3分

モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》の回想 S.418 (1841) 16分
  石像「貴様の笑いも夜明けまでには終わろうぞ」「もはや必要ないのだ、人間の食べ物は」(第2幕) - ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱「お手をどうぞ」(第1幕) - 石像「お前はわしを夕食に招いた」(第2幕) - 「シャンパンの歌」(第1幕)

[使用エディション:新リスト全集 (1972/2019、ミュジカ・ブダペシュト社)]



リストとフランスオペラ――山村雅治

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 1885年6月20日土曜日、ヴァイマールにおいてリストは8人の弟子のピアノ・レッスンをした。ブルメスターが弾くマイアベーアのオペラ《悪魔のロベールの回想》(リスト編曲、S.413)について、リストは改善すべき点や変えるべき点をいくつか挙げた。揺れ動くワルツの部分は、少し気取りながら、いたってクールな感じで弾くべきとのこと。313小節で2つのテーマが同時に現れるが、この箇所について、以前にパリでこれを弾いたときのエピソードを引き合いに出した。10回も拍手で演奏を中断させられたそうだ。「30年前は、まったく新しい、聞いたこともないような音楽だったんだよ」とリストはいった。そしてほとんどのパッセージを弾いてみせた。

 リストの高弟アウグスト・ゲレリヒは1884年5月31日のヴァイマールから、ローマ、ブタペストを経て、再びヴァイマール1886年6月26日までの弟子たちへのレッスンの記録を詳細に書き留めている。採りあげられた曲は師リストの作品だけではなく、ショパン、シューマン、バッハ、ベートーヴェンなどピアニストがレパートリーに持つ曲が並んでいるが、もちろんリストの曲が多く、リストが編曲した作品も弟子たちは好んで演奏した。

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 オペラに限って挙げれば、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》、ヴァーグナー《さまよえるオランダ人》《ワルキューレ》《タンホイザー》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》《トリスタンとイゾルデ》《パルジファル》、オーベール《ボルティナの物言わぬ娘》、マイアベーア《アフリカの女》《悪魔のロベール》《ユグノー教徒》《預言者》、ベッリーニ《夢遊病の女》《ノルマ》、ドニゼッティ《ルチア》《バリジーナ》《ルクレツィア・ボルジア》、ベルリオーズ《ベンヴェヌート・チェッリーニ》《ファウストの劫罰》、ヴェルディ《トロヴァトーレ》《エルナーニ》《リゴレット》、グノー《ロメオとジュリエット》。リストが書いたオペラ編曲作品は、もちろんこれらだけではない。

 リストはまぎれもなくオペラを愛していた。「30年前は、まったく新しい、聞いたこともないような音楽だったんだよ」と明かしたマイアベーアの音楽に新しい音楽を切り拓こうとしていたリストは魅せられた。「30年前」とは1855年前後の月日をいうのだろう。マイアベーアは1791年に生まれて1864年に没したオペラ作曲家で、イタリア歌劇もドイツ歌劇も消化してフランスのグランド・オペラの様式を確立した。ヴァーグナーにも影響を与えている。《悪魔のロベール》は1831年、《ユグノー教徒》は1836年、《預言者》は1849年の作品で、1849年といえばリストがヴァイマールで2月16日にヴァーグナーの歌劇《タンホイザー》を上演した。1850年には《ローエングリン》の世界初演をリストがした。
 リストがヴァーグナーに出会ったのは1840年代の初めにパリでだったと伝えられる。以来、互いの作品の楽譜を贈りあったり、直接に考えることをぶつけあったりして二人は近づいた。


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 1811年10月22日、フランツ・リストはハンガリーの寒村ドボルヤーンで生まれた。6歳で父親からピアノの手ほどきを受け、すぐに才能を輝かせた。デビュー演奏会は9歳になったばかりの1820年秋。11月にはブラティスラヴァで演奏会を開いて6人の貴族からの奨学金を得た。1822年、リスト一家はウィーンへ引っ越し、リストはピアノをチェルニーに、作曲理論をサリエリに無料で学んだ。
 そしてリスト一家は1823年12月11日にパリに到着した。紹介状を携えてケルビーニに会った。フランツをパリ音楽院に入学させるためだった。院長だったケルビーニの答えは拒否。後年リストは書いている。
「私の音楽院への入学許可にはいくらか障害があるだろうとは予期していましたが、授業に外国人が参加することを禁じる規則があるとは、そのときまで知りませんでした。私の涙と嘆きはとどまるところを知りませんでした」。

 12歳のリストは個人指導で音楽の勉強を続けることになった。作曲をパエールに、音楽理論をレイハに。ピアニストとしては活躍を続ける。貴族や王族の前でも、サロンで私的に演奏した回数はパリへ来た翌年3月までに36回。パリでの公開デビューコンサートは3月7日にイタリア劇場で開かれて大成功だった。それを受けてリストはさらにパリで音楽家として成功するにはオペラを書くことが求められた。
 リストが完成させた唯一のオペラ《ドン・サンシュ、あるいは愛の館》は13歳の作品。リストによれば「ほかの誰でもなく、作曲の先生パエールがかなり私を助けてくれた」。

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 イギリスにも渡った。3度目のイギリスツアーの1827年8月28日、父親が腸チフスで急死した。15歳のリストは母を抱えながら一家の生計を立てなくてはいけなくなった。定期的な収入を確保するためにパリでピアノ教師として生活していくことになった。
 19世紀のヨーロッパには時代を変える風が吹き荒れていた。7月革命で復古王政を打倒したフランスは1830年以後、ヨーロッパでもっとも自由な活気に満ちた年だった。ドイツやポーランドの政治亡命者たちがなだれ込み、芸術家たちもパリにあつまった。ハイネ、ミツキエヴィチ、ショパンもそのなかにいた。私的なサロン文化が盛んになり、ショパンとリストは寵児だった。
 
 劇場に進出した外国からの音楽家も枚挙にいとまがない。パリ音楽院院長のケルビーニがそうだったし、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、マイアベーア、オッフェンバック、ヴァーグナーのオペラに若いリストは胸をときめかせて見入っただろう。


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 1830年12月4日、リストは《幻想交響曲》初演前夜にベルリオーズに会った。19歳のリストと27歳のベルリオーズの出会いは、ゲーテの《ファウスト》を通じて同じ書物に情熱を抱き、その後互いに鮮烈な共感を抱き固く結ばれた。《幻想交響曲》の初演ではリストは会場の熱狂を最高潮に盛り上げた。ベルリオーズは三度目の挑戦でローマ賞を得て3年の留学ののちパリへ戻った。しかし1832年12月の《幻想交響曲》と続編《レリオあるいは生への回帰》上演は失敗した。リストは自分のピアニストとしての目覚ましい成功がベルリオーズを助けられると考え、それを自分の義務でもあるとした。
 1834年、リストは《幻想交響曲》のピアノ版を完成させ出版した。その楽譜でシューマンはベルリオーズを知った。その後も《レリオ》に基づく幻想曲を書き、その後もベルリオーズの作品には献身的といえるほどにピアノ版をつくりつづけた。

 しかし、ベルリオーズはリストのような人種的な排斥ではなく、書法の過激さにおいてパリ音楽院から除け者にされていた。パリ音楽院のアカデミズムの書法に則った音楽もベルリオーズはその気になれば書けた。《キリストの幼時》は彼らも認める美しい音楽だった。ベルリオーズはそれだけではものたりず冒険をかさねていった。オペラを書いてパリ・オペラ座で成功させたい。それがベルリオーズの宿願であるにもかかわらず、1838年オペラ座での《ベンヴェヌート・チェッリーニ》は惨憺たる失敗に終わった。リストがフランス・オペラの分厚い「壁」を感じたのはそのときだったかもしれない。リストはベルリオーズを世に認めさせるためにはどんなに面倒なことでも厭わなかった。ベルリオーズの晩年の大作《トロイアの人びと》もヴァイマールで上演にこぎつけている。存命中にはついにオペラ座ではついに上演されなかった執念の作品だった。

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 《ベンヴェヌート・チェッリーニ》の不評は「フランスの舞台作品の伝統にしたがって」オペラにおいても台本がまず重要視された。音楽は脆弱な詩を支えることはできない、と切って捨てられた。リストは不成功の知らせをきいて友人のドゥニに書き送った。「かわいそうな友よ!運命は彼にとても邪険です!批判や無礼がどんなものであっても、ベルリオーズはフランス音楽界のもっとも強靭な頭の持ち主であることに変わりありません」。リストは充分にフランス・オペラを聴きこんでいた。その伝統とはどういうものだっただろう。

 フランス・オペラは、1643年即位した太陽王ルイ14世を中心に、ヴェルサイユ宮殿で貴族たちが華々しいバレエを踊り、豪華絢爛なオペラが上演されたことに始まる。ただし、それらはただの「娯楽」ではなかった。この宮殿は人々を魅了する「魔法の宮殿」でなくてはならない。魅了することが支配者にとって、秩序の完成にとって不可欠で、喜びを与える魔術には歌が必要であった。そのとき、どのような音楽が奏でられるべきなのか。フランス・バロック・オペラの形成過程は、この課題をめぐっての様々な模索であった。つねに政治の監視の目にさらされていたといえるだろう。

 「パリ・オペラ座」は作曲家ロベール・カンベールと組んで宮廷用オペラを作っていた詩人ピエール・ペランの請願が、ルイ14世に認められ、1669年に設立された。最終的に「王立音楽アカデミー」の音楽監督に就任し、オペラ上演の独占権を獲得したのは作曲家ジャン゠バティスト・リュリだった。王政を裏切らないオペラが書き継がれて、1789年のフランス革命を経て時代は進む。リストとベルリオーズが出会った1830年代にはマイアベーアが全盛だった。フランス・グランドオペラの様式の第一人者だった。
 フランス・グランドオペラは「大規模」なオペラ。歴史のできごとを扱った台本、数多くの登場人物、大規模なオーケストラ編成、豪華な舞台衣装、スペクタクル的な舞台効果などに加えて、多くの場合バレエを含む。


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 1860年、ヴァーグナー《タンホイザー》のパリ・オペラ座での上演が決定した。ドイツの作曲家として名誉なことだった。パリ上演にはバレエのための音楽が必要だったので、急遽書き加えることになった。ベルリオーズの落胆と嫉妬には想像するに余りある。最後の命運をかけた彼の《トロイアの人びと》は1858年の完成以来、上演のために奔走しても延期になり憔悴しきっていた。
 ヴァーグナーはベルリオーズに会い、リストにも会っていた。ベルリオーズとヴァーグナーは互いに相いれなかったが、当時のリストはヴァーグナーの音楽と理想に共感し、互いに認め合っていた。ヴァーグナーは「音楽、文学、舞踊、彫刻、絵画、建築などあらゆる種類の芸術がドラマの表現のために統一、融合されるべき」という総合芸術論を訴えていた。ベルリオーズはおもしろくなかった。その後、友情は破綻した。

 オペラをめぐって、リストはパリで二人の作曲家とともにあった。ベルリオーズもヴァーグナーもそのオペラは「フランス・グランドオペラ」とはいえなかった。リストが書いたオペラは13歳の時に書き上げた《ドン・サンシュ》と、もう一作、2017年に蘇演された《サルダナパラス》がある。ヴァイマールのアーカイブから草稿が発見された作品で、バイロンの戯曲がもとになっている。1849年にとりかかって未完のままになっていた。イタリア語だったから、「フランス・グランドオペラ」はおろか「フランスオペラ」にもならない。



by ooi_piano | 2024-11-01 19:35 | コンサート情報 | Comments(0)

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